過去の問題性は対象的現実の反映のゆがみであったが、今日ではわが探究派の像の意図的捏造!

 〔まったくまわりを見ずに道路を横切っている人にとっては、静かに止まってくれた車は、存在しなかったことになる。かつては、組織指導部は、よく言えば、この人のようであった。いま、「革マル派」指導部は、下部組織成員を欺瞞するために、存在しないことがらを自分の頭のなかで意図的にこしらえあげて機関紙上に公表した。
 みにくい。
 ガマガエルのように、自分の姿を鏡に映して見たらどうだ!
 (自分自身の顔から滴り落ちる脂汗を自分自身に塗ればいい。ガマガエル=日本ヒキガエルの分泌物には、実際に鎮痛作用があるそうだから。麻酔作用もあるそうだ。)
     2022年8月9日 松代秀樹〕

 


 対象的現実の反映のゆがみ


 「スターリン主義負の遺産」論者と「ネオ・スターリン主義」論者とでは、中国共産党にかんして描く像がまるで違う。こうしたことがおこるのは一体なぜなのか。
 中国共産党という呼称が妥当する対象的現実を、実践=認識主体としてのわれわれが認識対象として措定し、これを分析していくときには、われわれはこの現実を直接的にみることはできない。新聞の報道、テレビで流される映像、雑誌や書物での論評、中国の報道機関が報じるニュース、そして中国共産党が発表する諸論文・諸報告、さらにはまたわが仲間たちが書いた諸論文など、これらにおいて中国共産党にかんしてふれられているものを読んだり見たりすることをとおして、われわれは、われわれが対象としている現実を分析していくわけである。ここにおいて問題が発生する、といえる。
 この問題にはいっていくまえに、われわれが対象的現実を直接にみるときに、或る人には、起きている事態がまったく眼にはいっていないことがある、ということをみておく。
 或るメンバーが歩いているのが、その近くを通りかかった別のメンバーの眼にはいった。その眼には次のように映じた。当該のメンバーは、車道の・横断歩道でもないところを、左右を見ることもなくゆっくりとわたっていく。走ってきた車が――その運転手がおどろいたかのように、しかしキキッと音をたてることなく――スーッと、その人の直前で止まり、その人がわたりおえてから、またスーッと発車していった。その人は、その車に気づくことなく、ふりむくこともなく歩いて行った。別のメンバーは、あぶない!とヒヤッとしたのであったが、声をかける間もなく、また声をかけるには距離があった。――
 このままであるかぎり、当該のメンバーにとっては、この車もこの事態も存在しなかったことになる。あとで、別のメンバーが自分の見たことを彼に話すならば、彼はそのことを知ることになり、エッとびっくりするであろうが、自分自身はまったく何も気づいていないことからして、なかなか実感がわかないことにもなる。別のメンバーが見るというかたちでこの事態は知覚されたのであって、同様のことがその時に車を運転していた人以外には知られることなくくりかえされていたであろうことが推察される。けれども、当該のメンバーには、自分が車に注意しているときのことしか意識にないがゆえに、自分は車には注意しているのだ、という自己意識を彼はもちつづけることにもなる。これに比して、ぼんやり考えごとをしながら歩く癖があり、車が急停車してくれる、ということがよくあるのであるが、そういうときには気づいて、ハッと我にかえり、ああ、あぶなかった、と思うメンバーのほうが、自分は車に注意することがよわい、という自覚をもつことになる。
 こうしたことから私が感じるのは、それぞれの人によって、その人に映じている世界はまるで違う、ということである。ひとは、自分の観念の世界に住みつづけることはできない。かならず、現実によって物質的に自覚させられる。けれども、実践=認識主体としてのこの私が、何を契機に、何を、どのように自覚するのか、というように考えると、ことはそう簡単ではないのである。
 日常生活において、いろいろな出来事を他者から伝聞――うわさや自慢やまた悪口などをふくんで――というかたちで知る、とか、組織活動にかんしてこれをおこなったメンバーから報告をうけたり聞いたりする、とかというようなことがらに思いをはせることは別の機会にゆずる。ここでは、中国共産党という(呼称が妥当する)対象的現実をわれわれが分析するさいには、われわれはこの対象を直接的にみることはできない、ということとの関係において、われわれが現実を直接に見るばあいの一事例にふれたにすぎない。
 実践=認識主体としてのわれわれは、中国共産党という対象的現実を、おのれが認識する対象として措定し、これを分析するために、中国共産党にかんする諸資料を読むのである。われわれに直接的にあたえられる、すなわちわれわれが直接的にみることのできる・われわれの物質的対象はこの諸資料、言語的表現態をなすこの諸資料である。われわれは、こうした諸資料を読み、そこに書かれてある内容を把握することをとおして、われわれが自己の認識対象としているところの、中国共産党という対象的現実そのものをつかみとるのである。すなわち、われわれは、おのれが把握したところの諸資料の内容を再構成するかたちにおいて、物質的現実そのものを認識するわけなのである。
 われわれは現実をこのようにしてつかむのであるからして、中国共産党にかんして・あるいはそれにふれる・論文を書くようなメンバーであるならば、わが仲間が書いた諸論文にでてくるような諸事実については知っている、といえる。そうであったうえで、「スターリン主義負の遺産」論者が、彼が「民族資本家・小経営者」という名称をかぶせたところの私営企業の経営者が中国共産党をにぎるかのようにみなし、この党を実体的基礎とする国家が「新興資本家階級の利害を体するものに変質していく」などと捉えるのは、あらかじめつくった自己のイメージにあわせてこれに都合のよいものだけを諸資料の内容からピックアップしている、だからまた、中国共産党という対象的現実を自己の意識においてあらかじめ加工している、としか言いようがない。「ネオ・スターリン主義」論者が、「いやしくも「前衛党」を名乗るのであるならば」と問題設定し、「党員の腐敗は、彼の共産主義者としての思想性・組織性・倫理性にかかわる問題なのである」というように、今日の中国共産党の党員を共産主義者とみなすのも、先と同じである。「負の遺産」論者は、この見解にたいして、入党を認められた新興の資本家、あれは共産主義者なのか、と批判しないのであろうか。「ネオ・スターリン主義」論者は、中国共産党官僚の言っていることややっていることの断片に対応して、これを切りかえしているだけなのであろうか。両論者ともに、自己の観念のなかに住んでいる、としか私にはおもえない。ここまで書いてきたけれども、両論者ともに、その精神構造が私にはよくわからない。「ネオ・スターリン主義」論者が、二〇一四年になっても、「生きた人間・何らかの思想をもった党員・腐敗行為に走ったり享楽にふけったりする共産党員についてすこしも考えようとしていない」と党官僚を批判していること、この主張にたいして、入党した新興の資本家とその思想にかんして党官僚に何を考えろと言っているの? と「負の遺産」論者は疑問を提起しないのであろうか。「ネオ・スターリン主義」論者は、党官僚をこのように批判しておきながら、自分自身は中国共産党員の「生きた人間」、生身の人間についてすこしも考えようとしていないのはなぜなのか。私にはこのことが不思議なのである。この言葉は、党官僚に投げつけるだけのものであって、自分自身に貫徹するものではないのであろうか。実際には、この言葉は、党官僚に投げつけるべきものではなく、自分自身に貫徹すべきものであるにもかかわらず。
 ふつう、相手を、「生きた人間」について考えようとしていない、と批判したならば、そのあとで視角を転じて、では、「生きた人間」である中国共産党員をわれわれが考察するならば、どういうことが問題となるのか、こういうことが問題となる、というように、彼らが今どういう思想をもっているのか、彼らは社会経済的にはどういう存在になっているのか、なぜ腐敗行為に走るのか、などなどということを分析し論じていくはずなのである。「ネオ・スターリン主義」論者は、こういう頭のまわし方とはもはや無縁になってしまっているのであろうか。
 これはなぜなのか、と問うならば、どうしても、「ネオ・スターリン主義」論者をつきうごかしている非合理的なものにつきあたらざるをえない。冒頭にしめした、或るメンバーの直接的体験のばあいには、彼は、現に生起した事態を微塵も感覚せず、まったく反映しなかったのである。これにたいして、この論者のばあいには、彼女は、諸資料を読むことをとおして自分が得た内容を、あらかじめ自分が自己の意識においてつくった枠組みに適合するように加工して自己の意識内にとりこんだのである。この枠組みとは、中国の党=国家官僚をスターリン主義者とみなす、ということである。習近平らを「無思想ぶり」「情けないほどの没イデオロギーぶり」と弾劾することにおいて、彼女は、彼らがスターリン主義の枠内にあると自己において確認し、スターリン主義はまだ生きていると自分自身に言いきかせているのである。こうするのは、スターリン主義は死んだ、と確認するならば、〈反帝・反スターリン主義〉の〈反スターリン主義〉を世界革命戦略としては掲げることはできなくなる、という恐怖から自己を解放するためである。これが、この論者たちをつきうごかしている非合理的なものである。私には、どうしても、このようにおもえる。
          二〇一四年三月三十一日

