当時の組織指導部が〈反スタ〉戦略を歪曲した根拠を、思考法の問題としてほりさげた。これにも沈黙。いま、答えてみよ!

 〔当時の組織指導部が〈反スタ〉戦略を歪曲した根拠を、私は2014年に、彼らの思考法にかかわる問題としてほりさげ、彼らにつきつけた。彼らは、唯物論的思惟から飛翔している、というように、である。
 水木章子は、私の批判をうけとめ私の諸論文を学習したのか、その後彼女が書いたところの中国の国家と党および政治経済構造を分析した論文は、私の分析内容を踏襲したようなリアルなものとなった。そうすると、その後、彼女の論文はピタリと出なくなった。彼女は、論文を執筆することができないような境遇あるいは精神的神経的状況に追いこまれたようであった。
 このような不可解なことが起こったのである。
 「革マル派」現指導部は、ポンタ(本多延嘉)ばりの手口を使ってわが探究派を非難する前に、自分たちが世界革命戦略を歪曲した根拠のこの抉り出しに答えたらどうだ!
     2022年8月7日  松代秀樹〕

 

 唯物論的思惟からの飛翔


 もう少し直接的なことがらを問題にしなければならないのかもしれない。
 「解放」二〇一三年の新年号の水木論文では次のようなことが書かれてあった。
 「いやしくも「前衛党」を名乗るのであるならば、次のことが問われなければならないはずだ。党員の腐敗は、彼の共産主義者としての・共産党員としての思想性・組織性・倫理性にかかわる問題なのである。労働者階級の前衛としてのみずからの使命を自覚した党員であればこそ、その〝腐敗〟は法律のレベルにおいてではなく、共産主義者としてより厳しく問われるのである。党員と党はそれだけの責任と自負をもたなければならない。
 また、党員の腐敗はたんにその党員一人の問題ではない。同時に党組織そのものに欠陥や限界があるという問題として反省しなければならないのである。党員の腐敗問題は、当該の党員を除名して国家の司法機関に送る、ということによっては絶対に解決されえないし、そのようなかたちで解決してはならない。だがこのことが胡錦濤らには分らないのだ。」
 これを読んだ人は、あまりにも現実離れしている、と感じないだろうか。誰もそう思わなかったのであろうか。いま、私のこの文章を読んでいる人は、ここまで読んできて、すなわち、私に、現実離れしている、と指摘されて、そう言われればそうだなあ、と感じたであろうか。それとも、いやそんなことはない、と感じたであろうか。あるいはまた、そう言われればそうかもしれないけど、黒田さんの展開にのっとって原則的な批判をやっているのだから、これはこれでいいんじゃない、というような感想をもったであろうか。
 ここが大切である、と私はおもう。水木論文の筆者もまたそうである。いま私に、現実離れしている、と言われて、どう感じたであろうか。
 私が引用している文章を読み、これにたいする、現実離れしている、という私の一言を読むならば、その人は、現実の中国共産党中国共産党とよばれる物質的存在そのものをみるはずである。みる、といっても、この物質的現実そのものをわれわれは直接的にみることはできない。いま、私の文章をここまで読んできたというこの場面においては、その人は、中国共産党という呼称が妥当するこの物質的現実そのものをおのれの分析対象として措定し、この物質的現実そのものを分析すると意志してその人は、自分自身がすでに獲得しているところの、中国共産党にかんする知識を総動員して、この物質的現実にかんする自分自身の分析内容を再構成するわけである。この内面的営みを、自分自身が自己否定的に、意識的におこなうのかどうか、ということが問題なのである。
 その人の内面には、次のような何かがわきおこってこないだろうか。今日の中国共産党は、「いやしくも「前衛党」を名乗るのであるならば」と大上段にふりかざして批判するような相手なのだろうか、とか、これは誰にむかって言っているのだろうか、読者としてどういう人を念頭においているのだろうか、今日の中国共産党を「前衛党」とみなして幻想をもっている人などいないのではないだろうか、とか、そう言えば、中国共産党はプロレタリア前衛党という自党の規定をなしくずし的に修正して、労働者階級の前衛であると同時に中華民族の前衛でもある、だったか何か、そんなふうに規定した、というようなことを読んだことがあったなあ、こういう党を「労働者階級の前衛としてのみずからの使命の自覚」を基準にして批判していいのだろうか、とか、中国共産党の地方幹部は、当該地方の経済成長をどれだけ達成することができたか、ということでもって評価される、という話を聞いたことがある、こういう党にたいして、「彼の共産主義者としての・共産党員としての思想性・組織性・倫理性にかかわる問題」というような問題設定ができるのかなあ、とか、こういうような何かが、である。
 私のこの文章を読むことのできる組織的〝地位〟にある人たちは、何ごとかを感じる感性をもはや失ってしまっているのであろうか。ただ解釈するだけの頭になってしまっているのだろうか。
 水木論文の筆者の問題は、今日の中国共産党という、自分が分析し批判する対象、この物質的対象を、自分がすでに獲得している・過去のそれへの批判内容(過去において中国共産党ないし共産党にたいしてなされた批判の内容を自分が体得したもの)があてはまるものへと自分の頭のなかで加工しておいたうえで、自己の観念において加工しこしらえあげたこのものに、自分がすでにもっている批判内容をぶちあてている、ということにある。
 彼女は、唯物論的思惟から飛翔してしまっているのである。彼女は自己の観念の世界にすんでいるのである。こうなってしまえば、自分が現実の壁にぶつかったとしても、これをも自分の観念から解釈することになる。いつまでたってもこのことをくりかえすことになるのである。指導的メンバーたちがこの観念を共有するならば、これらの全員がそうなってしまうのである。
 過去において中国共産党にたいしてなされた批判、その内容を自分が体得したものをそのまま使おうとするならば、現存在する中国共産党スターリン主義の大枠のなかにあるものとしてあらかじめ加工しておくこと、自分の観念のなかで・現存するとしたものにスターリン主義という枠をはめこんでおくことが必要となるのである。このことを正当化するための絶好のものとして、「ネオ・スターリン主義」というレッテルに、彼女および彼女を自分の主張を理論的に基礎づける学者としてとりたてた指導者がとびついたわけなのである。
 それにしても、彼女は、胡錦濤らに何をわからせようとしているのであろうか。引用した文面に言う「共産主義者としての思想性・組織性・倫理性」とか「労働者階級の前衛としてのみずからの使命の自覚」とかは、この表現からして、われわれの言う意味でのそれと読める。だが、胡錦濤らは、こういうものとはすでに無縁なのではないだろうか。それとも胡錦濤らが今もっているところのこの表現にあたるものをさすのであろうか。だが、胡錦濤らが「自らの使命」としているのは、彼らの党=国家官僚としての利害を貫徹する、というものであって、それをつらぬけ、と彼らにわれわれが尻押しするようなものではまったくない。もしもこのように尻押しするのであるならば、それは反プロレタリア的である。さらに、「みずからの使命」の中身がわれわれと胡錦濤らとではまったく異なる、ということを捨象して、われわれと彼らとが同一の土俵にたっていると形式上みなす、というのであるとするならば、そのような土俵は、観念的被造物でしかない。
 党官僚および党員は、国有企業の経営者であるか、国家がその株式を市場で売却したところの株式企業の経営者であるか、あるいは党員としてとりたてられた私営企業の経営者であるか、そしてまた、これらの諸企業を統括するところの国家諸機関・地方行政諸機関の官僚ないし各級の党書記であるか、なのであって、――労働者や農民は、その少数の者が、彼らの先兵になるかぎりにおいて党員という資格を得るのであって――労働者や農民をよりよく搾取し収奪する者が、よくネズミを捕るネコとして評価されるのである。このような原則的な搾取と収奪から逸脱するかたちにおいて私腹を肥やす者が「腐敗」とやり玉に挙げられるのである。だから、胡錦濤らの「使命」の中身をあばきだすことをぬきにして、彼らを尻押しすることは反プロレタリア的なのである。
 筆者は言う。
 「それにしても、子供や孫をアメリカやイギリスに〝留学〟させることの危険性に思いを馳せる程度の緊張感さえもが共産党最高指導部にはない。これはいったいどうしたことなのか。必ずや忍び寄ってくるCIAやMI6にたいする警戒心もない。」
 この大いなる驚きと弾劾は、対象をスターリン主義の枠内にあるものとして加工したうえでのもの、いわゆる左翼とみなしたうえでのものでしかない。共産党最高指導部のメンバーたちは、自分の子供や孫を諸企業の経営者や国家諸機関の官僚として育てあげようとしているのであるからして、アメリカやイギリスで資本主義的な企業経営や行政について学ばせることは当然のことであり、彼らを出世させるために不可欠のことなのである。彼ら官僚にとって、なにも危険なこととして意識すべきことではないのである。CIAやMI6にかんしても、彼ら官僚は自分たち自身が自国でそれと同様の機関をつかって反政府的な分子を弾圧しているのであるからして、彼らがそれらにたいしてもつ感覚は、いわゆる左翼がもつそれとはまったく異なるものであろう。
 さらに彼女は言う。
 「「文化大革命」をただただ嫌悪し恐怖する彼らは、この「文化大革命」もろとも、文化革命あるいは思想改造運動をも水に流してしまった。「整風運動」というかたちで党員の思想改造を不断におしすすめ、これをつうじて党と党員の組織性・規律性・思想性をそれなりに強化してゆく、という中国共産党に独自の党づくりの作風そのものを投げ捨ててしまったのである。こうして党員の思想改造というアプローチを抹殺しさっていること、中国共産党指導部が「党員の腐敗問題」をいくら声高に叫びつづけても決して解決できないであろう最深の根拠はここにある。」
 「党員の思想改造というアプローチ」というように筆者は言っているのであるが、ここに言う「思想」として彼女は一体何を念頭においているのであろうか。「思想」と言っても、毛沢東の時代と今日とではその中身がまったく異なるのである。かつてはそれは当然にも毛沢東思想なのであったが、今日ではそれは、中国を資本主義国として立派にするというものであり、そのことを「社会主義市場経済」と言いくるめているものなのである。彼女は、毛沢東思想でもって党員を改造せよと言っているのであろうか、「資本主義化」の思想でもって党員を改造せよと言っているのであろうか、それとも、完全に中身をぬきさった「党員の思想改造というアプローチ」という形骸だけを問題にしているのであろうか。このような批判がなんらかの意味をもつと筆者が感覚しているのは、対象をあらかじめスターリン主義という枠のなかにはめこんでいるからなのである。筆者は自分が過去に体得した知識という自己の観念世界に生きているにもかかわらず、そのことをまったく自覚しえていないからなのである。
 筆者はしめくくりとして次のように言う。
 「「社会主義国」を自称しながら、この国の政治経済構造を国家資本主義に転換させ、無産者につきおとされた労働者たちや失地農民や農民工たちを生き血として資本に供することによって延命してきた中国ネオ・スターリン主義。その党はいよいよ思想的に空洞化し、その組織の中枢から腐臭をはなってさえいる。」
 ここに言う「資本」は得体のしれないもの、無規定のものとなっている。「資本に供する」というように、中国ネオ・スターリン主義の党は、この資本の外側に存在するものとされている。たしかに、党という形態は資本とは別のものである。だが、党の構成実体、党員である人物は、資本の人格化された形態をなすのである。そして、党=国家官僚は、労働者たちや失地農民や農民工たちの搾取にもとづく資本の自己増殖を、党を実体的基礎として指揮し統括し統制しているのである。党が思想的に空洞化し腐臭をはなっている、というどころの話ではないのである。このような価値判断と弾劾は、今日の中国共産党を、あくまでも労働者階級の前衛党であるべきものとみなすかぎりにおいてでてくるものでしかないのである。筆者は、自己の観念世界にあらかじめ加工してとりこんだ中国共産党を威勢よく投げ飛ばしているのである。
          二〇一四年三月二十四日

「解放」最新号の紙面には「反革命=北井一味」という語は一つもない。いったい何が?

