破産の隠蔽策で尻尾を出した「革マル派」中央官僚派

 思想闘争の炎にあぶられた〝ブンブク茶釜〟

 松崎明黒田寛一』から逃げる「革マル派」中央官僚

 

 「反革命=北井一味を粉砕せよ!」と題するシリーズの「第五回」(「解放」第2739号)は、初めて「白嶺聖」という個別メンバーの筆名で打ち出された。かつて党の指導部に属し、健筆をふるったメンバーたちが、党の指導権を握った政治主義者たちに嫌気がさして次々と筆を折り、脱落・離脱しただけではなく、他のメンバーたちも「ボケて使い物にならない」(早川の言!)状態に陥った。そのなかで〝使い物になる〟と見込まれた白嶺が登用された、というわけであろう。なるほどそれだけのことはある。

 

  グロテスクな個人攻撃で破産を取り繕い

 

 もちろんその内実は、相も変わらず、わが探究派の中心メンバー(今回は私・椿原)にたいする人格攻撃・誹謗中傷で紙面を埋めつくした、なんとも下劣な作文ではある。それはもはや〝わいせつ物公然掲示〟とでもいうべきであろう。
 わが党の同志たちを誹謗したければすればよい。デマや偽造、針小棒大から各種の捏造は諸君のお手の物、やりたい放題やればよい。それは厚顔無恥な諸君の特権だ。わが探究派の革命的理論闘争から身を隠し論争を回避するために誹謗・中傷を続けることによって、革命家とは名ばかりのみずからの今日的腐敗を曝け出し、「革マル派」そのものが社会的にも呆れられるだけのことである。
 わざわざ今号の「解放」を八面にしてまで、「反革命=北井一味を粉砕せよ! 第五回」を出したのは、「『松崎明黒田寛一』は反革命の書だ」と言っておきながら、その問題に一歩踏み入ることを彼ら「革マル派」中央官僚が恐れていることを隠蔽するためである。「反革命=北井一味粉砕!」というデマ・キャンペーンの破産をのりきるために「椿原」への攻撃でお茶を濁した、というのがその真相であろう。
 とはいえ、白嶺は、大きな失敗をやらかした。ふれてはならない問題にふれてしまったのである。

 

 見事に尻尾をだした狸!

 

 まことに価値があるのは次の文面である。

 

 彼(椿原)は一九九三年8月某日に、同志黒田の7・31テープで「DI問題」が問わ    れているのを知るやすぐその場で、「自分は以前からDIへの批判をやってきたのだ」と自己顕示欲まるだしでいいだした。多くの仲間が「エッ、なんのこと?」と耳を疑った。(「DIと唯一たたかったという 大ウソ」)
                                                                              
 嘘も休み休み言え! 事情・経緯を知っているにもかかわらず、平然とこういうことを吹聴するとは、白嶺のツラの皮も相当厚くなったものである! 「革マル派」中央官僚の一員として生きていくためにはこの程度のことはこなさなければ、という覚悟は立派、というべきか。白嶺が示唆している辺りの経緯は「多くの仲間」が知り、記憶にとどめていることである。それとも、事実を知る人たちはもういない、と白嶺は考えているのだろうか? 作り話に熱中するとすぐボロをだす、というのは、愚か者の常であるとしても、墓穴を掘るような作り話はやめた方が良い。しかしせっかく騒いでくれたのだから、この問題についてやや詳しく事実を明らかにしておくことにしよう。

 

 「挫折の根源」

 

 そもそも「DI問題」とは何か。同志松代が指摘している。「わが革マル派組織建設の挫折の根源は、論理的にも歴史的にも、一九九〇年代初頭のわが労働者組織のつくりかえの闘いのゆがみそのものにある、と私はおもうのである。」(『松崎明黒田寛一――その挫折の深層』一九一~一九二頁)
 「DI路線」と言われるものこそが、ここに言われる「一九九〇年代初頭におけるわが労働者組織のつくりかえの闘いのゆがみ」を象徴するものである。同時にそれは、かつてわれわれの誇りでもあった国鉄(JR)の革マル派労働者組織が党を一挙に離脱するという日本反スターリン主義運動史上の痛恨事を引き起こす起点ともなったのである。したがって、「DI問題」と言われる問題を真に教訓化することを、われわれは決して避けて通ることができない。同志松代の渾身の力作『松崎明黒田寛一――その挫折の深層』は、まさにそのために上梓されたのである。

 

 「組織暴露だ!」という悲鳴

 

 しかし、具体的に事実を明らかにする前に確認しておくことがある。
 わが探究派の「革マル派」にたいする理論=思想闘争について、「革マル派」官僚はしばしば〝組織暴露だ!〟と悲鳴をあげる。しかし、考えても見よ。われわれは革命的前衛党を建設するために苦闘してきた。そして、そのためにはその過程で発生した誤謬や失敗をのりこえていくことが絶対に必要であり、発生した問題に関する具体的な分析的反省が不可欠であることは言うまでもない。だが多くの問題について、多くの組織成員には事実が明らかにされないまま、その時々の指導部の独断的「教訓」が下達されることが、――痛苦ことに――しばしばあったことも事実である。そのような〝由らしむべし、知らしむべからず〟式の組織指導は組織を歪めるだけである。過去の失敗や挫折を真に教訓化するためには一定の事実関係の究明が基礎となることは言うまでもないことである。われわれはそのような観点から、特定の重要な問題を解明するために必要な最小限の事実を確認しているのである。それにたいして「組織暴露だ!」という悲鳴をあげるのは、真実が暴かれ、誤謬が明るみにされることをむしろ恐れるものたちである!

 

  「エッ、なんのこと?」

 

 せっかくだから白嶺の論述につきあうかたちで事実・経緯を説き起こそう。
 「同志黒田の7.31テープで「DI問題」が問われているのを知るやすぐその場で」と白嶺は言うが、「その場」とはどこか、については明らかにしていない。
 事実はこうである。
 「7・31テープ」とは、その内容がのちに「労働者同志諸君へ」として公表されたものであるが、私は一九九三年八月に、そのテープ講演の会場で、初めてそれを聞いた。講演が終わった途端に、私は携えていた文書をその場を取り仕切っていた常任メンバーに手渡した。「テープを聞かせてもらって、キチンと提出する気になりました。ここで皆さんに自分で配布するつもりでもってきたのですが。」と言って。その常任メンバーは、おそらくは事情を何も知らずに、にこやかに受け取ってくれた。かなり以前から、紙誌上でも現場でも見かけないHDというメンバーである。
 手渡した文書とは、「□□[北海道]地方報告について」と「革命的マルクス主義復権を!」というものであり、それぞれ一〇〇部を私は持参していた。テープ講演の内容について、私は他のほとんどの仲間と同様に、予め聞いてはいなかった。私は講演内容によっては、文書をその場で配布する覚悟で持参していた。講演を聞いて完全に納得したわけではなかったが、同志黒田が問題を深刻に受けとめ組織内思想闘争を全面的に推進する意志を示してくれたことに安堵し、〝叛乱〟的なやり方ではなく、穏便な提出方法をとったのである。
 白嶺のいう「自分は以前からDIへの批判をやってきた」と言ったという「椿原」という人物も、「エッ、なんのこと?」といった「多くの仲間」も、ともに白嶺の戯作の登場人物にすぎない。
 私が常任メンバーに手渡した文書は、その後、常任メンバーだけでなく、労働者組織のいわゆるLCメンバー、諸機関のメンバーにも配布された。この文書について、私・椿原は多くの方々から声をかけてもらったので、このことはハッキリしている。もう覚えている人はいないだろうと、白嶺は思ったのだろうか。いや、そんなことに頓着する余裕もなく、「椿原の自己顕示欲」を示すためのストーリーの捏造に必死になったというのが真相であろう。
 そして九月には、党中央を代表する同志松代と「K3」という通称をもつ常任メンバーと面談する機会を与えられ、お二人から「DI路線」を許したことについての謝罪も受けた。私は、〝これで大丈夫だ、DIの暴走は終わった〟と安堵し、お二人の前で涙を流してしまったことを思い出す。[ なお、その後に開催された政治集会に結集する過程で、私・椿原を見て電柱の陰に身を隠した男がいた。ヘラヘラしたその笑顔の主は、土井の〝子分〟となって奔走していた片桐悠である。この片桐がその後、「椿原は夜郎自大だ」とふれまわっていることを、私は同志たちから聞いている。上に記したような私のふるまいが彼にはよほど異常に見えたのであろう。同志松代にたいする「異常な精神世界」などという誹謗も、椿原にたいする「夜郎自大」というレッテル貼りも同根であることは、すでに指摘しておいたのであるが。主体性も勇気も、いわゆる根性さえもない、というのは実に困ったものである。]

 

 「3.1報告」をめぐる私・椿原の闘争と挫折

 

 私がテープ講演の会場で党指導部に託した文書の一つ、「北海道地方報告について」について簡単に説明したい。
 「3.1春闘集会」の会場でいわゆる「DI報告」(当時はもてはやされ、後には悪名が高くなったそれ)を聞いてギョッとした。「労働運動に冬の時代はない、いつも真夏だ」「資本・民同と刺し違える覚悟で闘え」「後ろ指をさされることを恐れるより、前指をさされるように闘え」等々の発言を聞いて革マル派の理論とは無縁な急進主義に、「右」に向いたものを「左」に向ける二者択一的発想などに危機感を抱いた。しかし、私はこの問題について即座に理論=思想闘争を開始することが出来なかった。じつは、こんな馬鹿話が革マル派組織内で通用する筈はない、真に受ける人はいないだろう、というように〝楽観〟していたからである。
 ところがそのような幻想が打ち砕かれる日が来た。
 私が所属していた地区組織の、春闘にむけての全国的交流集会の場で提出された北海道地方の仲間の報告は、じつに真面目に書かれた文章であったにもかかわらず、3.1の「DI報告」を受けいれ、それに沿って自分たちの活動をふり返るものとなっていたからである。
 私は交流会の場面でこの報告を批判しただけではなく、三月中旬には「北海道地方報告について」という文書を書いて所属組織に提出し、警鐘を乱打した。しかし、このような「右翼組合主義の克服」の仕方(私はそれを「合理化との対決」主義と規定した)は〝角を矯めて牛を殺す〟ようなやり方であり、その貫徹は組織を「集団ヒステリー」にいたらせるであろう、「われわれは痩せても枯れても革マルである」という私の訴えは、DIを信頼し彼に追随する仲間たちから拒絶され、〝袋だたき〟となって、私は挫折した。〔なお、九二年四月に、私は「筆名変更問題の組織的意味」という文書をも書いた。これは全員が組織的確認にもとづいてペンネームを変更したにもかかわらず、指導的メンバーが相変わらず変更以前のペンネームを平然と使い続けていることを告発・批判したものであり、土井の直接の指導のもとで生み出された当該組織における組織関係の紊乱(びんらん)を暴露したものという意味をもっている。この文書は何も問題にされなかった。〕

 

 「DI路線の見直し」を告知した長井九郎論文

 

 私は、九二年四月に挫折して以降、「必ずひっくり返してやる」という決意と覚悟はもってはいたが、沈黙を破ることは出来なかった。だが、九三年になって、春闘集会での同志松代の発言に疑問を感じたことを契機として、おのれ自身の賃金労働を主体的に考察し理論化する追究にとりかかった。その成果が「賃金労働者の『目的意識』」という論文である。私はこれを一九九三年五月初旬に書き上げ、所属組織に提出した。(私が「DI路線」の克服を意図して書いたこの論文は、一九九三年九月になって「佐久間置太」名で「解放」に掲載された。「佐久間」という筆名は同志黒田が付したものである。「置太」とは、彼に「床の間の置き狸」と言われたことのある私にたいする少々の冷やかしと熱い激励の意味があるのだろうと私は受けとった。)
 そしてついに「解放」第一二八〇号(一九九三年八月九日付)に掲載された長井九郎論文(「革命の構えだけでは組織はできない」)こそは、党指導部において「DI報告」への反省とうみだされた重大な過誤を克服するための思想闘争が開始されたことを告知するものであった。私には筆者が同志松代であることはすぐわかったが、この論文が打ち出された経緯を私が同志松代から聞くことができたのは、なんと四半世紀後の二〇一九年になってからである。
 この論文を読んだ私はただちにそれに呼応し、「革命的マルクス主義復権を!」というタイトルを付した論文を書いた。(続いて出た「播隆」とかという署名の長大論文は、一片の自己省察もないものだったので、私は吐き気を催した。)テープ講演の会場で私が常任メンバーに託したもう一つの文書がこれである。

 

 同志松代が党中央における「DI路線」批判の烽火をあげた!