対象的現実の自己の意識における加工――これをどう反省するのか

〔ひとは最愛の人を失ったときに、そのことを感覚しうけとめることができないことがある。これと同様に、わが組織指導部は、もっとも憎むべき相手であったスターリン主義が死んだことをうけとめることができず、どこかで生きている、という心理にただよっているのである。これが、スターリン主義は中国においては生きている、という心情を彼らがあらわにしたことの根拠である。――このように、私は、2014年に、〈反スタ〉戦略を歪曲した当時の組織指導部の内面をえぐりだし彼らにつきつけた。彼らは、いまだに、これに答えていない。いま、これに答えたらどうだ!
 彼らの内面をえぐりだした論文をここに掲載する。
       2022年8月8日   松代秀樹〕

 


 二十一世紀現代世界へのマルクス主義の貫徹


 今日の中国の党および国家を「ネオ・スターリン主義」と規定したのは、ソ連崩壊というかたちでスターリン主義が破産した現時点においても〈反スターリン主義〉戦略を堅持することを理論的に基礎づけ、もって「スターリン主義負の遺産の超克=根絶」論を克服することを意図した指導的メンバーが、「ネオ・スターリン主義」というこの用語にとびついたからである。彼自身は、「中国」に「ネオ・スターリン主義」を修飾語としてくっつけ「ネオ・スターリン主義中国」という言葉をただただくりかえすことしかなしえなかったのであったが、まじめで律義な、水木論文の筆者は、中国共産党およびスターリン主義にかんして自分が過去に体得していた知識を総動員して、今日の中国共産党を「ネオ・スターリン主義」とよぶにふさわしいものとして描きあげる論文を書いたのであった。
 ここにしめされているものは、場所的現在において、中国共産党という呼称が妥当する物質的現実をおのれの対象として措定し、これを分析し批判するときに、この主体は、中国共産党およびスターリン主義にかんして自分が過去に獲得していた知識(だから中国共産党およびスターリン主義の過去にかんする知識といえるそれ)でもってきりもりするのに適合するように、対象的現実を自己の意識においてあらかじめ加工しておいたうえで、すなわち、対象的現実を自分が反映したところのものにスターリン主義という枠をはめる、という思惟作用をはたらかせておいたうえで、自己の意識内のこのものに当該の知識を適用し、このものを分析し批判している、ということである。「ネオ・スターリン主義中国」という言葉をただただくりかえす、というのも、頭のまわし方としては、これと同じである。その思惟作用が、ゆがんではいるけれどもいきいきとしている、というのではなく、ゆがんだうえでひからびている、という違いがあるだけである。
 いきいきしていようとひからびていようと、この頭のまわし方は唯物論的思惟ではない。この主体は、スターリン主義が破産した、という事態に対応不能におちいっているのである。ひとは最愛の人を失ったときに、そのことを感覚しうけとめることができないことがある。うみだされたことがらをもろに感覚すると自分がこわれてしまうので、自分と外界とのあいだに半透明膜をはる、とでもいえる心理状態におちいることがある、というのがそれである。わが主体は、もっとも憎むべき相手であったスターリン主義が死んだことをうけとめることができず、どこかで生きている、という心理にただよっており、自分がそうなっているということを自覚できないでいるのである。このことは、スターリン主義は中国においては生きている、という心情をあらわにした水木論文が一年に一度でる以外には、誰ひとりとして、死んだスターリン主義にふれない、意識してか無意識のうちにかふれないようにしている、ということに端的にしめされている。
 新たにうみだされた事態への対応不能、というこのことは、二十一世紀現代世界にマルクス主義をいかに貫徹するのか、という問題をわれわれにつきつけている。二十一世紀現代世界をわれわれはマルクス主義を適用していかに分析しかつこの現実を変革するための実践の指針を解明し、この指針にのっとってわれわれはいかに実践するのか、という問題を、である。この主体的営為の出発点において、二十一世紀現代世界という物質的現実の或る部分をおのれの対象として措定してこれを分析するときに、わが指導的メンバーたちや理論家たちは、その非合理的な心理的動揺のゆえに、無意識的に、外界によって自分がゆさぶられることを回避するために、自分がすでに獲得している知識でもってきりもりできるように、対象的現実を自己の意識においてあらかじめ加工しているのである。これでは、自己が既有している知識がそれ自体としてはいくら正しかったとしても、そして現実をこの知識を適用して分析するのだといくら意志していたとしても、うみだされたものは現実離れしたものとなる。この主体は、外界を、自分が張った半透明膜をとおしてしか見ていないからである。ここに、二十一世紀現代世界へのマルクス主義の貫徹、という課題を、われわれが意識的におのれの課題としなければならないゆえんがあるわけなのである。
 では、「スターリン主義負の遺産の超克=根絶」というフレーズの提唱者は、いまみてきた問題性をまぬがれているのであろうか。いや同じである。スターリン主義はまだどこかで生きている、という心理におちいるのではなく、ひとが最愛の人の遺品にすがりつくのと同様に、スターリン主義は死んだ、けれどもそれが残したものがある、という心情に駆られていることが、その違いなのである。対象的現実の或る部分に、自己の意識において「スターリン主義負の遺産」という枠をはめ、これの「超克=根絶」が〈反スターリン主義〉の今日的継承である、とすることをもって、彼はおのれの動揺を必死でおさえているのである。私には、このような像がうかぶ。
 「陰性ないし陽性のイデオロギー的=思想的転向・変質を遂げたスターリニスト国家官僚またはその末裔どもが中国やロシアの現存国家権力の座に居すわり、わが日本・西欧および旧東欧諸国の転向スターリニスト諸党がブルジョア政党の第五列として様ざまの反プロレタリア的犯罪に手を染めている。」「スターリン主義がおかしてきた数多の歴史的犯罪のゆえに、世界各国なかんずく先進資本主義諸国においては、いまだになお「資本主義の体制的勝利」などという神話が通用させられ」「労働者階級は今日版窮乏化のドン底に叩きこまれている」。「まさしくこのような二重の意味において、〈スターリン主義負の遺産〉が現存し、全世界の労働者・勤労人民に害毒を垂れ流しつづけている。」(『新世紀』第二三〇号、一六~一七頁)
 「害毒を垂れ流しつづけている」というこのフレーズは、彼の追随者たちがどの論文でもくりかえしくりかえし判で押したように書きつづけたものである。
