──二つの〝絶対〟(神と〇〇〇)が同居する「革マル派」中央官僚派──

  北井信弘氏により書籍として著されたものでいえば二〇一四年以来、「革マル派」中央官僚に対する批判は、戦略論、運動=組織論、組織建設論の各領域において全面的に展開されており、官僚どもの路線的誤謬と組織的破産は、理論的かつ論理的に白日の下にさらされて久しい。
 にもかかわらず、この八年にもおよぶ期間において、これにたいするただの一度の反論や論及もなく、彼らは海底で固く口を閉ざす貝のように死の沈黙を守りとおすだけであった。このことの政治的党派としての意味するところは社会的に明らかである。彼らはすでに理論的に死んでいるのだ。
 だが、「革マル派」の世界革命戦略の歪曲をあばきだし、二一世紀現段階における〈反帝・反スタ〉世界革命戦略を解明したことを路線上の結節点とした二〇一九年春の「探究派」の結成(革共同第四次分裂の展開の開始)より三年。「革マル派」中央への理論的追求の攻撃はその激しさを増した。
──彼らの労働運動の推進と党建設そのものの誤謬と挫折を抉り出し、その根拠をあばき教訓化するたたかいの進展は書籍『松崎明黒田寛一その挫折の深層』の出版によって社会的にも明らかになった。このことは、その後の「革マル派」中央官僚派の思想と行動に決定的な意味をもつことになる。
 
 黒田の死後、中央官僚どもはみずからの官僚としての地位の保全を盤石なものとし、下部組織成員たちからその組織的主体性を奪い去り、彼らを官僚主義的に支配しみずからに従属させ、おのれの意のままに操縦できるイエスマンとするために、同志黒田を神格化し、みずからをその崇敬・帰依の頂点に立つ神官と位置づけ、下部の組織成員をその敬虔な信者とする組織の宗教団体化への途を掃き清めてきた。

 そのような官僚どもからすると、崇め奉る絶対なる神と化した黒田の挫折や無念を描いたり、その思想闘争や理論追求において欠如するものや未切開な部分を指摘することにより、黒田を松崎とともにのりこえる対象として措定することなど、神の冒涜にひとしい行為であり、断じて許されることではないのだ。無謬かつ全能の神が否定されることはその神官(みこともち)であるおのれの官僚としての絶対的権威が危うくされることを意味する。彼らはその内心、身に迫った明日知れぬおのれの崩壊の危機を直観し、ただならぬ恐怖心と危機意識にさいなまれはじめたのだ。
 
 これまでは探究派の理論的批判には一切沈黙を守ってなんとか乗り切ってきたが、もはや従来のだんまり戦術ではおのれの身が危ない。嵐が過ぎ去るまでと思って頑なにじっと殻に閉じこもり、貝の論理を貫こうとしてきたが、もはやそれでは身を保てない。内部の不安や動揺も不気味である。官僚どもはこの現実の乗り切り策を巡って思案の日々を重ねた。あらゆる分野において理論的には何一つ反論できないことは百も承知の彼らである。では、どうすればよいか?

 残された最後の手段がひとつあった。それは、黒田を盾に「教祖にたてつく」ものを「反革命」や「スパイ」にすればいい。そうすれば、理論的批判に対応できなくても、「『反革命集団』や『スパイ集団』のいう戯言などは聞く必要もなければ、答える必要もない。」「それは論争以前の問題であるから。」ということで乗り切れる。習いの手本は彼らがかつては批判の対象にし乗り越えたはずのともがらにあった。スターリンと本多延嘉である。二人ともみずからの排外主義や暴力・殺害行為を正当化するために、トロツキーやかつての「革マル派」に対し「反革命」「スパイ(K=K連合)」などとレッテル張りをした。

