マルクス主義への怖れと憎悪        第5回 あたらしい哲学の創造

 あたらしい哲学の創造

 

 マルクスは、なぜ、へーゲル弁証法を批判し独自の論理を新たに解明しなければならないと考えたのか。このことを百木は何ら理解できないのである。ヘーゲル弁証法とは、対象的現実を思惟のなかで再生産し思惟の中で再興する、つまり解釈するための方法である、といえる。これをマルクスは『ヘーゲル弁証法と哲学一般との批判』(『へ弁哲』と略称する)のなかで抉り出している。重要なのは、ではマルクスヘーゲル弁証法から何を批判的に摂取したのか、ということである。マルクスは『へ弁哲』のなかで次のように言う。
ヘーゲルの『現象学』とその最終的な成果とにおいて――運動し産出する原理としての否定性の弁証法において――偉大なるものは、なんといっても、ヘーゲルが人間の自己産出をひとつの過程としてとらえ、対象化を対置化として、外化として、およびこの外化の止揚としてとらえているということ、こうして彼が労働の本質をとらえ、対象的な人間を、現実的であるゆえに真なる人間を、人間自身の労働の成果として概念的に把握しているということである。」
 このように言うのである。そしてつづけて、素晴らしいことを言っている。
 「類的存在としての自己にたいする人間の現実的な活動的態度、あるいは一つの現実的な類的存在としての、すなわち人間的存在としての実をしめす彼の活動は、ただ、人間が実際に彼のあらゆる類的諸力をつくりだし――このことはまた人間たちの働きの総体によってのみ、歴史の結果としてのみ可能なのであるが――この類的諸力にたいして対象に対するようにふるまうことによってのみ可能なのである。だが、このことは、さしあたりまたもや疎外の形態においてのみ可能なのである。」
 こう言っているのである。
このようなマルクスの展開をとらえると、彼がヘーゲル弁証法の何を何のために批判しようとしているのかが、鮮明であると考える。マルクスが追求しようとしているのは、人間の現実的な活動というように人間労働をしめしたうえで、この人間的な現実的活動というのは、どのような構造であり、どのようにして可能となっているのかの論理を解明しようということである。ヘーゲルにおいては「労働」とは対象との対立においてある意識、この意識が思惟のなかでのみおこなう外化とその回復=止揚という思惟の循環運動として論じられる。「ヘーゲルがそれだけを知り承認している労働というものは、抽象的に精神的な労働である」と。しかし、そうであるとしても、ヘーゲルは労働が人間自体を形成し産出してきた主体的根拠であるということをつかんでいる。このようにマルクスはその意義をとらえている。このばあいに、人間の産出史を労働の結果としてヘーゲルはつかんでいる、というのは、ヘーゲルの捉えている労働の論理というのは、あくまで、過程的な弁証法である、ということなのである。(ヘーゲルのとらえている歴史とは、「まだ、一つの前提された主体としての人間の現実的な歴史ではなく、ただ、やっと人間の産出行為、発生史であるにすぎない」のである。)歴史を創造しきたったところの、人間が真に人間となるに至る過程、類的諸力を形成するに至った歴史過程、その論理として弁証法を論じている、ということである。マルクスは、このヘーゲル弁証法に対決して、現実的な人間、人間となった人間がいかにして現実的に歴史を創造するのか、ということの場所的論理をこそ解明しなければならない、と理論的に格闘したのである。国家、宗教、こうした疎外の形態、すなわち物質的な現に存在する形態、これを人間が現実的に変革し止揚することこそが問題であるからだ。そのための人間の場所的な変革的実践の論理として労働の論理すなわち弁証法唯物論的に解明しようとしたのだからである。かつ、ヘーゲル弁証法は、その原理があくまで絶対精神として措定され、この抽象的思惟の外化による対象の措定とその止揚という自己意識(人間は自己意識として措定される)の自覚の過程的論理として論じられる。こうした意識の自覚の過程的論理が同時に絶対精神の存在過程の論理として展開されているものなのである。
 このように、なぜマルクスヘーゲル弁証法的論理を転倒し、独自の論理を唯物論的に解明したのか、このことじたいを百木は全く理解できない。ふれること自体を避けているのである。それは作意によるのである。あらためてマルクスの唯物弁証法について論じる。
     (二〇二一年一月五日   桑名正雄)