 この展開は、〈反スターリン主義〉戦略(〈反帝・反スターリン主義〉世界革命戦略の一契機としてのそれ)をそのものとして堅持すべきことを理論的に基礎づけることはできない、といううすら寒さをおぼえながらも、「〈反スターリン主義〉を継承していくべき」ことを「本質的必要性」としては語らなければならない、と自分自身に言いきかせている、筆者のその内面の表出である。このように私には感じられる。「害毒を垂れ流しつづけている」というその文章によって基礎づけることができるのは、「〈スターリン主義負の遺産〉の超克=根絶」ということであるにすぎない。このようなはめに筆者がおちいるのは、現に在るところのものに、自分の意識において「スターリン主義負の遺産」という枠をはめることをもって、自分は反スターリン主義者である、と自己確認しているからである。対象的現実に、自分の意識においてあらかじめ独自の加工をほどこしているからである。
 それは次のようなものである。
 「こうした政治経済構造の変質を基礎とし民族資本家階級の簇生を社会階級的基礎として、しかも江沢民式「三つの代表」論をツイタテとしながら民族資本家・小経営者の共産党への入党をおしすすめているがゆえに、この党を実体的基礎とする官僚制国家も新興資本家階級の利害を体するものに変質していく過渡にある、といわなければならない。」(同前、一五頁)
 「民族資本家階級」などというのは、あまりにも現実離れしているのではないだろうか。いま中国で起きていることは、買弁資本家に対抗する民族資本家の勃興、というようなことではないのである。国有企業の再編がおしすすめられている、というようなことを、筆者はどのように反映しているのであろうか。「国有企業改革」という一項目をもたてて仲間が書いた諸論文を読み検討しているにもかかわらず、自分が文章を書くときには、そのことは消えてしまうのである。また、党=国家官僚どもは、自分の子供など一族の者を私営企業の経営者に仕立てあげている、ということも、筆者の熟知していることである。これらのうえにさらに、私営企業の経営者に成り上がる者もいる、というのが進行している事態である。ところが、これの最後のことがらだけを、あたかもそれがすべてであるかのようにとりあげるのは、筆者は中国の現実の分析に、全世界的に資本主義が帝国主義段階に突入したそのもとでの後進国における国家資本主義の形成にかんする自分の知識を適用することを(そしてこういうことをやっているのが〈スターリン主義負の遺産〉としての中国国家である、というようにスターリン主義と関係づけることを)意図して、これに適合するように、中国で現に起きていることがらを自己の意識において加工したからである。
 問題の所在をほりさげていくために、「スターリン主義負の遺産」論者とこの論を克服することを意図した「ネオ・スターリン主義」論者とを対比するかぎりでは、中国共産党という呼称が妥当する対象的現実を分析するために、その認識主体がもちだしてくるところの、彼(彼女)が既有している知識が異なるのである。この違いは、同じ理論領域にかんするその内容の違いということではなく、もちだしてくる理論の領域が異なるのである。前者は、帝国主義段階の後進国における国家資本主義の形成にかんする知識であり、後者は、中国共産党およびスターリン主義にかんする知識である、というように異なるわけなのである。もちだしてくる知識のこの違いは、対象的現実をどのようなものとして描きあげるのか、という目的意識の違いにもとづく。前者の内面には、スターリン主義は死んだ、現存在するものはそれの遺産、負の遺産である、という現状把握が先験的にあって、彼自身が意識する彼の意識の表層では明るく朗らかに自信に満ちて、〈反スターリン主義〉は継承の対象とするので良い、米中新対決という今の時代には「スターリン主義負の遺産の超克=根絶」がわれわれの任務なのだ、と彼は踏んでおり、中国にかんしては、どんどん資本主義化している過程として描きあげる、という目的意識を彼はもっているわけである。これにたいして、後者は、「負の遺産」論では〈反スターリン主義〉戦略を基礎づけることはできない、これでは〈反スターリン主義〉戦略を放棄することになってしまう、これはピンチだ、という危機意識に駆られて、スターリン主義は中国では生きているとしなければならない、中国共産党スターリン主義のネオ形態として描きあげなければならない、という目的意識を、これまた先験的にもっているわけなのである。それぞれのこの目的意識にもとづいて、それぞれ、外界から自己の意識へのあいだに、独自の半透明膜をこしらえるのだ、といえるであろう。そして、前者のばあいには、その膜を通過して主体の意識にもたらされるのは、中国共産党には民族資本家・小経営者がどんどん入党してきている、という像であり、後者のばあいには、その膜をとおして主体の内面には、労働者階級の前衛党およびその党員として中国共産党とその党員は腐敗している、という像がうかびあがっている、といえる。
 このように特徴づけることができると私はおもうのであるが、これは一体どういうことなのであろうか。私はいま、先験的に、と言った。たしかに、彼らの目的意識は、それ以前の経験をとおして、つまり彼らが種々の報道に接したり内部論議をおこなったりすることをとおして形成されてきたものである。けれども、場所的現在において、彼ら認識主体が、中国共産党という呼称が妥当する対象的現実を分析する、というこの出発点からするならば、この出発点において彼らがあらかじめもっているものなのである。主体が自分の目的意識をもつことが悪いわけではない。われわれはおのれの対象についての問題意識をもたないかぎり、この対象を分析することはできないからである。自分があらかじめもっている目的意識をもとにして、対象的現実にかんしてこの目的意識に適合する部分しか反映しない、あるいは対象的現実をばこれをこの目的意識に適合させるかたちにおいてしか反映しない、ということが問題なのである。この問題の根拠は何なのか。この主体は、対象変革の立場、実践的立場にたっていない、解釈主義の立場に転落している、とはいえる。また、対象を下向的に分析していない、自己があらかじめつくった像から天下っている、ともいえる。けれども、いま問題にしている固有の問題については、さらに独自的にほりさげなければならない。対象に自己否定的に即する、ということがいわれるのであるが、彼らは対象に自己肯定的に即している、というように私にはおもえる。われわれは対象を、おのれの問題意識・目的意識を貫徹してみるのであり、このとき、この対象の反映をとおして、同時に、ここに貫徹した自己の問題意識・目的意識をこわしつくりかえていく、という自己否定の立場にわれわれはたつのである。この自己否定の立場が彼らには欠如している、と私にはおもえてならない。われわれは、物質的対象を、われわれが既有している知識をこの対象的現実に妥当させて分析するのであるが、この対象の反映をとおして、対象的現実にかんする自己の認識内容を新たに創造していくわけである。この創造的立場が彼らには欠如している、と私にはおもえる。自分があらかじめもっている目的意識をもとにして外界と自己の意識とのあいだに半透明膜をつくる、というかたちにおいて、その目的意識に適合するものしか対象を反映しないのであるからして、新たなものを自己のうちに創造することはできないのである。せいぜい、自分があらかじめもっていた目的意識を例証的に豊富化するにすぎないのである。そして、いくら批判されても自己をふりかえることはないのである。
          二〇一四年三月二十九日

