「エスニシティ」概念の超歴史化的解釈——ブルジョア民族主義への転落の正当化

 「革マル派」中央官僚派の機関誌『新世紀』第322号に掲載されている早瀬光朔「プーチンの大ロシア主義」に次のような展開がある。

 「ロシア帝国が、ウクライナエスニシティを、十八世紀末のいわゆるポーランド分割以降にみずからのもとに組みこみ従属させてきた」(100頁)、「二つのエスニシティの交流と混淆の歴史——それじたいがロシアが強調してきたものだ——」(同前)、「ウクライナの人民(エスニシティ)」(102頁)というのがそれである。中央官僚派は、このように、ウクライナの地に住んでいた人びととロシアの地に住んでいた人びととをそれぞれ「エスニシティ」と規定しているのである。

 だが、黒田寛一は『社会の弁証法』で、「エスニシティ」について、次のように展開しているのである。
 「基本的には、特定の地域において、それぞれ同一の人種・言葉・伝承文化・生活慣習にもとづいてつくりだされた種族または部族をば、または近代的ネイション・ステイトの内部に存在する少数民族をば、ブルジョア的近代以降に成立したネイション・ステイト(民族国家または国民国家)の観点から規定しなおした概念、これがエスニシティまたはエスニック集団であるといえるでしょう。」(284頁——下線は原文での傍点)
 ここで、黒田は、「……をば、ブルジョア的近代以降に成立したネイション・ステイトの観点から規定しなおした概念」と明確にのべているのである。中央官僚派は、これを無視抹殺し、「エスニシティ」なるものを歴史貫通的なものとみなし、この概念を社会学的概念に貶めたのである。黒田寛一が、せっかく、日本の巷で使われはじめていた「エスニシティ」という用語を、マルクス主義の概念として規定したのに、そうなのである。
 黒田の次の展開は、あくまでも上記の論述を拠点としてつかみとられなければならない。
 「近代国家の成立いぜんに存在していたエスニシティ、すなわち、それぞれの地理的・気候的な諸条件に決定された一定の地域において、特定の人種・言葉・文化・宗教(自然宗教をふくむ)・生活様式を共有するところの集団としてのエスニック・グループ、——そのいくつかがブルジョア的に統合されることによって創造された歴史的産物が、民族(ネイション)なのです。」(同前)

 この展開を、先の論述と切断して自立化させ、歴史的・過程的な展開として理解し歪曲しているのが、中央官僚派なのである。
 また、内容上では、対象としている物質的なものは、引用文で言われているものを基礎としてうえに、封建制または農奴制のもとで、さらには絶対主義国家のもとで、領土の占領や分割をくりかえしながら歴史的・社会的に形成されてきた、混血・言葉・文化・宗教・生活様式を共有するところの集団であるということをおさえておくことが必要である。
 たとえば、スペインに、かつてムスリムに占領された地域で、イスラームを信じる人びとの集団がそのまま残っているというようなことがある。また、東ユーラシア大陸の地域で、モンゴル帝国に占領されたあと、この帝国は崩壊したけれども他の勢力によって占領されなかったために、モンゴルの風習や生活習慣をそのまま残している人びとがいる、というようなことがある。
 今日ウクライナ人と呼ばれる人びとにかんしてもまた、これと同様に、歴史的・社会的に形成されてきたものとして把握することが必要なのである。ウクライナ人というエスニシティが地理的気候的な諸条件に決定されたものとして歴史貫通的に存在していたわけではないのである。
 中央官僚は、丸ごとのウクライナ人がプーチンを頂点とする丸ごとのロシア人に攻撃をうけているのであり、前者がこの攻撃をはねのけ後者からの独立をかちとるのだ、ということを基礎づけたいのであるが、この両者をあらかじめ「民族」と規定すればブルジョア民族主義的な印象を読む者に与える、と考え、この両者を「エスニシティ」と規定し、このようなものが歴史貫通的に存在していたのだ、歴史的に虐げられていたエスニシティが民族として独立をかちとる必要があるのだ、と論じたといえる。
 中央官僚派による「エスニシティ」概念のこのような超歴史化的解釈は、スターリンによる「民族」の規定と、その論理の平板性において同一なのである。
 スターリンは書いた。
 「民族とは、言語の共通性、領土の共通性、経済生活の共通性、および文化の共通性のなかにあらわれている心理的性格の共通性をもとにして、歴史的に形成された人間の強固な共通体である。」(『社会の弁証法』281頁より重引)
 明らかに、この規定は、対象とする物質的なものを、ブルジョア的近代以降に成立したネイション・ステイト(民族国家または国民国家)の観点から規定しなおす、ということを欠如させたものなのである。これは、社会学への転落である。
 スターリンは、この「民族」の規定でもって、「一国社会主義」のイデオロギーを支柱とするスターリン主義ナショナリズムを正当化した。これと同様に、「革マル派」中央官僚派は、「エスニシティ」概念の超歴史化的解釈をもって、みずからのブルジョア民族主義への転落を正当化したのである。
       (2022年12月7日   松代秀樹)

「前原茂雄」、その嘘の深層

 問題に〝踏み込んで〟馬脚をあらわす

 

 「前原」は、デマシリーズ第七、八回で松代秀樹著『松崎明黒田寛一』に何とか〝対抗〟しようとし、〝蛮勇〟をふるって具体的な問題に踏み込んだ。「9.20スローガン」問題、および「カチカチ山」問題についてである。だがその大ウソは、同志松代の「前原茂雄の動揺とそのおし隠し」論文(当ブログ一一月一三日付)や同志小倉力の「「カチカチ山」の真実――〝語るに落ち〟た「前原茂雄」」(当ブログ一一月二八日)等で完膚なきまでに暴きだされた。同志松代を先頭にして、「前原」のデマを逆手にとって、さらに当時の諸問題を究明し教訓化する諸論文を次々と送り出している。言うまでもなく、かつての国鉄・JRの革命的労働者組織が大挙して革マル派を離脱したという決定的破綻を教訓化するという実践的=場所的立場に立脚して。同志松代のブログ――「「革マル派」中央官僚が遂に対応できなかったものは何か――黒田寛一松崎明へのこの批判は正しいか」(一二月二日)、「今日的に考察すれば、松崎明への「ケルン主義」という批判は、彼の実践をつかんだものといえるのか」(一二月三日)、「松崎明が思想闘争を日和った相手は誰なのか?黒田寛一ではないのか」(一二月五日)をご覧頂きたい。
 「前原」の嘘はこれらだけではない。既に当ブログ一一月二二日の「冷厳な歴史的事実に「前原茂雄」はなぜ口を閉ざすのか」(小倉力)などでも指摘されたように、嘘に嘘を重ねている。なぜこれほどまでに嘘を重ねるのか?

 

  〝黒田=無謬〟神話へのしがみつき

 

 もちろん、「解放」紙上での「探究派=反革命」という規定から始まった、この恥も外聞も無い嘘の連鎖は、「革マル派」中央官僚たちが、下部組織諸成員たちが『松崎明黒田寛一』を読むことも、それに触れることをも阻止するための策略の一表現ではある。彼らはそれを死ぬほど恐れているのである! 彼らのデマキャンペーンは、同書や同志松代の諸著作を店頭販売している書店にたいするSNS上での悪辣な攻撃――さすがのツイッター社も警告を発して削除を求め、彼らもおずおずとその削除要求に従わざるをえなかったほどのそれ――と表裏一体なのである。
 彼らが国鉄・JR労働者組織の全面的脱退の事実を隠し、その教訓化をあくまで拒むのはなぜなのか。それらに下部組織諸成員の目が向くことさえ恐れるのはなぜなのか。

 それは、この問題を問題として俎上に載せ、その教訓化をはかることが、同志黒田の組織指導者としての組織的実践そのものにふれることとなるからである!

 同志松代を先頭とするわが探究派の革マル派建設の挫折をのりこえるための理論=思想闘争によって彼らが捏造した同志黒田の「無謬」神話が打ち砕かれることをこそ、彼らは恐れているのである! わが探究派を「反革命」と断じ、『松崎明黒田寛一』を「反革命の書」としてその〝焚書〟をはかる最深の根拠はそこにあるのだ。これほど同志黒田の精神に背く行為があるだろうか!

 

 「自称共産主義者における宗教的自己疎外」

 

 かつて同志黒田は、スターリン主義者による「…ロシアのスターリン、いや世紀の巨人スターリンの物神崇拝」を暴きだしたのであった。この問題を、同志黒田は共産主義者の主体性にかかわる問題として考察し、「自称共産主義者における宗教的自己疎外」を暴きだしたのである。(「「スターリン批判」とマルクス主義哲学」 『スターリン批判以後(上)』九頁)。
 だが、今日の「革マル派」組織を支配するその中央官僚たちは、「黒田寛一の後継者」を名乗りながら、あろうことか、自ら同志黒田を神格化し、革マル派組織を「黒田教団」のようなものにまで変質させたのである! そのことを自己暴露したのが、『黒田寛一著作集』第一巻(二〇二〇年九月九日刊行)に付された「プロレタリア解放のために全生涯を捧げた黒田寛一」という論文である。そこには、同志黒田に学び、彼とともに闘ってきたものなら仰天しないほうが不思議な文言が綿々と綴られていたのである! ――「黒田寛一こそは、時代のはるか先を行く偉大な先覚者であり、二〇世紀が生んだ「世紀の巨人」なのである。」(上掲書 五〇六~五〇七頁)
 かつてスターリンその人に投げ与えられた〝尊称〟――「世紀の巨人」――を、平然と、自慢げに、同志黒田に冠するという行為は、彼ら・「革マル派」中央官僚たちが、かつてのスターリン主義者と同様の精神構造に、宗教的自己疎外におちいっており、そのことに全く無自覚であることを示すものであった。そして『黒田寛一著作集』の全巻にこの文章は載せられる! (この問題それじたいについては、プラズマ出版『コロナ危機の超克』の椿原論文、「革マル派の終焉――『黒田寛一著作集』刊行の意味するもの」を検討されたい。)

 

 同志黒田の顔に泥を塗り続ける「革マル派」中央官僚派

 

