河村たかし名古屋市長の「祖国のために命を捨てるのは高度な道徳的行為」発言を弾劾する

 河村たかし名古屋市長(彼は日本保守党の共同代表でもある)が4月22日の定例記者会見で、「祖国のために命を捨てるのは道徳的行為」と発言したことが、朝日新聞デジタルで報じられた。ウクライナ戦争とイスラエルによるガザ侵攻をひきあいにだしているので、河村の発言は、たんに国家につくすという意味ではなく、戦争において祖国のために命を捨てることが国民の行動規範であるという主張である。
 実際に公開されている動画で確認すると、名古屋弁と標準語のちがいはあるものの、朝日の記事では河村発言が正確に再現されていることがわかる。河村は言う、「祖国のために命を捨てるというのは、相当高度な道徳的行為であるというのは間違いない。」記者からその理由を問われると、国という存在が国民の生存を守ってくれるのだから「国というものに対して自分の命をささげる」のは「大変勇気のあること」だと河村は応じた。
 もちろん、生存権の保障の見返りとして国民は国家のために命を捨てるべきだなどという河村の主張は論外である。ブルジョアジー独裁国家において支配階級の利害を貫徹するために戦われる戦争に、プロレタリアート人民を動員し「国のために命を捨てろ」とその死を当然のものとするこの犯罪的発言を、われわれは怒りをこめて弾劾しなければならない。
 それにしても、保守を自称する新自由主義的ポピュリスト政治家どもによって垂れ流されるこの種の発言は河村に限らない。「あなたは祖国のために戦えますか」(櫻井よしこ、1月19日)、「国策に殉じられた方々の御霊に尊崇の念を持って、感謝の誠をささげさせていただきました」(高市早苗、4月23日)等々。
 かつて、田邉元はその講義録『歴史的現実』において、国家のために死ぬことで生きるのだと論じた。「歴史に於いて個人が國家を通して人類的な立場に永遠なるものを建設すべく身を捧げる事が生死を越える事である。」(昭和15年岩波書店、108頁)
 そのような思弁すらない、民族主義にもとづく無内容な戦争の扇動が横行している現状に、全世界のプロレタリアートは団結して立ち向かわねばならない。
 ところで「革マル派」中央官僚派は、ロッタ・コムニスタを非難する雑文のなかで「故郷と祖国の現在と将来を思って命を賭して戦っているウクライナの人民」(「解放2793号」)を賞賛した。これでは、河村の「祖国のために命を捨てる」と同列である。ブルジョア民族主義に転落した彼らには、今回の河村の暴言を弾劾することは望むべくもない。

(2024年4月25日 北条 倫)

「控えめな同盟国」からの脱却:岸田訪米と独占ブルジョアジーの新たなナショナリズム

 日本国首相・岸田文雄は4月8日から14日までアメリカを公式訪問し、アメリカ大統領バイデンとの会談において、「日米両国がかつてなく強固な友好・信頼関係に基づくグローバルなパートナーとなっていること」を確認した。日本国首相が国賓待遇でアメリカを訪問したのは、2015年の安倍晋三による訪問以来、9年ぶりのことである。このような「公式訪問」は、日米関係の転換点になってきたと言われているが、それは今回も例外ではない。すなわち、岸田訪米は、日本の独占ブルジョアジーが安倍政治からの明確な転換をアメリカ帝国主義に対して表明した出来事として特徴づけられうる。
 今回、アメリカ上下院における演説で、岸田は次のように述べた。


「ほぼ独力で国際秩序を維持してきた米国。孤独感や疲弊を感じている米国の国民に語りかけたい。一人で背負うことがいかなる重荷であるのか、私は理解している。」
「「自由と民主主義」という名の宇宙船で、日本は米国の仲間の船員であることを誇りに思う。共にデッキに立ち、任務に従事し、なすべきことをする準備はできている。」
「皆様、日本は既に、米国と肩を組んで共に立ち上がっています。米国は独りではありません。日本は米国と共にあります。日本は長い年月をかけて変わってきました。第二次世界大戦の荒廃から立ち直った控え目な同盟国から、外の世界に目を向け、強く、コミットした同盟国へと自らを変革してきました。」


