──二つの〝絶対〟(神と〇〇〇)が同居する「革マル派」中央官僚派──

  北井信弘氏により書籍として著されたものでいえば二〇一四年以来、「革マル派」中央官僚に対する批判は、戦略論、運動=組織論、組織建設論の各領域において全面的に展開されており、官僚どもの路線的誤謬と組織的破産は、理論的かつ論理的に白日の下にさらされて久しい。
 にもかかわらず、この八年にもおよぶ期間において、これにたいするただの一度の反論や論及もなく、彼らは海底で固く口を閉ざす貝のように死の沈黙を守りとおすだけであった。このことの政治的党派としての意味するところは社会的に明らかである。彼らはすでに理論的に死んでいるのだ。
 だが、「革マル派」の世界革命戦略の歪曲をあばきだし、二一世紀現段階における〈反帝・反スタ〉世界革命戦略を解明したことを路線上の結節点とした二〇一九年春の「探究派」の結成(革共同第四次分裂の展開の開始)より三年。「革マル派」中央への理論的追求の攻撃はその激しさを増した。
──彼らの労働運動の推進と党建設そのものの誤謬と挫折を抉り出し、その根拠をあばき教訓化するたたかいの進展は書籍『松崎明黒田寛一その挫折の深層』の出版によって社会的にも明らかになった。このことは、その後の「革マル派」中央官僚派の思想と行動に決定的な意味をもつことになる。
 
 黒田の死後、中央官僚どもはみずからの官僚としての地位の保全を盤石なものとし、下部組織成員たちからその組織的主体性を奪い去り、彼らを官僚主義的に支配しみずからに従属させ、おのれの意のままに操縦できるイエスマンとするために、同志黒田を神格化し、みずからをその崇敬・帰依の頂点に立つ神官と位置づけ、下部の組織成員をその敬虔な信者とする組織の宗教団体化への途を掃き清めてきた。

 そのような官僚どもからすると、崇め奉る絶対なる神と化した黒田の挫折や無念を描いたり、その思想闘争や理論追求において欠如するものや未切開な部分を指摘することにより、黒田を松崎とともにのりこえる対象として措定することなど、神の冒涜にひとしい行為であり、断じて許されることではないのだ。無謬かつ全能の神が否定されることはその神官(みこともち)であるおのれの官僚としての絶対的権威が危うくされることを意味する。彼らはその内心、身に迫った明日知れぬおのれの崩壊の危機を直観し、ただならぬ恐怖心と危機意識にさいなまれはじめたのだ。
 
 これまでは探究派の理論的批判には一切沈黙を守ってなんとか乗り切ってきたが、もはや従来のだんまり戦術ではおのれの身が危ない。嵐が過ぎ去るまでと思って頑なにじっと殻に閉じこもり、貝の論理を貫こうとしてきたが、もはやそれでは身を保てない。内部の不安や動揺も不気味である。官僚どもはこの現実の乗り切り策を巡って思案の日々を重ねた。あらゆる分野において理論的には何一つ反論できないことは百も承知の彼らである。では、どうすればよいか?

 残された最後の手段がひとつあった。それは、黒田を盾に「教祖にたてつく」ものを「反革命」や「スパイ」にすればいい。そうすれば、理論的批判に対応できなくても、「『反革命集団』や『スパイ集団』のいう戯言などは聞く必要もなければ、答える必要もない。」「それは論争以前の問題であるから。」ということで乗り切れる。習いの手本は彼らがかつては批判の対象にし乗り越えたはずのともがらにあった。スターリンと本多延嘉である。二人ともみずからの排外主義や暴力・殺害行為を正当化するために、トロツキーやかつての「革マル派」に対し「反革命」「スパイ(K=K連合)」などとレッテル張りをした。

 この手法は、みずからの利益に敵対すると見なした相手に対し、ある悪しき社会的観念のレッテルを貼り付け、そのイメージ化のために様々な事実をねじ曲げ、捏造し、〇〇像をつくりあげ、「さもありなん」式に相手を〇〇に仕立て上げ、反〇〇感情を社会的に煽っていくというファシスト的な大衆操作術なのである。「嘘も百回つけば真実になる」というのはナチス宣伝相ゲッベルスの言だということだが、同一のデマ宣伝を毎号のように──繰り返し繰り返しその機関紙『解放』の頁全面をつかって──扇情的に書き立てる「革マル派」中央官僚派の手法にもこれがうかがえる。