 「革マル派」建設の挫折をいかに教訓化するか、というように問題をたてることじたいが、彼らにとっては恐怖なのである。同志黒田が〝無謬〟であってこそ、〝黒田教団の神官〟と化した彼らの存在意義があるというように、彼らは――正当にも――観念している。実際、そのような神話が崩れ、真実の究明と前進のための教訓を求める組織的な論争が澎湃と巻き起こるならば、彼らによる「革マル派」組織の支配が瓦解することは火を見るより明らかなのである。
 だからこそ、彼らは〝無謬〟の神話にしがみつき、しがみつくほど、同志黒田の顔に泥を塗ることになる。それでも彼らは現「革マル派」中央官僚としての己を維持し護るために、百万の嘘をついてでも探究派の真実の探究を「反革命」として描き出すことに必死なのである。

 

 「メタモルフォーゼ」の意味するもの

 

 今ひとつ、彼らがいかに黒田の「無謬」神話にしがみつき、その少しの綻びをも恐怖しているかを示す例を挙げよう。
 『黒田寛一著作集 第六巻』(二〇二二年六月刊行)には、『変革の哲学』が再録されているのであるが、その三四七頁には次の文章がある。「ちょっと例解的にいっておこう。『資本論』第一巻第三篇第五章において、労働過程は「自然と人間とのあいだのメタモルフォーゼ」と規定されている。」これは『変革の哲学』(一九七五年刊行)の当該箇所と同じである。「メタモルフォーゼ=新陳代謝」というのは同志黒田の若い頃からの思い込みであり、間違いである。マルクスの原文では、当該箇所は Stoffwechsel であり、Metamorphose ではないのである。『変革の哲学』の英語版(一九九八年刊行)では、当該箇所は metamorphose ではなく、正しくStoffwechsel と metabolism が用いられている。このことは、同志黒田が自己の Metamorphoseの理解の誤りに気づいたからである。それは、この誤りについて今日では探究派の同志である佐久間置太が一九九四年に同志黒田への手紙で指摘し、一九九七年には「唯円」氏が同志佐久間とは別に、同じく手紙で指摘したことに基づく。
 だが、英語版ではこの誤りは払拭されたものの、その後も日本語表記の諸著作では、訂正されていない。そして、二〇二一年一月に刊行された『黒田寛一著作集』の第二巻に収録された『社会の弁証法』においてこの「メタモルフォーゼ」という記述はそのまま維持されたのである。これは、『著作集』の刊行にあたった「革マル派」中央官僚たちが、同志黒田の小さな誤りでも誤りとしては絶対に認めず、訂正することも、編集者の注としてでも読者に注意を促すようなことも絶対にしない、という態度を示したものといえる。われわれは、既にその時点で、「メタモルフォーゼ」問題として明らかにしておいた。この点については、『脱炭素と「資本論」』(プラズマ出版・二〇二一年一〇月刊行)の二つの佐久間論文をご検討いただきたい。
 『著作集 第六巻』に再録された『変革の哲学』でも、何の注釈もなく「メタモルフォーゼ」という誤った表現を残したことは、彼ら「革マル派」中央官僚たちが、同志黒田の顔に永遠に泥を塗り続けてでも、同志黒田の〝無謬〟の神話を護持することを意志していることを示してあまりある。彼らは、実は、自分たちの〝安泰〟のためなら、同志黒田の顔に泥を塗ることをもなんとも思わないことを自己暴露しているのだ。

 

 探究派にたいする「反革命」規定の根源

 

 もはや明らかであろう。わが探究派、同志松代を「反革命」と規定し、その抹殺の衝動を表出して恥じない「革マル派」中央官僚たち――「前原」をはじめ彼らが今や、同志黒田を神格化する宗教的自己疎外に陥っていることをその最深の根拠としていることが。「夜郎自大」「虚栄の果てに」などのわが探究派の同志たちへの悪罵は、〝神を恐れぬフトドキモノめ!〟とでも言うべき彼らの疎外された心情を示すもの以外のなにものでもない。

 すべての「革マル派」下部組織諸成員諸君! もはや現「革マル派」は、労働者階級の革命的前衛とは縁もゆかりもない。彼らはにわかに「労働者階級の団結で〈大幅一律賃上げ〉をかちとれ」などと叫んでいる(「解放」第二七四七号)が、これは、ウクライナ問題で祖国防衛主義に転落したことをわが探究派に暴露され、組織内部からも疑問が噴出していることをのりきるための詐術である!


 現「革マル派」を解体し、日本反スターリン主義運動を再創造するために、探究派とともに闘おう!
 革命的マルクス主義の立場に断固として復帰し、自己の再生をかちとる決意を打ち固めよう!
 (二〇二二年一二月五日 岩崎健太郎

 

「カチカチ山」の真実――〝語るに落ち〟た「前原茂雄」

  「前原茂雄」、「語るに落ちる」

 

 『松崎明黒田寛一 その挫折の深層』を、何が何でも「反革命の書」と断じ、なきものとしたい「前原」は、デマ・シリーズ「第八回」(「解放」第二七四五号 二〇二二年十一月二一日付)で、「9・20スローガン」問題とともに、「カチカチ山」問題にふれてしまった!
  何としても松代の論述を否定せんがために、それこそ〝蛮勇〟をふるって、というわけである。当然のことながら、それは〝蟻地獄〟に自ら飛び込む行為であった。
 われわれは、ついにこのような〝反論〟に「革マル派」中央官僚を追い込んだ! われわれは、これをこそ待っていたのである! 期待通りの妄言を「前原」は吐いてくれた!

 「前原茂雄」は言う。――「なんと北井は、同志黒田と松崎氏が同じ「カチカチ山」という言葉を使っている、というただこの一事から、〝黒田が本庄を使って松崎宅に押しかけさせた〟などという妄想的物語を勝手にでっちあげるのだ。なんという単細胞!なんというデジタル頭!」

 まずは、誰にでも分かる事実を指摘しておく。同志松代は、そのブログであれ、『松崎明黒田寛一』の論述においてであれ、「黒田が本庄を使って松崎宅に押しかけさせた」などとは一度も述べていない。「前原茂雄」が同志松代が一度も述べていないことをあたかも述べているかのように描き出すのは、「〈黒田⇔松崎=北井〉という狂気の図式の捏造」の場合とも、「革命的労働運動主義」の場合とも同じではある。
同志松代が述べていないことを述べたことにしておいてから「批判」する、というのはそれ自体がまったく政治主義的な欺瞞行為ではある。このようなやり方は「革マル派」中央官僚の常套手段であることをとりあえず指摘しておこう。
 そもそも同志松代は、かの松崎宅への「押しかけ」は、松崎明の言明(『松崎明秘録』三八~三九頁)を基礎にして、そしてまた「押しかけ」行動に参加した国鉄委員会メンバーから直接的に聞いたことに基づいて、当時の革共同書記長たる森茂を先頭にして、と述べた(『松崎明黒田寛一』八一頁など)のであって、本庄が同行したともしていないとも述べてはいない。同志松代にとって、森書記長を先頭にしてということが重要であるからだ。この事件を些細な「エピソード」として描き出したい「前原茂雄」にとっては、森書記長が登場したことそのものが不都合なのであり、そのために「本庄」がやったことという印象を与えたいのである。だが、そのために「前原」が弄した言辞は、事実上、この事件の真相を物語るものとなっている。

 

  同志黒田は、なぜ森書記長を「詰問」したのか

 

 さきほどの引用部に続いて、「前原」は言う。――「同志黒田は、この事件をどうやって知ったのか。事実はこうだ。/同志黒田は、本庄と一部の青年活動家たちが松崎氏の自宅に押しかけたというこの事件の一報を、森書記長から聞いた。同志黒田は、瞬時に、「彼と論議するのなら、なぜ一人か二人で行かないのか」と同志森を詰問した。そして直ちに打開にのりだした。」

 この文言は、「前原」の意に反して、実に多くを語っている。

〔1〕 もしも松崎宅への押しかけということについて、黒田が何も知らなかったのであれば、「なぜ一人か二人で行かないのか」と言うはずがない。「なぜ押しかけたのか」というのが自然ではないか。
〔2〕 また、「彼と論議するなら」と黒田が述べたと「前原」はいうが、それは「彼と論議する」ことを同志黒田が知らなかったこと、少なくとも同志黒田が松崎明との論議を指示してはいなかったことを意味することになる。前年(一九六五年)の9.20闘争をめぐる対立を直接的な契機として、一九六五年十一月以降、松崎明は党の諸会議を欠席していたのであるからして、松崎明との論議を党指導部が設定することは当然のことである。欠席していたからこそ、彼の自宅に押しかけるという行動がとられたのである。そしてその行動を同志黒田が事前に知らなかったとすれば、これは押しかけたメンバーの独断的行動ということになり、また同志黒田は蚊帳の外にいたことになる。このような描き方自体が、同志黒田を労働者組織から浮き上がった存在とみなすことになることにさえ、「前原」は頓着しない。
〔3〕また「前原」は、同志黒田が森書記長を「詰問」したという。なぜ「詰問」なのか。森書記長が当該の行動のことを事前には知らされておらず、事後に知って報告したのであれば、議長(黒田)も書記長(森)も知らないところで、かの「押しかけ」行動は行われたことになる。そうであれば、党の組織指導体制そのものが麻痺していることを意味するのであって、同志黒田が森書記長を「詰問」するどころの話ではなくなる。
 「前原」は、森書記長が「押しかけ」の現場にいたのか、いなかったのか、については、事実的には何もふれていない。「前原」は、同志松代が「黒田が本庄を使って松崎宅に押しかけさせた」としている、とデッチ上げていたのであるが、これは実は、森書記長が「押しかけ」の現場にはいなかったと印象づける欺瞞的記述なのである。
 「詰問」という表現は、「前原」が森書記長を先頭として、かの「押しかけ」がおこなわれたことを認識していることを問わず語りに語ったものなのである。
 党の書記長を先頭としてかの「押しかけ」が行われたのであり、同志黒田が事前にはそのことを知らなかった、となればこれはまた重大な組織問題である。「詰問」では済まない。かつて本多延嘉に煮え湯を飲まされた黒田にとって、森の重大な背信行為に直面したことになる。
 「前原」の説明では、大勢で押しかけたことをのみ黒田が森を「詰問」したことになる。明らかにそんなことはありえない。

 

 松崎明と議論するために、なぜ組織外のメンバーに仲介を依頼したのか

 

 「前原」はさらに言う。――「松崎氏の親友たる同世代の国労の戦闘的労働者を介して、松崎氏を自宅に招き、ことの顛末をくわしく聞いた。そしてその場で事態の全容を確認したのである。」

