斎藤幸平「疎外論」批判 第5回 疎外論をいかにして破壊したか――自己実現論への歪曲

 3 疎外論をいかにして破壊したか

 

 (1)自己実現論への歪曲

 

 「マルクスの実践的立場の確立」と「『経・哲草稿』におけるマルクス疎外論」をみてきた。

 ここで、斎藤の「疎外論」を思い出してみよう。
 彼は、疎外の原因を「自然からの疎外」であると言い、マルクスの「疎外論」を、「要するにマルクス疎外論が問題視しているのは、労働が自己実現や自己確証のための自由な活動ではなく、窮乏化、労苦、人間性剥奪、アトム化を引き起こす活動に貶められている近代の不自由な現実のありかたである。こうした状況に抗して、マルクスは「私的所有のシステム」の廃棄による労働疎外の克服を掲げ、人々が他者とアソシエーションを通じて、自由に外界とかかわり、労働生産物を通じて、自己確証を得ることのできる社会の実現を要求した」と要約していたのだった。先にみてきた『経・哲草稿』におけるマルクスの「疎外論」をどのように解釈すれば、このような要約ができるのであろうか。
 『ヘーゲル法哲学批判序説』においてマルクスが宣言したプロレタリアートを主体とした人間の人間としての解放と、近代資本主義社会の根底的変革を意志したマルクスはここにはない。斎藤はそれを切り捨てている。そのうえで、「労働が自己実現や自己確証のための自由な活動ではなく、窮乏化、労苦、人間性剥奪、アトム化」などと、現象論的な言辞を並べているにすぎない。
 マルクスは、近代資本主義社会におけるプロレタリアの直接的現実性から、彼の生産物が、彼に対立し彼を支配するということ、自らの生産物の奴隷にならざるをえないということを、まずもって暴きだしたのである。斎藤はこのことについていっさい触れない。
 「国民経済学は労働者(労働)と生産のあいだの直接的関係を考察しないことによって、労働の本質における疎外を隠蔽している。」とマルクスが国民経済学を批判したように、斎藤もまた、この関係を隠蔽するのである。


 労働そのものの疎外の分析において、マルクスは、その労働者の労働が他の人間に属し、その労働は、単に労働者の肉体的生存を維持するためのもの、動物的な奴隷的な労働に貶められていることを暴露し、その根底につかみとったところの人間労働の本質形態からとらえかえして、その労働が、人間的本質を喪失したもの、奪われたものとして論じたのである。マルクスの「疎外された労働論」は近代資本主義社会の分析という理論的レベルにおけるプロレタリアの労働の本質論である。
 マルクスは、『経・哲草稿』の後の項でこの労働者を「商品人間」と規定している。この時点におけるマルクスは、労働力商品、あるいは労働力の商品化という概念を獲得してはいないけれども、その内実がここにおいて把握されている。マルクスの「疎外された労働」のこの把握が後に労働力商品という概念に結実し、『資本論』冒頭の始元的商品として措定され、資本主義経済の本質論的解明がなされるのである。


 斎藤は、このマルクスの思索、論述を一切無視するのである。「労働が自己実現や、自己確証ではなく」という斎藤の論述は、マルクスが思弁的・哲学的にとらえ返したところの「疎外された労働」における合目的性の喪失から拾い上げてきたものであろうが、斎藤はそれ以前のマルクスの論理展開を無視している。自らの生命活動が、ただ肉体的生存の手段としてのみおこなわれ、しかも自ら生産した生産物の所有者に支配・隷属した労働を、マルクスは本質論的労働論からとらえかえし、合目的的な労働の喪失ととらえたのである。
 この「合目的的な労働の喪失」の論理過程を無視し、「自己実現や自己確証」などという言葉に置き換えることは、歪曲などという言葉ではすまされない。
 マルクスの『経・哲草稿』における「疎外された労働」論は「窮乏化、労苦、人間性剥奪、アトム化」などという、表象的な言葉で片付けられるものではない。またマルクスの実践的立場は「労働生産物を通じて、自己確証を得ることのできる社会の実現を要求する」などというものではない。

 繰り返すことになるが、マルクスプロレタリアートを主体とした、人間の人間としての解放を、すなわち近代資本主義社会の根底からの変革を意志し、この実践的立場にたって、プロレタリアートの直接的現実性から下向的に分析し、かつその底に哲学的・思弁的につかみとったところの人間労働の本質論からさらに労働そのものの疎外をとらえ返し、「疎外された労働」論を確立したのである。

 その論理過程そのものを無視し、言葉の置き換えを行うことは、マルクス「疎外された労働論」の破壊である。
       (2021年1月26日  潮音 学)