 「解放」最新号(第2730号)の紙面には、「反革命=北井一味」という語も、わが探究派をさす言葉もまったくない。このようなことがらにかんすることは、一切でてこない。これでは、こんなポンタ(本多延嘉)ばりの規定をひっこめた、ということではないか。われわれの的確で猛烈なイデオロギー的=組織的反撃のまえに、彼ら「革マル派」現指導部は、敗北を認めた、ということではないか。
 われわれを「反革命」とか「権力の狗」とかとなじるのは、何の根拠もないでっち上げの言いがかりであった。それは、世界革命戦略上・運動=組織路線上・組織建設路線上のすべての分野にわたってのわれわれの批判からみずからが逃げまわってきたことをおおい隠すための言辞だったのである。
 彼らがこの「解放」最新号で沈黙したのは、われわれが上のことを徹底的にあばきだし批判したことに彼らが恐怖したからである。
 彼らの自己保身を許すな!
 堕落し腐敗し自己保身に走る現指導部を打倒しよう!
 下部組織成員は、彼らに従ってきたおのれを根底からひっくりかえし、革命的マルクス主義者たらんとして自己を変革する主体となろう!
 腐敗した現指導部のもとにある「革マル派」組織を革命的に解体=止揚するためにたたかいぬこう!
       (2022年8月5日   松代秀樹)

すべての革命的マルクス主義者たらんとする者は、これまでの自己から決別し、わが探究派に結集せよ!

 「革マル派」現指導部はポンタ(本多延嘉)ばりの手口に手を染めた。しかも、われわれのイデオロギー的=組織的闘いのまえにその破産をつきつけられた。
 革命的マルクス主義者たらんと意志するすべての諸君!
 「革マル派」の組織の内部で下部の組織成員として活動している諸君! 過去に挫折し自己の再生のために苦悶している諸君! 新たに反戦闘争や職場での闘いを開始した労働者・学生諸君!
 まさにいま、自己を、黒田寛一の営為をうけつぎ日本反スターリン主義運動を再創造する主体たらしめることを決意しよう! それは、黒田寛一に盲従することや彼を神格化することではない。彼の限界をものりこえていくという革命的マルクス主義の立場にたつことこそが肝要なのである。黒田は言ったではないか。「革命的マルクス主義とは、何らかのできあがった理論をさすのではない。スターリン主義トロツキズムとをのりこえ新たな革命理論を創造する立場なのだ」、と。
 いま、これまでの自己から断絶と飛躍をかちとることを決意しよう!
 革命的マルクス主義者たらんと意志するすべての者は、これまでの自己から決別し、わが探究派に結集せよ!
        (2022年8月4日   松代秀樹)

「中国ネオ・スターリン主義」という規定への2014年時点での批判――組織指導部は今もってこれに答えず

 〔「中国ネオ・スターリン主義」という規定にたいして、私は2014年の時点においてさらに批判し、その文書を意見書として提出した。これにたいして、組織指導部は今もって答えていない。沈黙し、黙殺したままなのである。この規定とそれへの私の批判は、〈反帝国主義反スターリン主義〉世界革命戦略を基礎づけるための、中国の党および国家ならびにイデオロギーの分析にかかわるものなのである。この論争、まさに世界革命戦略をめぐる論争から逃げまわるための「革マル派」現指導部の言辞が、わが探究派への「反革命」というレッテルなのである。
 すべての革命的マルクス主義者たらんとする者は、世界革命戦略にかんするこの対立にどういう態度をとるのかが問われている、と私は考えるのであるが、どうだろうか。
        2022年8月4日   松代秀樹〕

 

 

 「中国ネオ・スターリン主義」という規定が一年ぶりにもちだされたのはなぜか


 二〇一四年の「解放」第二新年号(第二三〇一号)に掲載された「中国ネオ・スターリン主義 破滅への突進」と題する水木章子論文において、今日の中国の党および国家にはりつけられた「ネオ・スターリン主義」というレッテル、このシンボルが、一年ぶりにもちだされた。しまいこまれていたこの用語がこの論文でだけ用いられた、というのは、いったいどういうことなのであろうか。
 二〇一三年の新年号の諸論文において、このシンボルが大々的に打ち上げられた。けれども、そのあとは、この言葉はぱったりと姿を見せなくなった。こっそりとしりぞけられたのであろう。
 二〇一四年の第一新年号のトップ論文をはじめとして第二新年号までの他の諸論文では、この用語は用いられていない。水木論文と同じ号にのっている中央学生組織委員会論文では、次のように書かれているだけである。
 「同時にわれわれは、習近平中国が「防空識別圏」を設定し軍事挑発を強めていること、反人民的な核軍事力増強をおしすすめていることに断固として反対するのでなければならない。われわれは、中国の労働者・人民にたいして、中華ナショナリズムを煽りたてながら戦争政策をおしすすめている北京官僚政府にたいする反戦の闘いに起ちあがることを呼びかけようではないか。」
 もしも諸論文においてトーンを一致させるのであるならば、理論外的に当該の規定をもちこんで「ネオ・スターリン主義北京官僚政府」と表現してもよいようなものであるが、そのようにさえもなされてはいない。国際・国内情勢を具体的に分析し、みずからの個別的・具体的な任務・方針をうちだす、というさいには、そのような規定は関係がない、そうした規定を省みることはない、ということであろう。これにたいして、中国共産党十八期三中全会でうちだされたものというような、北京官僚の主張そのものを分析し批判する、というさいには、そうした規定をもちだすことなしにはこれをなしえない、ということなのであろう。取っ組んでいる相手とその主張を、スターリン主義という大枠に属するもの、というように枠にはめこまないことには、すなわちあらかじめそのような加工をほどこさないことには、それの分析も暴露も批判もできない、ということなのであろう。
 一年前に、水木論文の筆者は、党組織最高指導者の御用学者となることによって、理論家としての生命をみずから絶った。今この論文を書いた筆者は、一年前の亡霊である。この地面、この大地に自分の足で立ってはいない幽霊である。こう言えよう。
 次のように書かれている。
 「今日、習近平らを国家安全委員会設置につきうごかしているものもまた、彼らスターリン主義官僚の官僚的特殊利害の防衛であり、官僚的専制支配体制の護持である。」
 「党=国家官僚が、彼らの官僚的利害を経済建設において実現するための拠点は、やはり、この戦略部門の国有企業なのである。」
 「中国ネオ・スターリン主義党官僚がその無思想・没理論を深めれば深めるほど、彼らはその官僚的=特殊的利害を剝きだしにして人民に向かってくるだろうことを、勤労人民は直観的に知っている。」
 ここに言う「官僚的特殊利害」とはいったい何なのであろうか。その中身はどのようなものなのであろうか。「官僚的特殊利害」というかぎり、それは、その主体たる「中国ネオ・スターリン主義党官僚」と呼称されている者たちがよってもってたっているその物質的基礎との関係において明らかにされなければならない。けれども、そのような分析がなされていないどころか、その中身の説明もなされてはいない。文脈からするかぎりでは、その中身は、「官僚的専制支配体制の護持」という政治的なものに限られているようにも読める。しかし、「彼らの官僚的利害を経済建設において実現するため」とされていることからするならば、この表現は、先の政治的なものを実現するための経済建設、というようにも理解しうるし、あるいはまたこの利害には経済的なものもふくまれる、というようにも読める。いずれにしても、彼らの経済的利害にかんしては明らかにされていない。
 他面からいうならば、「官僚的特殊利害」を貫徹し享受する主体とされる「中国ネオ・スターリン主義党官僚」とは、党中央官僚であると同時に国家官僚であるところの諸個人のみをさし、彼らがその権限を行使し便宜をはかりつつその妻や子供たちなど彼らの家族員が私営企業の経営者などとなって暴利をむさぼっているところの一族をさすのではないのであろうか。また、ここに言う「官僚」には、国有企業やその他の株式制企業の経営者・管理者であると同時に党官僚ないし党員であるところの人物はふくまれないのであろうか。中核的な国有企業などの経営者は党中央委員あるいはその候補になっているにもかかわらず、である。さらには、こうした人物が国家諸機関の官僚にのしあがっているにもかかわらず、である。こうしたことからするならば、党=国家官僚どもは、総体として、国家資本ないしその他の諸資本の人格化をなし、こうした諸企業で働いている労働者たちは賃労働の人格化をなす、といえるのである。党官僚や党員が、党組織の担い手であるままで、もろもろの形態の諸企業の経営者や彼らを代弁する国家諸機関の官僚となっている、ということが、中国の独自性をなすのであって、彼らの特殊利害とは、彼らがその人格化をなすところの資本そのものの利害にほかならない。それは価値増殖そのものなのである。
 だから、彼らやその御用学者にたいして、「習近平らじしんが〝コレは資本主義だ〟と言っているに等しい論を披瀝している。このことに気づくこともできなくなっているだけなのである」とか、「盲目的に貫徹する価値法則を政府の政策によって統御するというのは白昼夢でしかない。物化された経済の法則としての価値法則を、人間が利用したり制御したりすることはできないのである。それは廃棄される以外にない」とか、と批判するのは、みずからが相対している者どもを美化するものでしかない。こうした批判を、スターリンその人および彼の理論の正統な継承者にあびせかけるのであるならば、それは正しい。だが、習近平らをこのように批判するのは、彼らの主張をあらかじめスターリンの理論の枠のなかに無理やり押しこんだうえで、つまりおのれの対象を自分の頭のなかで加工しゆがめる、という観念的操作をやっておいたうえで、自分がこしらえあげたこの観念的像をやっつける、というものでしかない。習近平らは、もはや、このようなかたちで問題にする相手ではないのである。彼らは、価値法則をその外側から統御しようとしているのではなく、彼ら自身が資本の人格化として価値法則の一実体をなすのだからである。習近平らの論は、自分たちがこうした社会経済的存在であることを正当化するためのイデオロギーであり、自分たちがそうした存在であることを労働者・勤労大衆からおおい隠すための言辞なのである。
 次のような批判もまたそうである。
 「制度づくり・法規整備・マニュアルづくりを言っているだけで、生きた人間・何らかの思想をもった党員・腐敗行為に走ったり享楽にふけったりする共産党員についてすこしも考えようとしていないのだからだ。党員の質、その思想の内実を問わない、いや、問えないのだからだ。担い手・人間をぬかして「仕組み」づくりにうつつを抜かすのは、愚かなことである。」
 これは、党員である生きた人間とは、労働者や農民であるかのように想定した批判である。つまり、今日の中国共産党が労働者や農民の党員によって構成されているかのようにみなした批判である。そうでなければ、党員の質、その思想の内実を問う、と言っても意味がない。だが、中国共産党員という政治的獅子の皮をかぶったところの生きた人間、生身の人間とは、マルクスの言う銀行家や将軍と同じ存在なのである。すなわち、党員の主要な部分は、すでにのべたように、国有企業やその他の諸企業の経営者・管理者なのであり、また各級の地方政府を経済的に機能させたり、その政府のもとに諸企業を設立したりしているところの党書記なのである。彼らの意志とは、彼らというかたちで人格的表現をとっているところの資本の意志であり、彼らの思想とは、自己の企業や自己の地方政府の利益を追求し貫徹するための思想である。もしもこうしたことを前提としておさえたうえで、習近平にわが身をうつしいれ、彼の主張を問題にしているのだ、というのであるならば、右の批判が実際に意味するものは、習近平に次のように説教しているものとなる。すなわち、同時に経営者である党員は、資本の人格化として正当なかたちで、つまり労働者を徹底的に搾取するというかたちで、自己の資本の増殖をはかるべきであって、腐敗行為に走ってはならず、また、官僚資本家として、自企業の利潤のなかから自己の所得をえるべきであって、これとは別の享楽にふけってはならない、というように「党員の質」を問うていないのはおかしい、と。こんなことを習近平に説教してもしかたがない。いや、こんな説教は反労働者的である。筆者は、こういうことを自覚して書いているのではないであろう。右のような批判は、今日の中国共産党を、労働者・農民の党員によって構成されるところの前衛党のスターリン主義的疎外形態とみなしたかぎりにおいて、通用するものにすぎない。批判する対象をあらかじめ加工しておかなければ、その批判は妥当しないのである。
 次のような批判は、何を情けながっているのであろうか。
 「たとえ「批判と自己批判」という語を使ったとしても、「思想改造」ということを理解さえできない無思想ぶりを、習近平らはさらけだしている。「市場経済」についても「民主主義」についても、ブルジョアイデオロギーに完全に膝を屈し、情けないほどの没イデオロギーぶりをしめしているのが彼らだ。中国ネオ・スターリン主義官僚のイデオロギー的溶解・凄まじいまでの無思想・理論的空洞化、これは、鄧小平が鼓吹した「思想の解放」――中国版「脱イデオロギー(化)」――の必然的帰結にほかならない。」
 これは、筆者自身の、没イデオロギーぶり、いや物質的現実そのものからの昇天ぶり、唯物論的思惟からの乖離をしめしているのではないだろうか。筆者は、自分自身の論理的思考の溶解・凄まじいまでの自己の認識=思惟作用の空洞化をこそ省みるべきではないだろうか。
             二〇一四年一月十三日

