イタリアの同志たちからの通信・その2 ——第二回ミラノ国際会議について(連載最終回)

2、階級闘争の主体的推進をめぐって

 そして今回のミラノ国際会議にあたり、われわれは各国の同志たちに向けて<階級闘争の主体的推進>のために共に闘うことを呼びかけた。このことをあえて強調したのは、各国の団体がそれぞれ寄せた論文が、ロシア・ウクライナ戦争やイスラエルによるパレスチナ人民虐殺をめぐる情勢分析に焦点を絞っており、革命的左翼がいかに闘うのかの指針をほとんど論じていなかったからである。たしかに、「民族自決権」のスローガンを真正面から批判してプロレタリア国際主義に立脚した反戦闘争を呼びかけた点では、ロッタ・コムニスタの論文は卓越していた。しかし彼ら同志たちはレーニンの『何をなすべきか?』の現在的意義を強調する一方で、自らが繰り広げる革命的実践そのものの解明にまでは踏み込んでいない。
 「政・労・使」一体による「賃上げと物価上昇の好循環」なるものの演出を痛苦にも許してしまっている日本の現状に比すれば、ヨーロッパ労働運動はなおプロレタリアートの階級的力を相対的に維持しており、その中で各国の革命的左翼は労働組合の内部に一定の組織的基盤を確保していると言える。ミラノ国際会議に参加したそれぞれの左翼組織は、論文の中では何も明示してはいなくとも、多くの職場の中にそれぞれの党員を有し、彼ら・彼女らは階級闘争を前進させるために日々実践しているはずなのである。そうした実践から教訓を引き出して理論化し、それをめぐって討論することをわれわれは呼びかけた。帝国主義戦争の分析に関する細かな見解の相違をいったんは留保して、各国の階級闘争を前進させるために共に闘う者としての同一性を創り出そう、ということである。
 この呼びかけに対して、ロッタ・コムニスタの同志からは次のような応答が寄せられた。

 

「職場において階級闘争をいかに創造するのかという問題について、私は今のところいくつかの点を手短に書くにとどめる。階級闘争とは、資本制における、われわれが創造することのできない「自然な」現象である。レーニンは、階級闘争がもつ周期的な本性を科学的に研究している(1905年、1907年、1913年などのストライキ統計)。このように周期的であることから、ヨーロッパではここ何十年もの間、主要な運動は起こっていない(存在しない大衆を創作するのは無駄である)。レーニン主義者は、党(その幹部、影響力)を強化することを目指して、そして闘争が行きつ戻りつも党はとどまるべきことを自覚しつつ、存在している経済闘争の最前列に加わる。諸々の闘争における敗北は、その経験が教訓となるがゆえに党を強化するのである。プロフェッショナルな革命家が工場内にいるべきか、それとも工場外にいるべきかという問題は、組織的な力量にかかっているのであり、いずれも実行可能な選択肢である。個々の労働者が共産主義者となりうるには千差万別の理由があるのだが、現在の経済闘争においてはブルジョアジーの攻撃から身を守るに精一杯で高い要求を掲げるのが難しく、あるいはしばしば労働者階級の家庭等々が複数の収入源を有し、財産を所有していることさえある。そのように現代の闘争が緩慢なサイクルにある中では、誰かある人を共産主義者へと変革するには国際政治(反戦再軍備反対など)を主題とする方が、賃金問題を主題とするよりも十倍は早い。労働者階級の外部からもたらされるべき意識とは、国際主義的な意識である。」

 