 

 同志黒田が党指導部の「無気力」と組織の混乱に驚き、組織の点検を開始したことが「DI路線」見直しの条件となった。直接の問題は、全国常任会議で新たに作成され確認されたコード表が、労働戦線担当常任のセンターにキチンと伝達されていないことが浮かびあがったことであった。憤激した同志黒田の決断と指示にもとづいて、四人の主要な常任メンバー(いわゆるDI=土井と足利、片桐、松代)は鬼塚が指揮する特殊機関に〝出向〟し、そこで「報告・連絡・相談」を学び直すこととなった。
 だが、この時期には労働者組織の危機が進行していたため、学び自己を訓練した松代と片桐の二人が労働戦線担当機関に呼び戻されたのであった。労働戦線担当に復帰した同志松代は、労働戦線担当常任メンバーたちの前で、かの「DI報告」の歪みが労働者組織の危機の根底にあるにもかかわらず、闘争しえてこなかったことを自己批判的に提起した。このことが同志黒田に報告された。驚いた同志黒田は、組織の点検にのりだし、「DI路線」そのものの問題性を自覚し、その誤謬を根本的に克服する闘いを開始したのである。「長井九郎」論文は、このような組織的背景をもって、同志松代によって執筆され公表されたのであった。
 だが、この時期の組織内思想闘争は大きな限界と欠陥をもっていた。その所以は、詳しくは『松崎明黒田寛一』の一六四頁以下の「何をえぐりだすべきか」を参照されたい。ここで簡単に述べるならば、私の「北海道地方報告について」における批判は、「DI路線」(一九九二年三月一日の春闘討論集会の「基調報告」に示されるもの)といわれるものに直対応し、それを理論的に批判するものにとどまっている。また労働運動論などについて私が不勉強であったことに起因する限界も露呈している。
 今日からすれば、右翼組合主義的偏向を克服することを意図した組織内思想闘争が難航したことを条件として、党指導部は同志黒田の指示もしくは承認をうけて、偏向が著しく組織的影響が大きいと見られる労働者組織成員たちに組合役員の辞任を、さらには職場を辞めることをも要求し、貫徹したのである。これは右翼組合主義的偏向の克服のための組織内思想闘争の困難を、いわば外科的に打開することを図るものであった。このような打開策は労働者組織に重大な混乱をもたらすとともに、党の労働運動上の影響力を著しく減退させることとなった。いわゆる「三・一報告」は、党中央がとった上記のような対応策を正当化し、貫徹するためのものであったといえる。だが当時そのような諸現実を知り得なかった私は、「三・一報告」を聞いて仰天し、直対応的に批判したにすぎなかったのである。
 もっとも、さらに決定的な問題は、同志黒田の「「資本との対決」なるもの」(こぶし書房刊『労働運動の前進のために』)という論述そのものが上記のような党指導部による右翼組合主義の克服のための諸措置とは無関係なものとなっていることなのである。このことについても、上掲の「なにをえぐりだすべきか」を参照されたい。

 

 革マル派の変質と再生への萌芽

 

 このように九〇年代初頭における右翼組合主義の克服をめざした闘いは、新たな組織的過誤と混乱をもたらし、甚大な組織的損失をももたらしたのであった。そしてその闘いの真の教訓化は、いまようやくにして重要な前進をかちとった。それが『松崎明黒田寛一』の重要な論点をなしているのである。
 だが、二〇二〇年九月の黑田寛一著作集の発刊を機に、同志黒田を神格化し、革マル派組織を「黑田教団」のようなものに変質させたのが、今日の党指導部である。彼らによって変質させられた組織を、われわれは「もはや革マル派ではない革マル派」という意味において「革マル派」と表現することとした。(プラズマ出版刊行の『コロナ危機の超克』の「革マル派の終焉」を参照されたい。)「革マル派」指導部は、彼らが神格化してやまない同志黒田の誤謬にも及ぶ教訓化を決して容認できないのである。彼らが「反革命の書」だと言い張る所以である。
 「革マル派」中央官僚たちは、おのれが変質させた今日の党組織をあくまで維持し、おのれ自身の安泰をはかるためにこそ、わが探究派にたいする破廉恥な攻撃をしかけたのであった。今回(第五回)は「椿原」への誹謗に集中したのであるが、「革マル派」官僚の白嶺が椿原の「自己顕示欲」の発露だとする「発言」についての記述はすべてが完全な捏造であることはすでに明らかであろう。彼らのわが探究派の同志たちにたいする非難・誹謗は、一事が万事、この調子である。

 革マル派組織建設の挫折の根源をなす、一九九〇年代初頭の右翼組合主義の克服をめぐる組織的闘いの歪みを今日的に教訓化した『松崎明黒田寛一』(松代秀樹著)の意義は極めて重大であることをわれわれは声を大にして訴える。同時に、かの歪みを克服する闘いをふりかえることを通じて、われわれは、革マル派建設の挫折を教訓化し、のりこえる力が胚胎したことをも同時に確認しうる。
 一九九〇年代初頭に同志黒田は、土井を登用し、常任メンバーたちにも「土井に学べ」「土井に聞け」と指示していたのであったが、「DI路線」の反省の時期において、一定のメンバーたちからは、同志黒田にたいして「土井に学べと言ったではないか」という疑問と反発が噴出したのであった。それは同志黒田にたいする疑問の提起としてはそれなりの正当性をもつとしても、同志黒田にぶら下がり、己の主体性を確立しそこなったものの恨み節にほかならなかった。(足利はそのような呪詛を残して逃亡した。)われわれは、そのような傾向をも克服しつつ闘ってきたのである。

 「革マル派」の変質はここに極まった。わが探究派にたいする悪辣な誹謗と敵対は、わが探究派とともに闘う仲間たち、そしてなお「革マル派」の軛のもとにありながらも探究派の闘いに呼応して決起する時機・その形態を探っている仲間たちの怒りの火に油を注いでいる。
 すべての仲間たちよ! 革共同第四次分裂の地平にふまえて、ともに前進しよう!
  二〇二二年一〇月七日  椿原清孝
 

革共同第四次分裂の地平を打ち固め、革命的前衛党の創造に邁進しよう!

 新たな戦乱の時代を、プロレタリア革命の第二世紀へ!

 

 二〇二二年二月二四日の、ロシア軍によるウクライナへの軍事侵攻とプーチンの「特別軍事作戦」の宣言は新たな戦乱の時代を告知した。侵攻したロシア軍と、米欧諸国から供給された最新兵器で武装したウクライナ軍との戦闘は、米・欧・日の旧来型帝国主義[西の帝国主義]とスターリン主義から転化した中・露の新型帝国主義[東の帝国主義]とのグローバルな抗争の、まさに発火点としての意義をもっている。
 それと同時に、戦禍による破壊に加え、ロシアに対する西側帝国主義の「経済制裁」を引き金として、全世界的に食糧・エネルギーの価格の高騰と絶対的不足という危機が進行し、人民の生活苦と飢餓は、西側を含む全世界に拡がっている。
 だが、痛苦にもこの戦争をめぐる全世界の労働者階級の反戦の闘いは、沈滞し、米・欧を中心とするいわゆる「国際社会」のロシア非難の排外主義的キャンペーンが全世界を覆っている。
 日本においても、日本共産党は「国際社会」の(したがって西側帝国主義の)「第五列」ともいうべき姿を呈している。「連合」は会長・芳野が安倍の国葬への参列を表明するなど、産業報国会化を深めている。そしてまたかつて米ソ核実験反対闘争・ベトナム反戦闘争など、労学全戦線において輝かしい闘いを展開してきたかつての革マル派は、今日ではウクライナ問題において祖国防衛主義に転落し、民族主義的腐敗をさらけ出している。
 このような階級的現実のもとで、腐敗した「革マル派」中央官僚派に抗して、組織の内外において革命的分派闘争を繰り広げてきたわが探究派に課せられた任務は極めて重大である。
 まさにこの時、探究派がその結成を宣言してから二年有半、この間ずっと沈黙を続け、われわれの理論=思想闘争から身を護ることに腐心してきた「革マル派」中央官僚派は、わが探究派の闘いに耐えかね、ついに「反革命=北井一味を粉砕せよ!」と叫びだした。まさにこのことは、わが分派闘争の勝利を鮮やかに示している。その直後から、探究派のもとには、「やりましたね!」という声が次々と届けられている。

 

 われわれは宣言する。
 この間の革命的分派闘争を基礎としてわれわれはついに革共同第四次分裂をかちとった。この地平に踏まえ、新たな革命的労働者党の建設に邁進することを、われわれはここに明らかにするものである。

 

  革マル派」中央官僚派の反「探究派」攻撃をうち破った闘い

 

 探究派結成宣言から二年有半、その事実を突きつけられながら沈黙を続け、わが探究派との理論闘争を忌避し逃げ回ってきた「革マル派」中央官僚派――彼らがついに始めた反「探究派」キャンペーンは、彼らの変質と腐敗を画するまことに醜怪なものであった。それはいわゆる第三者が見ても吐き気を催すような俗悪・劣化ぶりを示すものであった。そして、われわれが、彼らがわが探究派との理論=思想闘争から逃げ、自己の官僚的地位を守るための欺瞞と詭弁の集成というこのキャンペーンの本質を的確に暴露し彼らを追撃した途端、彼らはなすすべもなく退散した。

 

  転落と腐敗を曝け出した「北井一味=反革命」なる絶叫

 

 「解放」第二七二九号に「第一回」、第二七三一号に「第二回」、第二七三二~三三合併号に「第三回」、第二七三六号に「第四回」が掲載された「反革命=北井一味を粉砕せよ!」というタイトルの一連の記事は、彼らの腐敗の深さを自己暴露する記念碑的なものとなった。
 彼らは「座談会」形式の「第四回」の末尾を「この『挫折の深層』の反革命性については、今後あらためて明らかにされると思います。」という文言で締めくくった。『松崎明黒田寛一 その挫折の深層』は「反革命の書」だと「第一回」で宣言したにもかかわらず、一か月半後の「第四回」でもこの始末。『松崎明黒田寛一』が「反革命の書」だという、彼らの「北井一味=反革命」規定を裏付けるはずの重大な問題について、没理論的で悪辣な誹謗以外のなにものも示すことなく、このような「逃げ口上」を残して彼らは退散した。これを〝鼬(いたち)の最後っ屁〟といわずして何といおうか!

