マルクス主義への怖れと憎悪   第7回 『資本論』の労働論への怖れ 「傲慢な思想」という非難

 三 『資本論』の労働論への怖れ


  「傲慢な思想」という非難

 「疎外論的な発想は、少なくとも『資本論』の時点では止揚され、より能動的な「人間による自然の合理的制御」という目標に置き換えられていたと見るべき」――このように百木は言う。つまりつぎのようなことを百木は積極的には言うのである。
斎藤らのエコ・マルクス主義者は、マルクスの「人間と自然との物質代謝」論を誤ってとらえている。彼らは、マルクスのそれを、人間と自然との調和の思想であり、自然との共生の考えだ、とみなす。斎藤らは、前資本主義社会には、和気あいあいとした人間と自然との関係がつくられていた、とし、これを「物質代謝」の原型とするのだからである。しかし、マルクスはそんな考えではなく、「人間が自然の物質代謝を「合理的に規制し」、人間たちの「共同的制御のもとに置く」」としたのであり、これは、「「自然の支配」を目指したマルクス」なのである。
 このように百木は強調して、斎藤らに反発しているのである。マルクス主義とは実に傲慢な思想なのだ、というわけなのである。アーレントの主張を引きながら百木は、マルクスは、むしろ、人間が自然を労働によって支配する、これが人間(社会)の在り方だ、ととらえているのであり、これは歪んでいるのだ、と非難するのである。マルクスのこのような考えは、「必然性」の領域(人間の生命維持の必然性とアーレントは言っている)に人間の営為を狭める考えであり、人間の自由は、本来は、そういう生産=人間労働による自然の制御、すなわち、生理的に人間生命をただ維持することが目的である行為にはないのである、そういう労働は、「人間が自由を発揮する余地はない」「必然性にとらわれた強制的な営み」なのだ、と。マルクスの言う「労働」以外の部分にこそ人間の自由は存する――このような労働観をアーレントはもち、百木はそれに共鳴してきたということなのである。
 百木はこうした思想的地金にもとづいて、マルクスの変革的実践論を憎悪しているのである。これが根本問題である。ここに、百木がマルクス主義をなぜこれほどまでに怖れ、これに敵愾心をいだくのか、ということの根拠があるのである。
 くりかえして言おう。
 百木はマルクス疎外論を客観主義的な社会転換の論理、非現実的な単純で図式的な歴史理論、とみなしている。そのうえで、彼は、マルクスは『資本論』の時点で「疎外論的な発想」を止揚したのであり、『資本論』ではより「能動的な」自然の合理的支配の思想になっているのだ、と強調しているのである。いま客観主義的な社会転換の論理と百木がみなしている、と私が言ったのは、彼の次の主張にもとづく。「資本主義を揚棄しさえすれば、人間と自然との「本源的統一」と「和気あいあいとした関係」が取り戻せるかのような印象を与える〔斎藤の〕記述にも同様の問題が潜んでいる」、という展開が、それである。
 百木は、さかんに、『資本論』は斎藤の言うような疎外論的な論理や発想を否定した地平において展開されている、と言う。これは、百木には、彼が描き出している疎外論弁証法がどこか静的な調和の論理に見えるからかもしれない。斎藤をエコ・マルクス主義ととらえ、かつその主張の核心を、疎外論的な論理に基づいて人間と自然の調和を目指すのがマルクス共産主義論である、とえがくものだ、と感じて、そんなものではない、と躍起になって『資本論』のマルクスの〝変貌〟ぶりを言いたてているのが、百木なのだからである。これは、マルクスへの憎悪に満ちた非難であり、自己の労働観を投影するかたちでのマルクスの労働論の歪みなるものの開陳なのである。ここに、このアーレントいかれの眼目があるのである。
 だが、疎外された労働論につらぬかれている論理や発想は、『資本論』では姿を消している、というのは百木の寝言でしかない。これは、かつてのスターリニストの解釈と形式上は似ているけれども、その中身は異なるものである。すなわち、『経済学=哲学草稿』の段階のマルクスは未熟なマルクスであって、『資本論』を書いたマルクスは経済学的に完成されたマルクスである、というように両者を切り離し解釈する、というスターリスト的なものとは、百木の内実はまったく異なるのである。なぜなら、百木の主張は、極めて反マルクス主義的なものだからである。百木は、『資本論』のマルクスこそがより全体主義的で独善的な共産主義論に道を開く労働論に立脚した思想だからだ、と言うのだからである。
 これは、マルクスの人間労働の本質論、すなわち変革のための実践論を彼が嫌悪している、ことにもとづいているのである。それはどのようになのか。
       (二〇二一年一月五日   桑名正雄)