 ここに表明されているのは、日本国家をアメリカと「肩を組んで共に」並べる一流の帝国主義国家へと高めたいという願望である。独占ブルジョアジーと政治エリートたちは、この数年間の「アベノミクス」をつうじて日本が急速に発展途上国へと転落しつつあることに相当の危機意識を燃やしながら、トランプ再選の可能性が高まっているアメリカと命運を共にして没落するつもりはないということを、この岸田演説において暗に意思表示したのだと言える。
 この数年間、安倍政権は、「異次元緩和」で日本円の価値を意図的に低落させることによって、日本産商品を安価で外国に販売することを企ててきた。輸出を拡大することができれば、日本国内の工業産業は活気を取り戻し、物価の上昇をもたらし、企業業績は改善して賃上げにつながるであろう——彼らはこのように「トリクル・ダウン」説を心から信仰してきた。とはいえ、貿易黒字をただ単に拡大するだけでは、1980年代のように貿易摩擦を引き起こすことになりかねない。実際にトランプは、トヨタをはじめ日本の自動車産業アメリカの工業を脅かしていると述べ、「ラスト・ベルト」の労働者階級に渦巻くルサンチマンを巧みに利用していた。これに対して安倍政権は、アメリカから最新兵器を調達する契約を次々と結ぶことで、トランプの許しを請うていたのだ。日本が法的にも装備上でも軍事大国化を進めたことは、「アメリカ・ファースト」のトランプ政権にとっても好都合だった。
 安倍政権のこのような外交政策に対しては、右であれ「左」であれ多くのナショナリストたちが、その<対米従属>ぶりを批判してきた。そしてこの間、「アベノミクス」それ自体の失敗もまた誰の目にも明らかとなった。まず、政府・日銀一体となった約10年にわたる円安誘導政策は、期待されたほど貿易収支の改善にはつながらないどころか、2%の物価上昇目標すらも達成できなかった。そもそも、日本企業は生産体制をアジア各国に分散させているのだから、たとえ円安で日本国内産製品の輸出が増えたとしても、それに伴う原材料・部品の輸入増加は円安のせいで生産コスト上昇をもたらすのである。このような根本的な矛盾のゆえに、「異次元緩和」をいくら継続しても、日本の諸資本全体が安価となって他国ブルジョアジーの草刈場になるだけである。ここに、アベノミクスからの転換を図ろうとする独占資本家たちの危機意識がある。そしてこの危機意識こそが、日本を一流の帝国主義国家へと押し上げようと欲する新しいナショナリズムとしてあらわれているのだ。
 日本ブルジョアジーは、いわゆる「白物家電」分野での国際競争ですでに敗北しており、またハイブリッド方式に固執していた自動車産業をはじめあらゆる分野で「脱炭素革命」の流れに遅れをとった。この「グリーン・ニューディール」——実のところ「グリーン・ウォッシュ」である——それ自体、欧・米による日本資本排除の意味をもっている。これに対して、起死回生を図る日本の独占資本家たちが今力を注いでいるのが、半導体分野である。AIの発達が「第四次産業革命」をもたらすと考えている彼らは、米中対立の中での「デカップリング」により今後の半導体需要がますます逼迫するという見通しのもと、「民主国家でつくる安心感という価値」を宣伝しながら、日本を西側帝国主義ブロック内の最先端の半導体生産拠点にすることを目論んでいるのである。現在、北海道の千歳市では、2ナノという極小サイズの半導体を量産させるために「ラピダス」の工場が急ピッチで建設されており、これに対して政府はすでに1兆円以上を投資している。本当に2ナノの半導体など作れるのか、製造できた頃には他国でより安価な極小半導体が生産されているのではないか——そうした不安の声は、独占資本家の耳にはほとんど入ってこない。そのようなことよりも、1980年代末に日米貿易摩擦の結果として半導体生産のシェアを奪われたという積年の恨み、これをついに晴らそうと意気揚々たる思いで突き進んでいるのが、今日の日本ブルジョアジーではないか。
 現代日本ナショナリズムが、そうした独占資本家どものイデオロギーに他ならないことを認識するのが肝要である。すなわち彼らは、小手先の金融緩和策ではなく「実体経済」の底上げを図り、安倍政権時代のような「対米従属」路線からは脱却して日本独自の経済的・軍事的地位を確立することを望んでいる。ついでに言えば、日本企業の国際競争力強化を阻害する要因となってきた、いわゆる「日本的経営」に特有のさまざまな慣習を一掃することもまた、とりわけIT系などのブルジョアジーが考えていることだ。諸経営体の管理職・経営陣が中高年男性の「ホモソーシャル」な体育会系集団によって独占され、女性や外国籍の人が少ないことだとかを問題視する言説はもはや珍しくない。これに関連して日本経団連が、安倍派の保守政治家たちを嘲笑するかのように選択的夫婦別姓制度導入を支持したことは、まさしく象徴的な事態だと言えよう。
 そうした動向をおさえる限り、岸田政権の思想と行動を単純に「反動」だとか「アメリカ言いなり」だとかと特徴づけるのは、根本的にボケている。岸田は、われわれ労働者階級から搾り取れる限りの税金をとって、43兆円にも上る軍事費を計上している。そしてまた陸・海・空の自衛隊の「統合運用」をつうじてアメリカ太平洋軍との連携を強化しようとしているのである。しかもそれと同時に、例えば英国・イタリアとの共同での戦闘機開発やAUKUSとの連携など、「対米従属」に真っ向から反するような動きを見せているのが今日の日本ブルジョアジーなのである。今この時に、日本国家がアメリカ帝国主義によって「安保の鎖」で締め上げられていることを問題視するような「左翼」——日共そして「革マル派」——は、おしなべて独占ブルジョアジーナショナリズムに絡めとられてしまったと言うほかはない。
 プロレタリア国際主義に立脚するわれわれは、安保によって日本国家がアメリカに従属させられていることを弾劾しているのではない。そうではなく、日本のブルジョアジー日米安保条約に基づいて、西側「自由民主主義陣営」の主役として登場することそのものを許さない闘いを推進しているのだ。対米自立志向を強める岸田政権の諸施策は、あらゆる点で、日本とアジアのプロレタリアート総体に対する階級的攻撃に他ならない。すべての諸君!「左」のナショナリズムを打破して、革命的インターナショナルの建設を目指して共に闘おう。
        (2024年4月22日   春木良)