 因みに毎日、毎時間あるいは数分おきにしつこく放映されるTVのコマーシャルもその狙いは、明らかである。それは、幼児が容易に惹きつけられることからも明らかなように、その動画の展開を奇をてらったものにすると同時に、音声レベルやピッチを上げることにより視聴者の目と耳に焼き付ける──その画像と音声を感覚と意識に刷り込む──ことを通して、企業や商品のイメージの向上を図るところにある。

 「革マル派」中央官僚派のデマ記事の執拗な連載も、下部組織構成員からその批判的判断力を奪い去り、官僚どもの流すデマ記事(探究派=「反革命」「スパイ」)を「さもありなん」式にその意識に刷り込み、植え付けるためのものである。それは同時に、探究派の理論的十字砲火により危機に瀕した官僚としての自己の姿を黒田を盾に押しかくし、黒田哲学の唯一の継承者(=黒田教の最高位の神官)としての現指導部への絶対的従属(=帰依)を強制するものでしかない。

 かつて天皇制ボナパルティスト国家権力者が反戦・平和や政府の政策に異を唱えるものを「非国民」と呼び、彼らを摘発し弾圧するために、隣組の住民たちにその相互監視や権力への通報・密告を強制した。いま、疑心暗鬼の飛び交う「革マル派」中央官僚派の内部においても、それと同様の「探究派=反党反革命」分子の監視・摘発が行われている。
 

 二〇一四年、「スターリン主義負の遺産の超克」論や「中国=ネオ・スターリン主義」論などの<反帝・反スタ>世界革命戦略の歪曲・破壊を完膚なきまでに批判されて以降、少なくとも八年間にわたり死の緘黙を決め込んでいた彼ら「革マル派」中央官僚派が、先々月の八月一日付けの『解放』第二七二九号の紙面上において、まるで狂ったように突然饒舌になり喚き出し、騒ぎ出したのだ。その理由はもはや明らかであろう。いわく、「反革命=北井一味を粉砕せよ!」

 この二頁にまたがる大見出しこそ、探究派からの連日にわたる祖国防衛主義やブルジョア民族主義への陥没にたいする批判に何ひとつ理論的に反論できない追いつめられたおのれへの危機意識と悲鳴のあらわれ以外の何物でもない。

 その内容たるや、探究派の三人にその的が絞られているのであるが、理論的な主張への論議など何一つなく、ただただ個人へのあくどい事実のでっち上げとそれへの誹謗中傷や罵詈雑言に満ち、由なき断言・断定に終始しているものである。

 二回にわたって連載された「座談会」(『解放』第二七三二ー三三・第二七三六号)なるものも実に低劣でその社会的品位が疑われるものであった。「まるで低俗な週刊誌の記者」の「下世話の座談会」だと『解放』を初めて読んだという北井ブログの読者が語っていたが、私は、発言者たちの個人攻撃の言葉にそれ以上のものを感じた。
──「この野郎!」「この馬鹿めが!」「人でなし」「未熟児」「頭が狂ってる」「精神病理学の対象」「どの面下げて言うのよ!」「人間のクズよ!」「どうしようもないガキ」などという個人を特定した人格否定のことばが紙面いっぱいに乱れ飛ぶ──これが本当に公党たるものが、その社会的・階級的責任にもとづき企画・編集・発行した政治機関紙の紙面なのであろうか?  最新の記事(『解放』第二七四一号)においては、言うに事欠いてついに「首を洗って待ってろ!」という反社会的組織の使用する脅迫と威嚇のことばを公然とその小見出しに記載するようになっているのだ。

 八年ぶりにその沈黙を破ってみずからを批判した人間に返すのに、このような低劣な言葉しか残っていなかったとは無惨の一言である。挫折した反スターリン主義運動と組織の革命的再生を期して著された畢生の労作『松崎明黒田寛一』を「反革命の書」と公言してはばからない精神構造の官僚たち──その〝崩壊の足音〟が私にも聞こえる。
 中央官僚派にとって、『松崎明黒田寛一』の出版は、自らの拠点ならぬ虚点を組織論的に曝きだし打ちのめしたという意味で、決定的な意味をもつ。
 そのような彼らの内面(=神殿)には今、官僚としての自己崩壊──その危殆を隠蔽するための詐術として、「神(黒田教)」と「〇〇〇」の二つの〝絶対〟が背中合わせに同居している様がありありと見てとれる。
 (二〇二二年一〇月二八日 岩淵宗太郎)