 この手法は、みずからの利益に敵対すると見なした相手に対し、ある悪しき社会的観念のレッテルを貼り付け、そのイメージ化のために様々な事実をねじ曲げ、捏造し、〇〇像をつくりあげ、「さもありなん」式に相手を〇〇に仕立て上げ、反〇〇感情を社会的に煽っていくというファシスト的な大衆操作術なのである。「嘘も百回つけば真実になる」というのはナチス宣伝相ゲッベルスの言だということだが、同一のデマ宣伝を毎号のように──繰り返し繰り返しその機関紙『解放』の頁全面をつかって──扇情的に書き立てる「革マル派」中央官僚派の手法にもこれがうかがえる。

 因みに毎日、毎時間あるいは数分おきにしつこく放映されるTVのコマーシャルもその狙いは、明らかである。それは、幼児が容易に惹きつけられることからも明らかなように、その動画の展開を奇をてらったものにすると同時に、音声レベルやピッチを上げることにより視聴者の目と耳に焼き付ける──その画像と音声を感覚と意識に刷り込む──ことを通して、企業や商品のイメージの向上を図るところにある。

 「革マル派」中央官僚派のデマ記事の執拗な連載も、下部組織構成員からその批判的判断力を奪い去り、官僚どもの流すデマ記事(探究派=「反革命」「スパイ」)を「さもありなん」式にその意識に刷り込み、植え付けるためのものである。それは同時に、探究派の理論的十字砲火により危機に瀕した官僚としての自己の姿を黒田を盾に押しかくし、黒田哲学の唯一の継承者(=黒田教の最高位の神官)としての現指導部への絶対的従属(=帰依)を強制するものでしかない。

 かつて天皇制ボナパルティスト国家権力者が反戦・平和や政府の政策に異を唱えるものを「非国民」と呼び、彼らを摘発し弾圧するために、隣組の住民たちにその相互監視や権力への通報・密告を強制した。いま、疑心暗鬼の飛び交う「革マル派」中央官僚派の内部においても、それと同様の「探究派=反党反革命」分子の監視・摘発が行われている。
 

 二〇一四年、「スターリン主義負の遺産の超克」論や「中国=ネオ・スターリン主義」論などの<反帝・反スタ>世界革命戦略の歪曲・破壊を完膚なきまでに批判されて以降、少なくとも八年間にわたり死の緘黙を決め込んでいた彼ら「革マル派」中央官僚派が、先々月の八月一日付けの『解放』第二七二九号の紙面上において、まるで狂ったように突然饒舌になり喚き出し、騒ぎ出したのだ。その理由はもはや明らかであろう。いわく、「反革命=北井一味を粉砕せよ!」

 この二頁にまたがる大見出しこそ、探究派からの連日にわたる祖国防衛主義やブルジョア民族主義への陥没にたいする批判に何ひとつ理論的に反論できない追いつめられたおのれへの危機意識と悲鳴のあらわれ以外の何物でもない。

 その内容たるや、探究派の三人にその的が絞られているのであるが、理論的な主張への論議など何一つなく、ただただ個人へのあくどい事実のでっち上げとそれへの誹謗中傷や罵詈雑言に満ち、由なき断言・断定に終始しているものである。

 二回にわたって連載された「座談会」(『解放』第二七三二ー三三・第二七三六号)なるものも実に低劣でその社会的品位が疑われるものであった。「まるで低俗な週刊誌の記者」の「下世話の座談会」だと『解放』を初めて読んだという北井ブログの読者が語っていたが、私は、発言者たちの個人攻撃の言葉にそれ以上のものを感じた。
──「この野郎!」「この馬鹿めが!」「人でなし」「未熟児」「頭が狂ってる」「精神病理学の対象」「どの面下げて言うのよ!」「人間のクズよ!」「どうしようもないガキ」などという個人を特定した人格否定のことばが紙面いっぱいに乱れ飛ぶ──これが本当に公党たるものが、その社会的・階級的責任にもとづき企画・編集・発行した政治機関紙の紙面なのであろうか?  最新の記事(『解放』第二七四一号)においては、言うに事欠いてついに「首を洗って待ってろ!」という反社会的組織の使用する脅迫と威嚇のことばを公然とその小見出しに記載するようになっているのだ。