プロレタリア的聖人君子づくり主義の克服

 私は、反スタ運動を担う者や党員になる者は、一切のブルジョア的汚物を除去し、なんの欠陥もない人間にならなければならないのだ、というイメージをかつてから抱いていた。それは、黒田寛一の書物や「解放」を読んだり、「革マル派」の者から話を聞いたりしたことから抱いたのだと思う。私も、組織成員になるには、自分自身の性格などの内面、趣味、興味、感性などを、ブルジョア社会に生まれ生きてきて身についたもの=汚物として綺麗に除去しなければ、革命的共産主義者にはなれないし、「革マル派」の成員にはなれない・なってはいけない、と思っていた。完璧な人間、完璧なプロレタリアにならなければいけない、というイメージだ。こういうことを人間変革だと思っていた。こういう考えを持っていた私は、新たな組織成員として職場の組合員をオルグするというときにも、オルグ対象をそのような人間に変革することをしなければならないと考えていた。これはまさに、二〇二三年前半における私の若いメンバーとの向かい方に全面的に出ていたと思う。
 これらのことについて、先輩同志と私の間で討論したことを再生産しながら書いていく。
 先輩同志は「左翼フラクションを創造するために」という文章で、「自分の職場に党細胞を創造するためには、自分自身をあらゆる方面において全人間的にたかめなければならない。共産主義的人間としてたかめなければならない。これは、なお残存している小ブルジョア的なものをなくすとか、何か弱さや欠陥を克服するとか、また変な癖をかえるというようなこととかとは異なる、という気が私にはするのである。弱さや欠陥や癖はあってもいい、問題はそれを超えるかたちで自分のあらゆる能力をたかめることである、と私は思うのである。自分のいろいろな能力に凸凹があっていいわけである。凸凹がありつつ、そのすべての能力を格段にたかめることが必要なのである。職場に党細胞を創造するための端緒的な組織形態をなすグループを創造するときには、組織的な論議をとおして自己を変革した自分が一人でやるのであり、誰も直接に手伝うことはできない。そうなしうるだけの能力を自分自身が獲得しなければならない」、と書いているのだが、私はこれを読んで衝撃を受けた。共産主義的人間とはどういう人間であるべきか、という私のイメージとは違うことを先輩同志は提起していたからだ。先輩同志の言っているような人間では革命的共産主義者にはなれないし、批判される対象ではないか、と思っていた。
 この先輩同志の文章への感想で私は、「先輩同志の考えを読んで私は「そうなのか、そういう感じでいいのか」と思いました。このような受けとめで良いのかはわからないけれども。若いメンバーのオルグでも「彼にはちゃんと学習してもらってから」とか、ビラとかでも「ちゃんと作ってから組合役員らに見せよう」とか、グループのメンバーとすべき人たちを会議に呼ぶのも「ちゃんと条件が整って提起する話もちゃんと揃えてから」と考える私からすると、共産主義的人間に自己を高めるにあたっても、弱さ、欠陥、癖なども一掃しておかなければならないというように構えていたと思います。なにか完全な状態にしてからでないと次のことや先のことをすべきではないように感覚していたのだと思います」と書いた。さらに「先輩同志が書いたこのあたりのことは、黒田寛一も本や講演で語っているのでしょうか?」と私は書いたのだが、私は先輩同志の考えと黒田寛一の考え(「革マル派」の考え)に違いを感じた。
 これにたいし先輩同志は「このあたりの私の考えは、黒田寛一と相当違うと思います。違うということは、わが探究派でいろいろ論議し、『実践と場所』をも検討して、自覚してきたことです。黒田寛一は、欠陥や癖、これを規定している人間的資質をかえろ、と言います。そんなどころの話じゃない、職場で一人でわが組織をつくろうとすれば、自分に欠陥や癖や凸凹があっても、自分のあらゆる能力を飛躍的にたかめなければ始まらないじゃないか、というのが私の考えです。こう考えて、相次いで本を書き、職場で管理者とたたかってきたのです。向上心あるのみです。この向上心が、自己変革=自己否定の立場です。現在の自己を超えるのですから。死ぬまで向上心です」、と返答した。「欠陥や癖、これを規定している人間的資質をかえろ」、私のイメージはまさにこれだった。こういうことを、共産主義的人間・「革マル派」に結集する者に求められているのだ、と思っていた。かつて、こういう考えにたいして私は、なかなか難しいことだと感じながらも、それはおかしい考えだと感覚することもなく批判することもなく、この基準から外れているのであろう行動や考えをまだこの己が保持していることへの罪悪感や、仲間を裏切っていることになっているのではないかという罪の意識のような思いを抱いていたこともあった。共産主義的人間になるということは、世俗的なものを一切絶ち、どこかの僧のように修行するのと同じようなイメージを私は抱いていた。先輩同志は「君の自己変革の考え方・組織建設の考え方は、資質変革主義的な組織建設の仕方によってつくられたものと言えます。そして、それは、黒田寛一の組織建設の考え方にもとづいてつくられたものと言えます。五無人間をなおせ、というものがそれです。そして、これは『実践と場所』につらぬかれているものです。日本人としての礼儀や感性を重んじるものです。こういうものをその根底から克服する必要がある、と私は考えます。そういう大きな問題です」、と指摘した。私は、先輩同志が明らかにしている「日本人としての礼儀や感性を重んじるもの」という指摘を読んで、これは根深い思想問題だったのか、そういうことだったのか、革命的労働者党を建設するためにわれわれはこれを克服しなければならない、と感じた。
 人間的資質を変えることが自己変革だと思っていた私からすると、先輩同志が言う「この向上心が、自己変革=自己否定の立場です」という考えは衝撃だった。先輩同志は「今のおのれを超えようとしているでしょ、こうこうこういう人間に自分自身を飛躍させようと決意してるでしょ、それが自己否定の立場と言えると思うけど」と、どこかの論議で話していた。私は、この先輩同志の考えを聞いて、なにかつっかえていたものを取り払って前進できるような感覚を抱いた。先輩同志は、「職場で一人でわが組織をつくろうとすれば、自分に欠陥や癖や凸凹があっても、自分のあらゆる能力を飛躍的にたかめなければ始まらないじゃないか」と書いているが、私も「まさにその通り、なにも始まらない」と強く思った。黒田寛一の「人間的資質を変えろ」という考えは、修行僧や信者に求めるようなことであり、つまり、現実を変革するのだ、われわれ労働者の社会を創るのだ、まわりの労働者をどしどしオルグっていくのだ、という実践的な感じがしない。人間的資質を変えろ、ということを追求しても、具体的に自分が職場でどうやって運動をつくるのか・組織をつくるのか、職場のまわりの労働者はどんなことに苦しみ・しんどくなっていて、その労働者はどんなことを考え・どんなことを内面に抱いているのか、というほうへ自分の分析や実践が向くことはないと感じる。そういう意味で私は黒田寛一の求めている「人間的資質をかえろ」ではなにも「始まらない」と思った。
 先輩同志は、自身の本でも書いているように、実際に自分が賃金労働者として職場でまわりの労働者と論議し、経営側とたたかってきた。このことをふりかえった先輩同志は「向上心あるのみです」と述べている。こういう自己変革=自己否定の立場に立って先輩同志が実践してきた職場でのたたかいに触れ、私は自分の職場においてもこういう立場やかまえで実践していけばいいのだ、たたかいをつくっていけばよいのだ、とイメージが湧き、私自身、向上心を持って、つまり自己変革=自己否定の立場にたってたたかっていけるぞ、と感じ、そうやってたたかっていこう、と決意した。こういうことで私は、前進できるような感覚を抱いたのだ。
 私は「「資質変革主義的」と先輩同志は表現していますが、こういう考え・姿勢をおのれ自身だけではなく、オルグ対象、もう少し絞って言うと、自分のグループの成員にすべき相手にたいしても求めてしまうことになる、と私は思いました。いっしょに会議をやっているメンバーとして若いメンバーにかかわるときも、私は「資質変革主義的」に彼にかかわっていたといま思います。ゆえに、彼と学習をしないといけない、ということが前面に出ていたと思います」と書いた。まさに私は、オルグ対象と何らかの文献を読み合わせて学習しちゃんと思想的なことをつかませ、また、ブルジョア的汚物を除去させなければ、というかかわり方をしていた。共産主義的な思想をつかみ、また人間的資質を変えさせなければ、われわれの組織の一員にはなれないし、そうすることが彼を飛躍させることだと思っていた。だから私はこうふりかえって書いた。「さらに言うと、若いメンバーと論議して反応がよかったことを報告した会議において、先輩同志が、若いメンバーを構成員にして左翼フラクションを創造しよう、と提起した時、私はびっくりしました。つまり、「資質の変革」をした人、「資質の変革」をしつつある人などを左翼フラクションのメンバーとするのだ、と私はイメージしていたので、まだ「資質の変革」をやっていない人をフラクションメンバーにするという提起を聞いてびっくりしたのです。私からすると思いもしない提起でした」、と。人間的資質を変えさせた人間を集めて、職場の左翼フラクションを創造するのだ、というのではいつまでたっても職場でわれわれの組織を創造することはできないし、現に「革マル派」はこういうことで職場に組織や運動をつくれずに破綻していったのだ、と思う。
 私は、このプロレタリア的聖人君子づくりとでもいえる傾向を克服することを決意して、職場での闘いをくりひろげ、左翼フラクションを創造してきたのである。
          (2024年4月16日   真弓海斗)