当時の組織指導部が〈反スタ〉戦略を歪曲した根拠を、思考法の問題としてほりさげた。これにも沈黙。いま、答えてみよ!

 〔当時の組織指導部が〈反スタ〉戦略を歪曲した根拠を、私は2014年に、彼らの思考法にかかわる問題としてほりさげ、彼らにつきつけた。彼らは、唯物論的思惟から飛翔している、というように、である。
 水木章子は、私の批判をうけとめ私の諸論文を学習したのか、その後彼女が書いたところの中国の国家と党および政治経済構造を分析した論文は、私の分析内容を踏襲したようなリアルなものとなった。そうすると、その後、彼女の論文はピタリと出なくなった。彼女は、論文を執筆することができないような境遇あるいは精神的神経的状況に追いこまれたようであった。
 このような不可解なことが起こったのである。
 「革マル派」現指導部は、ポンタ(本多延嘉)ばりの手口を使ってわが探究派を非難する前に、自分たちが世界革命戦略を歪曲した根拠のこの抉り出しに答えたらどうだ!
     2022年8月7日  松代秀樹〕

 

 唯物論的思惟からの飛翔


 もう少し直接的なことがらを問題にしなければならないのかもしれない。
 「解放」二〇一三年の新年号の水木論文では次のようなことが書かれてあった。
 「いやしくも「前衛党」を名乗るのであるならば、次のことが問われなければならないはずだ。党員の腐敗は、彼の共産主義者としての・共産党員としての思想性・組織性・倫理性にかかわる問題なのである。労働者階級の前衛としてのみずからの使命を自覚した党員であればこそ、その〝腐敗〟は法律のレベルにおいてではなく、共産主義者としてより厳しく問われるのである。党員と党はそれだけの責任と自負をもたなければならない。
 また、党員の腐敗はたんにその党員一人の問題ではない。同時に党組織そのものに欠陥や限界があるという問題として反省しなければならないのである。党員の腐敗問題は、当該の党員を除名して国家の司法機関に送る、ということによっては絶対に解決されえないし、そのようなかたちで解決してはならない。だがこのことが胡錦濤らには分らないのだ。」
 これを読んだ人は、あまりにも現実離れしている、と感じないだろうか。誰もそう思わなかったのであろうか。いま、私のこの文章を読んでいる人は、ここまで読んできて、すなわち、私に、現実離れしている、と指摘されて、そう言われればそうだなあ、と感じたであろうか。それとも、いやそんなことはない、と感じたであろうか。あるいはまた、そう言われればそうかもしれないけど、黒田さんの展開にのっとって原則的な批判をやっているのだから、これはこれでいいんじゃない、というような感想をもったであろうか。
 ここが大切である、と私はおもう。水木論文の筆者もまたそうである。いま私に、現実離れしている、と言われて、どう感じたであろうか。
 私が引用している文章を読み、これにたいする、現実離れしている、という私の一言を読むならば、その人は、現実の中国共産党中国共産党とよばれる物質的存在そのものをみるはずである。みる、といっても、この物質的現実そのものをわれわれは直接的にみることはできない。いま、私の文章をここまで読んできたというこの場面においては、その人は、中国共産党という呼称が妥当するこの物質的現実そのものをおのれの分析対象として措定し、この物質的現実そのものを分析すると意志してその人は、自分自身がすでに獲得しているところの、中国共産党にかんする知識を総動員して、この物質的現実にかんする自分自身の分析内容を再構成するわけである。この内面的営みを、自分自身が自己否定的に、意識的におこなうのかどうか、ということが問題なのである。
 その人の内面には、次のような何かがわきおこってこないだろうか。今日の中国共産党は、「いやしくも「前衛党」を名乗るのであるならば」と大上段にふりかざして批判するような相手なのだろうか、とか、これは誰にむかって言っているのだろうか、読者としてどういう人を念頭においているのだろうか、今日の中国共産党を「前衛党」とみなして幻想をもっている人などいないのではないだろうか、とか、そう言えば、中国共産党はプロレタリア前衛党という自党の規定をなしくずし的に修正して、労働者階級の前衛であると同時に中華民族の前衛でもある、だったか何か、そんなふうに規定した、というようなことを読んだことがあったなあ、こういう党を「労働者階級の前衛としてのみずからの使命の自覚」を基準にして批判していいのだろうか、とか、中国共産党の地方幹部は、当該地方の経済成長をどれだけ達成することができたか、ということでもって評価される、という話を聞いたことがある、こういう党にたいして、「彼の共産主義者としての・共産党員としての思想性・組織性・倫理性にかかわる問題」というような問題設定ができるのかなあ、とか、こういうような何かが、である。
 私のこの文章を読むことのできる組織的〝地位〟にある人たちは、何ごとかを感じる感性をもはや失ってしまっているのであろうか。ただ解釈するだけの頭になってしまっているのだろうか。
 水木論文の筆者の問題は、今日の中国共産党という、自分が分析し批判する対象、この物質的対象を、自分がすでに獲得している・過去のそれへの批判内容(過去において中国共産党ないし共産党にたいしてなされた批判の内容を自分が体得したもの)があてはまるものへと自分の頭のなかで加工しておいたうえで、自己の観念において加工しこしらえあげたこのものに、自分がすでにもっている批判内容をぶちあてている、ということにある。
 彼女は、唯物論的思惟から飛翔してしまっているのである。彼女は自己の観念の世界にすんでいるのである。こうなってしまえば、自分が現実の壁にぶつかったとしても、これをも自分の観念から解釈することになる。いつまでたってもこのことをくりかえすことになるのである。指導的メンバーたちがこの観念を共有するならば、これらの全員がそうなってしまうのである。
 過去において中国共産党にたいしてなされた批判、その内容を自分が体得したものをそのまま使おうとするならば、現存在する中国共産党スターリン主義の大枠のなかにあるものとしてあらかじめ加工しておくこと、自分の観念のなかで・現存するとしたものにスターリン主義という枠をはめこんでおくことが必要となるのである。このことを正当化するための絶好のものとして、「ネオ・スターリン主義」というレッテルに、彼女および彼女を自分の主張を理論的に基礎づける学者としてとりたてた指導者がとびついたわけなのである。