 

  あっけなく破綻したデマと欺瞞のネガティブ・キャンペーン

 

 彼らが初めて直接的に「探究派」に言及した、その内実は驚くべきものであった。かつてスターリントロツキーをはじめとする多くの革命的共産主義者に「反革命」の烙印を押して抹殺したこと、そして近くはブクロ=中核派官僚であった本多延嘉が革マル派にたいして「反革命日本帝国主義の左足」というレッテルを貼り、暴力的敵対を正当化したこと――これらを熟知し、かつてはそのような腐敗した政治主義的手法を弾劾してきた「革マル派」中央官僚たちが、今日では、スターリンや本多延嘉の後塵を拝して、卑劣な策動を大々的にくり拡げたのである。
 そのやり方は、アメリカ大統領選挙などのブルジョア選挙でさえ邪道とされる〝ネガティブ・キャンペーン〟の手法そのものである!
 そのキャンペーンの二つの軸は、わが探究派に「反革命」「権力の狗」のレッテルを貼るために、糸色望氏を「CIA」か「内閣情報調査室」の「諜報員」とみなし、この糸色氏に「北井」が操られているという構図をこしらえ、「探究派=反革命」とすること、および「北井」は、精神異常者である、という卑劣なデマを徹底的にまき散らすことであった。明らかにその目的は、わが探究派が打ち出した『コロナ危機との闘い』から『松崎明黒田寛一 その挫折の深層』にいたる諸文献、さらには「北井信弘のブログ」および「探究派公式ブログ」等で展開されている「革マル派」官僚たちに対する批判に「革マル派」下部組織諸成員が気づき、既に多大な影響が出てきていることに恐れを抱いた彼らが、組織に城壁を築いて囲い込み、組織諸成員たちがそれらにいっさい触れないように操作=規制することにある。わが探究派との公然たる理論闘争を避け、その手前で、誹謗とデマによって、論争すること自体から逃げるために、〝論争以前の対象〟だと決めつけ、それを組織諸成員たちに刷り込むことに彼らは狂奔しているのである。
 ところが、「糸色=スパイ」という規定が、彼らの作り話でしかないことは、早々に明らかとなった。〝本人が認めた〟などというデマ以外に何の根拠もないことを事実上自認してしまったからである。
 次は、「北井=精神異常者」というあまりにも腐敗したレッテル貼りについても、一言しておこう。

 

  何がどう「異常」なのか

 

 「北井」は「異常な精神構造」だと彼ら中央官僚は言う。それを基礎づけるようなものがなにもないのは当たり前のことである。彼らは、ただただ断定し繰り返すだけである。革マル主義者たらんとして自己研鑽を重ねてきたものが同志北井の諸著作・諸論文を読めば、そのような断定が虚偽であることはすぐわかることである。だからこそ、下部組織諸成員たちが同志北井や探究派の諸文献やSNSでの発信にふれることじたいを恐れる彼らは、そのような事態を未然にふせぐために、そして既に探究派の影響のもとで彼らに不信と怒りのまなざしを向ける諸成員たちの決起をくいとめるためにこそ、同志北井を「異常な精神構造」の持ち主として描き出すことに躍起となっているのである。
 とはいえ、彼らが同志北井を「異常者」扱いするには、それなりの内的根拠があることもまた明白である。彼らが同志北井をなぜ「異常」だと思うのか、その最深の主体的根拠をここで暴露しておこう。
 同志北井は、二〇〇八年以降、上州の地で、過酷なパート労働を続けながら、極貧生活のなかで理論的探究を重ね、最初は西田書店から、次いで費用が少なくて済む自前のブランド(創造ブックス)で、諸著作を連続的に公刊してきた。その一つの理論的軸は、「共産主義建設論」である。ソ連邦崩壊の根拠をえぐりだし、それをのりこえて、われわれ自身が過渡期社会の経済建設・共産主義社会の建設に関する理論的基礎を明らかにすることであった。そのような追求を同志北井は、基本組織から排除されるまえから行っていた。この探究は、同志黒田が生前にその必要性を説きながらも十分に追求することが出来ずに残された課題の遂行という意味をももっていることの自覚にもとづいて、である。
 だが、この時期に「革マル派」官僚の一人は言った――「KKがやってないことなどやるのはオカシイ。その必要は無い。われわれは、KKが明らかにしたことを学んでいれば良いのだ。」
 これが「革マル派」指導部の面々の本音であり、ここに彼らの素顔がむき出しとなっている。数十年にわたって「革マル派」を名乗ってはいても、このような言辞が革命的マルクス主義の立場とは無縁であることに彼らは何も気づかない。彼らは、革命的マルクス主義者は同志黒田ひとりであって、他の党員たちは同志黒田の創造した理論を学び受け入れればよい、などと考えている。今日の彼らが同志黒田を神格化しているのは、彼らのこのような没主体性の必然的帰結なのである。
 彼らは同志北井の苦闘を、あざ笑ったというだけではない。彼らの眼には、同志北井の営々たる理論創造の苦闘はむしろ彼ら自身の没主体性を照らし出し、革マル主義とは無縁な姿を映し出すものとして感じられる。だからこそ同志北井を排斥し、抹殺したくてしょうがないのだ。――これが、「異常な精神構造」などと彼らが同志北井を罵倒する真の根拠である! 同志椿原を「夜郎自大」だと罵らずにはいられないのも、同根である。
 彼ら「革マル派」中央官僚派の面々には、革命的マルクス主義者としての矜恃もなければ、勇気もない。同志黒田の薫陶を受け、革命的マルクス主義者たらんとする自己研鑽、切磋琢磨を続けてこなければならなかった連中がさらす今日のこの惨状こそが、まさに「異常」なのである。

 ここで「座談会」方式について一言ふれておこう。〝多彩〟な人物を登場させ、口々にデマ・劣情を吐き出させるやり方は、この種のデマ・キャンペーンにはもっともふさわしい、といえよう。一定の理論的構成をもつ論文のような形式では、ボロが出すぎる。みんなでワイワイ、ガヤガヤ、〝赤信号、みんなでわたれば怖くない〟式の乱痴気騒ぎで実感・感覚に訴え、刷り込むというようなスタイルは、今まさに巷間を賑わせているカルト団体による信者の「マインド・コントロール」の手法と何ら選ぶところがないではないか。
 このような中央官僚派の実情を「革マル派」の諸君はどうするのか! 疑問をもつものは離脱し、疑問を抑え込んで頑張ろうとすれば、メンタル疾患に追い込まれる。今や、このような事態が連発しているではないか! このような悪循環を〈いま・ここ〉で断ち切ろう! 必要なのは彼らに追随してきた己に断をくだし、彼らと訣別し、新たな前衛党の創造のために決起することだけなのだ。その闘い方は多様となるであろうが。

 

  〈二人の巨人〉の神話

 

 彼らが「反革命の書」だとする『松崎明黒田寛一』にわずかに言及していることは彼らの倒錯ぶりを実によく示している。
 「座談会」の作者は、「古参党員A」なる人物に語らせている。――「たとえ距離は置いていても、そして辿る道は違っていても、二人は遙かなる山のそのまた向こうの、同じ頂きを見つめていたにちがいないと思うんだよなあ…」。〝語るに落ちる〟とは、このことである。
まことにこれは同志黒田を神格化した彼らにふさわしい戯れ言である! 今度は松崎明をも神格化して〈二人の巨人〉の関係を、まるで天空の星を眺めるが如く、仰ぎみるものとなっているからである! 彼らの頭には自分たちじしんがいない。革命的労働者組織が重大な挫折に逢着したことへの痛みも、その主体的反省もない。
 いまさら言うまでもないことではあるが、松崎明黒田寛一の関係は、たんなる一個人と一個人の関係ではない。ともにプロレタリア世界革命をめざし、同志として、〈反帝国主義・反スターリニズム〉戦略で武装した革命的マルクス主義派の建設に心血を注ぎ苦闘を続けた二人である。だが、無念にもほかならぬこの二人が訣別した。そしてその組織的表現が、かつて同志黒田が「日本反スターリン主義運動の労働者的本質をささえる実体的根拠」とまで讃えた国鉄(JR)の党組織[いわゆる「マングローブ」]が、革マル派から大挙して脱退したという決定的事態ではないのか! まさにそれはわれわれの革命的労働者組織建設における重大な挫折でなくてなんであるか。そしてそれは、彼らとともに闘ってきたわれわれ自身の組織的実践の破綻をも意味するものではないのか!
 ほかならぬこのことを主体的に反省し、組織的教訓を導き出し、革マル派建設の挫折をのりこえるために、苦闘し熟慮してきたその結晶が、同志松代の『松崎明黒田寛一』なのである!
 もっとも、こんなことは〝豚に真珠〟というべきであろう。今日の彼らはもはや組織実践の主体的反省と教訓化などということは頭の片隅にすらない。まったく別の世界に転出してしまっているからだ。

 

  マングローブもこぶしも俺たちが潰したんだ!」と〝豪語〟

 

 これは、二〇一九年一月三〇日に、今日では探究派の先頭に立っている同志たちを脅迫し追放するために、Cフラクションの会議に殴り込んだ輩たち――POB、WOB、SOB、OFB等に所属する官僚・小官僚ども――の一人[O]が吐いた妄言である! すべての「革マル派」組織成員諸君! よく見よ、これが諸君の中央指導部の面々の実態なのだ!
 「こぶし」とはいうまでもなく、こぶし書房のことであり、同志黒田がみずからの著作を労働者階級にとどけるために創立し、育て上げた出版社である。同志黒田の死後、「革マル派」中央官僚どもはこの出版社の経営陣を脅迫し、版権を事実上強奪するという挙にでた。こぶし書房の中心人物たちが自分たちの意に沿わなくなった、と見た彼らは、同志黒田の諸著作をすべてKK書房に集約したのである。このことを「こぶしを潰した」と表現できる彼らの感覚こそ、まさに異常というほかないではないか!
 「俺たちがマングローブを潰した!」などと自負するにいたっては、さらにとんでもないことである!
 このことは、みずからの意にそぐわない者にたいしては、力で圧迫し脅して従わせようとする彼らの政治ゴロ的変質を雄弁に物語っているではないか! もちろんこの「俺たちが潰したんだ!」の後に続いた言葉は、「お前たちを潰すくらいわけないんだ!」「今後、いっさい徒党を組むことは許さない。組んで行動すれば反革マル策動と見なす!」である!
 組織論も、ヘッタクレもあるものか。ヤクザも顔負け、である。そのような脅しで革マル主義者を沈黙させることができると思っていたとすれば、まことに笑止千万。