イタリアの同志たちからの通信・その2 ——第二回ミラノ国際会議について(連載最終回)

2、階級闘争の主体的推進をめぐって

 そして今回のミラノ国際会議にあたり、われわれは各国の同志たちに向けて<階級闘争の主体的推進>のために共に闘うことを呼びかけた。このことをあえて強調したのは、各国の団体がそれぞれ寄せた論文が、ロシア・ウクライナ戦争やイスラエルによるパレスチナ人民虐殺をめぐる情勢分析に焦点を絞っており、革命的左翼がいかに闘うのかの指針をほとんど論じていなかったからである。たしかに、「民族自決権」のスローガンを真正面から批判してプロレタリア国際主義に立脚した反戦闘争を呼びかけた点では、ロッタ・コムニスタの論文は卓越していた。しかし彼ら同志たちはレーニンの『何をなすべきか?』の現在的意義を強調する一方で、自らが繰り広げる革命的実践そのものの解明にまでは踏み込んでいない。
 「政・労・使」一体による「賃上げと物価上昇の好循環」なるものの演出を痛苦にも許してしまっている日本の現状に比すれば、ヨーロッパ労働運動はなおプロレタリアートの階級的力を相対的に維持しており、その中で各国の革命的左翼は労働組合の内部に一定の組織的基盤を確保していると言える。ミラノ国際会議に参加したそれぞれの左翼組織は、論文の中では何も明示してはいなくとも、多くの職場の中にそれぞれの党員を有し、彼ら・彼女らは階級闘争を前進させるために日々実践しているはずなのである。そうした実践から教訓を引き出して理論化し、それをめぐって討論することをわれわれは呼びかけた。帝国主義戦争の分析に関する細かな見解の相違をいったんは留保して、各国の階級闘争を前進させるために共に闘う者としての同一性を創り出そう、ということである。
 この呼びかけに対して、ロッタ・コムニスタの同志からは次のような応答が寄せられた。

 

「職場において階級闘争をいかに創造するのかという問題について、私は今のところいくつかの点を手短に書くにとどめる。階級闘争とは、資本制における、われわれが創造することのできない「自然な」現象である。レーニンは、階級闘争がもつ周期的な本性を科学的に研究している(1905年、1907年、1913年などのストライキ統計)。このように周期的であることから、ヨーロッパではここ何十年もの間、主要な運動は起こっていない(存在しない大衆を創作するのは無駄である)。レーニン主義者は、党(その幹部、影響力)を強化することを目指して、そして闘争が行きつ戻りつも党はとどまるべきことを自覚しつつ、存在している経済闘争の最前列に加わる。諸々の闘争における敗北は、その経験が教訓となるがゆえに党を強化するのである。プロフェッショナルな革命家が工場内にいるべきか、それとも工場外にいるべきかという問題は、組織的な力量にかかっているのであり、いずれも実行可能な選択肢である。個々の労働者が共産主義者となりうるには千差万別の理由があるのだが、現在の経済闘争においてはブルジョアジーの攻撃から身を守るに精一杯で高い要求を掲げるのが難しく、あるいはしばしば労働者階級の家庭等々が複数の収入源を有し、財産を所有していることさえある。そのように現代の闘争が緩慢なサイクルにある中では、誰かある人を共産主義者へと変革するには国際政治(反戦再軍備反対など)を主題とする方が、賃金問題を主題とするよりも十倍は早い。労働者階級の外部からもたらされるべき意識とは、国際主義的な意識である。」

 