「解放」最新号には「反革命=北井一味を粉砕せよ!」の第2回はでていない。どうしたのだろう。

 「解放」最新号(第2730号2022年8月8日付)には「反革命=北井一味を粉砕せよ!」の第2回はでていない。どうしたのだろう。われわれの的確で強烈なイデオロギー的反撃におそれをなしたのか。

 「革マル派」現指導部を追撃せよ!

 変質し腐敗した現指導部のもとにある「革マル派」組織を革命的に解体=止揚するために、イデオロギー的=組織的闘いをさらに強化しよう!

 下部組織成員はこれまでの自己を否定し、わが探究派に結集せよ!

  (2022年8月3日  松代秀樹)

 

〈反帝国主義・反スターリン主義〉世界革命戦略の歪曲――「中国=ネオ・スターリン主義」規定の誤謬

 〔「革マル派」現指導部は、「革命戦略上・運動=組織路線上・組織建設路線上の対立などとは全く無縁な地平で、……」などという非難を、われわれに投げつけた。これは、これらのすべての理論的諸部面にわたってのわれわれの批判から彼らが逃げまわってきたことをおおい隠す言辞にほかならない。このような非難は、彼らの〈反帝国主義反スターリン主義〉世界革命戦略の歪曲への、したがって同時に、彼らの言う「中国=ネオ・スターリン主義」規定への、われわれの批判に何かひと言でも答えてから言ったほうがいい。
 ここに、彼らの革命戦略上の歪曲を批判した私の論文を掲載する。
 この批判に何か答えてみよ!
     2022年8月3日  松代秀樹〕

 

 

 反帝国主義反スターリン主義〉世界革命戦略の歪曲
  ――いま今日の中国(国家)をネオ・スターリン主義と規定するのはなぜなのか


 「ネオ・スターリン主義」とはどういう意味なのか

 

 「解放」の二〇一三年新年号(第二二五〇号)において一斉に、今日の中国(国家)にたいして、「ネオ・スターリン主義」という規定があたえられた。これはいったいなぜなのか。いまなぜ今日の中国をこのように規定するのか、ということも、中国のどのような現実をさしてこう言うのか、ということも、「ネオ・スターリン主義」とはどういう意味なのか、ということさえもが、どの論文においても書かれていない。でてくるのは、この言葉だけなのである。
 巻頭の植田論文では次のように展開されている。
 「二十一世紀現代世界における全世界プロレタリアートの普遍的任務は、〈反帝国主義反スターリン主義〉以外にはありえない。
 帝国主義が今なお生き延びているのは、あらゆる意味でスターリン主義のゆえにほかならない。それだけではない。現代中国は、ネオ・スターリン主義国家なのであって、中国の労働者階級はみずからの国家権力打倒のスローガンとして〈反スターリン主義〉を高々と掲げなければならない。同時に、かの栄光のロシア・プロレタリア革命の実現にもかかわらず、この革命ロシアがスターリン主義によって歪曲され、そして倒壊したというこの屈辱的現実。このロシアのプロレタリアートは〈反スターリン主義〉でみずからを武装しつつ、FSB強権型支配体制を打倒し、真のマルクス主義武装したプロレタリアート独裁国家をうちたてなければならないのである。
 そしていうまでもなく、わが日本においては、断末魔であるとはいえ、いまなお日共スターリニスト党が余命を保っているのであって、当然にもその革命的解体は、われわれの焦眉の組織的任務にほかならない。」
 無署名論文では次のように書かれている。
 「まさに今、現代資本主義の末期性について多くの労働者・勤労人民が直感している。そしてまた「社会主義」の看板を掲げたネオ・スターリン主義中国の反人民性も赤裸々になっている。だがしかし、スターリン主義のエセマルクス主義としての本質がいまだに自覚されていない。
 まさにいま全世界の労働者が勝利にむかって前進するためには、スターリン主義と主体的に対決していくことが絶対的に必要である。そのことなしには、全世界のプロレタリアートの自己解放をかちとることは決してできないのだ。」
 水木論文では次のようにのべられている。
 「「社会主義国」を自称しながら、この国の政治経済構造を国家資本主義に転換させ、無産者につきおとされた労働者たちや失地農民や農民工たちを生き血として資本に供することによって延命してきた中国ネオ・スターリン主義。その党はいよいよ思想的に空洞化し、その組織の中枢から腐臭をはなってさえいる。
 ……腐臭をはなっている中国共産党、このネオ・スターリン主義党を解体し、反スターリン主義武装した革命的前衛党の創造をめざして闘いをおしすすめよ!」
 すでに「解放」第二二四六号では次のように書かれていた。
 「いま、苦難を強いられ悲惨を強制されている中国の労働者人民は様ざまな形態をとって、陸続と抗議の闘いに起ちあがっている。しかし、その闘いはなお今日の中国共産党のネオ・スターリン主義としての本質をつかみえず即自的な闘いにとどまっている。」
 「ネオ・スターリン主義」というのはスターリン主義のネオ形態ということであろう。今日の中国の党や国家を、ネオであれ何であれスターリン主義と規定するのであるならば、それは、今日の中国の党・国家・政治経済体制・そしてイデオロギーの根底につかみとられるところのその本質として、したがってそれらをその根底から規定しそれらをつらぬくその本質として明らかにされなければならない。それは、スターリンの「一国社会主義」のイデオロギーをその本質とするスターリン主義の一形態として明らかにされなければならない。けれども、このようなことを明らかにする論述は何もない。「ネオ・スターリン主義国家」とか「ネオ・スターリン主義中国」とか「ネオ・スターリン主義国」とか「中国ネオ・スターリン主義」とか「ネオ・スターリン主義党」とかというように、「ネオ・スターリン主義」という言葉は、「中国」「国家」「党」の修飾語として語られているにすぎない。
 「今日の中国共産党のネオ・スターリン主義としての本質」というばあいは、何ら規定されていない「ネオ・スターリン主義」ということが、今日の中国共産党の本質にまつりあげられている。われわれがこれから明らかにしなければならない「ネオ・スターリン主義」という規定が、いやこの用語が、分析主体たるわれわれ、および、われわれがみずからの分析の対象とする今日の中国共産党という物質的現実、この主客の二実体をぬきにして実体化され、あらかじめ実在するかのような、先験的な「本質」とされているのである。
 無署名論文では、わずかに「スターリン主義のエセマルクス主義としての本質」という一句もでてくるのであるが、それは「労働者・勤労人民」によって「いまだに自覚されていない」こととしてのべられているにすぎず、その直前に書かれている「ネオ・スターリン主義中国の反人民性」ということとは切断されている。すなわち、せっかく先の「本質」ということを書いているにもかかわらず、「ネオ・スターリン主義中国」という規定を、ここにいう「本質」から捉えかえして展開してはいないのである。しかもここでは「スターリン主義」の「本質」規定の内容はうすめられている。「エセマルクス主義」というのでは、スターリン主義だけではなく、マルクス主義のあらゆる歪曲形態に妥当する規定である。スターリンによって歪曲されたマルクス主義スターリンの「一国社会主義」のイデオロギーを本質とするスターリン主義、というようには明らかにされていないのである。「エセマルクス主義」というようについうすめてしまったのは、今日の中国の党・国家・政治経済体制・イデオロギーをその根底から規定するところのものを、スターリンの「一国社会主義」のイデオロギーを本質とするスターリン主義、その一形態として明らかにすることには無理がある、という感覚・意識・下意識的意識が筆者によぎったからではないだろうか。スターリン主義の規定を、「社会主義」を言葉としては掲げている今日の中国の党=国家官僚にも当てはまりそうなものに変えてしまったのではないだろうか。