 

  理論=思想闘争からの最後的逃亡 ―― 万策尽きた「革マル派」中央官僚派

 

 「だから当然にも革命戦略上・運動=組織路線上・組織建設路線上の対立などとは全く無縁な地平で、ただただ己を批判した黒田寛一をはじめとする同志たちを逆恨みして、わが運動を妨害するためにするフェイクをたれ流しているにすぎない。」(「解放」第二七二九号 二〇二二年八月一日付の「第一回」冒頭)。
 このように彼らが言い放ったのは、論争を回避し、逃げ回ってきたことを隠蔽し、今後とも逃げ回ることを正当化するため以外のなにものでもない。
 すべて欺瞞である! われわれは、探究派結成時から彼らの理論上の誤謬を明らかにする理論闘争を徹底的に遂行してきた。このことを最もよく知りつつ逃げ回ってきたのが、彼ら「革マル派」中央官僚たちである!
 すでに同志北井は、「現段階における〈反帝国主義・反スターリニズム〉世界革命戦略」(二〇〇八年初頭執筆 『ロシア革命の教訓――新しい社会』二〇一七年三月 創造ブックス刊所収)では、「革マル派」中央官僚派の世界革命戦略の歪曲を暴きだし、さらにあらゆる理論領域で「革マル派」の誤謬を突き出してきたのであった。『松崎明黒田寛一』では、革マル派労働者組織建設の挫折の根拠を、そして革マル派建設そのものの破綻を組織論的にも革命論的にも暴きだしている。そして、ほぼ二〇一三年頃から、変質した指導部と党組織の内部で闘い続けてきた同志たちもまた、労働運動への組織的取り組みに関して、組織建設そのものに関して、正面から問題を提起してきたのである。党組織内でのこの闘いにおいては、「ヒラリー、ざまあ見ろ!」などとトランプの勝利を美化した彼らの思想的変質そのものをも暴きだしてきたのであった。これらの理論闘争の成果や、その後の「革マル派」中央官僚派の腐敗の相次ぐ露呈を捉え、的確に暴きだしてきたのが、『コロナ危機との闘い』・『コロナ危機の超克』・『脱炭素と資本論』・『松崎明黒田寛一』(いずれもプラズマ出版発行)である。
 彼らはただ一度、二〇二〇年末の政治集会の演壇に「常盤哲治」を立たせ、探究派を社青同解放派に見立てて、「わが革命的左翼に対して低劣な悪罵を投げつけ組織暴露をこととする者たち」だなどと非難した。この非難は、同時に、解放派――権力の走狗に転落しわが同志たちの命を奪ってきた輩ども――に「……組織暴露をこととする者たち」などというぼけきった非難を浴びせるなど、錯乱した姿をさらけ出すものであった(『脱炭素と資本論』参照)。それ以降も、ひたすら論争から逃げまわってきたのが、彼ら「革マル派」中央官僚どもであった。これは厳然たる歴史的事実である!
 だが、ついに彼らは沈黙による乗りきりの破産をつきつけられ、開き直り打って出るハメに追い込まれた。それは、今日の彼らの醜悪さを自己暴露するもの以外のなにものでもなかった。
 今さら逃げてももう遅い! わが探究派の的確な思想闘争によってその腐敗ぶりが満天下に曝け出された以上、中央官僚派の瓦解は時間の問題である。その崩壊のカウントダウンはすでに始まった!

 「革マル派」中央官僚の軛(くびき)のもとにありながらも、苦しみもがき、苦闘してきた諸君たち!
 今こそわが探究派とともに、変質しきった「革マル派」中央官僚派を革命的に解体し、新たな前衛党を創造する決意を打ち固めようではないか!
 革命的マルクス主義者たらんとするすべての仲間は、「革マル派」の腐敗を許し・「革マル派」によって歪められたおのれ自身と訣別し、わが探究派とともに闘おう!

  二〇二二年九月二三日  革共同革マル派・探究派

また逃げるか! 「革マル派」官僚

 反「探究派」の狂信的大フィーバー


 

 「解放 」第2732~33合併号(2022年8月29日付)に、「革マル派」官僚は「第3回 われわれはスパイ集団=北井一味を許さない!」なる駄文(「座談会」形式)を打ち出した。よせばよいのに、元々あるかないかの「革マル派」の社会的評価も、まともな組織成員たちのわずかな〝信頼〟をも吹き飛ばすような、下劣な狂態を曝け出した。彼らはみずからが打ち出した「糸色」=〝内閣情報調査室か米CIAの末端の諜報員〟というドグマを答えとして、すべてを展開するという逆立ちアクロバットを演じて見せたのである! このドグマさえあれば、わが探究派をいかようにも罵ることが出来る、というわけである。しかも、わざわざ「座談会」の形式で繰り広げられた狂態は、「北井」や「椿原」にたいする個人攻撃にも満ち満ちている。「糸色=スパイ」・反「北井」「椿原」――彼らの諸発言は、すべてこの中心を回る、ゴミの旋風のようなものである。ありとあらゆる虚偽と欺瞞を、虚偽を敷衍(ふえん)した話を、繰り返し繰り返し唱えて、組織成員たちの判断力を麻痺させ、その頭脳に刷り込む、というやり方は、「組織哲学」の時にも、「パンデミック恐慌」の時にも彼らが繰り返してきた手法ではあるが、いまやその比ではない。それは、現「革マル派」のお家芸とでもいうべきものとなっている――まさにナチス流! それが自分で自分の首を絞めるような行為であるにも関わらず、彼らはそれでも我慢できないほど〝必死〟なのである。
 わざわざ言っておいてあげたではないか。――「われわれを何かと誹謗することはできよう。やりたいようにやればよい。それだけならまだしも彼らの品性の悪さを自己暴露するだけのことである。」(「探究派公式ブログ」8月23日付)
 組織をあげての反「探究派」・反「北井」「椿原」の大フィーバーによって、彼らは何を実現しようとしているのか!
 何のことはない、彼らの「生命線」=「糸色=スパイ」説の破綻を隠蔽し、この「糸色=スパイ」説によって辛くも支えられている「反革命北井一味」」という虚構を維持するためにのみ彼らは苦心惨憺しているのである!それだけのための妄言の数々につきあうほど、われわれはヒマでもないし愚かでもない、ということは、宣告しておいたではないか!

 

 「糸色=スパイ」説の破綻の取り繕い

 

 それにしても、あっけない破綻であった。サモサモらしいことを有ること無いことあげつらった挙げ句に、なんの根拠もなくデッチ上げた自説を、彼らは〝糸色は反論していない→スパイだということを本人が認めた〟などという子供だましの屁理屈で基礎づけようとしたのであった。こういう屁理屈以外の根拠はなにもないことを、自己暴露したのである。
 だが、それでは彼らの虚偽があからさまになる。繰り返し巻き返し、組織成員たちに刷り込むほかないというわけだ。〝答えから問題を解く〟式の結果解釈主義的思考を残している組織成員たちにはそれが一番有効だ、と思うほどに彼らは、組織成員たちを馬鹿にしていると同時に、そのわずかな反逆をさえ恐れてもいる。
 「糸色=スパイ」説の捏造をステップとした「北井一味」=「反革命」の烙印――これこそは、今日の「革マル派」の腐敗と転落を鮮やかに示す記念碑となった。だが、既に二〇一六年の時点で、彼らはこのような計略を練っていたのである!

 

 2016年には既に
   「スパイに操られる北井」説を考案していた!

 

 二〇一六年のある日、組織内で変質した指導部と闘っていた私は、「革マル派」指導部のHから申し入れられて、面談した。奇妙なことであった。(今日から言えば、この男は、二〇一二年末の、一種のクーデタで党の最高指導部になりあがった連中の一人である。)
 重要なことは、この時にこの男が同志北井の著作を持参していたことである。二〇一四年九月二〇日付で同志北井が西田書店から二冊の著作を公刊していたのである(『商品経済の廃絶』および『レーニンの格闘』)。
 男は言った。――「(北井は)金がないはずだから、こんな本を出せるはずがない。善意を装った第三者に、資金を援助され、操られているに違いない」と。
 事実は全く逆である。同志北井は、二〇〇八年以来の長時間のパート労働と持ち前の吝嗇(りんしょく)生活スタイルで蓄えた資金で著作を公刊したのである。だが、これでは金銭的負担が大きすぎる。引き続いて諸著作を刊行する計画をたてていた同志北井は、なんと、自身で「組版ファイル」を作成し、わずかな費用で出版する技術と方策を体得したのである! ――詳しくは『危機 現代へのマルクス主義の貫徹』(創造ブックス 二〇一五年十一月一日発行)の「この本を制作する私の電脳的諸作業」(六三頁~)を見られたい。(なお、「創造ブックス」とは彼個人のブランドであり、この時以降、彼はおのれの住所・電話番号・Eメールアドレスを社会的に公表して、執筆・出版活動をつづけた。「創造ブックス」での刊行は十六冊に及ぶ。)

 この同志北井の活動は、まさに革命家としての主体的確信と信念にもとづいて初めて可能となったものである。
 もとより「革マル派」最高指導部の座に胡坐をかき、精神的にも堕落しきった連中には、そのようなことが到底理解不能であったことには間違いない。だが、私と面談したHが、「北井は誰かに操られている」などと吹き込もうとした根拠は、それだけではない。

 

 トラウマとなった〝水木章子の乱〟

 

 同志北井は二〇一四年刊行の著作では、二〇〇八年以降に、彼が党中央に宛てたが完全に黙殺された意見書で既に示していた諸論文を公表した。一つをあげよう。「中国の政治経済構造の変質」(前掲『商品経済の廃絶』所収。なお創造ブックス刊『ロシア革命の教訓』(二〇一七年三月刊行)の「中国の政治経済構造を分析するために」(一〇頁~)は同じ論文である。いずれも「二〇〇六年草稿、二〇〇九年三月改稿」。)

 この論文において同志北井は、鄧小平のいわゆる「南巡講話」(一九九二年)を区切りとして中国経済スターリン主義的計画経済から国家資本主義経済へと転換したことを明らかにした。この論文は、同志黒田の死後に革マル派組織内で大いにもてはやされた「スターリン主義負の遺産の超克」論(葉室真郷が主導)に代わって、党中央が打ち出した「中国=ネオ・スターリン主義」論の誤謬を明らかにするものであった。明らかに当時の革マル派官僚たちは、この著作に打ちのめされた。このことを示す論文が、後に『革マル派五〇年の軌跡』第四巻(二〇一六年十一月)に掲載された「「市場社会主義」中国の反人民性」という「水木章子」署名の論文である。この論文を一読すれば、筆者が「ネオ・スターリン主義」という用語自体は残しているものの、同志北井の著作に学んで執筆したことが、歴然としていたのである! しかも、である。「水木章子」は、二〇一三年に当時の党中央指導部に懇願されて「スターリン主義負の遺産」論を否定し、「中国=ネオ・スターリン主義」論を打ち出した張本人だったのだから。そしてこれ以降は、「水木章子」の名で中国問題に関する論文が出されることはなくなった。代わりに中国経済に関する論文を書いた諸君の低水準と錯乱は、目を覆うばかりである。

 この一事が物語るように、同志北井の諸著作にたいして「革マル派」指導部の面々はとても太刀打ちできない、という〝確信〟を抱いたと言って良い。(そうでないというのなら、答えてみよ! ――ただの一度でも、同志北井のどの論文についてでも、彼らが批判論文を書いたことがあるか! いうまでもないことである。)
 そしてまさにこのことこそが、彼らが同志北井と理論的に論争しなくて済む方策を探し求めた根拠なのだ! 彼らは、同志北井の批判から逃げ、理論的に対応することだけは避けたい、という一心で屁理屈を探した。「北井は、善意を装った外部の人間に操られて反組織的な行動をとっている」という帰結は、まさに他にないものであった! このような予行演習の〝成果〟を生かして、このたびは「糸色望」に〝善意を装った悪意の第三者〟の白羽の矢をたてたのだ! なんと卑劣な! 「糸色」氏にとっては、迷惑至極であろう。

 

 革マル派」官僚は悪質な自己正当化をやめよ!