 このようにイタリアの同志たちは、現代帝国主義国家においては職場を起点とした階級闘争が情勢上困難であることを指摘して、共産主義者を獲得するための方法が“いかに効率的であるべきか”の問いを立てている。なるほど、同志たちが述べているような困難はわれわれ日本の革命的左翼もまた今なお直面していることである。資本家階級が労働の外延量と内包量とを不断に延長し、また従来の再分配機能を破壊しつづけている中で、われわれ自身を含めて今日の労働者たちは、自らの労働力を可能な限り高価で売却するよう「スキル・アップ」なるものへとせきたてられている。プロレタリアたちは同僚を敵対的な競争相手とみなすのでなければ、自らが低賃金・不安定雇用に甘んじることを覚悟する以外にない。いわゆる「エッセンシャル・ワーク」に関わる労働現場では、企業体の買収や吸収合併が繰り返されたり、そもそも労働条件が劣悪であるがゆえに労働者自身が転職せざるをえないなど、同僚間の協力関係がそもそも確立しないという事情もある。また他方、「高度スキル」を身につけて社会的には「成功者」となった労働者たちは、自らがいつかは没落することのへの不安を抱えながら長時間労働を日々こなしている中で、精神疾患に追い込まれることも何ら珍しくない。要するに、かつて労働運動の戦闘的高揚を可能にしていた諸条件が今や根本的に破壊されてしまったという事実を、イタリアの同志たちは強調しているのだ。われわれもまたこの事実を、労働運動の産業報国会化をくい止められなかったという痛みとともに受け止めている。
 だがそうであればなおさら、労働現場のこの過酷な現実を、われわれ以外の一体誰が変革しようというのか。朝から晩まで肉体労働に従事して、腰痛を抱えながらもじっと耐えている人、生活保護水準より低い低賃金であるがゆえにダブルワークでどうにか生計をたてている人、「業務請負」の名の下に労働者としての地位さえも認められないまま、自家用車で町中をずっとかけずり回っている人。あるいは上司には怒鳴られ、同僚たちからは無視され心をすり減らして、自死にまで追い込まれている人。そうした仲間たちを目の前にしたとき、産業下士官どもに向かって「何をしているんだ!やめろ!」と抗議の声をあげられるだけの根性・度胸・思想を有しているのは、わが革命的労働者ではないか。たしかに、階級闘争は高揚したり沈滞したりを繰り返すのかもしれない。しかし、どれほど困難であろうとも、労働現場におけるブルジョアジーからの攻撃に対して立ち向かい、労働者階級の階級的な団結を創造すること——これは、ブルジョアジーに対する力関係を無視して見かけ上の「戦闘的労働運動」を演出することとは無縁である——は、われわれマルクス主義者の倫理的義務であるとさえ言ってよい。
 そもそも、階級闘争とは「われわれが創造することのできない「自然な」現象」なのだろうか?かつてヴェトナム反戦をも掲げて幾度も打ち抜かれた全軍労ストライキ(1960年代末〜70年代前半)、あるいは日帝支配階級を震撼させた公労協スト権奪還ストライキ(1975年)を思い返しても、それが資本制の「自然な」現象だ、などと言うことは決してできない。どちらも、労働組合主義的意識にとどまり自然発生性に拝跪していたならば成り立たなかった闘争であり、それぞれの職場においては常に、革命的前衛党が左翼フラクションを組織化し労働組合組織下部から闘争を地道に積みあげ押し上げるなどの諸活動を繰り広げていたのである。このことは、「存在している経済闘争の最前列に加わ」っているイタリアの同志たちもよく分かっているはずだ。
 無論われわれは、レーニンの『何をなすべきか?』の意義を否定するつもりはなく、また各国の革命的左翼に向かって、わが組織現実論を体得せよ、などと上から目線で言うつもりも毛頭ない。諸君は、労働者階級の外部から革命的意識を持ち込むというレーニン的戦術の意義を強調しながらも、実際には多くの職場・労働組合の中で党員を有し、その党員たちは共産主義者として階級闘争の先頭に立って闘っているのだ。このことは、ジェノヴァでの闘いについてロッタ・コムニスタの同志が示唆してくれた通りであって、われわれが知り議論したいのは、そういった闘いの現実と教訓なのである。もし諸君が自覚的に、階級闘争共産主義者自らの力で推進していく組織戦術を貫徹するならば、日本に比してなお労働運動の力が維持されているヨーロッパにおいては、もっと大胆に、しかも“効率的に”、前衛党を強化拡大することができるのではないだろうか。わが探究派がイタリアの友人たちに返答として伝えたいのは、まさにこのことである。
 ロッタ・コムニスタをはじめ、革命的マルクス主義に立脚して闘う全世界の同志諸君!プロレタリア国際主義の大道を共に歩み、<革命の第二世紀>を切り拓こう!

(2024年4月5日  春木 良)

イタリアの同志たちからの通信  第二回ミラノ国際会議について(連載その4)

 本年2月17日・18日の二日間にわたってイタリア・ミラノで開催された「国際主義者会議」に関して、これまで本ブログでは、わが探究派の寄稿した論文、集会参加者へのメッセージ、そして会場で提案されたアピール文を掲載してきた。今回は連載の締めくくりとして、実行委員会の構成団体である「ロッタ・コムニスタ」の同志から寄せられた意見を要約する形で紹介し、われわれの態度を明らかにしておきたいと思う。

1、民族問題をめぐって

 このブログの読者諸氏はすでにご承知のことと思うが、「革マル派」中央官僚は昨年末、「笹山登美子」に「ロッタ・コムニスタはプーチン擁護をやめよ!」と題する駄文を書かせ、『解放』(2796号)に載せた(『新世紀』329号に再録)。これは、ウクライナ防衛戦争を支持せず「革マル派」を批判する者はすべてプーチン支持者であると決めつけるたぐいの、まことに低レベルな“反論”であった。この中で特徴的だったのは、この御用学者がウクライナの「民族」を守るべきものとして描き出すために、あろうことかマルクスエンゲルスの『共産党宣言』を使ったことだ。まともに文章を読める人であれば、「労働者は祖国をもたない」と明確に述べた『宣言』が、まさかゼレンスキーの戦争を正当化するのに役立つなどとは決して思わないだろう。しかし笹山は「民族は非存在ではない」と言って、マルクスエンゲルスも「民族自決」の意義を認めていたのだ、などとほざいた。そこで笹山が『宣言』(国民文庫版)から引用したのが、次の一文である。

ブルジョアジーに対するプロレタリアートの闘争は、その内容からではないが、その形式上、最初は民族的である。いずれの国プロレタリアートも、当然まず自国のブルジョアジーをかたづけなければならない」(「革マル派」が依拠している国民文庫版より引用)