 それにしても、彼女は、胡錦濤らに何をわからせようとしているのであろうか。引用した文面に言う「共産主義者としての思想性・組織性・倫理性」とか「労働者階級の前衛としてのみずからの使命の自覚」とかは、この表現からして、われわれの言う意味でのそれと読める。だが、胡錦濤らは、こういうものとはすでに無縁なのではないだろうか。それとも胡錦濤らが今もっているところのこの表現にあたるものをさすのであろうか。だが、胡錦濤らが「自らの使命」としているのは、彼らの党=国家官僚としての利害を貫徹する、というものであって、それをつらぬけ、と彼らにわれわれが尻押しするようなものではまったくない。もしもこのように尻押しするのであるならば、それは反プロレタリア的である。さらに、「みずからの使命」の中身がわれわれと胡錦濤らとではまったく異なる、ということを捨象して、われわれと彼らとが同一の土俵にたっていると形式上みなす、というのであるとするならば、そのような土俵は、観念的被造物でしかない。
 党官僚および党員は、国有企業の経営者であるか、国家がその株式を市場で売却したところの株式企業の経営者であるか、あるいは党員としてとりたてられた私営企業の経営者であるか、そしてまた、これらの諸企業を統括するところの国家諸機関・地方行政諸機関の官僚ないし各級の党書記であるか、なのであって、――労働者や農民は、その少数の者が、彼らの先兵になるかぎりにおいて党員という資格を得るのであって――労働者や農民をよりよく搾取し収奪する者が、よくネズミを捕るネコとして評価されるのである。このような原則的な搾取と収奪から逸脱するかたちにおいて私腹を肥やす者が「腐敗」とやり玉に挙げられるのである。だから、胡錦濤らの「使命」の中身をあばきだすことをぬきにして、彼らを尻押しすることは反プロレタリア的なのである。
 筆者は言う。
 「それにしても、子供や孫をアメリカやイギリスに〝留学〟させることの危険性に思いを馳せる程度の緊張感さえもが共産党最高指導部にはない。これはいったいどうしたことなのか。必ずや忍び寄ってくるCIAやMI6にたいする警戒心もない。」
 この大いなる驚きと弾劾は、対象をスターリン主義の枠内にあるものとして加工したうえでのもの、いわゆる左翼とみなしたうえでのものでしかない。共産党最高指導部のメンバーたちは、自分の子供や孫を諸企業の経営者や国家諸機関の官僚として育てあげようとしているのであるからして、アメリカやイギリスで資本主義的な企業経営や行政について学ばせることは当然のことであり、彼らを出世させるために不可欠のことなのである。彼ら官僚にとって、なにも危険なこととして意識すべきことではないのである。CIAやMI6にかんしても、彼ら官僚は自分たち自身が自国でそれと同様の機関をつかって反政府的な分子を弾圧しているのであるからして、彼らがそれらにたいしてもつ感覚は、いわゆる左翼がもつそれとはまったく異なるものであろう。
 さらに彼女は言う。
 「「文化大革命」をただただ嫌悪し恐怖する彼らは、この「文化大革命」もろとも、文化革命あるいは思想改造運動をも水に流してしまった。「整風運動」というかたちで党員の思想改造を不断におしすすめ、これをつうじて党と党員の組織性・規律性・思想性をそれなりに強化してゆく、という中国共産党に独自の党づくりの作風そのものを投げ捨ててしまったのである。こうして党員の思想改造というアプローチを抹殺しさっていること、中国共産党指導部が「党員の腐敗問題」をいくら声高に叫びつづけても決して解決できないであろう最深の根拠はここにある。」
 「党員の思想改造というアプローチ」というように筆者は言っているのであるが、ここに言う「思想」として彼女は一体何を念頭においているのであろうか。「思想」と言っても、毛沢東の時代と今日とではその中身がまったく異なるのである。かつてはそれは当然にも毛沢東思想なのであったが、今日ではそれは、中国を資本主義国として立派にするというものであり、そのことを「社会主義市場経済」と言いくるめているものなのである。彼女は、毛沢東思想でもって党員を改造せよと言っているのであろうか、「資本主義化」の思想でもって党員を改造せよと言っているのであろうか、それとも、完全に中身をぬきさった「党員の思想改造というアプローチ」という形骸だけを問題にしているのであろうか。このような批判がなんらかの意味をもつと筆者が感覚しているのは、対象をあらかじめスターリン主義という枠のなかにはめこんでいるからなのである。筆者は自分が過去に体得した知識という自己の観念世界に生きているにもかかわらず、そのことをまったく自覚しえていないからなのである。
 筆者はしめくくりとして次のように言う。
 「「社会主義国」を自称しながら、この国の政治経済構造を国家資本主義に転換させ、無産者につきおとされた労働者たちや失地農民や農民工たちを生き血として資本に供することによって延命してきた中国ネオ・スターリン主義。その党はいよいよ思想的に空洞化し、その組織の中枢から腐臭をはなってさえいる。」
 ここに言う「資本」は得体のしれないもの、無規定のものとなっている。「資本に供する」というように、中国ネオ・スターリン主義の党は、この資本の外側に存在するものとされている。たしかに、党という形態は資本とは別のものである。だが、党の構成実体、党員である人物は、資本の人格化された形態をなすのである。そして、党=国家官僚は、労働者たちや失地農民や農民工たちの搾取にもとづく資本の自己増殖を、党を実体的基礎として指揮し統括し統制しているのである。党が思想的に空洞化し腐臭をはなっている、というどころの話ではないのである。このような価値判断と弾劾は、今日の中国共産党を、あくまでも労働者階級の前衛党であるべきものとみなすかぎりにおいてでてくるものでしかないのである。筆者は、自己の観念世界にあらかじめ加工してとりこんだ中国共産党を威勢よく投げ飛ばしているのである。
          二〇一四年三月二十四日