 

 「糸色=スパイ」説など、元々子供だましの屁理屈でしかない。しかも、そのような屁理屈によってしか、わが探究派の思想の弾丸から身をかわし自己を正当化するほかないのが、今日の「革マル派」官僚たちである。それが邪道でしかないことは、よほど頭脳と性根がおかしくなった人間以外にはすぐわかることだ。われわれはお前たちの狂態につきあうほど、お人好しではない。
 われわれは、堂々と王道をゆく。現「革マル派」指導部の腐敗を理論的・組織論的に徹底的に暴きだし続けるであろう。万に一つでも反論できるのであれば、やってみよ。

 「革マル派」官僚どもの支配のもとで苦闘する、なお革マル主義者としての矜恃をもつ仲間たちよ!
  「革マル派」現指導部を打倒しよう!
  (二〇二二年八月二六日 椿原清孝)

 

「解放」2731号 探究派への非難(「第二回」)の批判

 「革マル派」現指導部はわが探究派からの批判から逃れ、下部組織成員の目をそらすために、探究派に、権力の走狗だ、というレッテルを張った。この手口は、ポンタが革マル派を「K=K連合」であるというように、またスターリントロツキーを「帝国主義の手先」であるというように、デッチあげて、批判に追いつめられたのをのりきろうとしたのと同じである、とわれわれは官僚を弾劾した。官僚は、もはや、この見え透いたやり口は通用しないことを、思い知らされた。こうして、彼らは、「第二回」では、自分たち指導部への不信を抱く組織成員や労働者・学生を欺瞞するために、なんとかして、自分たちをイデオロギー的に正当化できないか、と理論的なふうを装った基礎づけを試み始めた。だが、官僚は、われわれによる「祖国防衛主義への転落だ」「ブルジョア民族主義への転落だ」という批判にたいして、反論すればするほど、自分がマルクス主義を投げ捨てたことを理論的に公言することとなった。それほどまでに、彼らの腐敗はとどまることを知らない。


 国と国との戦争ではない?

 

 「戦争が始まったら、祖国防衛主義に陥ってはならないなどとおまえらは言う。では訊くが、ウクライナの人民はどうすべきだと言うのか?投降せよと言うのか、」と官僚は言う。これは、官僚が、戦争が始まれば、ブルジョア国家を守るために労働者は挙国一致で戦争すべきだ、と言っているのと同じである。
 ウクライナ人民は「投降せよ」と言うのか、と悪態をつくのであるが、この戦争で投降するのか、しないのか、ということを決定するのは、ゼレンスキー政権である。官僚は、ゼレンスキー政権の立場にたって問題をたてているのである。
 官僚は言う。「ロシアによるウクライナへの侵略は、そもそも国と国との戦争なのでは決してない。誰が誰を侵略しているのか。プーチンの軍隊がウクライナになだれ込み一方的に蹂躙しているの」だ、と。
 これはいかにも珍奇である。プーチンの軍隊はロシア国家の軍隊である。他方、なだれ込まれたウクライナとはウクライナ国家であろう。だから、この戦争はロシア帝国主義によるウクライナ国家への侵略なのである。官僚でさえ、「侵略国のロシア」と「被侵略国のウクライナ」とこの駄文のなかで、平然と書いているほどである。
 では、この官僚はなぜ「国と国との戦争」ではない、と言うのか? それは、官僚が、ウクライナの政府軍・領土防衛隊のロシア軍との戦いを、祖国を守る戦いであり、素晴らしい、と主張してきたこと、これを祖国防衛主義への転落だ、とわれわれから批判された、この批判からのがれるためなのである。ロシアのウクライナ侵略を、国家間の戦争ではないというように理論的に理由づければ、組織会議の場で組織成員にたいして‶探究派は的外れなんだ〟と弁明できる、と考えたからであるといえる。しかし、これは、ロシアをもウクライナをも階級国家である、ととらえるマルクス主義国家論自体をすてた、ということを意味するのである。


 「血みどろの現実場に降り立つ」とは?

 

 官僚は言う。「侵略するロシア←→抵抗するウクライナというこの血みどろの現実場に降り立つことである。これを避け自らの身を安全地帯に置いて評論するなどというのは、左翼を自称する者の決してとるべき態度ではないのだ」と。「現実場に降り立つ」とは、まるで、天上界から地上界へと降臨する、というようなものである。これは、組織成員にたいして上に君臨する自分が下に降りる、というものであり、官僚然とした自己の立場をまるだしにしたものである。
 だが、われわれは、われわれがウクライナの革命的プロレタリアの立場にわが身をうつしいれて、ゼレンスキー政権打倒の革命闘争論的立場にたち、ウクライナ労働者階級の革命闘争の指針を解明する、というようにアプローチしなければならない。
 かつて論議したことがらを思い起こすならば明らかなこのようなアプローチを、官僚は、「現実場に降り立つ」、というように歪曲したのであり、「降り立つ」というのでは、宇宙船から地球を眺めまわして、ウクライナに降臨する、といったふうだ。
 善意に理解して、官僚がウクライナの誰かの立場にわが身をうつしいれているのだ、と考えるとどうだろう。官僚が誰の立場にわが身をうつしいれているのかは、つぎの言辞をみれば、はっきりしているのである。
 「小国ウクライナが核軍事大国ロシアの全土制圧を阻止し、いまも占領地の奪還をめざして反転攻勢している。」「欧米の武器と情報の供与なしにはウクライナはロシア軍に軍事的に勝てないことは事実である」と。
 このように官僚は言うわけである。欧米諸国から武器と情報を供与され、ロシア国家と戦っているのは、ゼレンスキーを権力者とするウクライナ国家である。官僚は、このウクライナの国家権力者の立場にわが身をうつしいれ、小国ウクライナというブルジョア国家を防衛することに「血みどろ」になって戦うべきだ、と言っているわけなのである。
 だが、われわれ=ウクライナの革命的プロレタリアは、プロレタリア世界革命の立場に立って、プーチン政権打倒のために活動をくり広げているロシアの革命的プロレタリアおよび全世界のプロレタリアートと連帯し団結して、米欧日帝国主義に支援されたゼレンスキー政権を打倒するために、ウクライナの労働者・人民を階級的に組織する非公然・非合法のイデオロギー的=組織的闘いをくり広げるべきなのである。これは、戦時下の地下活動である。
 第一次大戦時に、ツアー権力によって支配されていたロシアでボルシェビキがロシアの労働者階級・農民を階級的に組織するために非合法的に組織的にたたかった。また、われわれは、第二次大戦下の日本帝国主義権力の支配下で、共産党の地下活動が壊滅させられたこと、これをいかにのりこえるべきなのか、と現在的に考えるのである。
 ウクライナに於いて反スターリン主義の革命的前衛党をいかに組織するのか、革命的プロレタリアはいかに労働者階級を階級的に組織するのか、このように、その闘いの指針を解明することとは、彼ら「革マル派」官僚は無縁である。彼らは、祖国防衛主義とブルジョア民族主義に転落しているからである。


 労働者階級を組織するものではない統一戦線

 

 官僚は次のように言う。
 「被侵略国のウクライナにおいては、労働者階級の前衛党は、侵略するロシア軍を撃退するための戦いの先頭に立つとともに、敵国ロシアに通じた傀儡分子を除く統一戦線の結成をも追求しつつその内部で、ロシア軍との戦いの勝利の地平からさらにどこに向かって突き抜けていくべきかをめぐって、イデオロギー的=組織的闘いを柔軟にかつ創意的にすすめなければならない」。
 官僚は敵国ロシアに通じた傀儡分子を除く統一戦線を結成する、と言う。そうであるかぎり、この統一戦線は、国家権力者ゼレンスキーや、これを支えるアゾフ連隊などのウクライナ民族至上主義者とその部隊がふくまれることになるのであり、そのような統一戦線は、国家権力をにぎるウクライナの支配階級がヘゲモニーを掌握することになるのである。このことからすると、官僚が「労働者階級の前衛党は」何をなすべきかと言っているのだとしても、労働者階級を階級的に組織することは、あらかじめ放棄していることは明らかである。官僚の言う統一戦線とは、現存するブルジョア国家をウクライナ民族の祖国としてまもるために、支配階級につきしたがう、というもの以外の何ものでもないのである。
 そういう内実をごまかすために、官僚が言っているのが「ロシア軍との戦いの勝利の地平からさらにどこに向かって突き抜けていくべきか」とイデオロギー的=組織的に創意的にやる、というものである。これは、官僚のごまかしである。ゼレンスキー政権と支配階級や民族至上主義者どもがヘゲモニーをにぎるかたちで統一戦線をつくりだしたうえで、そのなかにおいて、共産主義者として階級的に活動するならば、どうなるか。虐殺されてしまうだろう。だから、「創意的」などというのは、まったくの絵空事である。いや、〝戦争に勝った後に革命を!〟などとうたった第二インターの後じんをを拝するもので無くてなんであろうか。
 「革マル派」現指導部は、プロレタリア・インターナショナリズムの立場もプロレタリア世界革命の立場も、完全にすてさったのである。
 下部組織成員は、反マルクス主義に転落した「革マル派」官僚を打倒しよう!
 (二〇二二年八月二三日 桑名正雄)

よくぞ来た!「革マル派」指導部

 馬脚を現した「革マル派」官僚――ポンタ(本多延嘉)顔負けの「反革命」規定

 