 プロレタリアートの闘争が「形式上」はナショナルだというのは、労働者階級が「当然まず自国のブルジョアジーをかたづけなければならない」からであり、それ以上の理由はない。この文章にどれほどしがみついても、「当然まず」ゼレンスキー政権にもっと武器を贈るべきだ、などという「革マル派」の要求は論理的にみちびき出せない。しかし笹山はどうしても<労働者階級もまた「民族」の一員なのだからウクライナ国家をロシアから守れ>と言いたいので、彼女は上の文章を、「民主主義的任務の遂行からプロレタリア的任務への遂行へ」という二段階革命論を明らかにしたものだとねじ曲げたのである。ゼレンスキー政権に奉仕することは、ウクライナの労働者階級の「民主主義的任務」だ——結局これが、「革マル派」の主張なのである。
 これに対して、笹山に名指しされたロッタ・コムニスタの同志は、「Kakumaru」を批判して次のような趣旨の手紙をわれわれに寄せてくれた。

革マル派は『共産党宣言』を引用してプロレタリアートの闘争が「民族的」であると言っているが、マルクスエンゲルスはそのわずか数行後にこう書いているのを見落としてはならない。すなわち、「共産主義者は、一方では、プロレタリアのさまざまな一国的闘争において、プロレタリアート全体の国の別にかかわらない共通の利益を強調し、主張する。他方では、プロレタリアートブルジョアジーとの闘争が経過するさまざまな発展段階において、つねに運動全体の利害を代表する」。なお下線は、エンゲルスが1894年に「マルクスと新ライン新聞」という文章の中で『宣言』の意義を強調するときに自分で引いた部分である。
共産主義者は常に、全世界のプロレタリアートの運動を自らの立脚点としており、それぞれの民族問題は、プロレタリアートの国際的な革命戦略に従属している。「革マル派」は『共産党宣言』の一文をしばしば引用するが、(1)「ナショナルな」という言葉の一時的で暫定的な性格をはっきりさせる日本語訳をつくっていないし、(2)問題の核心であるところの上に引いた一文を隠しているのだ。
レーニンが言うように、『宣言』が書かれた1848年当時でさえ、マルクスエンゲルスはあらゆる「民族自決」に賛成していたのではない。むしろこの二人は、ブルジョア民主主義的な「民族自決」要求を労働者階級の一般的利害に従属させていたのである。エンゲルスは、民族の自決を無差別に支持したバクーニンと論争している。歴史的にも、民族問題が解決されうるかどうかは1850年頃までに、プロレタリア革命の成否に左右されるようになる。1848年には独立のために戦うと言っていたブルジョアジーは、結局その代わりにプロレタリアートと戦争したのだ。

 われわれも、この批判に同意する。
 付け加えるならば、われわれは「民族自決」の要求を、それがプロレタリアートの闘争にとってもはや時代遅れのものになったという理由で——つまり客観的諸条件の歴史的変化を理由にして——しりぞけるのではない。プロレタリアートの利害をブルジョア民族主義に従属させてしまっては、プロレタリアートの階級的組織化を推進することがそもそも不可能なのだ。「人民の抱く素朴なナショナールな感情は〔…〕直ちに唾棄できるものではない」という御用学者・笹山の言辞は、「革マル派」がもはやプロレタリア階級闘争を主体的に推進する意志をとうの昔に喪失してしまったことの証左にほかならない。否むしろ、マルクス主義の「土着化」なるテーゼを掲げて右翼カルト化している、というほうが「革マル派」の実情に即しているのかもしれない。

2、階級闘争の主体的推進をめぐって(次回につづく)

(2024年3月24日 春木良)

2024年・第二回ミラノ国際主義者会議から全世界の革命的左翼に向けたアピール文 (連載その3)

 以下に掲載するのは、2024年2月17日・18日両日にわたってイタリア・ミラノで開催された「国際主義者会議」の締めくくりに実行委員会が提起したアピール文である。

 わが探究派もまたこれに賛同し、署名した。

文末にあるように、次回会合の開催は1年後に予定されている。(春木良)