 

 スターリン主義負の遺産の超克」論の誤謬は克服されたのか

 

 新年号の諸論文で大々的にうちだされているにもかかわらず、その内容をまったく明らかにすることのできないこの用語がもちだされたのは、いったいなぜなのだろうか。
 現段階における世界革命戦略、〈反帝国主義反スターリン主義〉世界革命戦略を、変貌した今日の世界情勢のもとで、この物資的現実において基礎づけるために、この「ネオ・スターリン主義」という用語はもちだされたのであろう。だが、この用語のもちだしは、かつて乱舞したところの「スターリン主義負の遺産の超克」というフレーズ、ここにはらまれている問題性を克服しようと意図しながらも、このフレーズのなかの「スターリン主義負の遺産」という句を「ネオ・スターリン主義」という用語に置き換えることをもって、その問題性の克服としたものである、といわなければならない。このような克服の仕方がうみだされたのは、次のことにもとづく。すなわち、〈米中新対決の時代〉には「スターリン主義負の遺産の超克」というかたちで〈反スターリン主義〉を継承していく、という主張は、〈米中新対決の時代〉の名のもとに、われわれの〈反帝・反スターリン主義〉世界革命戦略、その〈反スターリン主義〉戦略を「スターリン主義負の遺産の超克」戦略に歪曲するものである、という私の批判を――この批判にまったく何も答えないというかたちで――無視抹殺し足蹴にし、このスローガンにはらまれている問題性をその根底からえぐりだし克服するための理論的=組織的闘いを徹底的におこなわなかったからである。われわれが対決している対象の一つたる中国の党および国家を、「スターリン主義負の遺産」と規定するのではなく、「ネオ・スターリン主義」である、なおスターリン主義なのだ、と規定することをもって、自分はスターリン主義と対決しているのだ、「反スターリン主義」戦略を堅持しているのだ、というように自己を納得させたことにもとづくのである。
 「スターリン主義負の遺産の超克」というフレーズは、同志黒田の死の半年後に登場しそれから一年余りにわたって「解放」紙上で跋扈した。そして忽然と消えた。けれども、一世を風靡したこのフレーズを尻ぬぐいする論文は、「解放」紙上に掲載されてはいない。この尻ぬぐいをやらないというのは、それこそ全世界の労働者・勤労人民に害毒をまき散らすものではないだろうか。
 同志黒田寛一一周忌の論文では次のように展開されている。
 「胡錦濤の中国にせよ、プーチンのロシアにせよ、現代帝国主義との対抗において敗北し自己崩壊をとげたスターリン主義、その末裔どもが――それぞれの統合イデオロギーを異にするとはいえ――破産ののりきりのために政治経済構造の国家資本主義的改造の方途をとっているといえる。このようなものとしてこの両者は、〈スターリン主義負の遺産〉としての性格・意味をもっているのである。
 この中国とロシアを、それぞれ破産したスターリン主義ののりきりの第一ならびに第二の形態としてとらえ返すならば、その第三の形態が、旧東欧諸国(地政学的には現中欧諸国)ならびにわが日本や西欧諸国の、修正資本主義=真正社会民主主義への転換をとげた転向スターリニスト諸党であるといえる。」
 「同志黒田が明らかにした〈反帝・反スターリン主義〉世界革命戦略は、いわゆる東西両陣営による分割支配のもとにあった二十世紀現代世界の分析把握、〈帝国主義スターリン主義との相互依存・相互反発〉を根源として運動する物質的世界という法則的把握にふまえて、解明されたのであった。スターリン主義ソ連邦の崩壊を結節点としてスターリン主義の自己崩壊が画され、いまや〈米中新対決の時代〉または〈米―中露新対決の時代〉への現代世界の転換がもたらされている今日においては、この現代世界の転換についての分析把握にふまえて、しかも〈スターリン主義負の遺産〉の超克=根絶というかたちにおいて〈反スターリン主義〉を継承していくべき本質的必要性からして、〈反帝・反スターリン主義〉世界革命戦略を内容的に具体化していくことが、われわれに問われているのである。これは、同志黒田亡きあとの歴史的現実のもとで、われわれに課せられている反スターリン主義革命諸理論の理論的探求上の一つの核心問題をなすのである。」(『新世紀』第二三〇号、一六~一七頁)
 ここでは、〈帝国主義スターリン主義の相互依存と相互反発〉の時代に〈反帝・反スターリン主義〉世界革命戦略を同志黒田は解明したのであったが、〈米中新対決の時代〉となった今日においては、〈スターリン主義負の遺産〉の超克=根絶というかたちにおいて〈反スターリン主義〉を継承していく、というように、前半と後半とがパラレルに論じられている。いまや、われわれの〈反帝・反スターリン主義〉世界革命戦略は過去の時代のものとみなされ、〈反スターリン主義〉は、われわれが継承していくものにおとしめられているのである。
 しかも〈反スターリン主義〉を今日的に継承していく形態としてうちだされているところの「〈スターリン主義負の遺産〉の超克=根絶」、これの〈スターリン主義負の遺産〉とは、スターリン主義の末裔どもが破産ののりきりのために政治経済構造の国家資本主義的改造の方途をとっているところの今日の中国やロシア(さしあたり第一・第二形態とされているものを挙げれば)というものでしかないのである。われわれはスターリン主義そのものを超克するのではなく、われわれが超克すべきものはそれの「遺産」にすぎないのであり、スターリン主義者そのものを問題にするのではなく、それの「末裔ども」がやっていることを問題にするだけなのである。これでは、当然にも、現段階における〈反スターリン主義〉戦略を理論的に基礎づけることはできない。筆者は、「スターリン主義の自己崩壊が画され」てしまったがゆえに〈反スターリン主義〉戦略(われわれの世界革命戦略の一モメントとしてのそれ)を理論的に基礎づけることができなくなって困ってしまい、スターリン主義は死んだのだからその「遺産」を超克=根絶することがわれわれの任務だ、ということをひねりだしたのである。スターリン主義が破産したがゆえにこそ、われわれは、破産したところのスターリン主義そのものを超克していくのだ、われわれはスターリン主義そのものをその根底からのりこえていかなければならない、というようには、筆者はまったく考えていないのである。
 筆者のこのような混迷――実際には困っているにもかかわらずそのようなものとして自覚せず自信にみちみちている、という自覚せぬ混迷――にたいして、今日の中国の党・国家は「ネオ・スターリン主義」であり、少なくとも中国ではスターリン主義はまだ生きているのだから、われわれの〈反スターリン主義〉戦略もまたまだ生きているのだ、ということを対置して何になるのであろうか。これは、われわれが対決している対象を別様に解釈して自己を納得させる、というようなものではないだろうか。
 「スターリン主義負の遺産の超克」論も、これを克服したものとしてうちだされているものも、そこにつらぬかれているのは、客観情勢とわれわれの世界革命戦略とを一対一的に対応させて考える考え方であり、スローガン主義的思考法である。「スターリン主義負の遺産」とか「ネオ・スターリン主義」とかといったシンボルをこしらえあげなければならないのは、いったいなぜなのであろうか。
 現代ソ連邦の自己解体というかたちにおいてスターリン主義は破産した。まさにこのゆえにこそ、われわれは、破産したところの当のものそのもの、スターリン主義そのものをその根底からのりこえていかなければならないのである。だから、現段階におけるわれわれの世界革命戦略は〈反帝・反スターリン主義〉なのである。
 スターリン主義は破産した。スターリン主義を人格化して表現するならば、スターリン主義は死んだ、といってもよい。だが、今日の中国(ロシア)の国家を牛耳っている者ども、国家権力者は、かつてはスターリン主義者であった。スターリン主義者であった人物そのものは死んではいない(スターリン主義者であった老齢の者はその後死んだが)、ピンピンしているのである。スターリン主義者、スターリン主義党=国家官僚であった人物が、みずからのもっていたスターリン主義というイデオロギーを捨て、自国を資本主義的政治経済構造に変える、というイデオロギーをみずからのものとしたのであり、これらの人物が、党=国家官僚として、自己のこのイデオロギーにもとづく諸政策を自国の経済的現実に貫徹したのである。だから、「遺産」とか「末裔」とかとは、言えないのである。また、中国の彼らは、いまなおスターリン主義者である、とは言えないのである。彼らは、みずからのもっていたスターリン主義というイデオロギーを捨てたのであり、これにとって替えた「資本主義化」というイデオロギーとその諸政策を現に物質的現実に貫徹したがゆえに、彼らは党=国家官僚のままで資本家となったのである、国家資本の人格化された形態をなす資本家となったのである。
 このことは、次のような論理を考えるならば明らかであろう。観念論から唯物論への過渡、というようには言えない。観念論と唯物論とは、相対立する別の哲学体系をなすのであり、前者から後者への過渡というようなものはありえないからである。梅本克己が哲学的に探究したところのものは、観念論者から唯物論者への過渡、と表現されなければならない。観念論者であったこの私がいかにしておのれの観念論的立場を克服し唯物論者へと自己脱皮していくのか、この主体的な自覚の論理を、彼は追求したのだからである。――ということを、である。
 今日のロシアや中国の現実の分析に、この論理を論理として適用することが肝要なのである。この論理を駆使し、スターリン主義専制国家の党=国家官僚としてスターリン主義者であった者どもが、自己がもっていたスターリン主義というイデオロギーを破棄して、自国のスターリン主義的政治経済体制を解体しこれを資本制的政治経済構造に変えることを意志した人間に転身・転向した、というように把握すべきだ、ということである。ロシアのスターリン主義者であった者どもは共産党それ自体を解体したのであったが、中国のスターリン主義者であった者どもは共産党を解体することなくそれに君臨したうえで、党=国家官僚として右のように意志して、みずからのこの意志すなわち国家意志を中国の経済的現実に貫徹し、そうすることによってみずから党=国家官僚のままで資本家(官僚資本家)となったのであり、このことをおおい隠し党指導者として君臨するために「社会主義市場経済」といったイデオロギーをふりまいているわけなのである。右に見た論理を適用することをとおして、このような把握がなされなければならない。
 「スターリン主義負の遺産」といった把握は、スターリン主義者であった者どもというこの実体をぬきさった、すなわち人間をぬきさった把握なのであり、人間をぬきにしているということをおおい隠すために、スターリン主義というイデオロギー(党・国家・政治経済体制をつらぬく本質的イデオロギー)をあたかも人間であるかのようにとりあつかったものなのである。もしもスターリン主義官僚専制国家権力が、国内につくりだされた帝国主義的諸勢力によって打倒されたのであるならば、国家権力をにぎったこの帝国主義的諸勢力にとっては、彼らが眼前にしているロシアないし中国の悲惨な社会的経済的現実は「スターリン主義者の負の遺産」をなす、というように言うことができるわけである。けれども、実際に起こったことはそういうことではない。また、「末裔」という言葉はふつう、或る人物の子孫にたいしてつかうのであって、或る一人の人物の転身・転向についてはこのようには言わない。だから「スターリン主義の末裔」という句は、スターリン主義者であった者どもという実体=人間をぬきさっていることの紋章なのである。もしも「末裔」という言葉をつかうのであるならば、転向したうえで国家権力を握っている者どもをさして「スターリンの末裔であった者ども」とよべるにすぎない。
 さらに、「スターリン主義負の遺産」といった把握を克服するものとして(そのようには書いていないがそういうものとして)うちだされたところの、中国の党や国家を「ネオ・スターリン主義」とする規定もまた、スターリン主義者であった者どもというこの実体をぬきさったものである。無署名論文で乱発されている「ネオ・スターリン主義中国」という用語法に端的にしめされているように、その担い手をぬきさったところの「中国」ないし党や国家、すなわち諸実体ぬきの空っぽの形態つまり形骸、これの呼び名をどうするのか、ということに腐心しているにすぎないのである。無署名論文では書かれてはいないけれども水木論文で書かれているところの、「「社会主義国」を自称しながら、この国の政治経済構造を国家資本主義に転換させ」という規定をとりあげるならば、自国の政治経済構造を国家資本主義に転換させることを意志した国家権力者は、はたしてスターリン主義者なのであろうか。たとえ「ネオ」という言葉をくっつけたとしても、はたしてスターリン主義者なのであろうか。このように意志した国家権力者は、スターリン主義者から転向した、と言うべきなのではないだろうか。こう意志した瞬間において国家権力者たるこの主体は本質的に転換した、といわなければならないのでないだろうか。こうしたことがらを考察しないことをおおい隠すために、すでに形骸として認知された「中国」、これのたんなる修飾語として「ネオ・スターリン主義」という用語がとりあつかわれているわけなのである。
 さらにいうならば、「ネオ・スターリン主義」という修飾語をくっつける形骸のなかから、今日の中国の政治経済構造が、慎重に外されている。新年号の三つの論文では、今日の中国の政治経済構造はネオ・スターリン主義である(ネオ・スターリン主義政治経済体制である)、という規定はどこにもでてこない。われわれは、スターリン主義という概念を、(現代ソ連邦や中国などの)党・国家・政治経済体制・イデオロギーを規定する本質的概念として、すなわちこれらの諸実体をふくみつつかつ否定した本質的概念として把握してきたのではないだろうか。いま、スターリン主義という概念の内容から、政治経済体制にかんする規定、すなわちスターリン主義政治経済体制という規定をぬきとるのであろうか。それとも、今日の中国の政治経済構造はネオ・スターリン主義政治経済体制である、と規定するのであろうか。もしもそう規定するのであるならば、その規定の内容はどのようなものなのであろうか。
 今日の中国の党や国家を「スターリン主義負の遺産」と規定するのも「ネオ・スターリン主義」と規定するのも、その立場は客観主義である。われわれがこうした特定の現実を分析するときに、スターリン主義者であった者どもという実体=人間をぬきさるのは、他面からするならば、分析主体の立場が客観主義に転落していることにもとづくのである。分析主体が、おのれの分析の対象とする特定の現実、これをつくりだしている諸実体のうちの一定の実体の立場に、すなわちスターリン主義者であった者どもの立場に、わが身をうつしいれて主体的に分析しているのではない、ということに、右の二つの規定がうみだされる根源があるのである。
 スターリン主義者であった者どもが、みずからのもっていたスターリン主義というイデオロギーを破棄して、党=国家官僚として、自国のスターリン主義政治経済体制を解体してこれを資本制的政治経済構造に変えると意志し、党=国家官僚たる彼らが自己のこの意志を自国中国の政治的経済的現実に貫徹することをとおしてつくりだされたのが、今日の中国の国家であり、今日の中国の政治経済構造なのである。まさにこのゆえにこそ、現存する中国の国家権力を打倒するための世界革命戦略は〈反帝・反スターリン主義〉なのである。

