対象的現実の自己の意識における加工――これをどう反省するのか

〔ひとは最愛の人を失ったときに、そのことを感覚しうけとめることができないことがある。これと同様に、わが組織指導部は、もっとも憎むべき相手であったスターリン主義が死んだことをうけとめることができず、どこかで生きている、という心理にただよっているのである。これが、スターリン主義は中国においては生きている、という心情を彼らがあらわにしたことの根拠である。――このように、私は、2014年に、〈反スタ〉戦略を歪曲した当時の組織指導部の内面をえぐりだし彼らにつきつけた。彼らは、いまだに、これに答えていない。いま、これに答えたらどうだ!
 彼らの内面をえぐりだした論文をここに掲載する。
       2022年8月8日   松代秀樹〕

 


 二十一世紀現代世界へのマルクス主義の貫徹


 今日の中国の党および国家を「ネオ・スターリン主義」と規定したのは、ソ連崩壊というかたちでスターリン主義が破産した現時点においても〈反スターリン主義〉戦略を堅持することを理論的に基礎づけ、もって「スターリン主義負の遺産の超克=根絶」論を克服することを意図した指導的メンバーが、「ネオ・スターリン主義」というこの用語にとびついたからである。彼自身は、「中国」に「ネオ・スターリン主義」を修飾語としてくっつけ「ネオ・スターリン主義中国」という言葉をただただくりかえすことしかなしえなかったのであったが、まじめで律義な、水木論文の筆者は、中国共産党およびスターリン主義にかんして自分が過去に体得していた知識を総動員して、今日の中国共産党を「ネオ・スターリン主義」とよぶにふさわしいものとして描きあげる論文を書いたのであった。
 ここにしめされているものは、場所的現在において、中国共産党という呼称が妥当する物質的現実をおのれの対象として措定し、これを分析し批判するときに、この主体は、中国共産党およびスターリン主義にかんして自分が過去に獲得していた知識(だから中国共産党およびスターリン主義の過去にかんする知識といえるそれ)でもってきりもりするのに適合するように、対象的現実を自己の意識においてあらかじめ加工しておいたうえで、すなわち、対象的現実を自分が反映したところのものにスターリン主義という枠をはめる、という思惟作用をはたらかせておいたうえで、自己の意識内のこのものに当該の知識を適用し、このものを分析し批判している、ということである。「ネオ・スターリン主義中国」という言葉をただただくりかえす、というのも、頭のまわし方としては、これと同じである。その思惟作用が、ゆがんではいるけれどもいきいきとしている、というのではなく、ゆがんだうえでひからびている、という違いがあるだけである。
 いきいきしていようとひからびていようと、この頭のまわし方は唯物論的思惟ではない。この主体は、スターリン主義が破産した、という事態に対応不能におちいっているのである。ひとは最愛の人を失ったときに、そのことを感覚しうけとめることができないことがある。うみだされたことがらをもろに感覚すると自分がこわれてしまうので、自分と外界とのあいだに半透明膜をはる、とでもいえる心理状態におちいることがある、というのがそれである。わが主体は、もっとも憎むべき相手であったスターリン主義が死んだことをうけとめることができず、どこかで生きている、という心理にただよっており、自分がそうなっているということを自覚できないでいるのである。このことは、スターリン主義は中国においては生きている、という心情をあらわにした水木論文が一年に一度でる以外には、誰ひとりとして、死んだスターリン主義にふれない、意識してか無意識のうちにかふれないようにしている、ということに端的にしめされている。
 新たにうみだされた事態への対応不能、というこのことは、二十一世紀現代世界にマルクス主義をいかに貫徹するのか、という問題をわれわれにつきつけている。二十一世紀現代世界をわれわれはマルクス主義を適用していかに分析しかつこの現実を変革するための実践の指針を解明し、この指針にのっとってわれわれはいかに実践するのか、という問題を、である。この主体的営為の出発点において、二十一世紀現代世界という物質的現実の或る部分をおのれの対象として措定してこれを分析するときに、わが指導的メンバーたちや理論家たちは、その非合理的な心理的動揺のゆえに、無意識的に、外界によって自分がゆさぶられることを回避するために、自分がすでに獲得している知識でもってきりもりできるように、対象的現実を自己の意識においてあらかじめ加工しているのである。これでは、自己が既有している知識がそれ自体としてはいくら正しかったとしても、そして現実をこの知識を適用して分析するのだといくら意志していたとしても、うみだされたものは現実離れしたものとなる。この主体は、外界を、自分が張った半透明膜をとおしてしか見ていないからである。ここに、二十一世紀現代世界へのマルクス主義の貫徹、という課題を、われわれが意識的におのれの課題としなければならないゆえんがあるわけなのである。