 IMFの算出によれば、1998年時点における世界全体の生産量では、先進国が57%、新興国が43%を占めていた。だが2022年にはその比率が逆転し、新興国が58%、先進国が42%になったという。これほど重要で、かつこれほど短期間で経済大国が交代したのは、帝国主義の歴史上、類例がない。台頭している中国とインドがこの地殻変動の発生源であり、この第一級の変化は国家システム全体に政治的な波紋を投げかけている。
 国際関係における大混乱の時代が幕を開けた。新旧の諸勢力が、競争相手に対する優位を獲得するべく熾烈な争いを繰り広げている。猛烈なスピードで様々な協定が結ばれ、また衝突が繰り返され、次々と経済的・軍事的同盟が結成されている。これこそまさしく、戦争への傾向が急速に進行しつつあるところの、多極化世界である。この対立関係を、民主的レジームと専制的レジームとの対立であると描き出しているのが西側の帝国主義諸勢力であり、これに対して新興諸勢力は、西側の秩序が不公正であるとみなして、それに疑問を投じるよう他国にも迫っている。再軍備プログラムや軍事計画が、核兵器を使用する可能性の検討をも含めて——この兵器を現在所有している勢力だけが企てているのではない——至るところで進められている。核爆弾に関して公然たる議論が行われているのは、ベルリン、ソウル、東京、キャンベラ、リヤド、テヘランアンカラ、ブラジリアにおいてである。武力紛争はより一層その頻度を増し、激烈になっている——ウクライナコーカサス、アフリカ、そして中東から、台湾や東・南シナ海をめぐる一触即発の緊張に至るまで。没落しつつある旧来の帝国主義諸国家と、新たに台頭しつつある帝国主義諸国家、そして諸々の地域大国が対立し合う、そのような新時代が幕を開けつつある。
 20世紀の大虐殺を導いた帝国主義戦争という構想がこの巨大な構想で再び現出しつつあるのに直面して、われわれは、ブルジョア支配と資本による戦争の一切に反対する労働運動において、国際主義者の組織間での対話を発展し強化することが不可欠であると考える。
 国際主義者はその諸活動において、移民に関するEUおよび他の旧勢力の帝国主義的政策に反対する必要もある。すなわち、移民のプッシュバック、隔離、生命を脅かす蛮行からなる帝国主義的な同化政策がそれだ。われわれは、すべての国の労働者の団結を守らなければならない。新たに到着する人々は階級闘争を強化するのであり、われわれは一切の差別なしの移民受け入れを求める。
 この二日間にわたり、「列強間の抗争の重要なポイント:ウクライナから台湾へ、アフリカから大中東へ:階級的対応のために」を主題とする国際主義者の会議が開催された。世界分割をめぐる新旧の強奪者間での闘争の展開とその反響、帝国主義諸国と全世界における階級闘争の役割、われわれ階級的諸勢力の現状と潜在的な展望、帝国主義の完全な円熟期における民族問題——こうした問題についての2023年7月に開始された率直で建設的な討論を、われわれは今回継続してきた。
 われわれは、帝国主義が世界中の労働者階級を分裂させるために用いるあらゆる民族主義的な態度やイデオロギーに反対して、プロレタリアが声をあげる必要があると確信している。
 プロレタリアートは、その数において巨大な力を持っており、数十億の賃金労働者が「最強の権力」として行動するならば、すべてのブルジョアジーを一掃することができるのだ。しかしながら、この現代の野蛮に対するわが階級の対応は、出来合いの仕方であってはならない——国際情勢については綿密な分析が必要である。
 この目的のために、われわれはすべての組織に、相互対話を拡大し促進するよう呼びかける。これが実現可能な課題であることは、プロレタリア国際主義の「家族」、すなわちトロツキスト共産主義左派、アナキストリバタリアン共産主義者——これらに属する多くの組織が踏み出した最初の一歩によって証明された。
 われわれは、あらゆる範囲で議論されたそれぞれ異なるスタンスを、多くの国々の同志にとってアクセス可能なものにするのを目標としていることを、再確認する。われわれの内で誰一人として、視点・評価・分析に関して昨今生じているところの相違を隠蔽することには何の関心ももたない。
 会議のために寄せられた論文や報告は、『インターナショナル・コレスポンデンス・ブレティン』第2号に収録され、第1号と同じように、可能な限り最大の発行部数が確保される予定である。
 国家そしてブルジョア的支配に反対し、すべての国の労働者の団結を基礎とした政治行動をとるあらゆる組織に対し、われわれは対話の呼びかけを再開する。
 この2日間の会議に基づいて、われわれは、この対話を継続し更新し発展させるために、2025年前半の間に第3回国際会議を開催することを提案する。実行委員会は、今回の会議を踏まえて討議テーマを提案する予定である。
 労働運動における国際主義の伝統を引きつぐすべての組織に、改めて招待を行う。

(2024年2月18日 ミラノ国際主義者会議参加団体一同)

プロレタリアートの階級的力を創造し強化するために、全世界の革命的左翼は自らの組織実践を教訓化し普遍化していこう! ——第二回ミラノ国際会議について(連載その2)

 以下に掲載するのは、イタリア・ミラノで開催された第二回「国際主義者会議」出席者に向けたわれわれ革共同・探究派のメッセージを邦訳したものである。

 今回は現地に赴くことができなかったため、私が以下の文章を英語で読み上げてその動画を実行委員会に送付し、2月17日当日に会場で放映してもらう形をとった。

(国際部・春木良)


同志の皆さん!

 ウクライナパレスチナ帝国主義戦争が継続している中で、国際主義者が一同に会し、プロレタリアートの革命的団結の方向性について討論する機会が再び設けられたのは、きわめて意義のあることです。この会議を設定してくれたイタリアの同志たちに心からの感謝を表明するとともに、今回ミラノに来られなかったことを私はとても残念に思います。左翼諸組織間の不和は未だ深刻であり、また各国それぞれの組織内部では、意見対立がそのまま分裂を引き起こすという悪しき傾向が未だ克服されていません。前回の会議において、私たちはたしかに、統一見解を決議することも具体的な闘争の方針を確定することもしませんでした。しかしこのことは、ミラノでのこの会議が単なるサロンの場であることを何ら意味するものではありません。左翼の分裂を克服して、異なる立場の諸団体が意見交換する機会を確保することだけでも大変な労力がいることです。フランスNPAの諸君が述べていますように、「ミラノ国際会議には限界があり、それは誰の目にも明らかである。しかし、その存在そのものが、革命的組織間の交流を可能にする重要な一歩を示している」。これからも、<批判の自由・行動の統一>というボリシェヴィキ的原則に立脚して、革命的インターナショナルの建設のために討論を進めましょう!

 さて、皆さんの提出した論文に目を通しての感想をまずは述べておきたいと思います。イスラエルによるパレスチナ人民大虐殺、そしてウクライナにおける東と西の帝国主義ブロック間の戦争に対して、全ての同志が反対しています。帝国主義戦争のグローバルな拡大に断固反対すること、これが、革命的左翼としての私たちに共通の土台です。その上で、私たちの間には見解の相違点があります。

 最も焦点になっているのは、ロシアの侵略で殺されているウクライナ人民に関して、そしてシオニスト国家によって今も虐殺されているパレスチナ人民に関して、私たちが「民族自決権」支持のスローガンを打ち出すべきなのか否かという問題です。この点に関して私たち探究派は、昨年夏の会合において、国際主義者がプルジョア民族主義の要求を代弁するべきではないことを主張しました。私たちの見解は、例えばロッタ・コムニスタの同志たちの見解と近しいのですが、しかし同じではありません。ロッタ・コムニスタは、レーニンの時代の「共産主義者は、共産主義革命の時期を早めることができる場合にのみ、ブルジョア民主主義革命を支持した」と指摘して、「民族自決権」のスローガンの有効性に歴史的な限定をつけています。たしかに、植民地解放を目指した20世紀前半の各地における闘争は、帝国主義的世界支配を打ち破るための重要な軸をなしてきたのですが、今日なお「民族自決権」を擁護することは、革命的左翼が自らをナショナリズムの呪縛にしばりつけることになり、そればかりか「ウクライナ国家の主権」あるいは「パレスチナ独立国家樹立」を主張して戦争を正当化する東あるいは西の帝国主義ブロックを利することになります。この点で、ロッタ・コムニスタの同志たちの主張は正しいと思います。