「解放」最新号の紙面には「反革命=北井一味」という語は一つもない。いったい何が?

 「解放」最新号(第2730号)の紙面には、「反革命=北井一味」という語も、わが探究派をさす言葉もまったくない。このようなことがらにかんすることは、一切でてこない。これでは、こんなポンタ(本多延嘉)ばりの規定をひっこめた、ということではないか。われわれの的確で猛烈なイデオロギー的=組織的反撃のまえに、彼ら「革マル派」現指導部は、敗北を認めた、ということではないか。
 われわれを「反革命」とか「権力の狗」とかとなじるのは、何の根拠もないでっち上げの言いがかりであった。それは、世界革命戦略上・運動=組織路線上・組織建設路線上のすべての分野にわたってのわれわれの批判からみずからが逃げまわってきたことをおおい隠すための言辞だったのである。
 彼らがこの「解放」最新号で沈黙したのは、われわれが上のことを徹底的にあばきだし批判したことに彼らが恐怖したからである。
 彼らの自己保身を許すな!
 堕落し腐敗し自己保身に走る現指導部を打倒しよう!
 下部組織成員は、彼らに従ってきたおのれを根底からひっくりかえし、革命的マルクス主義者たらんとして自己を変革する主体となろう!
 腐敗した現指導部のもとにある「革マル派」組織を革命的に解体=止揚するためにたたかいぬこう!
       (2022年8月5日   松代秀樹)

すべての革命的マルクス主義者たらんとする者は、これまでの自己から決別し、わが探究派に結集せよ!