 八年ぶりにその沈黙を破ってみずからを批判した人間に返すのに、このような低劣な言葉しか残っていなかったとは無惨の一言である。挫折した反スターリン主義運動と組織の革命的再生を期して著された畢生の労作『松崎明黒田寛一』を「反革命の書」と公言してはばからない精神構造の官僚たち──その〝崩壊の足音〟が私にも聞こえる。
 中央官僚派にとって、『松崎明黒田寛一』の出版は、自らの拠点ならぬ虚点を組織論的に曝きだし打ちのめしたという意味で、決定的な意味をもつ。
 そのような彼らの内面(=神殿)には今、官僚としての自己崩壊──その危殆を隠蔽するための詐術として、「神(黒田教)」と「〇〇〇」の二つの〝絶対〟が背中合わせに同居している様がありありと見てとれる。
 (二〇二二年一〇月二八日 岩淵宗太郎)

なすすべなくした「上田」の「探究派」へのデマ攻撃の破綻 

 「解放」2739号での白嶺聖の起用が完全に逆効果となり「北井氏への礼賛」となるに及んでなんとしてもこの評価をひっくり返さねばと登場した上田は、かつて自分達が北井氏から受けた「指導」を捻じ曲げて捏造してきた。「指導部」としての北井氏の「指導」を上田があげつらったそのことこそが労働運動の敗北・帝的再編下において、北井氏が黒田さんや松崎さんらと実現した革マル派労働者組織再創造の闘いとそこにおける指導そのものではないのか。

 現実の労働者階級から完全に浮き上がった存在の諸君らにはもはや感得することも、例え目に入ったとしてもその目には見えもしないのだろう。それともたとえ見えたとしてもいかに変革すれば良いのか、理論的に考えることすらできないほど没理論となっていたということなのだ。お座敷ならぬカラオケに勤しんでいただけではなかったのか。   

 かの座談会におけるⅮ発言の主さんやそれに同調したものたちよ、己の胸に手を当てて考えてみることからこそ始めるべきではないのか。北井氏を「個別オルグ主義者」だの「学習会主義者」だのとなじる前に自らの不勉強をこそ恥じるべきだろう。

 革マル派機関紙「解放」の編集局や中央組織に居座る官僚諸君。プロレタリア自己解放の邪魔をするのは止めにせよ。このままでは諸君らは後の世に「階級敵」として謗られる(そしられる)ばかりとなるであろう。
      

ざれ歌:唄は さのさか どどいつか
唄のせかいじゃ あるまいに
このままじゃ 奈落のそこに
まっしぐら
  
   (2022年10月28日   足音 聞太)

崩壊の足を自ら速めてみせた「解放」2741号(古参党員)上田某の世迷い事

 白嶺聖の起用が完全な逆効果

 『「余人に変えられぬ理論家:北井 」などというような北井氏への事実上の礼賛』となるに及んでサクラならぬ錯乱の「座談会出演メンバーからも「反発と離反」を招き「組織絶対化の内面ピラミッド」の崩壊を恐れてせっかく見つけ出してきた白嶺聖の「解放」執筆を停止した。

 しかし、白嶺にかえて急遽登板させた古参党員(上田)もまた、事実上北井氏の過去の「党指導者としての」活躍ぶりを「原稿用紙5枚の指導のエピソード」として矮小化して「紹介こそすれ否定も消去もできない」ありさまである。

 これ以上のプロレタリア自己解放の闘いの邪魔をするのは止めにせよ。このままではのちの世に 謗(そし)られるばかりとなるであろう。
      
ざれ歌:挽かれ者の小唄 
富士の高嶺に降る雪(白嶺聖)も
京都ぽんと町に降る雪(古参の黒い雪 上田琢郎)も
雪に変わりがあるじゃなし 融けて流れりゃみな同じ 

と思い知るがよい。

 (二〇二二年一〇月二一日 足音聞太)

事実の歪曲のはなはだしい「第6回」   

 「学習会主義」

 