 このようにイタリアの同志たちは、現代帝国主義国家においては職場を起点とした階級闘争が情勢上困難であることを指摘して、共産主義者を獲得するための方法が“いかに効率的であるべきか”の問いを立てている。なるほど、同志たちが述べているような困難はわれわれ日本の革命的左翼もまた今なお直面していることである。資本家階級が労働の外延量と内包量とを不断に延長し、また従来の再分配機能を破壊しつづけている中で、われわれ自身を含めて今日の労働者たちは、自らの労働力を可能な限り高価で売却するよう「スキル・アップ」なるものへとせきたてられている。プロレタリアたちは同僚を敵対的な競争相手とみなすのでなければ、自らが低賃金・不安定雇用に甘んじることを覚悟する以外にない。いわゆる「エッセンシャル・ワーク」に関わる労働現場では、企業体の買収や吸収合併が繰り返されたり、そもそも労働条件が劣悪であるがゆえに労働者自身が転職せざるをえないなど、同僚間の協力関係がそもそも確立しないという事情もある。また他方、「高度スキル」を身につけて社会的には「成功者」となった労働者たちは、自らがいつかは没落することのへの不安を抱えながら長時間労働を日々こなしている中で、精神疾患に追い込まれることも何ら珍しくない。要するに、かつて労働運動の戦闘的高揚を可能にしていた諸条件が今や根本的に破壊されてしまったという事実を、イタリアの同志たちは強調しているのだ。われわれもまたこの事実を、労働運動の産業報国会化をくい止められなかったという痛みとともに受け止めている。
 だがそうであればなおさら、労働現場のこの過酷な現実を、われわれ以外の一体誰が変革しようというのか。朝から晩まで肉体労働に従事して、腰痛を抱えながらもじっと耐えている人、生活保護水準より低い低賃金であるがゆえにダブルワークでどうにか生計をたてている人、「業務請負」の名の下に労働者としての地位さえも認められないまま、自家用車で町中をずっとかけずり回っている人。あるいは上司には怒鳴られ、同僚たちからは無視され心をすり減らして、自死にまで追い込まれている人。そうした仲間たちを目の前にしたとき、産業下士官どもに向かって「何をしているんだ!やめろ!」と抗議の声をあげられるだけの根性・度胸・思想を有しているのは、わが革命的労働者ではないか。たしかに、階級闘争は高揚したり沈滞したりを繰り返すのかもしれない。しかし、どれほど困難であろうとも、労働現場におけるブルジョアジーからの攻撃に対して立ち向かい、労働者階級の階級的な団結を創造すること——これは、ブルジョアジーに対する力関係を無視して見かけ上の「戦闘的労働運動」を演出することとは無縁である——は、われわれマルクス主義者の倫理的義務であるとさえ言ってよい。
 そもそも、階級闘争とは「われわれが創造することのできない「自然な」現象」なのだろうか?かつてヴェトナム反戦をも掲げて幾度も打ち抜かれた全軍労ストライキ(1960年代末〜70年代前半)、あるいは日帝支配階級を震撼させた公労協スト権奪還ストライキ(1975年)を思い返しても、それが資本制の「自然な」現象だ、などと言うことは決してできない。どちらも、労働組合主義的意識にとどまり自然発生性に拝跪していたならば成り立たなかった闘争であり、それぞれの職場においては常に、革命的前衛党が左翼フラクションを組織化し労働組合組織下部から闘争を地道に積みあげ押し上げるなどの諸活動を繰り広げていたのである。このことは、「存在している経済闘争の最前列に加わ」っているイタリアの同志たちもよく分かっているはずだ。
 無論われわれは、レーニンの『何をなすべきか?』の意義を否定するつもりはなく、また各国の革命的左翼に向かって、わが組織現実論を体得せよ、などと上から目線で言うつもりも毛頭ない。諸君は、労働者階級の外部から革命的意識を持ち込むというレーニン的戦術の意義を強調しながらも、実際には多くの職場・労働組合の中で党員を有し、その党員たちは共産主義者として階級闘争の先頭に立って闘っているのだ。このことは、ジェノヴァでの闘いについてロッタ・コムニスタの同志が示唆してくれた通りであって、われわれが知り議論したいのは、そういった闘いの現実と教訓なのである。もし諸君が自覚的に、階級闘争共産主義者自らの力で推進していく組織戦術を貫徹するならば、日本に比してなお労働運動の力が維持されているヨーロッパにおいては、もっと大胆に、しかも“効率的に”、前衛党を強化拡大することができるのではないだろうか。わが探究派がイタリアの友人たちに返答として伝えたいのは、まさにこのことである。
 ロッタ・コムニスタをはじめ、革命的マルクス主義に立脚して闘う全世界の同志諸君!プロレタリア国際主義の大道を共に歩み、<革命の第二世紀>を切り拓こう!

(2024年4月5日  春木 良)