河村たかし名古屋市長の「祖国のために命を捨てるのは高度な道徳的行為」発言を弾劾する

 河村たかし名古屋市長(彼は日本保守党の共同代表でもある)が4月22日の定例記者会見で、「祖国のために命を捨てるのは道徳的行為」と発言したことが、朝日新聞デジタルで報じられた。ウクライナ戦争とイスラエルによるガザ侵攻をひきあいにだしているので、河村の発言は、たんに国家につくすという意味ではなく、戦争において祖国のために命を捨てることが国民の行動規範であるという主張である。
 実際に公開されている動画で確認すると、名古屋弁と標準語のちがいはあるものの、朝日の記事では河村発言が正確に再現されていることがわかる。河村は言う、「祖国のために命を捨てるというのは、相当高度な道徳的行為であるというのは間違いない。」記者からその理由を問われると、国という存在が国民の生存を守ってくれるのだから「国というものに対して自分の命をささげる」のは「大変勇気のあること」だと河村は応じた。
 もちろん、生存権の保障の見返りとして国民は国家のために命を捨てるべきだなどという河村の主張は論外である。ブルジョアジー独裁国家において支配階級の利害を貫徹するために戦われる戦争に、プロレタリアート人民を動員し「国のために命を捨てろ」とその死を当然のものとするこの犯罪的発言を、われわれは怒りをこめて弾劾しなければならない。
 それにしても、保守を自称する新自由主義的ポピュリスト政治家どもによって垂れ流されるこの種の発言は河村に限らない。「あなたは祖国のために戦えますか」(櫻井よしこ、1月19日)、「国策に殉じられた方々の御霊に尊崇の念を持って、感謝の誠をささげさせていただきました」(高市早苗、4月23日)等々。
 かつて、田邉元はその講義録『歴史的現実』において、国家のために死ぬことで生きるのだと論じた。「歴史に於いて個人が國家を通して人類的な立場に永遠なるものを建設すべく身を捧げる事が生死を越える事である。」(昭和15年岩波書店、108頁)
 そのような思弁すらない、民族主義にもとづく無内容な戦争の扇動が横行している現状に、全世界のプロレタリアートは団結して立ち向かわねばならない。
 ところで「革マル派」中央官僚派は、ロッタ・コムニスタを非難する雑文のなかで「故郷と祖国の現在と将来を思って命を賭して戦っているウクライナの人民」(「解放2793号」)を賞賛した。これでは、河村の「祖国のために命を捨てる」と同列である。ブルジョア民族主義に転落した彼らには、今回の河村の暴言を弾劾することは望むべくもない。

(2024年4月25日 北条 倫)