 

 「富裕層」という通俗的分析がなされる根拠は何か

 

 無署名論文では次のような分析がなされている。
 「そして他方、今なお「中国の特色ある社会主義」とか「人民中国」とかの看板を掲げている中国では、党官僚とその親族、これと結託した企業経営者などの富裕層が汚職と不正蓄財とによって社会の富を独占している。じつに人口比一%の一握りの富裕層が、中国社会の富の四〇%を独占しているという。だがしかし、「腐敗問題の解決」を口にする胡錦濤習近平をはじめとする党官僚は、みずからが不正蓄財や汚職に手を染めることができる官僚的特権を決して手放そうとはしない。いま中国では労働者・農民工・農民たちが、「仇官」(権力者=官僚を憎む)「仇富」(金持ちを憎む)を合言葉にして、怒りに燃えて闘いに起ちあがっている。」
 富裕層が社会の富を独占している、とは、なんと通俗的分析、社会学的分析であることだろうか。もちろん、そういうことが言われている、と紹介することはよい。問題は、そのように言われているところの対象たる現実そのものをわれわれがどのように分析するのか、ということである。けれども、このパラグラフの最初から最後まで同じトーンのことが書かれているにすぎない。引用したこのパラグラフは、即自的展開の部分ではない。これが、最後の章の最後の節で中国それ自体について書かれていることのすべてなのである。
 とにかく、この展開は奇妙である。「党官僚とその親族、これと結託した企業経営者など」というように、どういう奴らなのかということをせっかく具体的に挙げたにもかかわらず、そいつらをひとまとめにしてそれに「富裕層」という概念規定を筆者があたえたことが、私には奇妙なのであり、そうしたうえで、「富裕層が汚職と不正蓄財とによって社会の富を独占している」という俗人まがいの文を筆者が書いたことが、私には奇妙におもえるのである。この謎は、次の文、すなわち自分の分析内容を実証的に裏づけるために、自分が読んだ資料の内容を紹介している文を読むと――その直接性にかんするかぎりは――解ける。「富裕層」とか「社会の富」とかという用語をつかって筆者が自分の分析内容を展開したのは、彼が読んだ資料においてそれらの用語がつかわれていたからだ、筆者は自分が読んだ資料の内容にオルグられた頭で、そこでつかわれている用語をそのままつかって論文を書いただけのことなのだ、とわかるのである。だが、これはいったいどうしたことか、筆者はいったいどうなってしまったのか、と謎は深まるばかりなのである。資料を読んだときに、この「富裕層」とはいったい何をさすのか、ここで「富裕層」と呼称されているところの物質的現実そのものは何か、その現実そのものをわれわれはどのように分析すべきなのか、というように、筆者は頭をめぐらせてはいないのである。
 「党官僚とその親族、これと結託した企業経営者などの富裕層」という句は、筆者がおのれの把握内容を言語体をつかって対象的に表現したものなのであるが、彼がこのように表現するということは、彼が資料を読んだときの彼の内面的な思惟の営みそのものが次のようになっていたからだ、と私にはおもえるのである。「富裕層」という文字表現態を彼が見るとともに、彼の頭にはパッと、党官僚、その親族、これと結託した企業経営者、といった言葉がひらめきうかぶ。このとき、これらの言葉と、これらの言葉によってあらわされる概念をもちいてわれわれが把握するところの物質的現実そのものとを区別するかたちでは意識されていない。両者が混然一体となるかたちで表象されている。この渾然一体となったのものと、いま頭に入ったばかりの「富裕層」という言葉とが、彼の頭のなかでペッタンコいっしょになる。こうしたものが彼の意識の底に記憶として沈殿する。――こういうことが、彼の頭のなかで起こっているのではないだろうか。そうでなければ、筆者が先のような表現をとることはない、自分の分析内容を言語的に表現するときには、筆者は、「富裕層とよばれるこれこれの者ども」というようにでも書く、と私にはおもえるのである。もしも「富裕層」を、ここに挙げられている者どもにかんする本質的規定である、と筆者が考えているのだとするならば、中国のもろもろの人々を、彼らはどのような諸階級・諸階層からなりたっているのかというようにマルクス主義的に分析することを、彼は放棄した、ということになってしまうのである。彼の分析力・思弁力・論理的諸能力・プロレタリア的価値意識はいったいどうなってしまったのであろうか。
 筆者が挙げている者どもは、その多くは国有企業の経営者あるいは国有企業を統括する国家諸機関の官僚(党=国家官僚)なのであり、これらの者どもは国家資本の人格化された形態をなすのである。また私営企業を経営している者どもは、そうした諸資本の人格化された形態をなすのである。このようなものとして、彼らは中国のブルジョア階級を構成するのである。それとともに、中国社会の富は、資本という規定をうけとるのである。さらに、汚職と不正蓄財とは、彼らの致富手段の全体からするならば、氷山の海面から上にでている部分にすぎないのであって、彼らは労働者・勤労大衆から膨大な剰余価値を搾取しかつ収奪しているのである。他方、労働者・農民工は、賃労働者=プロレタリアをなすのであり、農民もまた階級的・階層的に分化してきているのであって、そのことが分析されなければならないのである。
 どうも、この無署名論文の筆者には、右のような階級的な分析をしたくない、という下意識的意識がはたらいている、と私にはおもえてならない。今日の中国の党や国家を「ネオ・スターリン主義」と規定するならば、今日の中国の政治経済構造についてはこれをどう規定するのか、ということが問題となるのであり、今日の中国の政治経済構造は資本制的に変質したのではなく、それはネオ・スターリン主義政治経済体制をなす、と言いきってしまえば、この言は、現実離れしたものとなってしまうか、たんなる言葉のひねくりまわしになってしまうかするのであって、この問題については考えるのを回避したい、という意識が彼をつきうごかしているのであろう、ということである。このことについてはすでにのべた。
 今日の中国には、共産党を自称する党が厳然と存在しているのであり、この党をわれわれはどのように分析するのか、ということが問題となる。この分析を、現実の下向分析にわれわれの諸理論・諸論理を総動員して適用する、というかたちでおこなっていないことが問題なのである。「党官僚は、みずからが不正蓄財や汚職に手を染めることができる官僚的特権を決して手放そうとはしない」などと言ったとしても、これは、同義反復的な、あるいは官僚の言辞への切りかえしというような、政治的ケチつけでしかない。中国の法律に違反している氷山の一角しか問題にしていず、合法的な、すなわち法のもとでの平等にもとづく剰余労働の搾取については何らつきだしていない、ということについてはすでにのべた。合法主義的な分析・弾劾と見まがうような、こうしたことしか書かないのは、党およびこれを構成する党員を、この党員がいったいどのような存在になっているのか、ということとの関係において分析していないからである。
 中国共産党の今日の変質を分析するためには、われわれ主体=党員の・そのおいてある場に規定された・規定性の転換、という論理を想起し念頭におくことが必要である。とはいっても、この論理の応用問題のようなものなのであって、党およびそれを構成する党員という主体を、この主体のおいてある場との関係において考察する、ということが、ここでの問題なのである。
 わが党は革命的プロレタリアをその構成実体とするのであり、わが党を構成する党員は労働現場において実存するプロレタリアなのであって、このゆえに労働運動の場において組合員として活動するわけなのである。ところで、中国共産党の構成実体はスターリン主義者であったのであり、彼らは国家諸機関の官僚、とりわけ経済行政をつかさどる省庁の官僚、そして企業経営=技術官僚などが主軸を占めていたのであった。ここにおいて、――われわれの運動=組織づくりの論理とは異なって――彼ら中国共産党員のおいてある場が歴史的に変化した、ということが問題となるのである。以前には、彼らのおいてある場は、スターリン主義政治経済体制をなしていたのであり、彼らはそこのもろもろの部署の官僚であった。いまやスターリン主義政治経済体制は解体され、それは資本制政治経済構造に転化した。すなわちスターリン主義的官僚制計画経済を構成していた国有=国営諸企業ないし各省庁の現業部門は、商品=労働市場にあみこまれた株式制の国有企業となったのであり、もろもろの部署の官僚は官僚資本家となったのである。いいかえるならば、スターリン主義的計画経済を構成していた諸生産過程、その主客両契機をなしていたところのものは、形成された商品=労働市場にこれらの諸生産過程があみこまれることをとおして、資本の定有という規定をうけとったのであり、もろもろの部署の官僚は、国家資本をなす生産諸手段の人格化された形態つまり官僚資本家となり、労働者たちは賃労働の人格化された形態たるプロレタリアとなった、ということである。だから、中国共産党の党員は、党員のままで、みずからの社会経済的存在形態を、スターリン主義官僚から官僚資本家へと変えたのであり、そうすることによって、中国共産党は、もろもろの部署のスターリン主義官僚を構成実体とする党から、もろもろの地位の官僚資本家やその他の資本家を構成実体とする党に転化したのである。したがって、党官僚から下部党員まで、彼らが汚職や不正蓄財に手を染めるのはあたりまえのことなのである。資本を増殖することこそが彼らの使命なのであり、法の網をかいくぐることは彼らの手腕にかかわることなのだからである。あるべきプロレタリア前衛党を基準にして中国共産党を批判するのは、彼らを美化するだけのことである。

