事実の歪曲のはなはだしい「第6回」   

 「学習会主義」

 

 上田琢郎を名のる人物が書いた・わが探究派へのデマ宣伝の「第6回」(「解放」第2741号)は、「首を洗って待ってろ!」という言を弄するというような低劣なものであり、「このバカ野郎!」とか「この大バカ者めが!」とかと私への罵倒をくりかえしているだけのものである。
 私にたいして「己の犯罪に頬被りする」と称して、その「犯罪」なるものを記述したこの雑文は、ことごとく過去的現実を歪曲的に描いたものなのである。
 その主要なものにかんして、その過去的現実は実際にはどのようなものであったのか、ということについてふれておくことも必要である。
 この人物が「オマエが一九八〇年代前半」に労働戦線担当常任メンバーとして犯した誤謬・その組織破壊的犯罪を忘れたとでもいうのか!」と息巻いて書いていることが、それである。
 彼は言う。
 「じっさい産別労働者組織の指導的メンバーの組織会議を、学習会の「チューター集団」会議のようなものに変質させてしまい、各フラクション諸組織は労働運動への組織的とりくみなどとは関係のない・文字どおり「学習会」しかやらないような単なる〝お勉強をする場〟につくりかえてしまったではないか。」
 これは、現実の反映としてそうとうくるっている。
 ここに言う学習会の組織化の経緯から明らかにしていく。
 一九八二年冒頭に、「労働者組織をたてなおすために松代を東京に呼び寄せる」という政治組織局の組織決定のもとに、それまでは関西地方の労働者組織担当の常任メンバーであった私は上京した。私はすぐに同志黒田のもとに連れていかれ、同志黒田、前原茂雄に代わって実質上の書記長格であった常任メンバー、そして私の三人で会議をもった。
 同志黒田から次のように提起された。
 「われわれが党派闘争および謀略粉砕の闘いに組織的にとりくむ過程において前原茂雄の指導が技術主義的なものとなり、労働者組織は疲弊し実質上瓦解した。これをたてなおすためには労働者メンバーを理論的に武装することを基礎としなければならない。そのために、各革命的フラクションにかんして、フラクションの組織会議をもつと同時に、これとは別に、フラクション・メンバーからなる学習会をもつことが必要である。このばあいに、F・LC会議とは別にもつF・LCメンバーからなる学習会は、学習会のチューターの教育の場と言える。さらに、常任メンバーをこのようなチューターの教育ができるメンバーへと理論的に鍛えあげていくために、これまでやってきた労働戦線担当の常任メンバー(WOB=労働者組織委員会の常任メンバー)の会議の時間帯を二つに分け、その一方を組織会議としてもつ、と同時に、他方を、常任メンバーからなる学習会としてもつ。松代は、この常任メンバーからなる学習会の指導を担当するようにせよ」、と。
 あわせて、或る産別の労働者組織を担当せよ、と私は同志黒田から言われた。
 学習会の組織化にかんする同志黒田のこの提起は正しい、と私は考える。前原茂雄の組織指導がどのような問題をはらんでいたのかということをほりさげて総括していくことは残された課題をなす、と言える。
 同志黒田のこの提起について、常任メンバーの会議で、書記長格のメンバーと私とが提起して確認し、その組織化に組織的にとりくんだのである。
 この諸学習会をつみかさねている過程において、一常任メンバーから、なかなかうまくいかないんだ、という問題が提起された。
 「これまでは、F・LC会議やフラクション会議を日曜日にやっていたのだけれども、学習会が重要だ、とおもって、学習会を日曜日に入れるようにした。そうすると、組織会議を日曜日に入れることができなくなり、平日の夜にまわさなければならなくなった。そうすると、時間が足りず、組合運動への組織的とりくみにかんする論議が十分にできなくなった。どうすればいいか」、と。
 私は、「エッ、そんなことになっているの」とおどろき、「それは、組織会議と学習会とをひっくりかえそう。組織会議を従来どおり日曜日にやり、学習会を平日の夜にやるようにした方がいいよ」、と提起し確認し、現にそのように変えた。
 このように論議して変えるまでのあいだ、各産別組織で四苦八苦しており、混乱していた、と言える。このことを掌握しえていなかったのは私の責任である。
 上田が挙げているのは、実はこのような問題なのである。したがって、私が東京にいた一九八〇年代半ばまでは、「学習会主義的傾向におちいった」というように論議したことはないのである。
 私がまだ沖縄にいた一九八〇年代末に前原茂雄が右翼組合主義的偏向の切開をやったときに、「その前段に学習会主義的偏向がうみだされており、それは、松代が自分の理論的興味で指導したからだ」、ということを言いだしたのである。
 同志黒田は『労働運動の前進のために』で次のように書いている。
 「かの敗北のなかからたちあがって、労働運動を左翼的に展開してゆくことにとってふさわしい下からの地道なオルグ活動をくりひろげ、わずかばかりの理論的諸成果を主体化しなおすように努力しよう、とわが革命的左翼は決意を新たにした。このようなことの確認は、それにもかかわらず、まずもって——結果解釈的な思考法にも決定されて——「労働運動の冬の時代」ということを〝冬の時代の労働運動〟というように実体化して理解するという誤りをうみだした。このことを跳躍台にして、再出発しようとする決意と確認は、いわゆる「労働運動からの召還」とか「学習会主義」とかの偏向として、部分的にではあれ自然発生的にうみだされたのであった。こうした事態は、組織的=政治的感覚の、とりわけ思想的・理論的水準の凸凹の悲しさを、いやというほど体感させられるではないか。」(118頁)
 これが、一九八〇年代前半のわれわれの運動への組織的とりくみと組織建設にかんする同志黒田の総括である、と言える。ここで「自然発生的にうみだされた」とされているところのものは、われわれの組織的とりくみの問題として考えるならば、私が上にのべたようなことなのである。また「いわゆる「労働運動からの召還」とか「学習会主義」とかの偏向」という規定は、「いわゆる」という語が付されていることにしめされるように、うみだされた組織的現実を同志黒田自身が下向的に具体的に分析したものではなく、前原茂雄が言ったことを踏襲したものと考えられるのである。