 上田琢郎を名のる人物が書いた・わが探究派へのデマ宣伝の「第6回」(「解放」第2741号)は、「首を洗って待ってろ!」という言を弄するというような低劣なものであり、「このバカ野郎!」とか「この大バカ者めが!」とかと私への罵倒をくりかえしているだけのものである。
 私にたいして「己の犯罪に頬被りする」と称して、その「犯罪」なるものを記述したこの雑文は、ことごとく過去的現実を歪曲的に描いたものなのである。
 その主要なものにかんして、その過去的現実は実際にはどのようなものであったのか、ということについてふれておくことも必要である。
 この人物が「オマエが一九八〇年代前半」に労働戦線担当常任メンバーとして犯した誤謬・その組織破壊的犯罪を忘れたとでもいうのか!」と息巻いて書いていることが、それである。
 彼は言う。
 「じっさい産別労働者組織の指導的メンバーの組織会議を、学習会の「チューター集団」会議のようなものに変質させてしまい、各フラクション諸組織は労働運動への組織的とりくみなどとは関係のない・文字どおり「学習会」しかやらないような単なる〝お勉強をする場〟につくりかえてしまったではないか。」
 これは、現実の反映としてそうとうくるっている。
 ここに言う学習会の組織化の経緯から明らかにしていく。
 一九八二年冒頭に、「労働者組織をたてなおすために松代を東京に呼び寄せる」という政治組織局の組織決定のもとに、それまでは関西地方の労働者組織担当の常任メンバーであった私は上京した。私はすぐに同志黒田のもとに連れていかれ、同志黒田、前原茂雄に代わって実質上の書記長格であった常任メンバー、そして私の三人で会議をもった。
 同志黒田から次のように提起された。
 「われわれが党派闘争および謀略粉砕の闘いに組織的にとりくむ過程において前原茂雄の指導が技術主義的なものとなり、労働者組織は疲弊し実質上瓦解した。これをたてなおすためには労働者メンバーを理論的に武装することを基礎としなければならない。そのために、各革命的フラクションにかんして、フラクションの組織会議をもつと同時に、これとは別に、フラクション・メンバーからなる学習会をもつことが必要である。このばあいに、F・LC会議とは別にもつF・LCメンバーからなる学習会は、学習会のチューターの教育の場と言える。さらに、常任メンバーをこのようなチューターの教育ができるメンバーへと理論的に鍛えあげていくために、これまでやってきた労働戦線担当の常任メンバー(WOB=労働者組織委員会の常任メンバー)の会議の時間帯を二つに分け、その一方を組織会議としてもつ、と同時に、他方を、常任メンバーからなる学習会としてもつ。松代は、この常任メンバーからなる学習会の指導を担当するようにせよ」、と。
 あわせて、或る産別の労働者組織を担当せよ、と私は同志黒田から言われた。
 学習会の組織化にかんする同志黒田のこの提起は正しい、と私は考える。前原茂雄の組織指導がどのような問題をはらんでいたのかということをほりさげて総括していくことは残された課題をなす、と言える。
 同志黒田のこの提起について、常任メンバーの会議で、書記長格のメンバーと私とが提起して確認し、その組織化に組織的にとりくんだのである。
 この諸学習会をつみかさねている過程において、一常任メンバーから、なかなかうまくいかないんだ、という問題が提起された。
 「これまでは、F・LC会議やフラクション会議を日曜日にやっていたのだけれども、学習会が重要だ、とおもって、学習会を日曜日に入れるようにした。そうすると、組織会議を日曜日に入れることができなくなり、平日の夜にまわさなければならなくなった。そうすると、時間が足りず、組合運動への組織的とりくみにかんする論議が十分にできなくなった。どうすればいいか」、と。
 私は、「エッ、そんなことになっているの」とおどろき、「それは、組織会議と学習会とをひっくりかえそう。組織会議を従来どおり日曜日にやり、学習会を平日の夜にやるようにした方がいいよ」、と提起し確認し、現にそのように変えた。
 このように論議して変えるまでのあいだ、各産別組織で四苦八苦しており、混乱していた、と言える。このことを掌握しえていなかったのは私の責任である。
 上田が挙げているのは、実はこのような問題なのである。したがって、私が東京にいた一九八〇年代半ばまでは、「学習会主義的傾向におちいった」というように論議したことはないのである。
 私がまだ沖縄にいた一九八〇年代末に前原茂雄が右翼組合主義的偏向の切開をやったときに、「その前段に学習会主義的偏向がうみだされており、それは、松代が自分の理論的興味で指導したからだ」、ということを言いだしたのである。
 同志黒田は『労働運動の前進のために』で次のように書いている。
 「かの敗北のなかからたちあがって、労働運動を左翼的に展開してゆくことにとってふさわしい下からの地道なオルグ活動をくりひろげ、わずかばかりの理論的諸成果を主体化しなおすように努力しよう、とわが革命的左翼は決意を新たにした。このようなことの確認は、それにもかかわらず、まずもって——結果解釈的な思考法にも決定されて——「労働運動の冬の時代」ということを〝冬の時代の労働運動〟というように実体化して理解するという誤りをうみだした。このことを跳躍台にして、再出発しようとする決意と確認は、いわゆる「労働運動からの召還」とか「学習会主義」とかの偏向として、部分的にではあれ自然発生的にうみだされたのであった。こうした事態は、組織的=政治的感覚の、とりわけ思想的・理論的水準の凸凹の悲しさを、いやというほど体感させられるではないか。」(118頁)
 これが、一九八〇年代前半のわれわれの運動への組織的とりくみと組織建設にかんする同志黒田の総括である、と言える。ここで「自然発生的にうみだされた」とされているところのものは、われわれの組織的とりくみの問題として考えるならば、私が上にのべたようなことなのである。また「いわゆる「労働運動からの召還」とか「学習会主義」とかの偏向」という規定は、「いわゆる」という語が付されていることにしめされるように、うみだされた組織的現実を同志黒田自身が下向的に具体的に分析したものではなく、前原茂雄が言ったことを踏襲したものと考えられるのである。