 「革マル派」現指導部はポンタ(本多延嘉)ばりの手口に手を染めた。しかも、われわれのイデオロギー的=組織的闘いのまえにその破産をつきつけられた。
 革命的マルクス主義者たらんと意志するすべての諸君!
 「革マル派」の組織の内部で下部の組織成員として活動している諸君! 過去に挫折し自己の再生のために苦悶している諸君! 新たに反戦闘争や職場での闘いを開始した労働者・学生諸君!
 まさにいま、自己を、黒田寛一の営為をうけつぎ日本反スターリン主義運動を再創造する主体たらしめることを決意しよう! それは、黒田寛一に盲従することや彼を神格化することではない。彼の限界をものりこえていくという革命的マルクス主義の立場にたつことこそが肝要なのである。黒田は言ったではないか。「革命的マルクス主義とは、何らかのできあがった理論をさすのではない。スターリン主義トロツキズムとをのりこえ新たな革命理論を創造する立場なのだ」、と。
 いま、これまでの自己から断絶と飛躍をかちとることを決意しよう!
 革命的マルクス主義者たらんと意志するすべての者は、これまでの自己から決別し、わが探究派に結集せよ!
        (2022年8月4日   松代秀樹)

「中国ネオ・スターリン主義」という規定への2014年時点での批判――組織指導部は今もってこれに答えず

 〔「中国ネオ・スターリン主義」という規定にたいして、私は2014年の時点においてさらに批判し、その文書を意見書として提出した。これにたいして、組織指導部は今もって答えていない。沈黙し、黙殺したままなのである。この規定とそれへの私の批判は、〈反帝国主義反スターリン主義〉世界革命戦略を基礎づけるための、中国の党および国家ならびにイデオロギーの分析にかかわるものなのである。この論争、まさに世界革命戦略をめぐる論争から逃げまわるための「革マル派」現指導部の言辞が、わが探究派への「反革命」というレッテルなのである。
 すべての革命的マルクス主義者たらんとする者は、世界革命戦略にかんするこの対立にどういう態度をとるのかが問われている、と私は考えるのであるが、どうだろうか。
        2022年8月4日   松代秀樹〕

 

 