 「国労の戦闘的労働者」については、詳しくは説明されていない。だが、その労働者が党員でないことは明らかでろう。党員なら党員、国鉄委員会のメンバーと言えばよい話だからである。同志黒田は松崎明との関係を修復するために、党員ではないその労働者に仲介を求めざるをえなかったのである。革マル派議長の黒田が、副議長たる松崎(倉川)と会って議論するために、党外の一労働者の仲介を必要としたという、この一事をもってしても、松崎明が相当の覚悟をもって諸会議を欠席していたこと、国鉄委員会のメンバーをはじめ党のメンバーでは彼を招くことすらできない事態に立ち至っていたことが明らかである。「前原」は、自説にリアリティをもたせるために、俺は知っているんだ、と言わんばかりに「国労の戦闘的労働者」を持ち出したのであるが、この人物をもちだすことじたいが自説(「カチカチ山」は取るに足らない「エピソード」的事態というそれ)に反することになることすら感覚しえないのである。(この点についても『松崎明黒田寛一』を吟味されたい。)

 

  「前原」が真実を隠蔽したいのは何故か

 

 事ほどさように、「前原」は「カチカチ山」の真実を、ひいては黒田寛一松崎明の関係を隠蔽したいのである。この両者の関係の破綻を、その現実的基礎を明確にして、正面から問い返せば、それは同時にわが労働者組織建設の挫折を、また同志黒田の組織指導者としての限界や蹉跌をも剔抉し克服するという重大な問題につながる。彼ら「革マル派」中央官僚は何が何でもそれを回避したいのである。同志黒田の権威にすがってしかおのれの存在理由を示すことが出来ない彼らにとっては、まさに死活問題なのである。
 事実関係や、まっとうな唯物論的推論をもってしては同志松代の論述を覆すことができないことを彼は熟知している。だからこそ、嘘と偽造をもってするほかないのであり、また「狂気と妄想」とか「頭のおかしい〇〇」とかのいわば〝先験的〟レッテル貼りに狂奔したうえで、その嘘と欺瞞を並べ立てるのである。これはもはやどこぞのカルト集団と選ぶところがない。

 「前原」の嘘と欺瞞の根底にあるものは、同志黒田の無謬性をあくまで〝死守〟する、という「革マル派」中央官僚としての〝使命〟なのである。そのような態度――本質的には同志黒田を神格化する宗教的自己疎外――が同志黒田の顔に泥を塗ることを意味するとしても、彼らは彼ら自身の保身のために、彼らがこしらえた神話にしがみついているのである。彼らが同志松代の『松崎明黒田寛一』を憎み、それが多くの人々に、とりわけ「革マル派」の影響下にある人々の眼にふれることを何が何でも阻止したい所以である。
 だが生憎(あいにく)なことに、彼らがデマキャンペーンを開始して以降、彼らのキャンペーンが悪辣さを増すほど、この書はより多くの心ある人々の手に渡っている。彼らに残された途は、「黒田寛一の後継者」を詐称することをやめ、変質した「革マル派」を解体することしかない。

 

 「革マル派」下部組織成員諸君!

 変質し腐敗した「革マル派」中央官僚を打倒しよう!
 反スターリン主義運動の再生のために、わが探究派とともに闘おう!
     (小倉 力  二〇二二年十一月二八日)



 

冷厳な歴史的事実に「前原茂雄」はなぜ口を閉ざすのか

 虚言家「前原茂雄」

 

 「解放」第二七四五号(二〇二二年一一月二一日付)の探究派にたいするデマキャンペーン「第八回」において、前原茂雄は、驚くべき嘘と欺瞞を並べ立てた。毎度のこととはいえ、われわれは同志松代を先頭として、すでにその内実を徹底的に暴きだし、それを通じて逆に歴史的真実と教訓を次々と明らかにし、掘りさげつつある。

 さしあたりここでは、同志松代のブログの一一月二一日付の記事でとりあげられていることがらにふれよう。

 「おまえはかつて国鉄戦線の古参の労働者の会議において何度か参加したことがあるが、そもそも発言したことがあるのか。とりわけ古参労働者の前で。いや、彼らと個別の対話をしたことがあるのか。いつも〝借りてきた猫〟のようにちんまりと緊張してかしこまって黙っていただけではないか。」

 この「前原茂雄」の文は、彼がもはやなりふりかわず嘘八百を並べたてる虚言家へと変質していることを明確に示している。一九八〇年代前半にそれなりの組織的位置にあった労働者組織成員なら誰でも知っている事実、同志松代が国鉄戦線担当常任として、同志黒田に相談しつつ、国鉄労働者たちとともに「国鉄改革」のための諸攻撃に反対する闘いに取り組んだという事実をもなかったことにする、いや八〇年代前半の国鉄労働者の果敢な闘いそのものをも抹殺するものでなくてなんであるか。驚くべき妄言である。同志松代を貶めるためとはいえ、なぜそこまで言わなければならないのだろうか、というほどのものなのである。

 とはいえ、このような虚言はただ単に政治的意図にもとづくだけではない。その根底にある〝哲学〟が同時に暴きだされなければならない。だが、それについて論じるのは、またの機会にしよう。

 

 国鉄(JR)労働者組織の喪失

 

 「前原」がなかったことにしている決定的事実、その最たるものは、わが日本反スターリン主義運動にとって、決定的な問題をなすものである。

 かつての国鉄委員会を先頭とする、国鉄戦線の労働者たちがこぞって革マル派を離脱し、同志黒田が〝日本反スターリン主義運動の労働者的本質をささえる実体的根拠をなす〟とまで規定した国鉄戦線の労働者組織を一挙に失ったのである。これは、黒田寛一との固い同志的信頼にもとづいて、国鉄戦線に革マル派組織を確固として創造してきた松崎明の死去(二〇一〇年)を遥かに遡る一九九〇年代中葉のことなのである。松崎明の意志とは無関係にこのような事態が生起することがありえないことは、それこそ誰にでもわかることではないか。

 

 われわれの実践の結果たるこの冷厳な歴史的事態を、まさに組織論的にも労働運動論的にも考察し、教訓化することなくして、反スターリン主義運動の前進はありえない。同志松代の『松崎明黒田寛一』は、そのような確信にもとづいて解明し上梓したものなのである。「前原茂雄」は上のような現実には触れもしない。上の事態を革マル派労働者組織建設の破綻を意味するものとして、いかに教訓化するか、という問題意識そのものがないのである。

 むしろ彼は、同志松代の上掲書を「反革命の書」だと規定し排撃するだけでなく、黒田寛一松崎明との〝深い〟関係を物語化し神秘化して、力説している。

 これは天地がひっくり返るほどの嘘ではないか。

 

 これほどまでに深刻な歴史的現実と向かい合うことを、「前原茂雄」はなぜそこまで恐れるのか。

    小倉 力(二〇二二年一一月二二日)




