斎藤幸平 出演の「100分de名著 資本論」(NHK/ETV)について  マルクス主義の小ブルジョワ的改竄を許すな!(その2)

マルクス主義の小ブルジョワ的改竄を許すな!(その2)

 同番組第二回は、「なぜ過労死はなくならないのか」というタイトルで放映された。   斎藤はワタミ電通の労働者の過労自死を例に近年の過労死の多発に言及し、「労働の生き血を求める吸血鬼」というマルクスの言葉を取り上げて過労死が資本蓄積の飽くなき運動によってもたらされることを説明する。マルクスの言葉を引いて解説する分には、さしあたり問題はない。斎藤の〝心痛〟が滲んでいるかのようにも見える。こういうやり方を〝お為ごかし〟というのだ。〝斎藤の世界〟が開陳されるや、およそマルクスとはかけ離れてしまう。
 「「生産」という秘められた場所」を斎藤は描く。だが、だが斎藤は忘れている。その入り口には「無用のもの立ち入るべからず」という看板が掲げられている(『資本論』)。そこでは労働者は資本(家)の絶対的な指揮命令下におかれ、――まさに「無用のもの」として――〝人格〟をもちこむことさえ許されないまでに疎外されているのである。斎藤は、マルクスが「疎外された労働」を論じた『経済学=哲学草稿』などももちろん研究している。ここでも「「労働力」と「労働」の違い」を指摘し、労働者は「労働」ではなく、「労働力」を売るのだ」、とも説いている。しかし、このような労働力そのものの商品化という人間疎外の極致について、何の否定感も痛みも斎藤は持ち合わせてはいない。このような根源的な問題を素通りして、斎藤は「労働時間の短縮」を説くのである!

(なお、斎藤は「賃上げより「労働日」の短縮」を推奨する。それでも時給で見れば上がるではないか、と。しかし、これほど、コロナ危機に喘ぐ今日の資本家階級の利害にマッチする主張があろうか。長時間過重労働に苦しむ労働者の過酷な現実を改善すること、一切の長時間労働に反対することは、必須である。しかし、他方では「コロナ禍」を名分として、勤務時間を減らされ(シフト・カット)、生活できなくなっている数多の非正規労働者の今日の現実を、斎藤は一度でも考えたことがあるのであろうか。斎藤の思いつきの「理想」から天下った一律の処方箋によって改善できるほど現状は単純ではないのである。また本質的な問題として言えば、「労働日の短縮」で労働者の苦難が、その疎外が解決しうると考えるのは、まったくの幻想でしかないのである。)
 斎藤は〝労働力を商品にしない〟ことを問題にしてみせる。――「マルクスが労働日の短縮を重視したのは、それが「富」を取り戻すことに直結するからです。日々の豊かな暮らしをいう「富」を守るには、自分たちの労働力を「商品」にしない、あるいは自分が持っている労働力のうち「商品」として売る領域を制限していかなければならない。そのために一番手っ取り早く、かつ効果的なのが、賃上げではなく「労働日の制限だというわけです。」

 開いた口がふさがらない、とはこういうことを言うのである!すべては「豊かな暮らし」という「富」を守るためだと!「労働日の制限」によって「労働力の商品化」を「制限」できるだと! 既に第一回放送について言及した「その(1)」で明確に突き出していたことではあるが、斎藤の精神的原理・ハイマートは、「豊かな暮らし」であり、プロレタリアートの自己解放とはおよそ無縁な小ブルジョワ的は「生活者」意識なのである。

 また「労働力を販売する領域を制限する」とはいかに?「売る領域」を選べる「自由」など、どこにあるのか!労働者が、己の労働力商品の一部を売り、一部を売らない自由など、どこにあるのか!よくもヌケヌケとこういうことが言えるものだ。「政治」の力や、資本家階級の寛容に期待し、よりましな施策をあてにしては労働者階級はますますもって無力な存在に陥るだけである。
 マルクスのいう「二重の意味で自由」な労働者が「全世界を獲得する」することは、資本制的所有そのものの廃絶ぬきにはありえないのである。そもそも「労働日の制限」を誰がどのように勝ち取るのか!労働者階級の階級的力団結以外に、その力はない。「労働力商品」にまで貶められた己を自覚し、団結して自己解放のために起ち上がることこそが「吸血鬼」と闘う道なのである。
 斎藤に、次のようなマルクスの言葉を示すことも――まことに虚しく、野暮なことではあるが――「公共放送」にのせての〝マルクス〟像のあまりの捏造にたいしては、必要なことではあろう。

 

 〈資本制的私有財産の最後の鐘が鳴る。収奪者たちが収奪される。〉

 

 これは有名な「資本制的蓄積の歴史的傾向」の一文である。ここでマルクスは、ただ単に資本制的蓄積の本質的な把握にもとづいて未来を予見しているわけではない。『資本論』そのものの根底に脈打つプロレタリアートの解放のイデーを熱く吐露しているのである!
 このようなマルクス的イデーを抹殺すること、「豊かな生活」のために労働者に、それ自体不可能な労働力の売り惜しみを奨めることが斎藤の仕事であり、それはマルクス主義の根本的否定である。そのようなものとして資本家階級に与することをしか意味しないのである。
 次のような言葉に斎藤の反プロレタリア的感覚が端的に示されている。
 「労働者を突き動かしているのは、「仕事を失ったら生活できなくなる」という恐怖よりも、「自分で選んで、自発的に働いているのだ」という自負なのです。」(テキスト五九頁)
 労働者を愚弄するのもいい加減にしろ!こういうことをサラッと言ってのけて心の痛みを感じないこの若者は、いくらマルクスの著作を読みあさり、ほじくり回してもプロレタリアの苦悩など全く分かりはしないことを自己暴露している。「疎外された労働」を強いられている労働者が陥る精神的倒錯からの脱却を、いかに促していくのか、そしてプロレタリアートの階級的な自己組織化をかちとるのか――このようなアプローチとは無縁に、斎藤は「豊かな生活」にむけての処方箋を示し、労働者を誘導してあげる、というわけなのである。白井聡の「鬼の包摂」という規定を紹介して、上記のような労働者の意識を嘆いてみせても、彼にとって労働者階級は所詮は自己解放の主体ではなく、〝善導〟ないし〝救済〟の対象でしかないのである。またしても野暮なことであるが、そんな御仁をプロレタリアートは、必要とはしないだけではない、マルクスの名を利用する詐欺師として弾劾するであろう!

 

 〈労働者階級の解放は、労働者階級自身の事業である!〉
 
 マルクスマルクス主義を、おのれ自身が受けつぎ、現代的に貫徹するという実践的立場に立つことなく、「新MEGA」等をほじくりまわし、文献解釈をくりかえしてもマルクスの「マ」すら理解できないことを、斎藤に限らず昨今の「マルクス研究者」の姿は示している。『資本論』の解説というふれこみにもかかわらず、開陳されているのは所詮は〝斎藤ワールド〟であり、マルクスとは無縁な世界なのである。


 このような小ブルジョワ的インテリを相手に、野暮を野暮と知りつつ、生まず弛まず戦い続けることもまた、マルクス主義の真のルネッサンスにむけての革命的マルクス主義者の責務ではある!
        (二〇二一年一月一七日 椿原清孝)