イタリアの同志たちからの通信  第二回ミラノ国際会議について(連載その4)

 本年2月17日・18日の二日間にわたってイタリア・ミラノで開催された「国際主義者会議」に関して、これまで本ブログでは、わが探究派の寄稿した論文、集会参加者へのメッセージ、そして会場で提案されたアピール文を掲載してきた。今回は連載の締めくくりとして、実行委員会の構成団体である「ロッタ・コムニスタ」の同志から寄せられた意見を要約する形で紹介し、われわれの態度を明らかにしておきたいと思う。

1、民族問題をめぐって

 このブログの読者諸氏はすでにご承知のことと思うが、「革マル派」中央官僚は昨年末、「笹山登美子」に「ロッタ・コムニスタはプーチン擁護をやめよ!」と題する駄文を書かせ、『解放』(2796号)に載せた(『新世紀』329号に再録)。これは、ウクライナ防衛戦争を支持せず「革マル派」を批判する者はすべてプーチン支持者であると決めつけるたぐいの、まことに低レベルな“反論”であった。この中で特徴的だったのは、この御用学者がウクライナの「民族」を守るべきものとして描き出すために、あろうことかマルクスエンゲルスの『共産党宣言』を使ったことだ。まともに文章を読める人であれば、「労働者は祖国をもたない」と明確に述べた『宣言』が、まさかゼレンスキーの戦争を正当化するのに役立つなどとは決して思わないだろう。しかし笹山は「民族は非存在ではない」と言って、マルクスエンゲルスも「民族自決」の意義を認めていたのだ、などとほざいた。そこで笹山が『宣言』(国民文庫版)から引用したのが、次の一文である。

ブルジョアジーに対するプロレタリアートの闘争は、その内容からではないが、その形式上、最初は民族的である。いずれの国プロレタリアートも、当然まず自国のブルジョアジーをかたづけなければならない」(「革マル派」が依拠している国民文庫版より引用)

 プロレタリアートの闘争が「形式上」はナショナルだというのは、労働者階級が「当然まず自国のブルジョアジーをかたづけなければならない」からであり、それ以上の理由はない。この文章にどれほどしがみついても、「当然まず」ゼレンスキー政権にもっと武器を贈るべきだ、などという「革マル派」の要求は論理的にみちびき出せない。しかし笹山はどうしても<労働者階級もまた「民族」の一員なのだからウクライナ国家をロシアから守れ>と言いたいので、彼女は上の文章を、「民主主義的任務の遂行からプロレタリア的任務への遂行へ」という二段階革命論を明らかにしたものだとねじ曲げたのである。ゼレンスキー政権に奉仕することは、ウクライナの労働者階級の「民主主義的任務」だ——結局これが、「革マル派」の主張なのである。
 これに対して、笹山に名指しされたロッタ・コムニスタの同志は、「Kakumaru」を批判して次のような趣旨の手紙をわれわれに寄せてくれた。

革マル派は『共産党宣言』を引用してプロレタリアートの闘争が「民族的」であると言っているが、マルクスエンゲルスはそのわずか数行後にこう書いているのを見落としてはならない。すなわち、「共産主義者は、一方では、プロレタリアのさまざまな一国的闘争において、プロレタリアート全体の国の別にかかわらない共通の利益を強調し、主張する。他方では、プロレタリアートブルジョアジーとの闘争が経過するさまざまな発展段階において、つねに運動全体の利害を代表する」。なお下線は、エンゲルスが1894年に「マルクスと新ライン新聞」という文章の中で『宣言』の意義を強調するときに自分で引いた部分である。
共産主義者は常に、全世界のプロレタリアートの運動を自らの立脚点としており、それぞれの民族問題は、プロレタリアートの国際的な革命戦略に従属している。「革マル派」は『共産党宣言』の一文をしばしば引用するが、(1)「ナショナルな」という言葉の一時的で暫定的な性格をはっきりさせる日本語訳をつくっていないし、(2)問題の核心であるところの上に引いた一文を隠しているのだ。
レーニンが言うように、『宣言』が書かれた1848年当時でさえ、マルクスエンゲルスはあらゆる「民族自決」に賛成していたのではない。むしろこの二人は、ブルジョア民主主義的な「民族自決」要求を労働者階級の一般的利害に従属させていたのである。エンゲルスは、民族の自決を無差別に支持したバクーニンと論争している。歴史的にも、民族問題が解決されうるかどうかは1850年頃までに、プロレタリア革命の成否に左右されるようになる。1848年には独立のために戦うと言っていたブルジョアジーは、結局その代わりにプロレタリアートと戦争したのだ。

 われわれも、この批判に同意する。
 付け加えるならば、われわれは「民族自決」の要求を、それがプロレタリアートの闘争にとってもはや時代遅れのものになったという理由で——つまり客観的諸条件の歴史的変化を理由にして——しりぞけるのではない。プロレタリアートの利害をブルジョア民族主義に従属させてしまっては、プロレタリアートの階級的組織化を推進することがそもそも不可能なのだ。「人民の抱く素朴なナショナールな感情は〔…〕直ちに唾棄できるものではない」という御用学者・笹山の言辞は、「革マル派」がもはやプロレタリア階級闘争を主体的に推進する意志をとうの昔に喪失してしまったことの証左にほかならない。否むしろ、マルクス主義の「土着化」なるテーゼを掲げて右翼カルト化している、というほうが「革マル派」の実情に即しているのかもしれない。

2、階級闘争の主体的推進をめぐって(次回につづく)

(2024年3月24日 春木良)