 スターリン主義に主体的に対決すべきなのは誰なのか

 無署名論文の、冒頭で引用した部分をもう一度見かえしてみよう。スターリン主義と主体的に対決していく、ということは、どういう意味で言われているのであろうか。
 「スターリン主義のエセマルクス主義としての本質がいまだに自覚されていない」というのは、労働者・勤労人民がいまだに自覚していない、という意味である。事実としてはそうにはちがいないのであるが、このように言うのは、われわれはその本質を自覚しているのだ、という高みからものを言っているものではないだろうか。われわれは、労働者・勤労人民に、その本質についての自覚をいまだにうながしえてはいない、という文章展開であるならば、私にもわかるのである。それはなぜか、というように、われわれ自身の限界をえぐりだしていくことへと下向していくことができるからである。
 次の「まさにいま全世界の労働者が勝利にむかって前進するためには、スターリン主義と主体的に対決していくことが絶対的に必要である」という文のなかの「スターリン主義と主体的に対決していく」主体は誰なのであろうか。それは、全世界の労働者、であろう。われわれ、ではないであろう。もしも、この主体をわれわれ、というように筆者が考えていたとするならば、彼はこの文を、「まさにいま全世界の労働者を勝利にむかって組織し前進していくためには、われわれはスターリン主義と主体的に対決していくことが絶対的に必要である」と書くであろうからである。このように書いていないということは、この筆者が、自分はスターリン主義と主体的に対決しているのだ、主体的に対決しえているのだ、主体的に対決したのだ、という高みにたっていることを意味する。彼は、自分自身はスターリン主義と主体的に対決しえている、という高みにたって、スターリン主義と主体的に対決していくべきことを全世界の労働者の任務とし、彼らにむかってこの任務を遂行せよ、と要請しているのである。
 われわれはスターリン主義と主体的に対決するぞ、という決意、決意を新たにする決意を、新年号の筆者三人のだれ一人として表明してはいない。いや、文として書く必要はない。筆者がこの決意にみなぎっているということが、行間からほとばしりでていればよい。だが、私には、そのようなものはまったくつたわってこない。このおのれ自身ははたしてスターリン主義と主体的に対決しえているのか、なお残されている課題は何か、というようにおのれ自身をふりかえることなしには、さらにさらにスターリン主義と主体的に対決するぞ、と決意を新たにすることはないであろう。
 同志黒田が『現代における平和と革命』の「改版あとがき」で、社会主義論・過渡期社会論・ソ連論の骨組みを展開した最後に書いていることを想い起こすべきである。
 「⑨ ソ連社会主義を超克するための基本的骨組みは、おおよそ右のようなものであるとしても、さらに次のような理論的諸問題が考究されなければならない。――一九三〇年代に提起されたプレオブラジェンスキーの過渡期経済論、オストロヴィーチャノフの「変容された価値法則」論、一九五〇年代にたたかわされた「価値と価格」をめぐる論争、一九六〇年代の「利潤」論争や管理制度の改革政策にかんする論争、一九七〇年代の所有形態にかんする論争などなど。
 たしかに、ソ連邦は現実に崩壊した。けれども、ソ連邦の政治経済構造が破綻しなければならなかった外的および内的根拠を分析することも、また種々の論争をマルクス経済学の見地から総括することも、なおわれわれのなすべき課題としてのこされているのである。」(二八九~九〇頁)
 ここで提起されていることを鏡として、おのれ自身をふりかえるべきではないか。私自身は、スターリン主義をその根底からのりこえていくための理論的作業をなに一つと言っていいほどおのれがなしえていないことを自覚し、このおのれを突破していくために、現代ソ連邦が自己解体した、その理論的根拠を根底的にえぐりだしていくことを自己の任務とし、ここで提起されているようなことを一つひとつやっていく努力をつみかさねてきたのである。私以外の誰が、同様の努力をやっているのか。「解放」紙上および『新世紀』誌上に掲載されたものとしては、私の一つの論文以外には、そのようなことがらを追求した論文は一つもない。戦時共産主義政策が破綻したうえでのそれを弥縫することに腐心したトロツキーを美化する理論的作業は、このような努力のたまものとはいえない。それは、ソ連邦が崩壊した根拠をえぐりだす、という実践的立場にたっていない筆者の所産である。私以外の者が書いた論文であるならば、紙誌上に掲載されるであろう。何も掲載されていないということは、誰も何もやっていない、ということである。ソ連邦が崩壊した根拠をえぐりだすことにかかわる何らかのことがらをテーマとした論文がでない、というだけではなく、スターリン主義そのものに言及することそれ自体がほとんどなくなってしまった。いやむしろ、私の原稿を無視し捨て置き、そして抹殺することを画策しているだけである。
 自分自身がスターリン主義との主体的対決を放棄しているがゆえにこそ、〈反スターリン主義〉を「スターリン主義負の遺産の超克」なるものにすりかえたのである。自分自身がスターリン主義との主体的対決を放棄しているがゆえにこそ、われわれが眼前にし弾劾しているところの今日の中国を「ネオ・スターリン主義」と意味付与し、あたかも自分自身がスターリン主義と主体的に対決しているかのようにみせかけたのである。
 レーニンが死んだその年一九二四年の暮れにスターリンは「一国社会主義」論を提起し、これに反対したトロツキーをば国外に追放したうえに自分の手下を使ってその脳天をピッケルでたたき割り殺した。それ以降、一九九一年にソ連邦が崩壊するまで、スターリン主義党=国家官僚どもは、経済建設の破綻ののりきりにのりきりをかさねてきた。一九二四年から数えるならば七〇年近くにわたる経済建設、その総括を、――この総括をほりさげるためにさらに下向しかつ歴史的にさかのぼるならば、一九一七年のロシア革命以降七〇余年わたる経済建設の総括を――われわれがおこなわなければならないのである。われわれがこれをおこない、その内容を提起し物質化していくことなしには、全世界の労働者たちに、スターリン主義に主体的に対決していくことをうながし、彼らをプロレタリア世界革命の主体として組織していくことはできないのである。スターリン主義の本質は「一国社会主義」のイデオロギーであると語っていればそれですむ、というわけにはいかないのである。われわれはスターリン主義をのりこえた理論をすでに創造した、われわれの今日の課題は全世界の労働者にスターリン主義に主体的に対決することをうながすことだ、とするわけにはいかないのである。
 経済建設の総括は、実践を規定した理論の総括、および、理論に規定された実践そのものの総括、という二つの角度からおこなわれなければならない。一定の領域のことがらを一定の角度から総括することを、われわれは一歩一歩おこなっていかなければならないのである。
 だが、わが組織はまさに危機にある。
 植田論文では次のように書かれている。
 「われわれの組織は、形態的にはピラミッドをなすのであるが、本質的には上下も左右もはっきりしない球体をなすのであり、実体的には板状をなすと言ってもよいほどなのであって、このことの自覚が党組織建設に日常的に生かされなければならないのである。
 わが組織は、いわば「上意下達」の組織ではないのであって、タテにもヨコにもナナメにも、活発な同志的交通関係がつくられなければならない。それゆえに、われわれの内部思想闘争は、つねに活発であるとともに、歪んだものや淀んだものにたいしては厳しくあらねばならない。けれども、わが組織は、よく晴れた空と爽やかな風と温かい日差しの温もりに包まれた組織でなければならない。そうでなければ、わが組織を将来社会の母胎とすることはできないのだからである。」
 だが、このことは、もはや、今日のわが組織には貫徹されていない。考えてもみよ。「スターリン主義負の遺産(の超克)」論をめぐってどのような論議をおこなってきたのかをなに一つ明らかにすることなく、突如として「ネオ・スターリン主義」というシンボルをうちだし、これについての説明もしない、というのは、組織内思想=理論闘争を活発に推進する、というものではない。過去において、われわれがわれわれのおかした誤謬にかんして、組織内部において論議することを基礎にして、機関紙誌上においても諸論文や諸反省文をどのように掲載してきたのか、ということと対比するならば、このことは明らかであろう。しかも「スターリン主義負の遺産の超克」論にたいする私の批判にはまったく何も答えてはいないのである。
 いまこそ、わが組織のこの現状を突破しなければならない。植田論文に書かれていることがらを、わが組織に蘇らせなければならない。
           二〇一三年一月一日