 彼らはついに馬脚を現した! 「反革命=北井一味を粉砕せよ!」と叫んだのだ!
 驚くべきことに、かの「KK連合」論を打ち出し「反革命カクマル殲滅」を叫んだポンタこと本多延嘉顔負けの手口をもって、いやさらには、みずからを革命的に批判したトロツキー等の反対派の同志たちを「帝国主義の手先」=「反革命」と烙印し、肉体的にも抹殺したスターリンの手口を、彼らは踏襲するにいたったのだ! そこには、プロレタリア前衛党組織においては、組織内思想闘争をおしすすめるだけではなく、「分派闘争」をも推進すべきことを打ち出した『組織論序説』以来の反スターリン主義の組織論の匂いすらない。いまや行方知れずの「組織哲学」を打ち出し、党内闘争そのものを事実上否認したとき以上に彼らは〝進化〟した!
 それはまさにわが探究派の思想闘争から逃げ延び、引きこもりを続けてきた彼らの〝鎖国〟政策の破綻を自己暴露するものである。そのことを、「反革命=北井一味を粉砕せよ!(第1回)」が「革マル派」のホームページ上で公開された瞬間にわれわれは暴露しておいた。――「北井信弘のブログ」の「革マル派現指導部の悲鳴――反革命=北井一味を粉砕せよ!と叫びだした」(7月27日)、「探究派公式ブログ」の「反革命=北井一味を粉砕せよ!と悲鳴をあげる革マル派指導部を打倒せよ!」(7月28日)。
 彼らの絶叫の意味と本質を、われわれは完全に明らかにしておいた。

 他方、彼らの「革命戦略上・運動=組織路線上・組織建設路線上の対立などとは全く無縁な地平で……」などというあらぬ非難にたいしても、「よくぞいったものだ。これらすべての理論分野で、われわれが徹底的におこなった批判から沈黙をもって逃げ回ってきたのが、お前たちではなかったか。」と早々に喝破し(「北井信弘のブログ」7月30日)、「反帝・反スタ戦略」をめぐる彼らの歪曲、「現代中国=ネオ・スターリン主義論」などをめぐってわれわれが堂々と続けてきた理論的批判の一端を改めて連続的に突きつけ、彼らの嘘と欺瞞を暴露するとともに、反論を要求してきたのであった。だが、彼らは一切沈黙してきた。このこと自体が彼らの事実上の敗北宣言でなくて何であるか。

 われわれのもとには、「あまりにひどいR派中央の主張、……私の彼らへの幻想は最終的に絶たれました! 」という怒りの表明が、続いている。そのような声は、広く深く浸透している。
 彼らがみずから白日のもとに曝け出したその素顔を、もはや再び覆い隠すことはできない!

 

 「糸色=スパイ」説デッチ上げの深層

 

 彼ら「革マル派」現指導部は、「糸色望」氏を「日本の内閣情報調査室」または「米CIAあたりの末端の諜報員」であるなどとデッチ上げ、この「スパイ」に探究派が操られているなどという妄言をはいてきた(第1回)。しかも、われわれの反撃に驚き慌て、かつポンタ流の政治主義への組織内部からの反発に直面し、スッタモンダの挙げ句に、彼らがやっとこさ出した「第2回」では、「糸色望」が「スパイを自認」などと吹聴している。それは、「自らがスパイであることをまったく否定していない」からだという。バカも休み休み言え! そもそも「糸色=スパイ」説など、彼らによる何の根拠もないデッチ上げであり、論争に値しない妄言にすぎないのであって、むしろ、論点をこのようなことにもっていって〝泥仕合〟にでももちこめたら、これ幸いというのが、彼らの思惑なのであった。そんな〝煙幕〟のようなものと闘うほどに、われわれは愚かでもヒマでもない。

 だがそれにしても、それほどまでに「糸色」氏をおとしめたい、彼らの動機は何であるか。これもまた自明である。

 わが探究派の諸出版物・SNS上での発信などで、われわれは、今日の変質し腐敗しきった指導部に支配される「革マル派」の諸問題を、そしてこの革マル派建設の挫折の諸教訓を明らかにする理論的営為を積み重ね、すべての革マル主義者たらんとする仲間たちに、そして労働者階級に提起し、問うてきた。そして日本反スターリン主義運動の再生のために何が問われているか、を突き出してきたのである。このわれわれの闘いに対して彼ら「革マル派」指導部は一度としてまともに対応したことがない。対応しようにも出来ないのである。かつて革マル派を牽引してきたそうそうたる理論家たちのすべてが、彼らのあまりの変質・腐敗をそれぞれなりに感知し、党指導部に見切りをつけて筆を折り、あるいは、官僚たちによって健筆をふるうことが出来ない状況に追い込まれている以上、それは当然のことではある。現指導部は、理論的研鑽を軽んじ、現実的な諸問題の理論的掘り下げや新たな理論創造とは無縁に、政治主義的嗅覚を頼りに野合して、党組織の支配権を奪取してきた政治屋たちなのである。支配権を維持しようともがくほどに彼らは腐敗を深める。

 彼らは、それでももちこたえられなくなり、ついに悲鳴をあげた! わが探究派を「反革命」と規定し、論争対象ではない、と決めつけることでのりきりをはかったのである。だが、「北井」にせよ、「椿原」にせよ、永い組織活動の経歴をもち、多くの革マル派組織成員に知られてもいる。著作も論文も「北井」を中心に、それこそ山ほどある。われわれを何かと誹謗することはできよう。やりたいようにやればよい。それだけならむしろ彼らの品性の悪さを自己暴露するだけのことである。だがそれだけならまだしも、「北井」や「椿原」を――探究派結成三年、プラズマ現代叢書刊行からも二年余をへて――探究派を突如として「権力の狗」などと決めつけても、多くの組織成員たちを騙しおおせるとも思えない。そこで彼らが苦心して考え出した〝妙案〟が、「革マル派」のなかではあまり知られていない「糸色」氏の経歴をサモサモらしく描き出し、彼をまず「スパイ」としてデッチ上げ、この「スパイ」に操られているのが、「北井」や「椿原」である、という図式なのだ。「スパイと心中する北井一味」という虚偽のイメージに彼らはしがみつく。「糸色」氏にあらぬ嫌疑をかけ、この個人を徹底的におとしめることで、「反革命=北井一味」という虚構を維持しようという汚い根性を彼らは発揮しているのである。
 だが、「糸色望がスパイを自認」(第2回)などと吹聴すればするほど、じつは彼らのそのような主張には何の根拠もなく、説得力がないと彼ら自身が感じていることを自己暴露することになる。こんなストーリーが「革マル派」下部組織成員からも見透かされていることにさえ気づかないほどに彼らは追い込まれている。政治的にも焼きが回った政治主義者とは、何と哀れな!

 もともと、彼ら自身、「糸色」氏が「スパイ」であるなどと思っているわけではないのである。何なら、その根拠を示してやってもよかろう。

[ なお、野暮なお節介ではあるが、ついでに言っておこう。CIAの諜報員=スパイプーチンの手先になるとは? 面白いことを言うものだ。これでは糸色氏は、命がいくつあってもたりないではないか! ]

 

 〝飛んで火に入る夏の虫〟――よくぞ来た! 「革マル派」官僚!

 

 そうは言っても、わが探究派に理論的にまったく反駁しないのでは、社会的にもみっともないだけでなく、じつは彼らに疑惑をいだいている下部組織成員たちからさえハラの内を見透かされ、著しい組織的混乱に追い込まれた。そこで彼らが必死に試みているのが、ウクライナ問題で彼らが「祖国防衛主義に転落」したというわれわれの暴露にたいする逆襲である。
 そもそも、「糸色」氏を目の敵にしたのは、彼がSNS上の「革マル派」学生組織のネットワークにのりこみ、「革マル派」の「祖国防衛主義」への転落に警鐘を乱打したからでもある。学生たちのあいだに少なからぬ影響が出たことは明らかである。この影響を振り払うためにも、彼らは「糸色」氏を「スパイ」に仕立てるとともに、ロシアのウクライナ侵略に抗する闘いを、まさに「祖国防衛主義」的に闘うことを正当化することが死活問題となったのである。

 

 どんな土俵でもわれわれは結構!

 

 この猛暑のなか、彼らが〝逆襲〟してくれれば、まさに「飛んで火に入る夏の虫」!
 われわれは、彼らの思想的変質を徹底的に暴きだすであろう。(既にこの闘いを開始している北井信弘のブログの8月13日の記事――天上から現実場に降り立つと発想する官僚意識丸出しの革マル派官僚」等々を見よ!)

 ここで、一言だけいっておけば、「(北井一味は)国家ニハ支配階級ト被支配階級ガアリマス……といった二、三のテーゼのようなものだけを枠のようにアテがって、ウクライナ情勢を評論しているだけの俗物なのだ。」などと彼らは言っている。自分が何を言っているのか、分かっているのか? 彼らは、現実分析に適用すべきマルクス主義のイロハを、そしてその根幹をおのれが嘲笑していることにさえ、何の頓着もない。〝マルクス主義の原則にこだわるのは青臭い、大人になれ! 〟と彼らは〝自負〟する。
 政治屋の真骨頂、ここにあり! 脱マルクス主義者にふさわしい妄言というほかあるまい。あいにく「北井」をはじめ、われわれは同志黒田の営為を革命的に受けつぎ、「危機 現代へのマルクス主義の貫徹」のために不撓不屈の戦いを続けているのであって、お前たちのような政治屋に〝脱皮〟する気などサラサラない。どんな政治屋にたいしても、われわれは、革命的マルクス主義の立場に立脚して徹底的に闘うであろう!

 

 集団ヒステリーの惹起

 

 「解放」2731号で、「国際反戦集会」(8月7日)では、基調報告者の「市原」なる人物が、「反革命=北井一味粉砕」を呼号し、大いにもりあがったと彼らはいう。それは結構!  だが、こんな「集団ヒステリー」醸成手法でのりきりうるほど現実は甘くはない。われわれに対して、「鉄槌をくだす」・「万死に値する」・「冥土のみやげ」などと、ヤクザまがいのドス黒い情動をムキだしにして脅迫するのもよいが、このような策動は、「革マル派」現指導部が、同志黒田を先頭として創造してきた革命的前衛党とはもはや似ても似つかぬものとなったことをみずから満天下に暴露するものとなっている。こんなことで、組織成員たちが一人また一人と叛旗を翻すことを食い止めることは出来ないだけではない。そのような挙動は、わが探究派に呼応する革命的な同志たちの決起によって組織の一挙的瓦解を呼び寄せるだけの挙動であることを、彼らは知ることになるであろう。

 「革マル派」のもとに結集し、プロレタリアートの自己解放のために闘ってきたすべての労働者・学生の皆さん、かつてのブクロ派官僚以下に、いやスターリンその人と見まがうばかりに変質し腐敗しきった現指導部を一刻も早く打倒し、日本反スターリン主義運動を再創造するために、わが探究派とともに闘おう! 「革マル派」のもとで歪めてしまったおのれの主体性を問い返し、その過去と朗らかに訣別して、新たな闘いを開始しよう!

(椿原清孝 二〇二二年八月一五日)

 

過去の問題性は対象的現実の反映のゆがみであったが、今日ではわが探究派の像の意図的捏造!