 

 「原稿づくりと学習で組織づくり」との私の言なるもの

 

 さらに上田は言う。
 「さらに加えておまえはほざいた。〝こういう時代には、原稿づくりと学習で組織づくりをおこなうのだ〟と。」
 私が常任会議で言ったのは、「こういう時代には」というような単純なことではない。次のように言ったのである。
 「私が担当している産別では、企業当局および国家権力から激烈な攻撃がかけられており、わが仲間たちが組合本部の役員を担っている、という主客諸条件のもとにある。いまかけられている〇〇部門の外注化という攻撃をはねかえすための労働組合の運動=組織方針にかんしては、これを、
   〇〇部門の外注化阻止=一定程度の配置転換・労働強化は認める
とする、というように論議してきている。このような組合の方針、すなわち柔軟なそれをうちだして組合運動を組織し、この運動をつうじてわが組織を担うメンバーをつくりだすためには、わが組織の諸成員を強固に鍛えあげる必要がある。そのために、わが組織諸成員に、わが党の立場にたって攻撃を分析する原稿や他党派の方針を批判する原稿を書いてもらう、と同時に、反スタ諸理論を学習する、というようにしている。このようなかたちで組織づくりをやっている」、と。(『松崎明黒田寛一、その挫折の深層』168頁参照)
 私は、私のやっていることの教訓を常任メンバーたちに普遍化するために、このようなことをくりかえしのべたのである。
 これの基本的部分を「こういう時代には」というように切り縮めたのが、上田の再生産なのである。

 

 「冬の時代の労働運動」というスローガンについて

 