 「中国ネオ・スターリン主義」という規定が一年ぶりにもちだされたのはなぜか


 二〇一四年の「解放」第二新年号(第二三〇一号)に掲載された「中国ネオ・スターリン主義 破滅への突進」と題する水木章子論文において、今日の中国の党および国家にはりつけられた「ネオ・スターリン主義」というレッテル、このシンボルが、一年ぶりにもちだされた。しまいこまれていたこの用語がこの論文でだけ用いられた、というのは、いったいどういうことなのであろうか。
 二〇一三年の新年号の諸論文において、このシンボルが大々的に打ち上げられた。けれども、そのあとは、この言葉はぱったりと姿を見せなくなった。こっそりとしりぞけられたのであろう。
 二〇一四年の第一新年号のトップ論文をはじめとして第二新年号までの他の諸論文では、この用語は用いられていない。水木論文と同じ号にのっている中央学生組織委員会論文では、次のように書かれているだけである。
 「同時にわれわれは、習近平中国が「防空識別圏」を設定し軍事挑発を強めていること、反人民的な核軍事力増強をおしすすめていることに断固として反対するのでなければならない。われわれは、中国の労働者・人民にたいして、中華ナショナリズムを煽りたてながら戦争政策をおしすすめている北京官僚政府にたいする反戦の闘いに起ちあがることを呼びかけようではないか。」
 もしも諸論文においてトーンを一致させるのであるならば、理論外的に当該の規定をもちこんで「ネオ・スターリン主義北京官僚政府」と表現してもよいようなものであるが、そのようにさえもなされてはいない。国際・国内情勢を具体的に分析し、みずからの個別的・具体的な任務・方針をうちだす、というさいには、そのような規定は関係がない、そうした規定を省みることはない、ということであろう。これにたいして、中国共産党十八期三中全会でうちだされたものというような、北京官僚の主張そのものを分析し批判する、というさいには、そうした規定をもちだすことなしにはこれをなしえない、ということなのであろう。取っ組んでいる相手とその主張を、スターリン主義という大枠に属するもの、というように枠にはめこまないことには、すなわちあらかじめそのような加工をほどこさないことには、それの分析も暴露も批判もできない、ということなのであろう。
 一年前に、水木論文の筆者は、党組織最高指導者の御用学者となることによって、理論家としての生命をみずから絶った。今この論文を書いた筆者は、一年前の亡霊である。この地面、この大地に自分の足で立ってはいない幽霊である。こう言えよう。
 次のように書かれている。
 「今日、習近平らを国家安全委員会設置につきうごかしているものもまた、彼らスターリン主義官僚の官僚的特殊利害の防衛であり、官僚的専制支配体制の護持である。」
 「党=国家官僚が、彼らの官僚的利害を経済建設において実現するための拠点は、やはり、この戦略部門の国有企業なのである。」
 「中国ネオ・スターリン主義党官僚がその無思想・没理論を深めれば深めるほど、彼らはその官僚的=特殊的利害を剝きだしにして人民に向かってくるだろうことを、勤労人民は直観的に知っている。」
 ここに言う「官僚的特殊利害」とはいったい何なのであろうか。その中身はどのようなものなのであろうか。「官僚的特殊利害」というかぎり、それは、その主体たる「中国ネオ・スターリン主義党官僚」と呼称されている者たちがよってもってたっているその物質的基礎との関係において明らかにされなければならない。けれども、そのような分析がなされていないどころか、その中身の説明もなされてはいない。文脈からするかぎりでは、その中身は、「官僚的専制支配体制の護持」という政治的なものに限られているようにも読める。しかし、「彼らの官僚的利害を経済建設において実現するため」とされていることからするならば、この表現は、先の政治的なものを実現するための経済建設、というようにも理解しうるし、あるいはまたこの利害には経済的なものもふくまれる、というようにも読める。いずれにしても、彼らの経済的利害にかんしては明らかにされていない。
 他面からいうならば、「官僚的特殊利害」を貫徹し享受する主体とされる「中国ネオ・スターリン主義党官僚」とは、党中央官僚であると同時に国家官僚であるところの諸個人のみをさし、彼らがその権限を行使し便宜をはかりつつその妻や子供たちなど彼らの家族員が私営企業の経営者などとなって暴利をむさぼっているところの一族をさすのではないのであろうか。また、ここに言う「官僚」には、国有企業やその他の株式制企業の経営者・管理者であると同時に党官僚ないし党員であるところの人物はふくまれないのであろうか。中核的な国有企業などの経営者は党中央委員あるいはその候補になっているにもかかわらず、である。さらには、こうした人物が国家諸機関の官僚にのしあがっているにもかかわらず、である。こうしたことからするならば、党=国家官僚どもは、総体として、国家資本ないしその他の諸資本の人格化をなし、こうした諸企業で働いている労働者たちは賃労働の人格化をなす、といえるのである。党官僚や党員が、党組織の担い手であるままで、もろもろの形態の諸企業の経営者や彼らを代弁する国家諸機関の官僚となっている、ということが、中国の独自性をなすのであって、彼らの特殊利害とは、彼らがその人格化をなすところの資本そのものの利害にほかならない。それは価値増殖そのものなのである。
 だから、彼らやその御用学者にたいして、「習近平らじしんが〝コレは資本主義だ〟と言っているに等しい論を披瀝している。このことに気づくこともできなくなっているだけなのである」とか、「盲目的に貫徹する価値法則を政府の政策によって統御するというのは白昼夢でしかない。物化された経済の法則としての価値法則を、人間が利用したり制御したりすることはできないのである。それは廃棄される以外にない」とか、と批判するのは、みずからが相対している者どもを美化するものでしかない。こうした批判を、スターリンその人および彼の理論の正統な継承者にあびせかけるのであるならば、それは正しい。だが、習近平らをこのように批判するのは、彼らの主張をあらかじめスターリンの理論の枠のなかに無理やり押しこんだうえで、つまりおのれの対象を自分の頭のなかで加工しゆがめる、という観念的操作をやっておいたうえで、自分がこしらえあげたこの観念的像をやっつける、というものでしかない。習近平らは、もはや、このようなかたちで問題にする相手ではないのである。彼らは、価値法則をその外側から統御しようとしているのではなく、彼ら自身が資本の人格化として価値法則の一実体をなすのだからである。習近平らの論は、自分たちがこうした社会経済的存在であることを正当化するためのイデオロギーであり、自分たちがそうした存在であることを労働者・勤労大衆からおおい隠すための言辞なのである。
 次のような批判もまたそうである。
 「制度づくり・法規整備・マニュアルづくりを言っているだけで、生きた人間・何らかの思想をもった党員・腐敗行為に走ったり享楽にふけったりする共産党員についてすこしも考えようとしていないのだからだ。党員の質、その思想の内実を問わない、いや、問えないのだからだ。担い手・人間をぬかして「仕組み」づくりにうつつを抜かすのは、愚かなことである。」
 これは、党員である生きた人間とは、労働者や農民であるかのように想定した批判である。つまり、今日の中国共産党が労働者や農民の党員によって構成されているかのようにみなした批判である。そうでなければ、党員の質、その思想の内実を問う、と言っても意味がない。だが、中国共産党員という政治的獅子の皮をかぶったところの生きた人間、生身の人間とは、マルクスの言う銀行家や将軍と同じ存在なのである。すなわち、党員の主要な部分は、すでにのべたように、国有企業やその他の諸企業の経営者・管理者なのであり、また各級の地方政府を経済的に機能させたり、その政府のもとに諸企業を設立したりしているところの党書記なのである。彼らの意志とは、彼らというかたちで人格的表現をとっているところの資本の意志であり、彼らの思想とは、自己の企業や自己の地方政府の利益を追求し貫徹するための思想である。もしもこうしたことを前提としておさえたうえで、習近平にわが身をうつしいれ、彼の主張を問題にしているのだ、というのであるならば、右の批判が実際に意味するものは、習近平に次のように説教しているものとなる。すなわち、同時に経営者である党員は、資本の人格化として正当なかたちで、つまり労働者を徹底的に搾取するというかたちで、自己の資本の増殖をはかるべきであって、腐敗行為に走ってはならず、また、官僚資本家として、自企業の利潤のなかから自己の所得をえるべきであって、これとは別の享楽にふけってはならない、というように「党員の質」を問うていないのはおかしい、と。こんなことを習近平に説教してもしかたがない。いや、こんな説教は反労働者的である。筆者は、こういうことを自覚して書いているのではないであろう。右のような批判は、今日の中国共産党を、労働者・農民の党員によって構成されるところの前衛党のスターリン主義的疎外形態とみなしたかぎりにおいて、通用するものにすぎない。批判する対象をあらかじめ加工しておかなければ、その批判は妥当しないのである。
 次のような批判は、何を情けながっているのであろうか。
 「たとえ「批判と自己批判」という語を使ったとしても、「思想改造」ということを理解さえできない無思想ぶりを、習近平らはさらけだしている。「市場経済」についても「民主主義」についても、ブルジョアイデオロギーに完全に膝を屈し、情けないほどの没イデオロギーぶりをしめしているのが彼らだ。中国ネオ・スターリン主義官僚のイデオロギー的溶解・凄まじいまでの無思想・理論的空洞化、これは、鄧小平が鼓吹した「思想の解放」――中国版「脱イデオロギー(化)」――の必然的帰結にほかならない。」
 これは、筆者自身の、没イデオロギーぶり、いや物質的現実そのものからの昇天ぶり、唯物論的思惟からの乖離をしめしているのではないだろうか。筆者は、自分自身の論理的思考の溶解・凄まじいまでの自己の認識=思惟作用の空洞化をこそ省みるべきではないだろうか。
             二〇一四年一月十三日

「解放」最新号には「反革命=北井一味を粉砕せよ!」の第2回はでていない。どうしたのだろう。

 「解放」最新号(第2730号2022年8月8日付)には「反革命=北井一味を粉砕せよ!」の第2回はでていない。どうしたのだろう。われわれの的確で強烈なイデオロギー的反撃におそれをなしたのか。

 「革マル派」現指導部を追撃せよ!

 変質し腐敗した現指導部のもとにある「革マル派」組織を革命的に解体=止揚するために、イデオロギー的=組織的闘いをさらに強化しよう!

 下部組織成員はこれまでの自己を否定し、わが探究派に結集せよ!

  (2022年8月3日  松代秀樹)