 〔まったくまわりを見ずに道路を横切っている人にとっては、静かに止まってくれた車は、存在しなかったことになる。かつては、組織指導部は、よく言えば、この人のようであった。いま、「革マル派」指導部は、下部組織成員を欺瞞するために、存在しないことがらを自分の頭のなかで意図的にこしらえあげて機関紙上に公表した。
 みにくい。
 ガマガエルのように、自分の姿を鏡に映して見たらどうだ!
 (自分自身の顔から滴り落ちる脂汗を自分自身に塗ればいい。ガマガエル=日本ヒキガエルの分泌物には、実際に鎮痛作用があるそうだから。麻酔作用もあるそうだ。)
     2022年8月9日 松代秀樹〕

 


 対象的現実の反映のゆがみ


 「スターリン主義負の遺産」論者と「ネオ・スターリン主義」論者とでは、中国共産党にかんして描く像がまるで違う。こうしたことがおこるのは一体なぜなのか。
 中国共産党という呼称が妥当する対象的現実を、実践=認識主体としてのわれわれが認識対象として措定し、これを分析していくときには、われわれはこの現実を直接的にみることはできない。新聞の報道、テレビで流される映像、雑誌や書物での論評、中国の報道機関が報じるニュース、そして中国共産党が発表する諸論文・諸報告、さらにはまたわが仲間たちが書いた諸論文など、これらにおいて中国共産党にかんしてふれられているものを読んだり見たりすることをとおして、われわれは、われわれが対象としている現実を分析していくわけである。ここにおいて問題が発生する、といえる。
 この問題にはいっていくまえに、われわれが対象的現実を直接にみるときに、或る人には、起きている事態がまったく眼にはいっていないことがある、ということをみておく。
 或るメンバーが歩いているのが、その近くを通りかかった別のメンバーの眼にはいった。その眼には次のように映じた。当該のメンバーは、車道の・横断歩道でもないところを、左右を見ることもなくゆっくりとわたっていく。走ってきた車が――その運転手がおどろいたかのように、しかしキキッと音をたてることなく――スーッと、その人の直前で止まり、その人がわたりおえてから、またスーッと発車していった。その人は、その車に気づくことなく、ふりむくこともなく歩いて行った。別のメンバーは、あぶない!とヒヤッとしたのであったが、声をかける間もなく、また声をかけるには距離があった。――
 このままであるかぎり、当該のメンバーにとっては、この車もこの事態も存在しなかったことになる。あとで、別のメンバーが自分の見たことを彼に話すならば、彼はそのことを知ることになり、エッとびっくりするであろうが、自分自身はまったく何も気づいていないことからして、なかなか実感がわかないことにもなる。別のメンバーが見るというかたちでこの事態は知覚されたのであって、同様のことがその時に車を運転していた人以外には知られることなくくりかえされていたであろうことが推察される。けれども、当該のメンバーには、自分が車に注意しているときのことしか意識にないがゆえに、自分は車には注意しているのだ、という自己意識を彼はもちつづけることにもなる。これに比して、ぼんやり考えごとをしながら歩く癖があり、車が急停車してくれる、ということがよくあるのであるが、そういうときには気づいて、ハッと我にかえり、ああ、あぶなかった、と思うメンバーのほうが、自分は車に注意することがよわい、という自覚をもつことになる。
 こうしたことから私が感じるのは、それぞれの人によって、その人に映じている世界はまるで違う、ということである。ひとは、自分の観念の世界に住みつづけることはできない。かならず、現実によって物質的に自覚させられる。けれども、実践=認識主体としてのこの私が、何を契機に、何を、どのように自覚するのか、というように考えると、ことはそう簡単ではないのである。
 日常生活において、いろいろな出来事を他者から伝聞――うわさや自慢やまた悪口などをふくんで――というかたちで知る、とか、組織活動にかんしてこれをおこなったメンバーから報告をうけたり聞いたりする、とかというようなことがらに思いをはせることは別の機会にゆずる。ここでは、中国共産党という(呼称が妥当する)対象的現実をわれわれが分析するさいには、われわれはこの対象を直接的にみることはできない、ということとの関係において、われわれが現実を直接に見るばあいの一事例にふれたにすぎない。
 実践=認識主体としてのわれわれは、中国共産党という対象的現実を、おのれが認識する対象として措定し、これを分析するために、中国共産党にかんする諸資料を読むのである。われわれに直接的にあたえられる、すなわちわれわれが直接的にみることのできる・われわれの物質的対象はこの諸資料、言語的表現態をなすこの諸資料である。われわれは、こうした諸資料を読み、そこに書かれてある内容を把握することをとおして、われわれが自己の認識対象としているところの、中国共産党という対象的現実そのものをつかみとるのである。すなわち、われわれは、おのれが把握したところの諸資料の内容を再構成するかたちにおいて、物質的現実そのものを認識するわけなのである。
 われわれは現実をこのようにしてつかむのであるからして、中国共産党にかんして・あるいはそれにふれる・論文を書くようなメンバーであるならば、わが仲間が書いた諸論文にでてくるような諸事実については知っている、といえる。そうであったうえで、「スターリン主義負の遺産」論者が、彼が「民族資本家・小経営者」という名称をかぶせたところの私営企業の経営者が中国共産党をにぎるかのようにみなし、この党を実体的基礎とする国家が「新興資本家階級の利害を体するものに変質していく」などと捉えるのは、あらかじめつくった自己のイメージにあわせてこれに都合のよいものだけを諸資料の内容からピックアップしている、だからまた、中国共産党という対象的現実を自己の意識においてあらかじめ加工している、としか言いようがない。「ネオ・スターリン主義」論者が、「いやしくも「前衛党」を名乗るのであるならば」と問題設定し、「党員の腐敗は、彼の共産主義者としての思想性・組織性・倫理性にかかわる問題なのである」というように、今日の中国共産党の党員を共産主義者とみなすのも、先と同じである。「負の遺産」論者は、この見解にたいして、入党を認められた新興の資本家、あれは共産主義者なのか、と批判しないのであろうか。「ネオ・スターリン主義」論者は、中国共産党官僚の言っていることややっていることの断片に対応して、これを切りかえしているだけなのであろうか。両論者ともに、自己の観念のなかに住んでいる、としか私にはおもえない。ここまで書いてきたけれども、両論者ともに、その精神構造が私にはよくわからない。「ネオ・スターリン主義」論者が、二〇一四年になっても、「生きた人間・何らかの思想をもった党員・腐敗行為に走ったり享楽にふけったりする共産党員についてすこしも考えようとしていない」と党官僚を批判していること、この主張にたいして、入党した新興の資本家とその思想にかんして党官僚に何を考えろと言っているの? と「負の遺産」論者は疑問を提起しないのであろうか。「ネオ・スターリン主義」論者は、党官僚をこのように批判しておきながら、自分自身は中国共産党員の「生きた人間」、生身の人間についてすこしも考えようとしていないのはなぜなのか。私にはこのことが不思議なのである。この言葉は、党官僚に投げつけるだけのものであって、自分自身に貫徹するものではないのであろうか。実際には、この言葉は、党官僚に投げつけるべきものではなく、自分自身に貫徹すべきものであるにもかかわらず。
 ふつう、相手を、「生きた人間」について考えようとしていない、と批判したならば、そのあとで視角を転じて、では、「生きた人間」である中国共産党員をわれわれが考察するならば、どういうことが問題となるのか、こういうことが問題となる、というように、彼らが今どういう思想をもっているのか、彼らは社会経済的にはどういう存在になっているのか、なぜ腐敗行為に走るのか、などなどということを分析し論じていくはずなのである。「ネオ・スターリン主義」論者は、こういう頭のまわし方とはもはや無縁になってしまっているのであろうか。
 これはなぜなのか、と問うならば、どうしても、「ネオ・スターリン主義」論者をつきうごかしている非合理的なものにつきあたらざるをえない。冒頭にしめした、或るメンバーの直接的体験のばあいには、彼は、現に生起した事態を微塵も感覚せず、まったく反映しなかったのである。これにたいして、この論者のばあいには、彼女は、諸資料を読むことをとおして自分が得た内容を、あらかじめ自分が自己の意識においてつくった枠組みに適合するように加工して自己の意識内にとりこんだのである。この枠組みとは、中国の党=国家官僚をスターリン主義者とみなす、ということである。習近平らを「無思想ぶり」「情けないほどの没イデオロギーぶり」と弾劾することにおいて、彼女は、彼らがスターリン主義の枠内にあると自己において確認し、スターリン主義はまだ生きていると自分自身に言いきかせているのである。こうするのは、スターリン主義は死んだ、と確認するならば、〈反帝・反スターリン主義〉の〈反スターリン主義〉を世界革命戦略としては掲げることはできなくなる、という恐怖から自己を解放するためである。これが、この論者たちをつきうごかしている非合理的なものである。私には、どうしても、このようにおもえる。
          二〇一四年三月三十一日

対象的現実の自己の意識における加工――これをどう反省するのか

〔ひとは最愛の人を失ったときに、そのことを感覚しうけとめることができないことがある。これと同様に、わが組織指導部は、もっとも憎むべき相手であったスターリン主義が死んだことをうけとめることができず、どこかで生きている、という心理にただよっているのである。これが、スターリン主義は中国においては生きている、という心情を彼らがあらわにしたことの根拠である。――このように、私は、2014年に、〈反スタ〉戦略を歪曲した当時の組織指導部の内面をえぐりだし彼らにつきつけた。彼らは、いまだに、これに答えていない。いま、これに答えたらどうだ!
 彼らの内面をえぐりだした論文をここに掲載する。
       2022年8月8日   松代秀樹〕

 