 また上田は次のように書いている。
 「「労働運動の冬の時代」ということを〝冬の時代の労働運動〟などと実体化してとらえ、労働戦線においてたたかう・われわれ労働者にたいして、どれほどの犯罪的な「指導」をおこなったかについて、よもや忘れたわけではあるまい。自らに都合が悪いことはヨコにどける、などという姑息な行為はやめよ!」
 上田はえらくいきり立っているのであるが、過去的現実を思惟的に再生産するその仕方も、再生産したその中身も、おかしい。
 この文章は、先に引用した同志黒田の論述からその一部を引き写したうえで、そういうことをやったのは松代だ、というように、松代に責任をおっかぶせたものである。このやり口がおかしいのである。
 さらに、一九八〇年代の常任会議において「冬の時代」というような用語を使って私が論議を組織したことは一度としてない。「冬の時代の労働運動」というのは、或る労働組合において、組合役員と組合員を武装するという目的をもってうちだされたスローガンなのである。こういうことを知っていたことからして、私は、われわれが情勢を分析したり指針を解明したりするときに、またその論議をするときに、「冬の時代」という用語を使うことはないし、使ったことはなかったのである。
 私が常任会議で提起したのは、「労働運動の帝国主義的再編を粉砕する戦闘的諸労組の闘いが敗北したという現情勢のもとで、われわれは、どのような指針をうちだし、この指針にのっとってどのような諸活動をくりひろげるべきなのか、ということを解明する必要がある」、ということであった。私のこの提起は正しい、と私は考える。

 

 「特別労働者大学」の開催の経緯について

 

 さらに上田は言う。
 「まさにこのゆえにこそ、目を覆いたくなるような悲惨な組織的現実を聞くに及んだ・ある特定産別の経験豊かな労働者同志たちは激怒して、その根底的な組織論的反省と実践的ひっくり返しのために、自らの責任において・かの三度の「特別労働者大学」(八四年~八五年)を開催したのである。そこにおいては、労働運動の組織化における「技能」にかかわることがらをも・原点にたちかえって手ほどきしてもらったのだ。」
 これは意図的な作り話である。
 ここに言う経験豊かな労働者同志たちが一九八〇年代前半に他産別のことにかんして激怒した、ということはない。私はこの特定の産別組織を担当したのであり、この労働者同志たちと日常的に論議していたのであるからして、よく知っているのである。ここで「特別労働者大学」と呼ばれているものの開催については、先にのべた学習会の問題とは無関係である。
 私は、この労働者同志たちから、「どうも、他産別の同志たちは、組合執行部の役職についているメンバーもいるけれども、われわれが組合役員として活動するばあいに身につけていなければならない技能的なものを知らないようだ。下部の組合員であるようなことしかやっていない。われわれが培ってきたものを伝えたほうがいいとおもうのだが、どうだろうか」という提起をうけたのである。私は「それはいいですね」と答えて、同志黒田と相談し、常任会議に提起して開催を決定したのである。これが「特別労働者大学」を開催するに至った経緯である。
 この経験豊かな労働者同志たちが「自らの責任において」この「労働者大学」を開催したのだ、とは、上田はおかしげなことを言うものだ。常任会議という実質上の党の機関の会議で決定しなければ、このようなものを開催することはできないし、事実、常任会議で決定して開催したのである。
 どうも、上田は、組織論なかんずく党組織建設論がまったくわかっていないのではないだろうか。
 以上、事実問題の四点にかんしてのべてきた。デマ宣伝はやめた方がいい。
 しかも、右翼組合主義的偏向およびDI路線の問題性をどのようにえぐりだすべきなのか、ということを私が明らかにしたことにたいして、これについては自分の見解を一切表明しないで、一九八〇年代前半のことがらをもちだすというのは、話のすりかえであり、それ自体政治主義なのである。
 上田琢郎を名のる人物のこの雑文は、徹頭徹尾政治動物のものなのである。
      (2022年10月22日 松代秀樹)

「革マル派」崩壊の足音がきこえる  

  「解放」二七三九号において白嶺聖は、わずか数号前の座談会でのD発言を公然と否定してみせた。
 錯乱の座談会を丸ごと否定したということじゃないか。
今回は椿原さんを没理論家の夜郎自大と規定するために北井氏を持ち上げてみせた。
 どこぞの宗教団体(統一教会)貼りの「二歳児以下の精神異常者」扱いをしていた北井氏に対して、元革共同○○地方委員会の指導者であり、かつ「余人をもって代えがたい理論家」であったと。
 ある哲学徒によれば「気ちがいに精神異常者と言われることは、否定の否定弁証法的論理からすれば褒め言葉と受け取っておこうよ」と先を見越した賢人の言。
 編集局はおろか「革マル派」中央指導部自身が白嶺聖に発言させたことは組織崩壊の象徴だ。
ところで白嶺聖はかつて松代秀樹に肖って自分のペンネームを付けたのであろう。「人のあらさがし」と「ケチ付け」をもっぱらこととする乞食根性を発揮することによって今日の地位を獲得し、今や絶頂の時を迎えたかのようではある。夜郎自大とは俺のことかと我が身に問うてみよ。
 しかし、その直後、椿原さんの「革共同第四次分裂」勝利宣言に驚天動地。
 遅れてきた白嶺聖にも「革マル派」崩壊と「解放」廃刊の責任を取ってもらおうじゃないか。

