マルクス主義への怖れと恐怖 第6回 感性的労働の論理としての唯物弁証法

  感性的労働の論理としての唯物弁証法

 

 「一つの前提された主体としての人間の現実的な歴史」の創造の論理、これがマルクスの明らかにしようとした論理なのである。つまり、すでに人間となった人間、類的諸力を有する人間が場所において現実的にすなわち感性的人間が対象たる自然に働きかけ、変革し、歴史を現実的に創造する、この論理をマルクスは解明しようとしているのである。いいかえれば、人間を実践主体としてとらえ、その実践の論理を明らかにしようとしたということである。
 「類的存在としての自己にたいする人間の現実的な活動的態度、あるいは、一つの現実的な類的存在としての、すなわち人間的存在としての実をしめす彼の活動は、ただ、人間が実際にかれのあらゆる類的諸力を創り出し――このことはただ人間たちの働きの総体によってのみ、歴史の結果としてのみ、可能なのであるが、――この類的諸力にたいして対象にたいするようにふるまうことによってのみ可能なのである。」
 これである。ここでマルクスが言っているのは、次のことである。
 実践主体たる人間が、認識主体としては自己と対象とからなるこの場所を認識し、この場所の分析にもとづいて目的を定立しこの目的をばみずからを手段として駆使し実践することによって、類的諸力=本質諸力を対象化する、こうして人間のおいてある場所的現実をたえずのりこえていくのである。これが、対象的自然の変革=労働の場所的実現である。これをなしうるのは、人間が、意識的な対自的存在として生成しきたったことによって類的諸力を創り出し、そうすることによって人間となったことにもとづく。この現実的な感性的で対象的な人間が、自己自身を対象として意識する存在となったことによって可能となった実践の論理である。マルクスが「類的諸力に対して対象に対するようにふるまうことによって可能となった」と言っていることがこれである。「人間は自分の生命活動そのものを自分の意欲や自分の意識の対象とする」(「疎外された労働」)とも言っている。
およそ以上のような人間労働=「人間的存在の実を示す活動」の論理をマルクスが追求したのはなぜか。まさしく、いま論じたような類的諸力の実現として意義をもつ労働がこの資本制社会においてはただプロレタリアの疎外された労働してのみ実存しているからであり、この資本制的に疎外されている社会自体を変革するためなのである。
 百木は、マルクス疎外論ヘーゲル的疎外の論理と同一のものとみなし、このマルクス疎外論は、現実分析などできない空論的論理だ、と非難している。これは百木が、マルクス労働論を何も理解していないこと、ただ、それが唯物論的な変革の論理であることを直観しているがゆえに何としても否定しようとしていること、これにもとづくのである。

 

(註)マルクス疎外論ヘーゲル疎外論と百木は粗雑に同一視しているのであるが、それをわれわれが精密化するかたちで記号的にしめすならば、正→反→合となる。     」百木は、マルクスを、人間本来の姿を前提にしている、と非難するのであるから、記号でしめせば、正(類的存在)→反→合と理解している、ということになる。このことは百木がマルクス疎外論を一極的な弁証法ととらえているということである。だが、マルクスの唯物弁証法は次のように言える。まず、すでにのべてきたようにマルクスは、現実場の主体と客体との物質的対立を出発点とする。すなわち反である。これが現実場をしめす。この反を、その場所においてある主体が分析することをとおして、この場=反を規定する「正」、すなわち正´を捉える。反…→正´(この正´とは現象のなかの本質すなわち特殊的本質である)。そしてこの正´を特殊的本質とした反として場所の直接性を再構成する=「反」(正´に規定された反)。しかも、この「反」をば普遍的本質(正)へと分析下向することによって、この「反」がその普遍的本質の疎外された現実形態であると再構成する。このことによって実践=認識主体が何を実現するべきなのか、その目的を定立するのである。そして実践主体がこの(正→)「反」を、反に物質化する、(実践をつうじた目的の実現) 正→(正´反)「反」…→反…→合。


 〔編集部註 この部分は、われわれが直接的現実を出発点にしてこれを下向的に分析することと、このようにしてとらえた本質的なものから、出発点としての現実的なものを存在論的に把握することとが、一挙的に展開されている。われわれが直接的なものを出発点にしてこれを下向的に分析することを論じるためには、この直接的なものを記号的には、反´と規定しなければならない。〕


 ひるがえって、百木的なマルクス解釈をみる。正→反→合 このように記号的にしめすことができる。しかし、百木がえがきだしているところのマルクス疎外論とは一極原理からの過程的弁証法であって、なぜこの原理が運動し産出するのか、その場所的な主体的根拠は何らあきらかではないのである。それというのも、正→反→合と規定した全過程が存在化されているものであり、これをもってマルクス疎外論の論理とみなすことは、そうみなしている者が実に客観主義であることを自己暴露しているだけなのである。なぜならば、あくまでも、物質的現実を示すのは反なのであり、マルクスの解明した唯物弁証法はこの反をその現実場に存在する人間主体が変革するための論理だからだ。マルクスの論理はこの物質的現実である反をいかに変革するのかという論理構造が没却したところの存在化された論理などでは全くない。原理を類的存在というようにたとえ物質的なものに変えたとしても、それは、原理の存在過程の存在論的論理でしかなく、マルクス弁証法の核心を歪曲するものでしかないのである。
       (二〇二一年一月五日   桑名正雄)