過去の問題性は対象的現実の反映のゆがみであったが、今日ではわが探究派の像の意図的捏造!

 〔まったくまわりを見ずに道路を横切っている人にとっては、静かに止まってくれた車は、存在しなかったことになる。かつては、組織指導部は、よく言えば、この人のようであった。いま、「革マル派」指導部は、下部組織成員を欺瞞するために、存在しないことがらを自分の頭のなかで意図的にこしらえあげて機関紙上に公表した。
 みにくい。
 ガマガエルのように、自分の姿を鏡に映して見たらどうだ!
 (自分自身の顔から滴り落ちる脂汗を自分自身に塗ればいい。ガマガエル=日本ヒキガエルの分泌物には、実際に鎮痛作用があるそうだから。麻酔作用もあるそうだ。)
     2022年8月9日 松代秀樹〕

 


 対象的現実の反映のゆがみ


 「スターリン主義負の遺産」論者と「ネオ・スターリン主義」論者とでは、中国共産党にかんして描く像がまるで違う。こうしたことがおこるのは一体なぜなのか。
 中国共産党という呼称が妥当する対象的現実を、実践=認識主体としてのわれわれが認識対象として措定し、これを分析していくときには、われわれはこの現実を直接的にみることはできない。新聞の報道、テレビで流される映像、雑誌や書物での論評、中国の報道機関が報じるニュース、そして中国共産党が発表する諸論文・諸報告、さらにはまたわが仲間たちが書いた諸論文など、これらにおいて中国共産党にかんしてふれられているものを読んだり見たりすることをとおして、われわれは、われわれが対象としている現実を分析していくわけである。ここにおいて問題が発生する、といえる。
 この問題にはいっていくまえに、われわれが対象的現実を直接にみるときに、或る人には、起きている事態がまったく眼にはいっていないことがある、ということをみておく。
 或るメンバーが歩いているのが、その近くを通りかかった別のメンバーの眼にはいった。その眼には次のように映じた。当該のメンバーは、車道の・横断歩道でもないところを、左右を見ることもなくゆっくりとわたっていく。走ってきた車が――その運転手がおどろいたかのように、しかしキキッと音をたてることなく――スーッと、その人の直前で止まり、その人がわたりおえてから、またスーッと発車していった。その人は、その車に気づくことなく、ふりむくこともなく歩いて行った。別のメンバーは、あぶない!とヒヤッとしたのであったが、声をかける間もなく、また声をかけるには距離があった。――
 このままであるかぎり、当該のメンバーにとっては、この車もこの事態も存在しなかったことになる。あとで、別のメンバーが自分の見たことを彼に話すならば、彼はそのことを知ることになり、エッとびっくりするであろうが、自分自身はまったく何も気づいていないことからして、なかなか実感がわかないことにもなる。別のメンバーが見るというかたちでこの事態は知覚されたのであって、同様のことがその時に車を運転していた人以外には知られることなくくりかえされていたであろうことが推察される。けれども、当該のメンバーには、自分が車に注意しているときのことしか意識にないがゆえに、自分は車には注意しているのだ、という自己意識を彼はもちつづけることにもなる。これに比して、ぼんやり考えごとをしながら歩く癖があり、車が急停車してくれる、ということがよくあるのであるが、そういうときには気づいて、ハッと我にかえり、ああ、あぶなかった、と思うメンバーのほうが、自分は車に注意することがよわい、という自覚をもつことになる。
 こうしたことから私が感じるのは、それぞれの人によって、その人に映じている世界はまるで違う、ということである。ひとは、自分の観念の世界に住みつづけることはできない。かならず、現実によって物質的に自覚させられる。けれども、実践=認識主体としてのこの私が、何を契機に、何を、どのように自覚するのか、というように考えると、ことはそう簡単ではないのである。
 日常生活において、いろいろな出来事を他者から伝聞――うわさや自慢やまた悪口などをふくんで――というかたちで知る、とか、組織活動にかんしてこれをおこなったメンバーから報告をうけたり聞いたりする、とかというようなことがらに思いをはせることは別の機会にゆずる。ここでは、中国共産党という(呼称が妥当する)対象的現実をわれわれが分析するさいには、われわれはこの対象を直接的にみることはできない、ということとの関係において、われわれが現実を直接に見るばあいの一事例にふれたにすぎない。