前原茂雄の動揺とそのおおい隠し

 前原茂雄は私への批判を書くためによく勉強したのであろう。『松崎明黒田寛一、その挫折の深層』の展開を批判するために、まさに批判対象である私のこの書を手引きとして『松崎明秘録』を読みこむことに努力したのであろう。そして、この努力によって引き起こされた自分自身の内面の動揺を抑えるために必死になったのであろう。というのは、9・20スローガン論議にかんする前原茂雄の展開は、黒田寛一の『日本の反スターリン主義運動2』の論述と明らかに異なるからである。自己の内面の動揺を前原が自覚しているか否かは、彼のうちに、思想=理論闘争にかんする共産主義者としての良心がどれだけ残っているかにかかっている。
 前原茂雄は次のように書いた。
 「松崎氏は組合組織(支部)全体を見わたしながら、「助士廃止反対、二人乗務とせよ」というスローガンを、さらに事務部門や検修部門での組合的課題の解決をめざす指針をうちだした。これにたいして、本庄とこれに従った一部の青年部の活動家たちが「一人乗務反対・ロングラン反対だけをかかげよ」と主張して、松崎氏の提起する指針を否定したのである。」(「解放」第2743号)と。
 黒田寛一は次のように書いていたのであった。
 「(1)9・20および12・10闘争のスローガンをめぐる論議
 このスローガン論議は本質的には不毛なものであった。なぜなら、「一人乗務反対! ロング・ラン反対!」だけをかかげるのがわれわれの方針であって、これに「助士廃止反対、二人乗務とせよ」とか、「検修合理化反対」や「事務近代化反対」その他、というような未解決の諸闘争課題にかんするスローガンをかかげることは、大衆運動主義的な方針提起であり、その立場は危機あおりたてだ、というような論議がなされたにすぎなかったのだからである。運動=組織論との関係における方針提起論のほりさげというかたちでの追求さえもが、この場合まったくなされなかったのである。」(『反スタ2』一九九~二〇〇頁)
 前原の展開と黒田の展開とは似ているけれども基本的な点でまったく異なる。黒田は、「助士廃止反対、二人乗務とせよ」というスローガンを、未解決の諸闘争課題にかんするスローガンの一つとしているのにたいして、前原は、松崎氏が9・20反合理化闘争を組織するために「助士廃止反対、二人乗務とせよ」というスローガンを——まさに組合の基本的な方針として——うちだした、としているからである。そして、前原は、黒田が「未解決の諸闘争課題にかんするスローガン」としているものにかんしては、「事務部門や検修部門での組合的課題の解決をめざす指針」だけに限定しているからである。
 前原のこの展開は、彼が『反スタ2』を横において当該のページを見ながら、その展開を、松崎が『秘録』でしゃべっていることに適合するように変えながら書き写したものだ、といわなければならない。私には、前原が、変えたことがわからないように工夫して変えながら書き写しているさまが目に浮かぶ。
 この前原は、スターリニスト的ななしくずし的修正のやり口を自己の叙述作業に貫徹したわけなのである。形式上では同じであるように見せかけながら、内容上では変える、というあのやり口である。
 前原がこのようなやり口を駆使せざるをえなかったのは、松崎明が『秘録』で次のようにしゃべっているからである。
 「機関助士廃止に反対する闘争を提起したら、革マルがそれは危機煽り立て路線だといって批判してきたわけですよ。それで、私は、おまえらのような労働運動を知らない人間に天下り的な批判を受けるいわれはない、といって拒絶したんです。」(『松崎明秘録』三八~三九頁)
 「「助士廃止反対」といえば、それはいけない、「合理化=クビ切り」というまちがったとらえかただ、「一人乗務反対」にしぼっていけ、といってくる。」(一五三頁)
 松崎明その人がこのように語っている以上、前原は、『反スタ2』での黒田の展開とは異なって、松崎氏は9・20反合理化闘争を組織するために「助士廃止反対」のスローガンをかかげた、と書く以外になかったのだ、といわなければならない。
 前原茂雄は、それとともに、かつてJR東労組の役員として松崎明のもとで組合活動をおこなってきた四茂野修が書いた『評伝・松崎明』をも熱心に勉強したのだと思われる。
 四茂野は次のように書いていた。
 「賃金闘争をめぐる論議が続く間にも、職場には合理化の嵐が次々と襲いかかり、田端支部書記長として松崎はこれと格闘していた。それまで、機関車は機関士と機関助士の二人乗務が基本だった。ところが電化された常磐線では、機関士の一人乗務がすでに実施されており、これを突破口にして国鉄当局が一人乗務をあらゆる線区、あらゆる車種に拡大していくことが予想された。そこで東京地方本部は常磐線への二人乗務の回復を要求する闘争を計画し、本部に特認申請をした。」(『評伝・松崎明』一五三頁)
 前原茂雄は、四茂野修のこの本を横において見ながら、「一人乗務への転換は常磐線で先行的に攻撃が加えられていたが、まだ機関助士という職階の廃止が直接なされていたわけではなかった」、というように結果解釈的に書いたのだ、と思われる。「結果解釈的」というのは、この一九六五年の9・20闘争よりも後に機関助士という職階の廃止を実施する直接の攻撃が国鉄当局からかけられ、動力車労組は一九六九年に「助士廃止反対」のストライキ闘争を激烈に展開しつつも敗北したのであり、この闘いを知っている前原は、一九六九年の地平から一九六五年を解釈した、といえるのだからである。黒田寛一著『反スタ2』は一九六八年の夏までに書かれた。列車のどてっぱらに「助士廃止反対」とスローガン書きした動力車労組の一九六九年のストライキ闘争を全学連として支援したわれわれからするならば、一九六五年に松崎明が「助士廃止反対」の方針を提起したのはあまりにも当然のこととして感覚することになるのである。このような自分の感覚をもとにして、一九六八年の黒田が自分のこの感覚と同様の感覚をもっていたかのように描くのは、『反スタ2』の展開のなしくずし的な解釈がえなのである。
 とにかく、四茂野は「電化された常磐線では、機関士の一人乗務がすでに実施されて」いた、と書いていた。このことからするならば、松崎が「二人乗務とせよ」というスローガンをかかげたのは当然である、という判断を前原は下す以外になかった、といえる。
 ここにおいて、前原は、『反スタ2』における黒田の展開の意味内容をなしくずし的に修正する、という決断を下したのだ、とわれわれは判断することができるのである。
 前原が次のように書いているのは、自分がスターリニスト的ななしくずし的修正の手法を駆使することを隠蔽するための苦肉の自己保身の叫びなのである。
 『反スタ2』の黒田の文章を引用したうえで、前原は言う。
 「ここで同志黒田は、この合理化反対闘争においてうみだされた「左翼主義的偏向」を論じている。ところが、北井は、この文章の最初の一行半だけに着目し、同志黒田が「合理化反対闘争」の形容句として「『一人乗務反対! ロング・ラン反対!』のスローガンをもってたたかわれた」と書いていることだけをもって、まるで鬼の首でもとったかのように異常に興奮し、〝黒田は本庄とまったく同じだ!〟などと騒いでいるのだ。小学生以下の国語力ではないか。」
 松崎明は田端支部書記長として「助士廃止反対! 二人乗務とせよ!」というスローガンをうちだしたのであるからして、黒田のこの展開は「『助士廃止反対! 二人乗務とせよ!』のスローガンをもってたたかわれた」としなければならない、と思っている前原は、そう思っている自分を自分自身からも下部組織成員からもおおい隠すために、「まるで鬼の首をとったかのように」といきりたつ以外になす術(すべ)がなかったのだ、といわなければならない。
 前原茂雄は次のように書いている。
 「地本執行部を突きあげて支部の方針を地本に認めさせたのであるから、支部方針が地本の方針と基本骨格で同じであるのはあたりまえであった。」と。
 四茂野修は、黒田が松崎を批判した展開として、次の文章を引用していた。
 「〔河本は〕9・20闘争では左派とほぼ同じ内容の提起をした。これは河本が組織戦術をふまえていないことの帰結である。」(『評伝・松崎明』一五七頁)と。
 四茂野は、ここにいう「河本」とは松崎のことである、という注釈をつけている。
 前原のいう「地本執行部」とは、黒田のいう「左派」と同様の部分をさすのか否かは定かではないけれども、前原は、この引用文にみられる黒田の松崎批判をどのように考えるのであろうか。それとも、この引用文それ自体が四茂野の捏造だ、と主張するつもりなのであろうか。
       (2022年11月12日   松代秀樹)

レーニン「正義の戦争」論の政治利用

Ⅰ レーニンからのペテン的引用

  第60回国際反戦中央集会の基調報告論文(市原道人)で、ウクライナ戦争にかんして次のように述べられている。

 

 プーチン・ロシアによるウクライナへの一方的な侵略・蹂躙という現下の戦争は、かの第一次世界大戦とはまったく異なる性格をもつ。これは自明のことではないか。レーニンは、抑圧者たる「強国」の侵略戦争にたいして被侵略国側の国家が反撃の戦争を戦うのは「正しい戦争」であると喝破し、被抑圧民族の労働者階級は断固としてこの侵略者にたいする戦争をたたかえ、と檄をとばしたのである。(『新世紀』321号)

 

 ええっ、レーニンはこんなこと言っているのか、帝国主義戦争に正しいも何もないだろう、というのが一読した際の感想である。それにしても、こんな重大発言に出典が明示されていないのが不思議であった。実は、この市原論文には下書きがあり、それをなぞる際に伝言ゲームのようにレーニンがよりグロテスクに戯画化されていたのである。その下書きの該当箇所は以下の通りである。

 

 そして、侵略されている国については事態はまったく異なることを、レーニンは明確にしている。
 「……たとえば、明日にでも、モロッコがフランスにたいし、インドがイギリスにたいし、ペルシアか中国がロシアにたいして宣戦を布告したとすれば、こういう戦争は、どちらがはじめに攻撃をくわえたかには関係なしに、『ただしい』戦争、『防衛』戦争ということができるであろう。そして、社会主義者ならだれでも、抑圧され、従属させられ、同等な権利をもたないこれらの国が、抑圧者、奴隷所有者、略奪者の地位にある『強国』にたいして勝利をしめることに共感するだろう。」(レーニン社会主義と戦争』国民文庫七八頁、傍点〔下線〕は引用者)
 ウクライナは今ロシアに侵略されているのであって、この地で労働者・人民が対ロシアの戦争を断固戦うことは、レーニン流に言うならばまさしく「ただしい戦争」なのである。
 労働者階級は、侵略され抑圧され従属させられている国や民族の内部においては、人民の先頭に立って戦わなければならない。(『新世紀』320号中央労働者組織委員会論文)

 

 なんだ、「社会主義者」が「共感するだろう」といっているだけで、レーニンは労働者階級に「正しい戦争をしろ」という檄なんてとばしてないじゃないか、びっくりさせないでもらいたい。しかし、「たとえば」で始まるレーニンからの引用は異様である。これでは「たとえば」以下が何の具体例として例示されているのかがさっぱりわからないではないか。以下、大月書店版レーニン全集第21巻から、WOB論文では隠されている「たとえば」より前の部分を引用する。この『社会主義と戦争』はボリシェヴィキの戦争にかんする諸決議を解説するためにレーニンジノヴィエフによって1915年8月に書かれた小冊子である。なお、全集では「正しい戦争」ではなく「正義の戦争」という訳語が使われている。

 攻撃戦争と防衛戦争の違い
 一七八九ー一八七一年の期は、深い痕跡と革命の思い出をのこした。封建制度、絶対主義、外国の圧政が打倒されるまでは、社会主義をめざすプロレタリアートの闘争の発展ということは問題になりえなかった。社会主義者がこういう時期の戦争について「防衛戦争」の正当性をかたったばあいには、それはつねに、中世的制度と農奴制とに反対する革命に帰着する、ほかならぬこれらの目的を念頭においていたのである。社会主義者は、「防衛」戦争という言葉で、つねにこの意味での「正義の」戦争をさしてきた(W・リープクネヒトがかつてそういう言い現わし方をした)。ただこの意味でだけ、社会主義者は、「祖国擁護」あるいは「防衛」戦争が正当で、進歩的で、正しいことをみとめてきたのであり、またいまでもみとめている。たとえば、(以下、WOB論文での引用部分に続く)

 