 

 「原稿づくりと学習で組織づくり」との私の言なるもの

 

 さらに上田は言う。
 「さらに加えておまえはほざいた。〝こういう時代には、原稿づくりと学習で組織づくりをおこなうのだ〟と。」
 私が常任会議で言ったのは、「こういう時代には」というような単純なことではない。次のように言ったのである。
 「私が担当している産別では、企業当局および国家権力から激烈な攻撃がかけられており、わが仲間たちが組合本部の役員を担っている、という主客諸条件のもとにある。いまかけられている〇〇部門の外注化という攻撃をはねかえすための労働組合の運動=組織方針にかんしては、これを、
   〇〇部門の外注化阻止=一定程度の配置転換・労働強化は認める
とする、というように論議してきている。このような組合の方針、すなわち柔軟なそれをうちだして組合運動を組織し、この運動をつうじてわが組織を担うメンバーをつくりだすためには、わが組織の諸成員を強固に鍛えあげる必要がある。そのために、わが組織諸成員に、わが党の立場にたって攻撃を分析する原稿や他党派の方針を批判する原稿を書いてもらう、と同時に、反スタ諸理論を学習する、というようにしている。このようなかたちで組織づくりをやっている」、と。(『松崎明黒田寛一、その挫折の深層』168頁参照)
 私は、私のやっていることの教訓を常任メンバーたちに普遍化するために、このようなことをくりかえしのべたのである。
 これの基本的部分を「こういう時代には」というように切り縮めたのが、上田の再生産なのである。

 

 「冬の時代の労働運動」というスローガンについて

 