 実践=認識主体としてのわれわれは、中国共産党という対象的現実を、おのれが認識する対象として措定し、これを分析するために、中国共産党にかんする諸資料を読むのである。われわれに直接的にあたえられる、すなわちわれわれが直接的にみることのできる・われわれの物質的対象はこの諸資料、言語的表現態をなすこの諸資料である。われわれは、こうした諸資料を読み、そこに書かれてある内容を把握することをとおして、われわれが自己の認識対象としているところの、中国共産党という対象的現実そのものをつかみとるのである。すなわち、われわれは、おのれが把握したところの諸資料の内容を再構成するかたちにおいて、物質的現実そのものを認識するわけなのである。
 われわれは現実をこのようにしてつかむのであるからして、中国共産党にかんして・あるいはそれにふれる・論文を書くようなメンバーであるならば、わが仲間が書いた諸論文にでてくるような諸事実については知っている、といえる。そうであったうえで、「スターリン主義負の遺産」論者が、彼が「民族資本家・小経営者」という名称をかぶせたところの私営企業の経営者が中国共産党をにぎるかのようにみなし、この党を実体的基礎とする国家が「新興資本家階級の利害を体するものに変質していく」などと捉えるのは、あらかじめつくった自己のイメージにあわせてこれに都合のよいものだけを諸資料の内容からピックアップしている、だからまた、中国共産党という対象的現実を自己の意識においてあらかじめ加工している、としか言いようがない。「ネオ・スターリン主義」論者が、「いやしくも「前衛党」を名乗るのであるならば」と問題設定し、「党員の腐敗は、彼の共産主義者としての思想性・組織性・倫理性にかかわる問題なのである」というように、今日の中国共産党の党員を共産主義者とみなすのも、先と同じである。「負の遺産」論者は、この見解にたいして、入党を認められた新興の資本家、あれは共産主義者なのか、と批判しないのであろうか。「ネオ・スターリン主義」論者は、中国共産党官僚の言っていることややっていることの断片に対応して、これを切りかえしているだけなのであろうか。両論者ともに、自己の観念のなかに住んでいる、としか私にはおもえない。ここまで書いてきたけれども、両論者ともに、その精神構造が私にはよくわからない。「ネオ・スターリン主義」論者が、二〇一四年になっても、「生きた人間・何らかの思想をもった党員・腐敗行為に走ったり享楽にふけったりする共産党員についてすこしも考えようとしていない」と党官僚を批判していること、この主張にたいして、入党した新興の資本家とその思想にかんして党官僚に何を考えろと言っているの? と「負の遺産」論者は疑問を提起しないのであろうか。「ネオ・スターリン主義」論者は、党官僚をこのように批判しておきながら、自分自身は中国共産党員の「生きた人間」、生身の人間についてすこしも考えようとしていないのはなぜなのか。私にはこのことが不思議なのである。この言葉は、党官僚に投げつけるだけのものであって、自分自身に貫徹するものではないのであろうか。実際には、この言葉は、党官僚に投げつけるべきものではなく、自分自身に貫徹すべきものであるにもかかわらず。
 ふつう、相手を、「生きた人間」について考えようとしていない、と批判したならば、そのあとで視角を転じて、では、「生きた人間」である中国共産党員をわれわれが考察するならば、どういうことが問題となるのか、こういうことが問題となる、というように、彼らが今どういう思想をもっているのか、彼らは社会経済的にはどういう存在になっているのか、なぜ腐敗行為に走るのか、などなどということを分析し論じていくはずなのである。「ネオ・スターリン主義」論者は、こういう頭のまわし方とはもはや無縁になってしまっているのであろうか。
 これはなぜなのか、と問うならば、どうしても、「ネオ・スターリン主義」論者をつきうごかしている非合理的なものにつきあたらざるをえない。冒頭にしめした、或るメンバーの直接的体験のばあいには、彼は、現に生起した事態を微塵も感覚せず、まったく反映しなかったのである。これにたいして、この論者のばあいには、彼女は、諸資料を読むことをとおして自分が得た内容を、あらかじめ自分が自己の意識においてつくった枠組みに適合するように加工して自己の意識内にとりこんだのである。この枠組みとは、中国の党=国家官僚をスターリン主義者とみなす、ということである。習近平らを「無思想ぶり」「情けないほどの没イデオロギーぶり」と弾劾することにおいて、彼女は、彼らがスターリン主義の枠内にあると自己において確認し、スターリン主義はまだ生きていると自分自身に言いきかせているのである。こうするのは、スターリン主義は死んだ、と確認するならば、〈反帝・反スターリン主義〉の〈反スターリン主義〉を世界革命戦略としては掲げることはできなくなる、という恐怖から自己を解放するためである。これが、この論者たちをつきうごかしている非合理的なものである。私には、どうしても、このようにおもえる。
          二〇一四年三月三十一日