 ここでレーニンが挙げている1789年から1871年という時代区分は、フランス革命からパリ・コンミューンまでを指し、そこでは「戦争の一つの型として、ブルジョア進歩派の民族解放戦争があった」のであり、その歴史的意義は絶対主義と封建制度の打倒にあったとレーニンはいう。そして、レーニン封建制を打倒し民族国家を樹立したそれらの民族解放戦争を「真の民族戦争」と規定し、「欺瞞的な民族的スローガンで隠蔽された帝国主義戦争」と区別して「正義の戦争」と呼ぶ。
 この場合、イギリス、フランス、ドイツなどの西ヨーロッパ諸国では「民族運動は遠い過去のものになっている」のに対し、第一次世界大戦下の1915年時点でウクライナなどの東ヨーロッパでは「民族運動はまだ完了しておらず」まだ進行中であり、植民地での民族運動はさらに遅れていた。だからレーニン帝国主義戦争交戦国での祖国擁護を「ブルジョア的欺瞞」として否定する一方で、東ヨーロッパや植民地の来るべき民族解放戦争も「正義の戦争」とするのである。
 すると1789年から1871年の時代にすでに達成された西ヨーロッパでのブルジョア革命と1915年当時未達成の東ヨーロッパおよび植民地諸国でのブルジョア民主主義革命との関係が問題になる。レーニンはどちらも「正義の戦争」としているのだが、前者の打倒対象が絶対王政と封建領主であるのに対して、後者の場合は帝国主義諸国による植民地支配からの解放が課題となるのだから。両者は戦争の物質的基礎も戦争を戦う階級も異なり、そもそも両者を一括して規定するのには無理がある。さらに、個々の戦争を個別具体的に検討しないと正しさの内実も明らかにはならないのであるが、とりあえず、レーニンは、歴史的過去に達成されたブルジョア革命やいま直面しているブルジョア民主主義革命の進歩性、プロレタリア革命に対する積極的意義に着目して、両者をともに「正義の戦争」としていること、および「遠い過去」のものとなった「進歩的ブルジョアジーによる民族解放戦争」たる前者よりも、進行中の東ヨーロッパと植民地諸国での帝国主義の抑圧に抗する民族解放戦争にレーニンの問題意識が向けられていることの二点が確認されればよいだろう。
 「帝国主義強国、すなわち抑圧者的強国にたいする、被抑圧者(たとえば植民地民族)の戦争は、真の民族戦争である。そういう戦争は、こんにちでも可能である。抑圧民族の国にたいして被抑圧民族の国が『祖国を擁護』することは、欺瞞ではない。だから、社会主義者は、このような戦争における『祖国擁護』にけっして反対しない。」(レーニンマルクス主義の戯画と「帝国主義的経済主義」とについて』)
 要するに、レーニン帝国主義戦争における祖国防衛主義を厳しく否定しつつ、未だブルジョア革命が達成されていない東ヨーロッパおよび植民地諸国での民族解放戦争を、プロレタリアートが「同情」ないし「共感する」対象として、あるいは「けっして反対しない」ものとして限定的に評価したのである。なぜなら、レーニンにとって「反帝国主義的民族運動」は二段階革命の第一段階をなすブルジョア民主主義革命の一契機としてプロレタリアートが利用すべきものだからである(レーニン『自決にかんする討論の総括』)。
 以上がレーニンによる「正義の戦争」論の概略であるが、問題は、WOB論文でのレーニンの引用の仕方と、レーニンの論述の意味づけなのである。
 第一に、筆者が具体例としての植民地での民族解放戦争の記述のみを引用して、その前の部分を黙殺したことの問題性について。すでにみたように、そこでは「中世的制度と農奴制に反対する革命」、すなわちブルジョア革命あるいはブルジョア民主主義革命に帰着する目的をもった戦争が「正義の戦争」であり、「ただこの意味でだけ」祖国防衛に正当性がある、と述べられている。一言で言えば、ここでレーニンのいう「正義の戦争」とはブルジョア民主主義革命の実現をめざした民族解放戦争である。
 このようなレーニンの展開を読むと当然、あれっ、これってゼレンスキーの戦争と何か関係あるのか、という疑問がわくだろう。まさか成熟した民族国家である現在のウクライナブルジョア革命が未達成とはだれも思わないであろうし、したがって、「たとえば」以下の引用箇所の本体にあたるレーニンの論述は、どうころんでもゼレンスキーの戦争、同じことだが「ウクライナ労働者人民の戦争」の正当性の論拠にはなりえないのである。だから、引用を「たとえば」で始める無理をしてでもWOB論文の筆者はこの部分を隠したのである。
 第二に、「たとえば」以下の引用で筆者が意図したこと。引用個所の直前に筆者は「侵略されている国については事態はまったく異なることを、レーニンは明確にしている」と書き、レーニンが戦争の正当性の基準に「侵略されている」ことを据えているかのように読者を誘導する。そのうえで、引用部分をまとめた地の文で「ウクライナは今ロシアに侵略されているのであって、この地で労働者・人民が対ロシアの戦争を断固戦うことはレーニン流に言うならばまさしく『ただしい戦争』なのである。」と結論づけるのである。
 筆者はどうしても「侵略されている」ことを「ただしい戦争」の判定基準にしたいようだ。それだけでなく、「侵略され抑圧され従属させられている国や民族の内部においては」というように戦争の正当性の判断基準の範囲を「侵略されていること」から「抑圧されていること」、さらには「従属させられていること」へと、何も説明しないまま拡大するのである。おそらく、引用部分でレーニンが「抑圧され、従属させられ」と書いているのを利用し、その直前に筆者にとってのキーワード「侵略され」をおしこんだのだろう。では訊くが、アメリカ帝国主義に従属している日本帝国主義アメリカに攻め込んだら、それは「正義の戦争」になるのかね。
 侵略・被侵略、抑圧・被抑圧、従属・被従属をいくら言っても戦争の正当性を主張することはできない。もちろん、レーニンもそんなことを言うわけがない。
 「俗物は、戦争が『政治の継続である』ことを理解しない。だから、『敵が攻撃した』、『敵がわが国に侵入した』などということばかりにこだわって、戦争がなにがもとで、どの階級によって、どんな政治目的のためにおこなわれているかを検討しない。」(レーニンマルクス主義の戯画と「帝国主義的経済主義」とについて』)
 WOB論文の筆者が引用した『社会主義と戦争』でのレーニンの展開に沿って言えば、東ヨーロッパおよび植民地諸国での民族解放戦争の階級的本質はブルジョア民主主義革命を志向するものであり、その点で「正義の戦争」とされるのだ。侵略・被侵略や抑圧・被抑圧といった現象はそのような戦争の性格からもたらされたものであって、その逆ではない。
 WOB論文は、⓵植民地諸国での来るべき民族解放戦争の階級的性格にかかわるレーニンの論述を隠蔽し、②物質的基礎や階級的諸実体を抜き取り戦争一般に還元したうえで、そのような戦争一般と現下のロシアによるウクライナ侵略をめぐる帝国主義戦争との双方から侵略・被侵略という「共通性」をとりだして、ウクライナレーニンが言っている「ただしい戦争」と同じだよねと言いくるめているわけである。彼らがこのような詐欺的手法をとってまでレーニンを利用するのは、そうしないと自分たちのウクライナ戦争論が瓦解するからである。 
 ちなみにWOB論文のこのレーニン詐欺に真っ先にひっかかったのが国際反戦中央集会の基調報告者(市原道人)である。レーニンは別に侵略されている側が反撃するのが「正しい戦争」であるなどと「喝破」していないし、労働者階級に断固としてこの戦争を戦えと「檄」をとばしてなどいない。そうではなくて、レーニンがとばした檄は「われわれはすべての交戦国と戦争の脅威下にあるすべての国のプロレタリアートと被搾取者にたいして、祖国防衛の拒否を提議する。」(レーニン『戦争問題にたいする原則的規定』)であった。そもそも、WOB論文での引用箇所であげられているモロッコ対フランス、インド対イギリス、ペルシアまたは中国対ロシアの植民地解放戦争は『社会主義と戦争』執筆時点ではまだ起きていない。市原論文によると、存在しない戦争に労働者階級は参戦せよとレーニンは檄をとばしたというわけだ。「おまえたちは現実世界に生きてはいない」(『新世紀』321号「粉砕せよ」論文第2回)という言葉を返そうか。

 

Ⅱ レーニンのいう戦争の正当性

 ここで「革マル派」中央官僚派ではなくレーニンその人が戦争の正当性についてどのように考えていたのかをみておく。
 レーニンが無条件に正義の戦争とするのは、もちろん賃労働と商品経済の廃絶をめざすプロレタリア革命である。WOB論文で詐欺に利用された『社会主義と戦争』でも冒頭で「ブルジョアジーにたいする賃金労働者の戦争の正当性、進歩性、必然性」を「われわれは完全に認める」と宣言する。プロレタリア革命は「歴史が知っているかぎりの一切の戦争のうちでも、唯一の合法則的な・正当な・正義の・真に偉大な戦争である。」(レーニン『ペテルブルグ戦闘の計画』)それは、1915年当時には帝国主義戦争を「資本家階級の収奪をめざし、プロレタリアートによる政治権力の獲得をめざし、社会主義の実現をめざす戦争」(レーニン『ツィンメルヴァルド左派の決議草案』)としての内戦に転化させるものとして展望されたのである。ここでは戦争の正当性を議論する余地はない。
 問題となるのはプロレタリア革命以外の諸類型の戦争である。レーニンは『よその旗をかかげて』などにおいてフランス革命以後当時までを3期に時代区分して、戦争の類型を論じている。第一期は1798年から1871年の「ブルジョア民族運動の時代」、第二期は1871年から1914年の進歩的ブルジョアジーから「もっとも反動的な金融資本への移行の時代」、第三期は1914年以降の「帝国主義の時代」とされる。レーニンの問題意識は、戦争が進歩的であるかどうかにおかれ、戦争の類型ごとに正当性が論じられる。
 ⓵ 第一期における「ブルジョア進歩派の民族解放戦争」。これは「真の民族戦争」と評価される。ブルジョア革命に帰着するという点で「正義の戦争」であるが、その正当性は過ぎ去った過去の時点での問題にすぎない。
 ② 第三期における帝国主義戦争。帝国主義諸国間で勢力圏を再分割をめぐる戦争で、「古い強盗国であるイギリス、フランス、ロシアに向かって、若くて非情に強い強盗国ドイツが、掠奪した獲物をゆずるよう要求してひきおこされた戦争」(レーニン『I・S・K召集第二回社会主義大会に宛てたロシア社会民主労働党中央委員会の提案』)である。植民地のいっそうの搾取、国内の他民族に対する圧政、プロレタリアートに対する搾取の強化という点で反動的であり、戦争の正当性は問題にならない。
 ③ 第三期における東ヨーロッパと植民地諸国での民族解放戦争。⓵と同様にこれらの戦争もブルジョア民主主義革命をめざす「真の民族戦争」として「正義の戦争」である。
 以上まとめると、レーニンにとって戦争の正当性の基準は、プロレタリアートの階級的利害という一点におかれているのであり、したがって「正義の戦争」と無条件に規定しうるのはプロレタリア革命とそれに先立つ内戦だけである。それにプラスして、ブルジョア民主主義的な進歩性から民族解放戦争にも、プロレタリアの階級的利害に従属させるかぎりにおいて、一定の正当性を認めるのである。
 ところが、WOB論文や市原論文で言われている「正しい戦争」の規定は侵略に対する反撃だけなのであり、レーニン的なプロレタリアートの階級的利害も、民族解放戦争のプロレタリア革命に対する積極的意義も述べられていない。引用の直前の民族解放戦争が「正しい戦争」であるというレーニンの論述を隠蔽したのだから、あとに残るのは無内容な侵略・被侵略の関係でしかなくなるのである。まるで外側に「戦争」と書かれた空っぽの袋があり、中が二つに仕切られていて、一方には「侵略入れ」、もう一方には「被侵略入れ」というラベルが貼ってあるようではないか。
 レーニンはいう、「攻撃を受けた国は防衛する権利をもつ」というのは詭弁であり「まるでかんじんな点は、どちらがさきに攻撃したかであって、戦争の原因、戦争のめざしている目的がなにか、どの階級が戦争をしているのかという点ではないようである。」(レーニン『ボリス・スヴァランへの公開状』)
 ここでひと言付言しておく。中央官僚派は自分たちの祖国防衛主義を批判されると、口をそろえて「では、どうしろというのか」とか「現にいま侵略軍に同胞を殺されながらも身を賭してたたかっているウクライナの労働者・人民を見殺しにせよ、というにひとしいではないか!」(『新世紀320号』越山論文)というように情緒的に反応する。だが、それは第一次世界大戦当時の祖国防衛主義者とかわらない。これに対してレーニンは、「祖国防衛の義務を原則的に認めるか、それともわが国を無防備におくか」という問題の立て方は「根本的に正しくない」としたうえで、「心の底までブルジョア的」と非難する。そして「現実において問題はつぎのように立てられている。帝国主義ブルジョアジーの利益のために自分で自分を殺すか、それとももっと少ない犠牲で銀行を奪取し、ブルジョアジーを収奪するために、一般的に物価騰貴と戦争に終止符を打つために、被搾取者と自分自身との大多数を系統的に育成するか。」(レーニン『祖国防衛問題の立て方によせて』)、というように階級的利害のいかんを基準に祖国防衛主義を批判したのだった。ヒステリックに情緒的な言葉を吐き出すまえに、レーニンの原則的批判を受けとめるべきではないか。