 では、「スターリン主義負の遺産の超克=根絶」というフレーズの提唱者は、いまみてきた問題性をまぬがれているのであろうか。いや同じである。スターリン主義はまだどこかで生きている、という心理におちいるのではなく、ひとが最愛の人の遺品にすがりつくのと同様に、スターリン主義は死んだ、けれどもそれが残したものがある、という心情に駆られていることが、その違いなのである。対象的現実の或る部分に、自己の意識において「スターリン主義負の遺産」という枠をはめ、これの「超克=根絶」が〈反スターリン主義〉の今日的継承である、とすることをもって、彼はおのれの動揺を必死でおさえているのである。私には、このような像がうかぶ。
 「陰性ないし陽性のイデオロギー的=思想的転向・変質を遂げたスターリニスト国家官僚またはその末裔どもが中国やロシアの現存国家権力の座に居すわり、わが日本・西欧および旧東欧諸国の転向スターリニスト諸党がブルジョア政党の第五列として様ざまの反プロレタリア的犯罪に手を染めている。」「スターリン主義がおかしてきた数多の歴史的犯罪のゆえに、世界各国なかんずく先進資本主義諸国においては、いまだになお「資本主義の体制的勝利」などという神話が通用させられ」「労働者階級は今日版窮乏化のドン底に叩きこまれている」。「まさしくこのような二重の意味において、〈スターリン主義負の遺産〉が現存し、全世界の労働者・勤労人民に害毒を垂れ流しつづけている。」(『新世紀』第二三〇号、一六~一七頁)
 「害毒を垂れ流しつづけている」というこのフレーズは、彼の追随者たちがどの論文でもくりかえしくりかえし判で押したように書きつづけたものである。
 この展開は、〈反スターリン主義〉戦略(〈反帝・反スターリン主義〉世界革命戦略の一契機としてのそれ)をそのものとして堅持すべきことを理論的に基礎づけることはできない、といううすら寒さをおぼえながらも、「〈反スターリン主義〉を継承していくべき」ことを「本質的必要性」としては語らなければならない、と自分自身に言いきかせている、筆者のその内面の表出である。このように私には感じられる。「害毒を垂れ流しつづけている」というその文章によって基礎づけることができるのは、「〈スターリン主義負の遺産〉の超克=根絶」ということであるにすぎない。このようなはめに筆者がおちいるのは、現に在るところのものに、自分の意識において「スターリン主義負の遺産」という枠をはめることをもって、自分は反スターリン主義者である、と自己確認しているからである。対象的現実に、自分の意識においてあらかじめ独自の加工をほどこしているからである。
 それは次のようなものである。
 「こうした政治経済構造の変質を基礎とし民族資本家階級の簇生を社会階級的基礎として、しかも江沢民式「三つの代表」論をツイタテとしながら民族資本家・小経営者の共産党への入党をおしすすめているがゆえに、この党を実体的基礎とする官僚制国家も新興資本家階級の利害を体するものに変質していく過渡にある、といわなければならない。」(同前、一五頁)
 「民族資本家階級」などというのは、あまりにも現実離れしているのではないだろうか。いま中国で起きていることは、買弁資本家に対抗する民族資本家の勃興、というようなことではないのである。国有企業の再編がおしすすめられている、というようなことを、筆者はどのように反映しているのであろうか。「国有企業改革」という一項目をもたてて仲間が書いた諸論文を読み検討しているにもかかわらず、自分が文章を書くときには、そのことは消えてしまうのである。また、党=国家官僚どもは、自分の子供など一族の者を私営企業の経営者に仕立てあげている、ということも、筆者の熟知していることである。これらのうえにさらに、私営企業の経営者に成り上がる者もいる、というのが進行している事態である。ところが、これの最後のことがらだけを、あたかもそれがすべてであるかのようにとりあげるのは、筆者は中国の現実の分析に、全世界的に資本主義が帝国主義段階に突入したそのもとでの後進国における国家資本主義の形成にかんする自分の知識を適用することを(そしてこういうことをやっているのが〈スターリン主義負の遺産〉としての中国国家である、というようにスターリン主義と関係づけることを)意図して、これに適合するように、中国で現に起きていることがらを自己の意識において加工したからである。
