マルクス主義の怖れと憎悪 第3回 実践的立場の歪み

  実践的立場の歪み

 

 百木の錯誤はまず次のところにある。

 彼は、マルクスが資本制社会を否定すべきものとしてとらえ、その根底に労働の本質形態をつかみとり、「人間と自然の物質代謝」というようにこの労働の過程を明らかにしたこと自体に恐れを抱いているのである。「労働を介した人間と自然の一体化」を訴える思想がマルクス主義に内在している、このような労働観をもつ思想は「人間の複数性や活動の偶然性を取り逃がし許容せず全体主義的な性格を帯びていく」、と彼は考えるのである。彼がこのような言辞を吐くのは、おのれが生きている資本主義社会に何ら否定感もないがゆえであり、これを変革せんとするマルクスに怖れを抱いているからなのである。

 「人間と自然の物質代謝」、このようにマルクスによって労働過程の本質論的規定が明らかにされていること、この意味が百木には皆目わからないのである。資本制的現実と無関係にどこからか、アプリオリマルクスが持ち出した原理、観念的理念というように、彼はこの規定をみなしているのである。だが、そうではない。この根本がこの人物には理解できない。勃興した資本制生産自体が超長時間にわたる苛酷な労働を労働者に強いており、働けば働くほどに婦人や児童にまで過酷な労働が強制され、寿命さえもが短くなるほどにこうした労働が強いられていたマルクスの時代。いや、それは今なおかたちをかえながら続いている。いや精神的疎外はむしろふかまってさえいるではないか。人間はみじめな存在となり、クレチン病になる、とマルクスは言っている。そして現在では、われわれの生きているこの資本主義社会の労働者は、自殺に追いこまれるまでの精神的神経的および肉体的苦痛にさらされているのである。新型コロナウイルス感染の拡大と政府の対処策および資本家の対応によって解雇される労働者は増加し続けているではないか。このゆえに自殺者がよりいっそう急激に増えているのである。路上で昼夜を明かさねばならない労働者が激増してさえいるではないか。こういう資本主義社会の賃労働者の労働を、疎外された労働としてとらえ、これを否定し変革しようという立場に立つことなど、思いもよらないのが百木なのである。

 マルクスは、一九世紀中葉の資本主義社会においてこの資本制的自己疎外を現実的基礎とし、これを下向的に分析することをつうじてその根底に疎外されざる労働をすなわち労働の本質的=根源的な形態をつかみとり、これを、人間と自然との物質代謝というように本質論的に規定したのである。そしてマルクスはこの労働のあるべき姿を、現実を変革するためのおのれのイデーとしたのである。まさにこのゆえに、二一世紀現代に生きるわれわれは、このマルクスのイデーをわがものとし、おのれ自身に生きて働くものとしてつらぬくのでなければならない。

       (二〇二一年一月五日   桑名正雄)