 

Ⅲ プロレタリア的階級性の蒸発

 「革マル派」中央官僚派は、交戦国を侵略・被侵略という観点で分け、「侵略され踏みにじられている労働者・人民の立場にわが身を移し入れ」(『新世紀320号』WOB論文)るのだという。だが、そこでは「その戦争がどのような歴史的条件から発生したか、どのような階級が戦争を行っているか、何のために行っているか」(レーニン『戦争と革命』)という把握が抜け落ちる。彼らがいうウクライナ戦争の実体構造とは、「誰が誰を侵略しているのか。プーチンの軍隊がウクライナになだれこみ一方的に蹂躙している」(『新世紀』321号「粉砕せよ」論文第二回)ということにすぎない。こうして戦争から歴史性と階級性が脱落し、中身がすかすかな超歴史的な戦争一般のようなもののなかで、悪い侵略者とそれに抵抗する正義を探すことになる。現下のウクライナ戦争では侵略者である「今ヒトラー」「スターリンの末裔」プーチンウクライナ民族が抵抗しているという図式である。
 ここから、第一に、中身の抜けた無規定の戦争どうしを比べさせ、第一次世界大戦当時のレーニンが正義の戦争と認めた民族解放戦争を、現下の東西帝国主義の激突のもとでの資本主義国ウクライナのゼレンスキー政権の戦争と同じものに見せかけるという詐術が動機づけられるのである。もちろん、それはまじめな労働者、学生が『レーニン全集』第21巻から23巻の諸論文を検討すればすぐに露見する程度のペテンである。だから中央官僚派が苦し紛れに今度はゼレンスキーの戦争を民族解放戦争の現代的形態とか言い出しても驚くにはあたらない。
 第二に、階級性が抜き取られた戦争の把握であるために、「共存共苦」とか「内在的超越の論理」などといっても、彼らが降り立つのは戦時体制で過酷な搾取に苦しむプロレタリアートの労働現場ではなく、はじめからゼレンスキーに指揮されたウクライナ軍の戦闘現場に限定される。米英帝国主義に支援されたウクライナ民族主義者ゼレンスキーによって動員され、ウクライナブルジョアジーの利害のために軍服を着せられてウ      クライナ軍として戦うことを強いられているのがウクライナプロレタリアートである。ウクライナプロレタリアートウクライナブルジョアジーの階級対立を「分かりきっている」と言いながら、諸階級を丸ごと含んで「ウクライナの国軍・志願兵・住民自警団が一丸となって遂行している『祖国防衛戦争』」(『新世紀』319号小川論文)でのウクライナ軍の戦果を誇る司令官さながらの軍報のような記事を「解放」に載せることを中央官僚はためらわない。
 ウクライナプロレタリアートの階級的な怒りは、ブルジョアどもによって日々賃金労働者として搾取されたうえに東西帝国主義の激突のもとでの戦争に動員され自らの生命が虫けらのようにあつかわれていることに発するのであって、これはロシア軍に従軍させられているロシアのプロレタリアートも同様である。「労働者は自分の事業のために犠牲になることは結構であるが、他人のために犠牲になってはならない」と1916年当時のボリシェヴィキは言っていたという(レーニン『I・S・K召集第二回社会主義大会に宛てたロシア社会民主労働党中央委員会の提案』)。労働者階級が死に物狂いで戦うのは二段階革命の一段階めに位置付けられたブルジョア民主主義革命(およびそれを目指した民族解放戦争)においてではなく、プロレタリア革命においてなのだという意味である。ところがWOB論文は意図的にどのような性格の戦争においてなのか不明にしたままいう。「労働者階級は、侵略され抑圧され従属させられている国や民族の内部においては、人民の先頭に立って戦わなければならない」(『新世紀320号』)と。だが、民族解放戦争ならまだしも、東西帝国主義の勢力圏再分割のための戦争でプロレタリアートは「他人のために」すなわちブルジョアジーのために命を捨ててはならないのである。ウクライナの地に降り立って「正しい戦争」を戦うウクライナ兵に憑依したところで、この戦争の階級性がおさえられない限り「共存共苦」はレーニンいうところのブルジョア・センチメンタリズムに堕すほかない。
 かつて「新しい歴史教科書をつくる会」の執筆者は、自由社版中学歴史教科書で白村江の戦いを「日本の軍船400隻は燃え上がり、空と海を炎で真っ赤に染めた」と見てきたように書いた。「革マル派」中央官僚諸氏もタイムマシンに乗って数多の「血みどろの現実場」に降り立ってくればいいではないか。
    (2022年11月11日   山尾行平)

下部組織成員を欺瞞するための言辞集——デマ宣伝「第7回」

 一 出発点とすべき現実の隠蔽


 革命家たらんとする者は、世界を変革するために、おのれのおいてある物質的現実を出発点として考察する。ところが、われわれが出発点とすべき現実を自分自身と下部組織成員からおおい隠すことをおのれの使命としているのが、デマ宣伝「第7回」の筆者・前原茂雄なのである。
 彼がこの雑文においておおい隠すことを意図した現実とは何か。それは、JR戦線の革マル派組織が総体として、革マル派中央指導部のもとにある革マル派組織そのものから離反し離脱した、という事態である。
 私がこのことを明らかにし、われわれの考察の出発点としたことをもって、前原茂雄は、私にたいして「反革命=権力の走狗」とか「国家権力への通敵行為」とかという非難の言葉を投げつけているわけなのである。したがって、これらの非難の言葉は、JR戦線の革マル派組織が離脱したというわが革マル派組織建設の破産を隠蔽し下部組織成員を欺瞞するための言辞なのであり、その破産をわが革マル派組織建設の挫折の総括の出発点とした私への排外主義的な憎しみの心情を吐露したものにほかならない。
 同志黒田寛一の死を前後する時期から今日まで、「革マル派」中央指導部は、JR戦線の革マル派組織が離脱したという組織的な事実の認識を公表したことはない。ましてやこの事態の考察を出発点としてわが党組織建設の挫折を総括したことはない。ただただ「黒田さんと松崎さんとはテレパシーでつながっているのだ」、ということをくりかえしていただけである。
 これに反して、印刷物とはならない場面では、中央指導部のなかの小官僚は、「マングローブもこぶしも俺たちが潰したんだ!」と豪語し公言したのである(探究派公式ブログ「革共同第四次分裂の地平を打ち固め、革命的前衛党の創造に邁進しよう!」参照)。ここに言う「マングローブ」とは、JR戦線内の革マル派組織のことであり、「こぶし」とは、こぶし書房のことである。このように、JR戦線内の革マル派組織は革マル派本体からは離反し離脱したのだ、ということは、指導的メンバーたちのあいだでは周知の事実だったのであり、小官僚は「俺たちが潰したんだ」という自覚だったのである。だが、マングローブをあたかも敵対物であるかのようにみなす・このような意識では、この事態を出発点としてわが革マル派組織建設の挫折を総括し反省する、という意欲が生まれわきあがってくることは決してない。空手の先生(『資本論の誤訳』の著者である廣西元信)が言うように、師範の悪い癖はその弟子に端的なかたちであらわれる。この小官僚は、中央指導部のなかの指導者であった前原茂雄の他在なのである。「第7回」を書いた今日の前原は、わが党組織建設の総括と反省を放擲し投げ捨てた最高指導者たる前原茂雄のなれのはてなのである。


 二 松崎明への冒瀆


  「ケムにまいた」とは

 前原茂雄は言う。
 「……こうしたJR東労組にたいする破壊策動が展開されるただなかで、宮崎から松崎氏にインタビューの申し入れがあった。松崎氏は、これを受け入れた。「私は日本労働運動を防衛するためには誰とでも会います」と松崎氏は語っていたという。この氏の言葉に明らかなように、彼は、この宮崎のインタビューそれ自体が一連の組合破壊攻撃の一環であるととらえ、それを逆手にとってやろう、と考えていたにちがいないのだ。
 松崎氏は、宮崎の政治的意図を重々承知のうえで、それを受けて立った。」と。
 前原のこの分析は正しい、と私は考える。松崎氏はこう語っていたということは、私は知らなかったが、これを読んで、彼がこう語ったであろうということは容易に推測がつく。私は、松崎氏が次のように考えたのだ、と彼の胸中をおしはかる。ここで、スパイ宮崎のインタビューを断ったり、そのインタビューで言葉を濁したりすれば、〝それ見たことか、松崎にはしゃべれないことがあるんだ、松崎はあやしい〟と宣伝されてしまうことになる。これを真っ向からうけて立ち、これを逆手にとって、自分が労働運動をどのように創造し展開してきたのかという・その体験および教訓と、これからどのように展開すべきなのかということとを、積極的に展開しよう、と。
 前原がこれと同様なかたちで分析していたのだ、と見るかぎりで前原のこの展開は正しい。
 だが、問題は、これに直続して、前原が次のように書いていることにある。
 「そして、あの宮崎を手の平にのせ、時にはケムにまいた。彼は、スパイ宮崎に変幻自在に対応しながら、自らのプロレタリア・ヒューマニズムの思想を縦横無尽に語っているではないか。北井よ。字面解釈しかできないおまえには、こんなことはまったくわからないだろう。」
 問題なのは、この引用文のなかで、前原が「ケムにまいた」「変幻自在に対応しながら」と書いていることである。このように書くことによって、松崎氏が、あたかも、事実ではないことをしゃべっていたり、心にもないことを語っていたりするかのような雰囲気を前原がかもしだしていることが問題なのである。前原は、松崎氏がしゃべったことを具体的に引用し、これは、宮崎をケムにまいたものである、というように自分は判断する、という展開をやっていないのである。こういう展開をやらないのは、前原が、下部組織成員や読者をケムにまき欺瞞するやり口なのである。自分が対象としている現実について具体的に書かないで、それらしい雰囲気をただよわせるために例え話的な表現を連ねる、というのが、前原が下部組織成員の操作術として駆使するやり口なのである。松崎氏が、基本的なことがらについて、あたかも、事実でないことをしゃべっていたり、心にもないことを語っていたりするかのような雰囲気をかもしだすのは、宮崎の質問を逆手にとって日本労働運動の教訓と展望を明らかにしている松崎氏への冒瀆である。
 もちろん、松崎氏がこうしゃべった部分は宮崎をケムにまいたものだ、などと書いていけば、ケムにまいたことがばれてしまう、と言える。問題なのは、逆のことがらである。宮崎への対応ということにとどまることなくそれを超えて、松崎氏が力をこめて積極的に語っていることは、自分が体験した過去的現実の自分自身の認識とそれについての自分の価値判断をのべているものであり、これから日本労働運動を推進していく自分の心のうちと展望を明らかにしているものだ、と私は考えるのである。
 決定的なのは一点である。その一点にかんして、松崎氏は、自分の体験したことを語り、それへの自分の価値判断をくだしているのであり、自分の心のうちを明らかにしているのだ、と私は考えるのである。前原は、その一点にかんして、自分は事実と認識するのか否か、松崎氏が自分の考えをのべていると判断するのか否か、ということを表明すればいいのである。そうすれば、私との論争はかみ合うのである。ところが、前原は、この判断とその表明を回避し逃げまわっている、ということが問題なのである。この表明から逃げまわっているかぎり、前原のこの文章は、下部組織成員を欺瞞するための言辞集にしかならないのである。そうであるかぎり、この文章を書いた前原茂雄は腐敗の極みなのである。