 問題の所在をほりさげていくために、「スターリン主義負の遺産」論者とこの論を克服することを意図した「ネオ・スターリン主義」論者とを対比するかぎりでは、中国共産党という呼称が妥当する対象的現実を分析するために、その認識主体がもちだしてくるところの、彼(彼女)が既有している知識が異なるのである。この違いは、同じ理論領域にかんするその内容の違いということではなく、もちだしてくる理論の領域が異なるのである。前者は、帝国主義段階の後進国における国家資本主義の形成にかんする知識であり、後者は、中国共産党およびスターリン主義にかんする知識である、というように異なるわけなのである。もちだしてくる知識のこの違いは、対象的現実をどのようなものとして描きあげるのか、という目的意識の違いにもとづく。前者の内面には、スターリン主義は死んだ、現存在するものはそれの遺産、負の遺産である、という現状把握が先験的にあって、彼自身が意識する彼の意識の表層では明るく朗らかに自信に満ちて、〈反スターリン主義〉は継承の対象とするので良い、米中新対決という今の時代には「スターリン主義負の遺産の超克=根絶」がわれわれの任務なのだ、と彼は踏んでおり、中国にかんしては、どんどん資本主義化している過程として描きあげる、という目的意識を彼はもっているわけである。これにたいして、後者は、「負の遺産」論では〈反スターリン主義〉戦略を基礎づけることはできない、これでは〈反スターリン主義〉戦略を放棄することになってしまう、これはピンチだ、という危機意識に駆られて、スターリン主義は中国では生きているとしなければならない、中国共産党スターリン主義のネオ形態として描きあげなければならない、という目的意識を、これまた先験的にもっているわけなのである。それぞれのこの目的意識にもとづいて、それぞれ、外界から自己の意識へのあいだに、独自の半透明膜をこしらえるのだ、といえるであろう。そして、前者のばあいには、その膜を通過して主体の意識にもたらされるのは、中国共産党には民族資本家・小経営者がどんどん入党してきている、という像であり、後者のばあいには、その膜をとおして主体の内面には、労働者階級の前衛党およびその党員として中国共産党とその党員は腐敗している、という像がうかびあがっている、といえる。
 このように特徴づけることができると私はおもうのであるが、これは一体どういうことなのであろうか。私はいま、先験的に、と言った。たしかに、彼らの目的意識は、それ以前の経験をとおして、つまり彼らが種々の報道に接したり内部論議をおこなったりすることをとおして形成されてきたものである。けれども、場所的現在において、彼ら認識主体が、中国共産党という呼称が妥当する対象的現実を分析する、というこの出発点からするならば、この出発点において彼らがあらかじめもっているものなのである。主体が自分の目的意識をもつことが悪いわけではない。われわれはおのれの対象についての問題意識をもたないかぎり、この対象を分析することはできないからである。自分があらかじめもっている目的意識をもとにして、対象的現実にかんしてこの目的意識に適合する部分しか反映しない、あるいは対象的現実をばこれをこの目的意識に適合させるかたちにおいてしか反映しない、ということが問題なのである。この問題の根拠は何なのか。この主体は、対象変革の立場、実践的立場にたっていない、解釈主義の立場に転落している、とはいえる。また、対象を下向的に分析していない、自己があらかじめつくった像から天下っている、ともいえる。けれども、いま問題にしている固有の問題については、さらに独自的にほりさげなければならない。対象に自己否定的に即する、ということがいわれるのであるが、彼らは対象に自己肯定的に即している、というように私にはおもえる。われわれは対象を、おのれの問題意識・目的意識を貫徹してみるのであり、このとき、この対象の反映をとおして、同時に、ここに貫徹した自己の問題意識・目的意識をこわしつくりかえていく、という自己否定の立場にわれわれはたつのである。この自己否定の立場が彼らには欠如している、と私にはおもえてならない。われわれは、物質的対象を、われわれが既有している知識をこの対象的現実に妥当させて分析するのであるが、この対象の反映をとおして、対象的現実にかんする自己の認識内容を新たに創造していくわけである。この創造的立場が彼らには欠如している、と私にはおもえる。自分があらかじめもっている目的意識をもとにして外界と自己の意識とのあいだに半透明膜をつくる、というかたちにおいて、その目的意識に適合するものしか対象を反映しないのであるからして、新たなものを自己のうちに創造することはできないのである。せいぜい、自分があらかじめもっていた目的意識を例証的に豊富化するにすぎないのである。そして、いくら批判されても自己をふりかえることはないのである。
          二〇一四年三月二十九日