(二〇二二年一〇月一一日 足音聞太)

座談会ⅡのDなる人物――前衛党組織づくりの否定と組織成員としてのおのれの摩耗

 「革マル派」指導部は「解放」第二七三六号の「第四回」座談会ⅡでDなる人物に語らせている。
 Dは「バッカみたい。労働者人民は直ちに国家の階級性を認識し自覚できるわけじゃあない。時々の政府の反人民的な政治的・軍事的・経済的諸政策との対決をとおしてはじめて、国家そのものの階級性に目覚め、国家権力そのものの打倒の必要性を自覚していくんじゃないの。そして、だからこそわれわれは、不断に大衆運動に取り組んでいくのよ――そこ存在する運動をのりこえる形で。」
 これは、大衆運動をでっかくつくり敵権力にぶち当てれば組織をつくれる、革命闘争に立ち上がらせることができると考えた「ブント」や「中核派」や「社青同解放派」の考えとどう違うと言うのだろうか。

 Dなる女性労働者のこの発言は、黒田寛一が北井さんを個別オルグ主義と批判したことに依拠しながら、北井さんを貶めているのだと思う。"大衆運動の組織化なしに理論的なものを注入するだけではだめなのだ"と北井さんに対して、排外主義的な悪罵を投げつけているのである。
 わが仲間はこのDの主張について「新たな決意」の中で批判している。「プロレタリアはマルクス主義を媒介にして、すなわちマルクス主義を党是とする前衛党の媒介によってのみ、みずからの階級性を自覚するのであり、国家の階級性を認識していくのである。」と。
 そうなのだ。Dの主張は前衛党組織づくりをみずから否定し去っていることを意味していると思う。
 Dなる人物も「革マル派」の組織に結集した若かりし時には黒田寛一の革命的マルクス主義の思想に触れることを通じて反スタ主義者、共産主義者たらんとして生きようとしてきたのではなかったのか。
 しかし、その内実は、黒田寛一を神のごとくに絶対化し、おのれじしんを問うことを避けてきたことにより組織成員としてのおのれを摩耗してきたのではないのか。いわば黒田寛一は方針を出す人、自分は体を動かし実践する人という関係を率先してつくってきたのではないのか。その時々の世相を身にまといながら、それをマルクス主義的に哲学していくことを怠ってきたのではないか。結果その時々の世相に煽られてきたみずからの地金のようなもの、大衆運動主義とでも言いうるような地金をこんにち、あけすけに表明するようになってしまったのではないだろうか。

   (二〇二二年九月二一日  森崎広江)

 

 

 

 

 

 

戦争遂行の国際的免罪符になった祖国防衛主義

 今やゼレンスキーによる労組破壊攻撃に完全屈服し、ブルジョア国家の勝利のための戦争遂行隊、および後方支援隊としての活動を強制させられるにいたったウクライナ労働者たちの悲惨さに思いを致すとき、彼らを裏切った指導部=労働貴族たちの犯罪とその自己合理化を断じてゆるすことはできない。祖国防衛主義と民族主義はいまや戦争遂行者たちとその同伴者たちの国際的な免罪符となった。プーチン・ロシアもまたしかりである。

 

・戦争を「テロに屈せず」と言い換える
 かくのごときか開戦の前夜は   
  イラク戦争時の詠み人知らず(学生)の歌

・帰り来ぬ若き無念を たはやすく忘れて 何の生きし甲斐ある
  岡野弘彦

 

  二〇二二年一〇月一二日 岩淵宗太郎