  松崎明の真実

 その一点とは次のものである。松崎氏は次のようにしゃべっている。これを、松崎氏がおのれにとっての真実を語っていると感じるのか否か、これが問題なのである。
 「一九六四年に動労内部で賃金闘争をめぐる論議があって、私は執行部を批判して、「動力車賃金論の一考察」って論文を書いたんだけど、それに総評の小島調査部長のいっていることを引用したことについて、革マルが、総評ひいては社会民主主義を美化するもんだというイチャモンをつけてきたんですね。それから、機関助士廃止に反対する闘争を提起したら、革マルがそれは危機煽り立て路線だといって批判してきたわけですよ。それで、私は、おまえらのような労働運動を知らない人間に天下り的な批判を受けるいわれはない、といって拒絶したんです。そうしたら、翌年の二月になって、革マル派書記長の森茂を先頭に、大勢で私の家に押しかけてきたわけですよ。」(『松崎明秘録』同時代社、二〇〇八年刊、聞き手・宮崎学、三八~三九頁)
 「そうしてしばらくするとね、黒田寛一さんの指令がやってくる。「あれはまずかったよ」と。こっそり詫びを入れてくるわけですよ。ほんとは、俺に対する攻撃も黒田さんがやらせてるんですよ。私に言わせれば、トップが知らないでね。私に対して何かできるわけがないんですからね。しかし、そういうふうに止めるわけですよね。」(四〇頁)
 「黒田さんの運動理論、反スターリニズムの大衆運動の推進のしかたに関わるもの、あるいは『組織論序説』のような大衆運動と組織建設の関係に関わる一連のもの、そういうものの展開は、多分に私の実践を材料にして、基礎づけ理論づけたという面がかなりあるのではないかと私は思っているんですよ。」(一四七~一四八頁)
 「だから、黒田さんと私とは複雑な関係なんですよ。「反松崎フラク」の連中も、私の後ろには黒田がいるようだと分かっている。また、黒田もそれを十分に利用している。だから、この「親分」は、平気で「反松崎」を煽りながらね、そして一方では収めていくと、煽っておいて、こっちの命令で収めさせる、という具合。」(一四八頁)
 「「助士廃止反対」といえば、それはいけない、「合理化=クビ切り」というまちがったとらえかただ、「一人乗務反対」にしぼっていけ、といってくる。」(一五三頁)
 「六五年がスローガン論争です。田端機関区と尾久機関区が一緒になって、それでスローガン論争ってやつがあった。要するに彼らはひたすら革命的スローガンを掲げようとするわけですよね。私はスローガンというのはみんなの意識を集めるためにあるんだから、党派的にどっちが科学的で、どっちが革命的かなんて関係ないと言った。そうすると「シャミテン(社民転)」だって言う。今度は私の家に直接押しかけてくるような事件も起こってくるんです。前に言った六六年の「カチカチ山」事件ですね。わが家に大挙して押しかけて来るわけですよ。これでもう決定的になるわけですよ。」(一五八頁)
 これを読んで、私は、これは、松崎明の、自分の死を予感しての遺言である、と感じたのである。松崎明は、自分が体験したことを明らかにしたのであり、自分自身の心の真実を語ったのだ、と私は思うのである。私には、松崎明のこの言葉は重い。
 前原茂雄は、これを読んでどう感じたのであろうか。これは、松崎明が宮崎をケムにまくために、変幻自在に、自分が体験してはいないことを物語としてこしらえて語った、と感じたのであろうか。もしも、前原がそう感じたのであるとするならば、それは松崎氏にあまりにも失礼であり、松崎氏を冒瀆し、彼に唾を吐きかけるものである、と私は思う。
 この部分を読んで、松崎氏は切々と語っている、と私は感じる。彼は、何十年もおのれの心の奥底に抱えていたものを、いま語ったのだ、と感じ、私は自分の心臓が抉り取られる思いがしたのである。
 この思いのもとに、私は、松崎明が語った彼の内面と、彼が明らかにした彼の体験の現実を、われわれの組織建設を論理的にも歴史的にも捉えかえすための出発点としたのである。
 前原茂雄がその私を批判するのに、松崎明がこのように語ったということにまったくふれないのは、そしてそのことに自己の価値判断を一切くださないのは、自己と下部組織成員と「解放」読者を、いや全世界のプロレタリアを欺瞞するものである。
 前原茂雄が『松崎明秘録』から引用した箇所が一つだけある。
 「じっさい松崎氏自身が、宮崎のインタビューに答えて次のように語っている。
 「黒田さんの運動理論、反スターリニズムの大衆運動の推進のしかたに関わるもの、あるいは『組織論序説』のような大衆運動と組織建設の関係に関わる一連のもの、そういうものの展開は、多分に私の実践を材料にして、基礎づけ理論づけたという面がかなりあるのではないかと私は思っているんですよ。」(『秘録』一四七~一四八頁)」
 この引用がそれである。この中身はまさにそうである。まさに、松崎明は、宮崎のインタビューを逆手にとって、真実を語ったのである。逆手にとって真実を語るという松崎明のこの意志は、『秘録』における彼の語りの全編をつらぬき、文面と行間のすべてを流れている、と私は感じるのである。この『秘録』を松崎明の遺書だ、と私が言ったゆえんである。
 この引用に端的にしめされるように、松崎明が真実を語っていることを感じ熟知しているにもかかわらず、自分にとって都合の良い部分だけを引用し、他の部分は無視抹殺するというのは、あまりにも御都合主義であり、松崎明にあまりにも失礼ではないか。いや、前原茂雄のこのやり口は、全世界のプロレタリアートが共有財産とすべき著書を「宮崎本」とけなし闇に葬りさることを意図するものであり、全世界のプロレタリアートへの背信行為である。


  三 松崎明黒田寛一が対立したその内実のほりさげ


  9・20スローガン論議

 前原茂雄は言う。
 「頭のおかしい北井よ。そもそも『日本の反スターリン主義運動2』において、同志黒田が次のように書いていることをおまえはどう読んでいるのだ。
 「『一人乗務反対! ロング・ラン反対!』のスローガンをもってたたかわれたこの合理化反対闘争において、しかし、われわれは同時に、部分的に左翼主義的偏向をおかしたのであった。一言でいえば、われわれの組織戦術の無媒介的な貫徹を主張したり、あるいは民同右派が民同左派に攻撃をかけているまさにその時に動力車労組内の左右の日和見主義を一挙に同時的に、直接的に批判し暴露すべきだ、と主張した戦闘的活動家(フラクション・メンバー)たちにゆすぶられたりする傾向が一部に発生したということである。」(『反スタ2』一一三~一一四頁)
 ここで同志黒田は、この合理化反対闘争においてうみだされた「左翼主義的偏向」を論じている。ところが、北井は、この文章の最初の一行半だけに着目し、同志黒田が「合理化反対闘争」の形容句として「『一人乗務反対! ロング・ラン反対!』のスローガンをもってたたかわれた」と書いていることだけをもって、まるで鬼の首でもとったかのように異常に興奮し、〝黒田は本庄とまったく同じだ!〟などと騒いでいるのだ。小学生以下の国語力ではないか。」
 これが、前原茂雄の異常に興奮した言である。
 では、前原は、今日から考えて、「『一人乗務反対! ロング・ラン反対!』のスローガンをもってたたかわれたこの合理化反対闘争」という展開を、正しいと考えるのであろうか、それとも間違っていると考えるのであろうか。前原は、この判断をくだしていない。こういうところが、前原のずるいところなのである。「鬼の首でもとったかのように」と書くことをもって、私を批判したかのように装っているのである。だが、一般に、「鬼の首でもとったかのように」という表現は、その批判は当たっていると認めたうえで、そんな小さなことで悦に入るとは何だ、というように切り返す言葉である。ということは、前原が日本語を正しく使っているのであるかぎり、『反スタ2』の先の表現は間違っている、と前原は認めた、ということになるのである。
 前原自身が次のように書いているからである。
 「松崎氏は組合組織(支部)全体を見わたしながら、「助士廃止反対、二人乗務とせよ」というスローガンを、さらに事務部門や検修部門での組合的課題の解決をめざす指針をうちだした。これにたいして、本庄とこれに従った一部の青年部の活動家たちが「一人乗務反対・ロングラン反対だけをかかげよ」と主張して、松崎氏の提起する指針を否定したのである。」と。
 前原のこの展開は正しい、と私は考える。前原が書いていることのなかでは、ここは正しいのである。
 松崎氏が提起し組合組織がかかげたスローガンは「助士廃止反対、二人乗務とせよ」なのである。これにたいして、「一人乗務反対! ロング・ラン反対!」というスローガンは、本庄とこれに従った一部の青年部の活動家たちが、それだけをかかげよ、と主張したものなのである。すなわち、それは左翼主義的偏向をおかした活動家たちが主張したものにすぎないのであって、組合組織が採用したものではないのである。とするならば、この合理化反対闘争は、動力車労組という労働組合がたたかったものなのであるからして、同志黒田が書いたこの部分は、「『助士廃止反対! 二人乗務とせよ!』のスローガンをもってたたかわれたこの反合理化闘争」としなければならないのである。
 この問題は、「鬼の首でもとったかのように」ではなく、まさに鬼の首なのである。どのようなスローガンを組合組織としてうちだすのか、ということが論議となっていたのだからである。松崎氏が「助士廃止反対」というスローガンをうちだしたことにたいして、本庄とこれに従った一部の青年部の活動家たちは「それは危機あおりだ」と批判したのだからである。もしも同志黒田が松崎氏を正しいとするのであるならば、彼は『反スタ2』の展開を、「『助士廃止反対! 二人乗務とせよ!』のスローガンをもってたたかわれたこの合理化反対闘争」としなければならなかったのである。
 私は、このことを言っているだけのことである。
 このことが重要であるのは、この9・20闘争への組織的とりくみの総括において、同志黒田は松崎明を次のように批判しているからである。