現段階における〈反帝国主義・反スターリニズム〉世界革命戦略

 〔以下に掲げる文章は、二〇〇八年に私が執筆し、わが探究派の結成とともに、われわれの世界革命戦略としてきたものである。これは、現段階における〈反帝国主義・反スターリニズム〉世界革命戦略をなす、ということができる。この文章は、二〇〇八年に私は内部文書として提出し討論を要求したにもかかわらず、当時のわが組織指導部は無視抹殺し、それ以降、沈黙を守ったままのものである。
 この文章の展開に照らすならば、彼らの、「中国=ネオ・スターリン主義」という規定の誤りも、彼らが〈反スターリニズム〉戦略(〈反帝国主義・反スターリニズム〉世界革命戦略の一契機としてのそれ)を破棄したことも、白日のもとに明らかとなる。
 「革マル派」現指導部よ。世界革命戦略にかんするわれわれとのイデオロギー闘争から逃げるために、われわれに「反革命」という非難を投げつける、というのは、あまりにもみすぼらしいではないか。
 下部組織成員諸君! この文章に主体的に対決せよ!
       2022年8月2日   松代秀樹〕

 


 現段階における〈反帝国主義・反スターリニズム〉世界革命戦略 

 二十一世紀現代世界はいまや〈米・中露新対決〉の様相を呈している。「一超」軍国主義帝国アメリカと対立している中国およびロシア、これらは、一九九一年の現代ソ連邦の自己解体とソ連圏の崩壊というかたちであらわとなったスターリン主義の破産、破産したこのスターリン主義ののりきり形態、破綻したスターリン主義の転化した形態にほかならない。
 中国スターリン主義官僚専制国家が「改革・開放」という名の資本主義化政策を貫徹してきたことをとおして、この国の政治経済構造は中国型の国家資本主義に変質した。土地の「公有制」を名目上保持したうえでのその使用権の売買や国有諸企業の株式制企業形態への改編などを要因として、これまで外資導入を出発点に形成されてきた商品=労働市場(資本市場をふくむ流通部面)にあらゆる生産部門のあらゆる生産過程があみこまれたことのゆえに、スターリン主義的官僚制計画経済の構成部分をなしていた諸企業、その生産過程の主客両契機は資本の定有という規定をうけとり、国有諸企業は国家資本となったのであり、経営官僚は生産諸手段の人格化たる資本家的経営者に転化するとともに、労働者はみずからの労働力を商品として売る賃労働者に転化したのである。中国国家の実体的基礎をなす中国共産党、この党の官僚がこの党のイデオロギーを「三つの代表」論にしめされるものへと変質させたこと、およびこの党の構成実体(党員)である企業経営官僚が資本家的経営者へとその社会的存在形態を変えたことに規定されて、この国家は資本家階級の利害を体するものへとその階級的性格を変えたのである。
 階級的性格を変えてきたこの国家は、みずからの暴力をもって資本の根源的蓄積をおしすすめた。スターリン主義党=国家官僚や地方の党=行政府官僚の農業政策の破綻と徴税というかたちでの収奪に苦しめられ生活できなくなった農民は、沿海部の都市に流入し、帝国主義諸国やアジアの資本主義諸国の諸企業から資本を導入して設立された合弁企業などに低賃金で雇われてタコ部屋におしこまれ過酷な労働を強いられた。「農民工」と呼ばれるこうした出稼ぎ農民は二億人にのぼった。また諸企業を誘致したり設立したりすることを目論んだ各級の行政府によって土地を暴力的に奪われたいわゆる「失地農民」は五〇〇〇万人におよぶ。農民から土地を収奪してその「使用権」を売るという〝事業〟をはじめとして経済的諸行動をおこなう地方の党=行政府官僚は、資本の人格化たるの意義をもつ。また彼らは自己の地位を活用して自分の息子や一族の誰彼を私営企業の経営者に育てあげた。
 いまやスターリン主義官僚とその一族が資本家階級に転化したのである。専制的支配体制をとる中国国家がそれの利害を体しているといえる資本家階級、その中核的部分を、党や国家や地方行政府や国有企業などの官僚という政治的獅子の皮をつけた汚らしい生身の人間どもとその一族郎党が占めているのである。党=国家官僚そのものは、この階級を統率し指導するものとして、国家意志を体現する政治エリートとして、「社会主義市場経済」とか「科学的発展観」とかという独自のイデオロギーを国家統合の手段たらしめ、この階級のうえに君臨しているわけなのである。
 ロシアにおいては、FSB(連邦保安局)=旧KGBを実体的基礎とした強権的=軍事的支配体制が確立されている。FSB型国家資本主義というべき政治経済構造を物質的基礎として、この国家はすでに資本家階級の利害を体現するものとなっているのである。一九九〇年のゴルバチョフソ連大統領就任は、このスターリン主義大統領制国家が「調整される市場経済への全面的で加速的な移行」という政策をうちだし実施したがゆえに、この国の政治経済構造が官僚制国家資本主義に変質した結節点をなす。このことはまた、一九九一年のソ連邦の自己解体の根源をなす。
 「生産諸手段の所有形態のプルラリズムとこれにもとづく経営形態の多元化は、――「個人的労働」のばあいをのぞいて――諸企業の管理部を資本家的経営者に転化させるとともに、労働集団の担い手たちを賃金労働者に転化させることになる。スターリニスト官僚制国家における管理部と労働集団との「労働契約」は雇用・被雇用の関係に転化する。これは、資本家的経営者または官僚資本家と彼らに雇用される労働者としての賃労働者たちとの関係であって、ここに企業内労働市場が成立している。」(黒田寛一『死滅するソ連邦』こぶし書房、一九九一年刊、三二八頁)
 「いまやスターリン主義国家の国家フォンドは解体されて、――リース制による私的=集団的占有という形態においてであれ、買収による私的または集団的所有という形態においてであれ、株式制という所有形態においてであれ、――資本という形態規定をうけとり、自己増殖する価値に転態したのである。私的小生産者・私的小経営者であれ、コーペラーツィア型労働集団であれ、また株式制企業であれ、軍産コンプレックスのような国営企業であれ、それらが所有する生産諸手段は、いまや資本の定有となる。そして、資本の定有としての生産諸手段は、この生産諸手段を使用する私的生産者ないし労働集団を前提し措定する。生産諸手段を賃借りないし買収した主体としての労働集団および小生産者をのぞいて、生産=企業の主体ではないところの労働集団の個々の担い手としての労働者は、自己の労働力を商品として販売する賃金労働者に転化する。
 他方、賃金労働者からなる労働集団に対立するところの、企業長(または支配人)を中心にした管理部は、生産諸手段の人格化としての資本家的経営者に、あるいは官僚資本家に転化する。」(同前、三三三~三四頁)
 ソ連邦を解体したうえで、ロシア大統領エリツィン帝国主義諸国の新自由主義的諸政策を模倣して「国有企業の民営化」を中軸とする資本主義化政策を実施したことは、官僚資本家やマフィアや外国資本と結託した新興ブルジョアどもの、国有財産の強奪にもとづく急成長とロシア経済の破綻をもたらした。この危機を突破するために、自分に対抗するオリガルヒ(新興財閥総帥)を弾圧し、自己の配下の旧KGBを担っていた者どもを、国有形態に再編した基幹的諸企業の経営にあたらせるとともに、国家諸機関をこれらの者どもでもってかためたのが、「国家に統制された市場経済」を標榜するプーチンなのである。
 これら中・露と対立する帝国主義諸国家、その政治経済構造もまた変貌をとげた。ソ連邦の自己解体とソ連圏諸国の政治経済構造の変質を外的条件とし、一九八〇年代初頭にネオ・ファシズム支配体制を確立した帝国主義諸国家の新自由主義的諸政策の貫徹および階級闘争の変質=消滅を内的要因として、現代帝国主義の政治経済構造をなす国家独占資本主義は形態変化した。アメリカン・スタンダードのグローバルな貫徹のもとでのマネー・ゲームの横行、「リストラ」という名の・不採算部門の切り捨ておよび直接的生産過程の合理化そして事務部門の人員の削減、雇用形態および勤務形態の改変、賃金の大幅な切り下げ、さらに「利益団体」と断罪しての労働組合の破壊、これらのゆえに、下へ下へと労働者階級の階層的な分化がおしすすめられ、膨大な極貧層がうみだされた。それ自体、スターリン主義者に、また社会民主主義者に、そして労働貴族どもに指導された労働組合は、あるいは破壊され、あるいは企業組織体にあみこまれ、労働者階級は総じて過酷な労働と貧困につきおとされたのである。諸製品の多様な性能や形状、生産する数量や時期などを市場の動向に適合したものとするためにコンピュータを駆使するという以外にはきわだった技術革新をおこないえていない諸独占体は、生産の拡大にともなって必要となる労働量を、労働者たちに超長時間・超強強度の労働を強いるというかたちで確保し、かつ徹底的に賃金を切り下げることをとおして、資本の過剰が露呈することを回避してきたのである。アメリカ型のカジノ資本主義は、こうした上から叩いただけの土手に咲いたあだ花にほかならない。