 しかし私たち探究派があえてこれに付け加えておきたいのは、革命的左翼は「国民国家」そのものを否定しなければならない、ということです。マルクスエンゲルスは『共産党宣言』において、「プロレタリア革命は内容からすれば国際的だが、その形式からすれば一国的nationalである」と書きました。このことの意味は、プロレタリアートはまず民主的なブルジョア国家の建設に参画せよ、ということでは決してないのです。たしかに当初のレーニンは、帝政ロシアを打倒する戦略として、ブルジョア民主主義革命および「民族自決」の実現の後に社会主義革命の達成という二段階を構想しました。しかし彼がこの二段階戦略を、いわゆる「四月テーゼ」において実践的にのりこえたのだということは、皆さんご承知の通りです。「民族」それ自体が、ブルジョアジープロレタリアートを国家の支配下に統合するための虚構的な概念なのですから、「民族自決」の延長線上でプロレタリア革命の展望がひらけてくるかのように考えるのは間違いです。西側帝国主義陣営に属する北米・EU・日本その他では、すでにブルジョア・デモクラシーが制度化されています。そうした今日、私たちが掲げるべきスローガンは、プロレタリア革命への呼びかけ以外にはありえないです!パレスチナ問題に関しても、私たちは「パレスチナ独立国家樹立」ではなくして「ユダヤ、アラブの民族的・宗派的対立を克服した中東全域のプロレタリア的解放」でなくてはなりません。

 さらに加えて私が指摘しておきたいのは、「民族自決権擁護」を主張する諸君は実のところ、プロレタリアートへの不信を抱いているのではないか、ということです。すなわち、プロレタリアートがなお自らを革命的階級として組織しえていないという現状、あるいは同じことですが、革命的左翼が前衛党としてプロレタリアートを革命的階級として組織しえていないという現状、この現実を悲観している人々こそが、現にあるところのウクライナパレスチナの「民族」的な闘争のエネルギーに追従したがっているのではありませんか。こうした傾向を最も顕著に見てとることができるのは、ウクライナの「社会運動」(Соціальний рух)などの「自発的な」「レジスタンス」への連帯・民生支援を呼びかける、西側のグループにおいてです。そうした人々が、ウクライナナショナリズムを擁護することによって労働者階級をグルーピングしているのと同時に、エコロジーフェミニズムを党の戦略的スローガンにまで高めているのは決して偶然ではありません。そうした諸組織は、要するに、プロレタリアートの階級的力への不信を暗に抱いているのだと私は思います。しかし不信の目を向けるべきはプロレタリアートの側に対してではなく、プロレタリアートを組織化できていない自分たちの側に対して、ではないでしょうか。

 かつて社会民主主義者やスターリニストが組織していた労働運動は今日、独占ブルジョアジーによって壊滅させられました。この現実を大胆にひっくり返していくために、われわれ革命的左翼がそれぞれの労働現場で如何にして階級闘争をゼロから創造していくのかが、まさしく問われているのです。たしかに、ブルジョアジーが搾取を強化している中で、アメリカや英国やヨーロッパ、そして日本でも、労働者たちがストライキ闘争を繰り広げて果敢に抵抗を試みてはいます。だがこれらの英雄的な戦いはなお散発的であり、革命的左翼が組織したものだとは到底言えません。そうした戦闘的な労働運動に対してその外部から革命的な闘争指針を注入するというのが従来のトロツキズムの伝統でしたが、それでは明らかに不十分なのです。

 このような見地に立って私たち革共同・探究派は、それぞれの党員自身が自らの職場において仲間たちに働きかけ、彼・彼女らを労働者階級の一員として強化し組織するという活動をこのかん繰り広げてきました。この活動の只中で私たちは、職場の同僚たち対する自分の従来の関わり方を不断に反省して自己を変革することによって、同僚たちもまた自らをプロレタリアとして自覚し戦闘的労働者へと脱皮していく、というあり方を現実に経験してきました。それぞれの職場において、産業下士官たちが労働強化の攻撃をかけてきたその時々に私たち党員が一労働者として、この攻撃に対決する闘いの最先頭に立つことによって同僚たちから信頼をかち取り、そしてまた彼・彼女ら同僚もまたわれわれ革命的左翼の姿を見ることによって、自らの革命的階級としての内なる力を自覚すること。これこそが肝要なのです。職場でのこの闘いなくして、ただ外部からのプロパガンダだけでは、戦闘的労働運動の再生も、また労働者評議会結成への展望も、何らひらけてくることはないでしょう。

 私たち探究派は、腐敗した革共同革マル派から分裂した、なお小さな組織です。私たちに比すれば、この会場に結集している皆さんの方が、それぞれの職場そして労働組合の指導部に党員を有していることと思います。「革命的な階級意識」を労働者たちに注入するというレーニン的戦術、あるいはプロパガンダの重要性を強調する同志たちは、実のところ実践的には、私がさきに述べたような職場深部からの階級闘争の推進について、多くの教訓を積み重ねてきたはずです。皆さんが自らどのようにしてプロレタリアートを組織してきたのかについて、教訓を振り返り理論化して、それを全世界の革命的左翼へと共有し普遍化してくれることを、私は切に希望しています。そしてこのプロレタリアートの階級的組織化をめぐって、プロレタリア権力の樹立をいかに達成するべきかをめぐって、今後も同志的な討論を繰り広げていこうではありませんか。この国際会議では、今日の世界情勢への対応が議題の中心にあり、情勢分析に関する見解の相違は容易に揚棄しがたいものです。そうした相違を理由にして私たちの間の分断を深めるのではなく、革命的インターナショナルの創成を目指す同じ仲間として、階級闘争の推進という共通の問題を議題にすることを、私たちは皆さんに呼びかけます。私たちは是非とも皆さんから、学びたいのです。同志諸君!共に前進していこう!
(2024年2月17日 日本革命的共産主義者同盟・探究派)