  黒田寛一松崎明批判

 かつてJR東労組の役員であった四茂野修は『評伝・松崎明』で次のように書いている。
 「黒田は次の四点にわたって松崎を批判した。ここに「河本」とあるのは松崎で、「深井」は送り込まれた革マル派の常任である。
 「ケルン主義の未克服:河本はケルン主義を克服できないまま、ケルンの創造を放棄して役員としての活動に埋没した。六三年の反合闘争の過程でフラクションを創造し、ケルン主義を経験的・実践的に克服したのだが、理論的追究は放棄された。そのためケルン主義を克服できない古いメンバーと、それなりに克服を追求した新しいメンバーの間に溝が生まれた。新しいメンバーには深井の誤った指導によって左翼主義的偏向、フラクションとしての労働運動というような偏向が生じた。この対立に際して河本は諸会議をボイコットし、フラクションの指導を放棄して、労働運動の左翼的展開を自己目的化し、役員としての活動に安住し、「自己分裂」に陥った。
 組織戦術抜きの闘争戦術:河本の提起は組織戦術のない戦術提起だ。闘争戦術の提起が組織戦術を無視して行われている。9・20闘争では左派とほぼ同じ内容の提起をした。これは河本が組織戦術をふまえていないことの帰結である。河本は「組合内の諸要求を取り上げ、結集しやすい方針を出さなければならない。にもかかわらず、他のメンバーはそのような点について関心を持っていない」と主張したが、それは労働運動をでっかく組織化するという観点から考えられている。しかも、フラクションや同盟組織をふまえて提起するとなっていない。
 革命闘争への連続的発展観:河本は階級闘争主義、あるいは大衆闘争から革命闘争への連続的発展観に陥っている。断固たる実力闘争、資本との徹底的な対決が古典的マルクス主義のベールをかぶって主張されている。賃金論、合理化論などを古典マルクス主義の原則でぶった切る原則主義に陥っている。運動の組織化を通じた党組織づくりの観点が欠落しており、のりこえの構造の解明が必要だ。
 運動=組織論の未主体化:運動=組織論の追求がなされていない。活動の三形態(同盟員の活動、フラクション活動、独特な職場闘争)の立体的な構造を把握することが求められている。」」(一五六~一五八頁)
 四茂野は、他のすべての引用にかんしてはどこからのものであるのかということを記しているのであるが、これだけは唯一どこからの引用であるのかを記していない。どこからの引用であるのかをしめさず、「河本」「深井」という名前をあえて記載しているのは、これが、9・20スローガン論議および国鉄委員会建設の破産にかんする総括を黒田寛一が口述したテープからのものである、ということを四茂野が暗にしめしたものだ、と言ってよい。「深井」とは、国鉄委員会担当常任メンバーである本庄武をさす。
 私は、同志黒田のこのテープを持っていず、記憶しているだけなので、四茂野のようにはくわしくは再生産することはできない。四茂野の再生産は正しい、と言えるのみである。
 もしも、前原茂雄は、四茂野のこの再生産が間違っている、と思うのなら、そう言えばよい。
 このようなテープにかんしては、「革マル派」中央官僚派は、もはや、これを検討し継承するだけの理論的論理的能力をもっていないのであり、宝の持ち腐れであって、そのような愚をおかすのではなく、これを全世界のプロレタリアートの共有財産とするために公表すべきである、と私は考える。松崎明その人が、このテープの論述の対象となっていることがらにかんして、自分の認識内容と自己の考えをのべているのであるからして、このテープを公表しても何ら問題はないのである。
 内容上では、9・20闘争において松崎明が提起した組合の方針にかんして、黒田寛一が「組織戦術抜きの闘争戦術」というかたちで批判していることが問題となる。
 松崎と黒田のあいだで食い違いが生じたのは、——今日的な表現で言えば——わが同盟のわが同盟としての闘争=組織戦術とわが同盟員が組合員あるいは組合役員としてうちだす組合の運動=組織方針とを区別しえているのかどうか、ということにあったのではない。後者の組合の方針をどのように・どのような内容で・うちだすのかということをめぐって両者の食い違いが生じたのである。
 本庄武は、両者は違うということ自体がわかっていなかったのであり、この方針提起上の問題を規定しているところのわれわれの活動の三形態を把握していないということについて、したがってわが同盟員は組合運動の場面で組合員として活動するのだ、ということがわかっていないということについて、同志黒田は本庄武を執拗に批判し教育していたのである。
 松崎と黒田の食い違いは、本庄のこの水準とは異なって、松崎は田端支部の書記長としてどのような方針をうちだすべきか、ということをめぐってであったのである。
 松崎は、田端支部の組合員たちが全体として結集しやすい方針をださなければならない、という考え方のもとに、みずからが左派系の組合役員および組合員たちを組織して支部内の左翼フラクションを創造しているということを実体的基礎にして、このメンバーたちの総意をなすものとして「助士廃止反対! 二人乗務とせよ!」という方針を提起したのである。これにたいして、黒田は、「9・20闘争では左派とほぼ同じ内容の提起をした。これは河本が組織戦術をふまえていないことの帰結である」、と批判したのである。
 この食い違いについて考察しほりさげることが問題なのである。私は、松崎が組織戦術をふまえていない、とは思わないのである。松崎は、創造している支部内の左翼フラクションを強化し拡大するという組織戦術をふまえて、組合支部書記長として、先の組合の方針を提起したのだ、と私は考えるのである。この意味において、黒田は、松崎が考えていたところの、左翼フラクションを強化し拡大する、という組織戦術を見ていない、と私は思うのである。黒田は「左派」と呼んでいるのであるが、田端支部に創造されていたところのものは、既存の左派なのではなく、松崎が左派系の組合役員および組合員を組織してつくりだした左翼フラクションと把握すべきだ、と私は考えるのである。
 黒田は松崎を、「9・20闘争では左派とほぼ同じ内容の提起をした」、と批判したのであったが、松崎は自分が創造した左翼フラクションにおいて意志一致した方針を、支部書記長として提起したのだ、というように、私は考えるのである。
 また、黒田は、松崎が「組合内の諸要求を取り上げ、結集しやすい方針を出さなければならない。にもかかわらず、他のメンバーはそのような点について関心を持っていない」と主張した、というように、紹介している。松崎のこの言葉は、『松崎明秘録』において、「私はスローガンというのはみんなの意識を集めるためにあるんだから、党派的にどっちが科学的で、どっちが革命的かなんて関係ないと言った」、というように彼がしゃべっているのと、意味内容としては同じである。このことにかんしては、前原茂雄もまた、「松崎氏は組合組織(支部)全体を見わたしながら、……指針をうちだした」と書いていることにしめされるように、肯定的に認めているわけである。松崎のこの提起は、わが同盟員が組合役員として労働組合の方針をどのようにうちだすのかということについて労働運動論的にアプローチして考えたものだ、と私は考えるのである。
 これにたいして、黒田が、「これは河本が組織戦術をふまえていないことの帰結である」、「それは労働運動をでっかく組織化するという観点から考えられている。しかも、フラクションや同盟組織をふまえて提起するとなっていない」、と批判したのは、戦術の提起にかんして組織現実論的にアプローチして考えたものだ、と私は考えるのである。したがって、黒田の松崎への批判は、労働組合の方針の提起にかんして労働運動論的にアプローチして考えたものに、戦術の提起にかんして組織現実論的にアプローチして考えたことを対置するものとなっている、と私は思うのである。労働組合の方針を労働運動論的にアプローチして解明するばあいには、組織現実論を適用しなければならないのであるが、このことは、闘争戦術を組織現実論的にアプローチして解明することそのものとは、アプローチの仕方が異なるのである。このようなすれ違い的な対置であることからして、黒田の松崎への「それは労働運動をでっかく組織化するという観点から考えられている」という批判は当たらない、と私は考えるのである。前原茂雄自身が認め肯定しているように、「松崎氏は組合組織(支部)全体を見わたしながら、……指針をうちだした」のであり、労働運動論的にアプローチして考えるかぎり、松崎明の指針の解明は間違っていない、と私は思うのである。
 前原茂雄自身が次のように黒田の言葉を引用しているのである。
 「黒田は、「われわれとしては学生運動論の理論的解明にかなり努力してきたけども、労働運動論あるいは労働組合論……の追求が弱い」(『開拓』第四巻三二四頁)と、労働組合運動論についての追求の立ち遅れを指摘しているのである。」と。
 ここで、黒田は、「われわれとしては」というように、おのれをその一員とする組織として自己否定的に問題を提起しているのである。決して、労働戦線担当の常任メンバーは……の追求が弱い、というように常任メンバーを弾劾しているのではないのである。もしも前原茂雄が、自己にかすかに残っているにすぎないものであれ、主体的たらんとするのであるならば、黒田のこの提起をうけとめ、一九六五年~六六年当時の黒田の松崎への批判を、労働運動論的アプローチを貫徹するという立場にたって主体的に検討すべきではないだろうか。
 私は、生起した食い違いを、上記のようなかたちでほりさげてきたのであり、ほりさげるのである。
 前原茂雄は、黒田と松崎は同じなんだ、という神話をつくりあげるために腐心しているだけのことなのである。
 (2022年11月6日   松代秀樹)