 これらのゆえに、帝国主義諸国家権力(帝国主義陣営に属していたすべての国の国家権力)を打倒するとともに中・露をはじめとしてソ連圏を形成していた諸国の国家権力を打倒することが、あるいは旧ソ連圏の諸国の国家権力を打倒するとともに帝国主義諸国家権力を打倒することが、全世界のプロレタリアートの普遍的課題をなすのであり、この普遍的課題を実現するためには、スターリン主義の破産の根拠を、したがってスターリン主義そのものの問題性をえぐりだし、スターリン主義をのりこえる内容をもって全世界のプロレタリアートイデオロギー的および組織的に武装することを基礎としなければならない。まさに、現段階における革命的プロレタリアートの世界革命戦略は〈反帝国主義・反スターリニズム〉なのである。この世界革命戦略、すなわちソ連邦の自己解体以降の現代世界を物質的基礎とする世界革命戦略は、帝国主義陣営とスターリン主義陣営との角逐を物質的基礎にして解明されたところの〈反帝国主義・反スターリニズム〉世界革命戦略を本質論とし、それの現実形態論として明らかにされなければならない。
 一九一七年のロシア革命によって世界革命への過渡期が切り拓かれた。けれども、革命ロシアの孤立・ロシアの経済的後進性・ヨーロッパ革命の挫折にもとづく世界革命の遅延などを物質的基礎としてうみだされたスターリン主義、「一国社会主義」のイデオロギーをその本質とするスターリン主義によって、樹立された労働者国家とその政治経済構造は変質させられた。革命ロシアのこのスターリン主義的変質を要因として、すなわち、ソ連「一国社会主義」の防衛と建設の自己目的化、これにもとづくソ連中心主義体制の確立(インターナショナリズムの破壊とコミンテルンスターリン主義的疎外)、ソ連「一国社会主義」の防衛への各国階級闘争の従属化、資本主義各国の革命戦略・戦術の誤謬とジグザグにもとづく革命闘争の裏切りと敗北、これらのゆえに世界革命の過渡期は固定化されたのであった。「一国社会主義」論をイデオロギー的支柱とする、ソ連およびソ連圏諸国の官僚主義的国家計画経済は、諸矛盾を蓄積させ、弥縫を重ねたすえに、ついに破綻したのであった。現代ソ連邦の自己解体とソ連圏の崩壊の根拠は、まさにここにある。このゆえに、一九一七年から一九九一年までの七十余年にわたるソ連における経済建設の総括を、すなわちスターリン主義的な官僚制計画経済の問題性と誤謬を徹底的にえぐりだす作業を、われわれはなしとげなければならない。これなしには、すなわちスターリン主義の破産の根拠をその根底からあばきだすことをぬきにしては、共産主義社会(その第一段階と第二段階の両者をふくむ)への過渡期にある社会の経済建設をどのようにおしすすめていくべきなのかを明らかにすることができないからであり、全世界のプロレタリアートを、とりわけ一九九一年を結節点として「二重の意味で自由な労働者」=プロレタリアにつきおとされた旧ソ連圏の民衆を、階級的に組織化していくことはできないからである。
 その内実が変質した党に君臨してみずからの支配を貫徹している今日の中国の党=国家官僚も、FSBを実体的基礎とする強権的=軍事的支配体制を敷いているロシアの国家権力者も、旧東欧諸国の転向スターリニストも、ソ連および自国の経済建設の破綻の根拠を、スターリン主義的な官僚制計画経済の誤謬にではなく、計画経済そのものにもとめ、「社会主義市場経済」だの「国家に統制された市場経済」だのという理由づけのもとに資本主義化政策を実施し、この政策の貫徹をつうじてその政治経済構造と国家そのものを独自的なものとしてつくりだしてきたのであった。旧ソ連圏諸国の今日の諸国家権力およびその物質的基礎をなす今日の政治経済構造が形成されたのは、じつに、スターリニストであった彼らが、官僚主義的国家計画経済の破綻の責任をマルクス共産主義社会論そのものにかぶせ、「市場経済」を経済再生の魔法の杖ででもあるかのように思い描いたがゆえである。帝国主義各国のスターリニストもまた同様に転向したのであり、彼らは修正資本主義をみずからの基本路線としているわけなのである。まさにこのゆえに、スターリン主義的な官僚制計画経済の誤謬をその根底からあばきだすと同時に、過渡期社会の経済建設をどのようにおしすすめていくのかを政治経済学的=実践論的に解明することが必要なのである。
 帝国主義陣営を形成していたところの帝国主義諸国およびその他の資本主義諸国においては、スターリニストは転向をとげ、転向スターリニストの党として存在し、階級闘争を修正資本主義の路線のもとによりいっそう歪曲している。それゆえに、各国の国家権力を打倒するためには、革命的プロレタリアートはこの歪曲をのりこえるかたちにおいて不断の階級闘争を展開し、かつ彼らの転向とその根拠をなすスターリン主義そのものの問題性をあばきだすイデオロギー的=組織的闘いをおしすすめることをつうじてこの党を革命的に解体し、反スターリン主義の前衛党を創造し確立することが必要なのである。この前衛党およびそれがリーダーシップをとってプロレタリアートヘゲモニーのもとに結成する革命的統一戦線を実体的基礎として、プロレタリア・インターナショナリズムにもとづいて、国家権力打倒の革命闘争は実現されなければならない。各国の国家権力の本質規定、それぞれの政治経済構造の特殊性の政治経済学的分析、階級関係および階級闘争の革命理論的分析などを基礎とし、これらと〈反帝・反スターリニズム〉戦略の適用との統一において、各国の革命戦略・組織戦術・戦術はうちだされなければならず、不断の階級闘争の具体的=個別的な闘争=組織戦術の解明に、そして革命闘争そのものの指針の解明に(革命闘争の主体的推進論は、革命闘争論的解明としてなされる)、〈反帝・反スターリニズム〉世界革命戦略を現実的に適用していくことが必要なのである。
 他方、ソ連圏を形成していた諸国の国家権力を打倒する革命の戦略・組織戦術・戦術の解明、および不断の階級闘争の指針の解明にも、〈反帝・反スターリニズム〉世界革命戦略は現実的に適用されなければならない。これらの国の革命戦略・組織戦術・戦術は、中国、ロシア、旧東欧諸国などの諸国家権力の具体的分析にもとづいて、それぞれ明らかにされなければならない。
 中国においては、スターリン主義官僚専制国家がその暴力をもっておしすすめてきた資本の根源的蓄積過程、これをつうじてうみだされ形成されてきたプロレタリアートは、変質した中国共産党を実体的基礎として成立している専制権力を打倒するために、党=国家官僚や地方の党=行政府官僚やまた国有企業の資本家的経営者、そして私営企業の資本家などの支配と抑圧と搾取にまっこうからたちむかう階級闘争を断固として推進すると同時に、この闘いのただなかにおいて、また独立に、こうした党と国家の変質の根拠をなすスターリン主義の破産を、スターリン主義そのものの問題性をあばきだしこの党を解体するイデオロギー的=組織的闘いをおしすすめ、これをとおして反スターリン主義の前衛党を創造し確立しなければならない。帝国主義諸国のプロレタリアートとのインターナショナルな連帯のもとに、世界党を構成するこの前衛党を実体的基礎としてプロレタリアートを階級的に組織化しかつ農民をも結集してソビエトを結成し、このソビエトを主体として国家権力打倒の革命闘争を実現するのでなければならない。
 ロシアのプロレタリアートは、FSBを実体的基礎とした強権的=軍事的支配体制という形態をとっている国家権力――スターリン主義官僚の転化した部分が中軸をなす資本家階級、その利害を体現している国家権力――を打倒するために、この国家による強権的支配と国家資本主義のもとでの搾取に抗する階級闘争を展開するとともに、その前提において、その過程において、そしてその結果において、革命ロシアを歪曲し変質させてきたところの、そしてアンチ革命に転じたところのスターリン主義を徹底的にあばきだし、かつスターリン主義をのりこえる内容を組織的に物質化し、これをつうじて反スターリン主義の前衛党を創出するのでなければならない。この前衛党のリーダーシップのもとに、スターリン主義官僚が形骸化させそして破壊したソビエトを真実のそれとして新たな地平において再組織化し、このソビエトを実体的基礎とするプロレタリアート独裁権力をうちたてなければならない。
 旧東欧諸国(そしてまたロシアとともに旧ソ連邦を構成していた諸国)においては、基本的には、一方では、支配階級をなす資本家階級のなかの・スターリン主義官僚が転化した部分、これの利害を体現する転向スターリニストの党が、他方では、資本家階級のなかの・帝国主義諸国の独占資本家どもと結びついた部分、これの利害を代弁する諸政党、およびその他の諸政党が形成され、いずれかの政党が中心となって権を掌握しているのであって、それぞれの国家権力の本質規定および実体的諸規定を基礎にして、これと〈反帝・反スターリニズム〉戦略の適用との統一において、各国の革命戦略・組織戦術・戦術が明らかにされなければならない。
 まさに、われわれの現段階における〈反帝国主義・反スターリニズム〉世界革命戦略は、帝国主義陣営を形成していた諸国の内部でも、また旧ソ連圏の内部でも、「プロレタリア・インターナショナリズムを主体的および組織的根拠として、永続的に完遂されなければならない。」(黒田寛一『日本の反スターリン主義運動 2 』こぶし書房、一九六八年刊、二六八頁。――本書の「〈反帝・反スターリニズム〉戦略の必然性とその構造」参照)
               二〇〇八年初頭