マルクス主義への怖れと憎悪 第4回 マルクス疎外論のヘーゲル疎外論への還元

  マルクス疎外論ヘーゲル疎外論への還元

 

 百木は、廣松渉と同様に、マルクスの疎外という概念を、ヘーゲルの疎外という概念と同じものとみなし、本来的な人間を想定していると断罪して否定するのである。百木の論述は、廣松のそれよりももっと粗雑であるとしても、そうである。
 廣松は、ある思想家が、彼に先行する思想家の概念を批判的に摂取して創造した概念を、彼によって批判的に改作された概念と同一のものとみなし、それに還元するかたちで解釈する。当の思想家の概念の独自的な意味内容をつかみとることができないのである。すなわち、廣松は、マルクスヘーゲルの疎外という概念を唯物論的に転倒して創造した独自の疎外という概念を、ヘーゲル的疎外に還元してしか理解することができないのである。
 このようなものとして、廣松の理解する疎外とその止揚の論理は、疎外されざる本質(正)、この本質からの疎外(反)、そしてこの疎外の克服と奪還(合)というものとなる。そして、彼は、マルクス疎外論はこんなものだ、と言って否定するのである。
 これと同様の誤謬をおかしておいたうえで、このような説明もおこなうことなく、ただただ粗雑に、あらかじめ本来の人間を想定するのはおかしい、とだけ言うのが、わが百木なのである。ここでは、百木の誤謬を浮き彫りにするために、廣松渉について少しばかりふれたにすぎない。
 百木にはマルクスの唯物弁証法を受容する拠点それ自体が何らないのである。
 百木は、このようにマルクス疎外論を歪曲したうえで、斎藤の主張はマルクスのこの「疎外論的な発想」でなされており、マルクスと異なるのは、その基体を「従来の労働者の観点」から「人間と自然の本源的統一」へと捉えなおしていることであり、この本源的統一の解体を論じることだ、と言う。そこに貫かれている発想や論理は「古典的テーマ」としてのマルクス疎外論なのだ、と彼は言うのである。そのうえで、この「疎外論的な発想」では「歴史の現実を分析」することなどできず非現実的であり、むしろ危険な思想をもたらす、というわけなのである。
百木の手口、論法は、斎藤の主張をまとめつつそこに貫かれているのはマルクスの論理だとしてこれを否定する、というものであり、彼の眼目はマルクスの論理を否定することにあるのであって、斎藤の主張を利用したマルクス否定論なのである。
 それは根本的にあやまっている。なぜか。
マルクスは「疎外された労働」にかんして『経済学=哲学草稿』において、どのように論じているのであるか。
 「国民経済学は私有財産という事実から出発する。だが、国民経済学はわれわれに、この事実を解明してくれない。」「私有財産が現実のなかでたどっていく物質的過程を一般的で抽象的な諸公式でとらえる。」「国民経済学は、これらの法則を概念的に把握しない。」
 このようにマルクスはのべる。マルクスは国民経済学(スミス、リカードらの古典派経済学)が言うところの資本制経済のあらゆる現象を「一切の疎外」と否定的にとらえ、ここから出発するのである。そして疎外態としての賃労働者(この疎外態とは私=われわれなのだ)がこの資本制的現実を否定=変革することを主体的に論じたものなのである。けっして、この現実社会からあらかじめ遊離したところで原理をアプリオリに措定し、この原理から現実を解釈するものではない。すでにとりあげたように百木が描き出しているような論理ではないのである。「商品人間」へと陥っている労働者と彼の労働をこそマルクスは思弁したのである。「労働が自分自身と労働者とを商品として生産する」、その構造を疎外された労働論として明らかにしたのである。言うまでもないが確認すれば、①生産物からの疎外②労働それ自体の疎外=自己疎外③種属生活の疎外(種属生活が生活の一手段と化すこと)④人間の人間からの疎外というように、である。そしてこの資本制的な疎外された労働からさらに分析的に下向し、本質論的に抽象して、人間労働の本質形態をつかみとり、疎外された労働をこの人間の種属生活の自己疎外としても捉えかえしたのである。まさしく、このことに貫かれているのは、ヘーゲルの観念弁証法を精神的労働の論理としてとらえかえし、これを転倒することによって明らかにした唯物弁証法なのである。この唯物弁証法は、人間労働の本質論的論理として明らかにされているのであり、人間主体と客体との相互に媒介関係にあるこの場所を変革するための人間主体の変革的実践の論理にほかならない。
       (二〇二一年一月五日   桑名正雄)