 二十一世紀現代世界へのマルクス主義の貫徹


 今日の中国の党および国家を「ネオ・スターリン主義」と規定したのは、ソ連崩壊というかたちでスターリン主義が破産した現時点においても〈反スターリン主義〉戦略を堅持することを理論的に基礎づけ、もって「スターリン主義負の遺産の超克=根絶」論を克服することを意図した指導的メンバーが、「ネオ・スターリン主義」というこの用語にとびついたからである。彼自身は、「中国」に「ネオ・スターリン主義」を修飾語としてくっつけ「ネオ・スターリン主義中国」という言葉をただただくりかえすことしかなしえなかったのであったが、まじめで律義な、水木論文の筆者は、中国共産党およびスターリン主義にかんして自分が過去に体得していた知識を総動員して、今日の中国共産党を「ネオ・スターリン主義」とよぶにふさわしいものとして描きあげる論文を書いたのであった。
 ここにしめされているものは、場所的現在において、中国共産党という呼称が妥当する物質的現実をおのれの対象として措定し、これを分析し批判するときに、この主体は、中国共産党およびスターリン主義にかんして自分が過去に獲得していた知識(だから中国共産党およびスターリン主義の過去にかんする知識といえるそれ)でもってきりもりするのに適合するように、対象的現実を自己の意識においてあらかじめ加工しておいたうえで、すなわち、対象的現実を自分が反映したところのものにスターリン主義という枠をはめる、という思惟作用をはたらかせておいたうえで、自己の意識内のこのものに当該の知識を適用し、このものを分析し批判している、ということである。「ネオ・スターリン主義中国」という言葉をただただくりかえす、というのも、頭のまわし方としては、これと同じである。その思惟作用が、ゆがんではいるけれどもいきいきとしている、というのではなく、ゆがんだうえでひからびている、という違いがあるだけである。
 いきいきしていようとひからびていようと、この頭のまわし方は唯物論的思惟ではない。この主体は、スターリン主義が破産した、という事態に対応不能におちいっているのである。ひとは最愛の人を失ったときに、そのことを感覚しうけとめることができないことがある。うみだされたことがらをもろに感覚すると自分がこわれてしまうので、自分と外界とのあいだに半透明膜をはる、とでもいえる心理状態におちいることがある、というのがそれである。わが主体は、もっとも憎むべき相手であったスターリン主義が死んだことをうけとめることができず、どこかで生きている、という心理にただよっており、自分がそうなっているということを自覚できないでいるのである。このことは、スターリン主義は中国においては生きている、という心情をあらわにした水木論文が一年に一度でる以外には、誰ひとりとして、死んだスターリン主義にふれない、意識してか無意識のうちにかふれないようにしている、ということに端的にしめされている。
 新たにうみだされた事態への対応不能、というこのことは、二十一世紀現代世界にマルクス主義をいかに貫徹するのか、という問題をわれわれにつきつけている。二十一世紀現代世界をわれわれはマルクス主義を適用していかに分析しかつこの現実を変革するための実践の指針を解明し、この指針にのっとってわれわれはいかに実践するのか、という問題を、である。この主体的営為の出発点において、二十一世紀現代世界という物質的現実の或る部分をおのれの対象として措定してこれを分析するときに、わが指導的メンバーたちや理論家たちは、その非合理的な心理的動揺のゆえに、無意識的に、外界によって自分がゆさぶられることを回避するために、自分がすでに獲得している知識でもってきりもりできるように、対象的現実を自己の意識においてあらかじめ加工しているのである。これでは、自己が既有している知識がそれ自体としてはいくら正しかったとしても、そして現実をこの知識を適用して分析するのだといくら意志していたとしても、うみだされたものは現実離れしたものとなる。この主体は、外界を、自分が張った半透明膜をとおしてしか見ていないからである。ここに、二十一世紀現代世界へのマルクス主義の貫徹、という課題を、われわれが意識的におのれの課題としなければならないゆえんがあるわけなのである。
 では、「スターリン主義負の遺産の超克=根絶」というフレーズの提唱者は、いまみてきた問題性をまぬがれているのであろうか。いや同じである。スターリン主義はまだどこかで生きている、という心理におちいるのではなく、ひとが最愛の人の遺品にすがりつくのと同様に、スターリン主義は死んだ、けれどもそれが残したものがある、という心情に駆られていることが、その違いなのである。対象的現実の或る部分に、自己の意識において「スターリン主義負の遺産」という枠をはめ、これの「超克=根絶」が〈反スターリン主義〉の今日的継承である、とすることをもって、彼はおのれの動揺を必死でおさえているのである。私には、このような像がうかぶ。
 「陰性ないし陽性のイデオロギー的=思想的転向・変質を遂げたスターリニスト国家官僚またはその末裔どもが中国やロシアの現存国家権力の座に居すわり、わが日本・西欧および旧東欧諸国の転向スターリニスト諸党がブルジョア政党の第五列として様ざまの反プロレタリア的犯罪に手を染めている。」「スターリン主義がおかしてきた数多の歴史的犯罪のゆえに、世界各国なかんずく先進資本主義諸国においては、いまだになお「資本主義の体制的勝利」などという神話が通用させられ」「労働者階級は今日版窮乏化のドン底に叩きこまれている」。「まさしくこのような二重の意味において、〈スターリン主義負の遺産〉が現存し、全世界の労働者・勤労人民に害毒を垂れ流しつづけている。」(『新世紀』第二三〇号、一六~一七頁)
 「害毒を垂れ流しつづけている」というこのフレーズは、彼の追随者たちがどの論文でもくりかえしくりかえし判で押したように書きつづけたものである。
 この展開は、〈反スターリン主義〉戦略(〈反帝・反スターリン主義〉世界革命戦略の一契機としてのそれ)をそのものとして堅持すべきことを理論的に基礎づけることはできない、といううすら寒さをおぼえながらも、「〈反スターリン主義〉を継承していくべき」ことを「本質的必要性」としては語らなければならない、と自分自身に言いきかせている、筆者のその内面の表出である。このように私には感じられる。「害毒を垂れ流しつづけている」というその文章によって基礎づけることができるのは、「〈スターリン主義負の遺産〉の超克=根絶」ということであるにすぎない。このようなはめに筆者がおちいるのは、現に在るところのものに、自分の意識において「スターリン主義負の遺産」という枠をはめることをもって、自分は反スターリン主義者である、と自己確認しているからである。対象的現実に、自分の意識においてあらかじめ独自の加工をほどこしているからである。
 それは次のようなものである。
 「こうした政治経済構造の変質を基礎とし民族資本家階級の簇生を社会階級的基礎として、しかも江沢民式「三つの代表」論をツイタテとしながら民族資本家・小経営者の共産党への入党をおしすすめているがゆえに、この党を実体的基礎とする官僚制国家も新興資本家階級の利害を体するものに変質していく過渡にある、といわなければならない。」(同前、一五頁)
 「民族資本家階級」などというのは、あまりにも現実離れしているのではないだろうか。いま中国で起きていることは、買弁資本家に対抗する民族資本家の勃興、というようなことではないのである。国有企業の再編がおしすすめられている、というようなことを、筆者はどのように反映しているのであろうか。「国有企業改革」という一項目をもたてて仲間が書いた諸論文を読み検討しているにもかかわらず、自分が文章を書くときには、そのことは消えてしまうのである。また、党=国家官僚どもは、自分の子供など一族の者を私営企業の経営者に仕立てあげている、ということも、筆者の熟知していることである。これらのうえにさらに、私営企業の経営者に成り上がる者もいる、というのが進行している事態である。ところが、これの最後のことがらだけを、あたかもそれがすべてであるかのようにとりあげるのは、筆者は中国の現実の分析に、全世界的に資本主義が帝国主義段階に突入したそのもとでの後進国における国家資本主義の形成にかんする自分の知識を適用することを(そしてこういうことをやっているのが〈スターリン主義負の遺産〉としての中国国家である、というようにスターリン主義と関係づけることを)意図して、これに適合するように、中国で現に起きていることがらを自己の意識において加工したからである。
 問題の所在をほりさげていくために、「スターリン主義負の遺産」論者とこの論を克服することを意図した「ネオ・スターリン主義」論者とを対比するかぎりでは、中国共産党という呼称が妥当する対象的現実を分析するために、その認識主体がもちだしてくるところの、彼(彼女)が既有している知識が異なるのである。この違いは、同じ理論領域にかんするその内容の違いということではなく、もちだしてくる理論の領域が異なるのである。前者は、帝国主義段階の後進国における国家資本主義の形成にかんする知識であり、後者は、中国共産党およびスターリン主義にかんする知識である、というように異なるわけなのである。もちだしてくる知識のこの違いは、対象的現実をどのようなものとして描きあげるのか、という目的意識の違いにもとづく。前者の内面には、スターリン主義は死んだ、現存在するものはそれの遺産、負の遺産である、という現状把握が先験的にあって、彼自身が意識する彼の意識の表層では明るく朗らかに自信に満ちて、〈反スターリン主義〉は継承の対象とするので良い、米中新対決という今の時代には「スターリン主義負の遺産の超克=根絶」がわれわれの任務なのだ、と彼は踏んでおり、中国にかんしては、どんどん資本主義化している過程として描きあげる、という目的意識を彼はもっているわけである。これにたいして、後者は、「負の遺産」論では〈反スターリン主義〉戦略を基礎づけることはできない、これでは〈反スターリン主義〉戦略を放棄することになってしまう、これはピンチだ、という危機意識に駆られて、スターリン主義は中国では生きているとしなければならない、中国共産党スターリン主義のネオ形態として描きあげなければならない、という目的意識を、これまた先験的にもっているわけなのである。それぞれのこの目的意識にもとづいて、それぞれ、外界から自己の意識へのあいだに、独自の半透明膜をこしらえるのだ、といえるであろう。そして、前者のばあいには、その膜を通過して主体の意識にもたらされるのは、中国共産党には民族資本家・小経営者がどんどん入党してきている、という像であり、後者のばあいには、その膜をとおして主体の内面には、労働者階級の前衛党およびその党員として中国共産党とその党員は腐敗している、という像がうかびあがっている、といえる。
 このように特徴づけることができると私はおもうのであるが、これは一体どういうことなのであろうか。私はいま、先験的に、と言った。たしかに、彼らの目的意識は、それ以前の経験をとおして、つまり彼らが種々の報道に接したり内部論議をおこなったりすることをとおして形成されてきたものである。けれども、場所的現在において、彼ら認識主体が、中国共産党という呼称が妥当する対象的現実を分析する、というこの出発点からするならば、この出発点において彼らがあらかじめもっているものなのである。主体が自分の目的意識をもつことが悪いわけではない。われわれはおのれの対象についての問題意識をもたないかぎり、この対象を分析することはできないからである。自分があらかじめもっている目的意識をもとにして、対象的現実にかんしてこの目的意識に適合する部分しか反映しない、あるいは対象的現実をばこれをこの目的意識に適合させるかたちにおいてしか反映しない、ということが問題なのである。この問題の根拠は何なのか。この主体は、対象変革の立場、実践的立場にたっていない、解釈主義の立場に転落している、とはいえる。また、対象を下向的に分析していない、自己があらかじめつくった像から天下っている、ともいえる。けれども、いま問題にしている固有の問題については、さらに独自的にほりさげなければならない。対象に自己否定的に即する、ということがいわれるのであるが、彼らは対象に自己肯定的に即している、というように私にはおもえる。われわれは対象を、おのれの問題意識・目的意識を貫徹してみるのであり、このとき、この対象の反映をとおして、同時に、ここに貫徹した自己の問題意識・目的意識をこわしつくりかえていく、という自己否定の立場にわれわれはたつのである。この自己否定の立場が彼らには欠如している、と私にはおもえてならない。われわれは、物質的対象を、われわれが既有している知識をこの対象的現実に妥当させて分析するのであるが、この対象の反映をとおして、対象的現実にかんする自己の認識内容を新たに創造していくわけである。この創造的立場が彼らには欠如している、と私にはおもえる。自分があらかじめもっている目的意識をもとにして外界と自己の意識とのあいだに半透明膜をつくる、というかたちにおいて、その目的意識に適合するものしか対象を反映しないのであるからして、新たなものを自己のうちに創造することはできないのである。せいぜい、自分があらかじめもっていた目的意識を例証的に豊富化するにすぎないのである。そして、いくら批判されても自己をふりかえることはないのである。
          二〇一四年三月二十九日