 また上田は次のように書いている。
 「「労働運動の冬の時代」ということを〝冬の時代の労働運動〟などと実体化してとらえ、労働戦線においてたたかう・われわれ労働者にたいして、どれほどの犯罪的な「指導」をおこなったかについて、よもや忘れたわけではあるまい。自らに都合が悪いことはヨコにどける、などという姑息な行為はやめよ!」
 上田はえらくいきり立っているのであるが、過去的現実を思惟的に再生産するその仕方も、再生産したその中身も、おかしい。
 この文章は、先に引用した同志黒田の論述からその一部を引き写したうえで、そういうことをやったのは松代だ、というように、松代に責任をおっかぶせたものである。このやり口がおかしいのである。
 さらに、一九八〇年代の常任会議において「冬の時代」というような用語を使って私が論議を組織したことは一度としてない。「冬の時代の労働運動」というのは、或る労働組合において、組合役員と組合員を武装するという目的をもってうちだされたスローガンなのである。こういうことを知っていたことからして、私は、われわれが情勢を分析したり指針を解明したりするときに、またその論議をするときに、「冬の時代」という用語を使うことはないし、使ったことはなかったのである。
 私が常任会議で提起したのは、「労働運動の帝国主義的再編を粉砕する戦闘的諸労組の闘いが敗北したという現情勢のもとで、われわれは、どのような指針をうちだし、この指針にのっとってどのような諸活動をくりひろげるべきなのか、ということを解明する必要がある」、ということであった。私のこの提起は正しい、と私は考える。

 

 「特別労働者大学」の開催の経緯について

 

 さらに上田は言う。
 「まさにこのゆえにこそ、目を覆いたくなるような悲惨な組織的現実を聞くに及んだ・ある特定産別の経験豊かな労働者同志たちは激怒して、その根底的な組織論的反省と実践的ひっくり返しのために、自らの責任において・かの三度の「特別労働者大学」(八四年~八五年)を開催したのである。そこにおいては、労働運動の組織化における「技能」にかかわることがらをも・原点にたちかえって手ほどきしてもらったのだ。」
 これは意図的な作り話である。
 ここに言う経験豊かな労働者同志たちが一九八〇年代前半に他産別のことにかんして激怒した、ということはない。私はこの特定の産別組織を担当したのであり、この労働者同志たちと日常的に論議していたのであるからして、よく知っているのである。ここで「特別労働者大学」と呼ばれているものの開催については、先にのべた学習会の問題とは無関係である。
 私は、この労働者同志たちから、「どうも、他産別の同志たちは、組合執行部の役職についているメンバーもいるけれども、われわれが組合役員として活動するばあいに身につけていなければならない技能的なものを知らないようだ。下部の組合員であるようなことしかやっていない。われわれが培ってきたものを伝えたほうがいいとおもうのだが、どうだろうか」という提起をうけたのである。私は「それはいいですね」と答えて、同志黒田と相談し、常任会議に提起して開催を決定したのである。これが「特別労働者大学」を開催するに至った経緯である。
 この経験豊かな労働者同志たちが「自らの責任において」この「労働者大学」を開催したのだ、とは、上田はおかしげなことを言うものだ。常任会議という実質上の党の機関の会議で決定しなければ、このようなものを開催することはできないし、事実、常任会議で決定して開催したのである。
 どうも、上田は、組織論なかんずく党組織建設論がまったくわかっていないのではないだろうか。
 以上、事実問題の四点にかんしてのべてきた。デマ宣伝はやめた方がいい。
 しかも、右翼組合主義的偏向およびDI路線の問題性をどのようにえぐりだすべきなのか、ということを私が明らかにしたことにたいして、これについては自分の見解を一切表明しないで、一九八〇年代前半のことがらをもちだすというのは、話のすりかえであり、それ自体政治主義なのである。
 上田琢郎を名のる人物のこの雑文は、徹頭徹尾政治動物のものなのである。
      (2022年10月22日 松代秀樹)