破産の隠蔽策で尻尾を出した「革マル派」中央官僚派

 思想闘争の炎にあぶられた〝ブンブク茶釜〟

 松崎明黒田寛一』から逃げる「革マル派」中央官僚

 

 「反革命=北井一味を粉砕せよ!」と題するシリーズの「第五回」(「解放」第2739号)は、初めて「白嶺聖」という個別メンバーの筆名で打ち出された。かつて党の指導部に属し、健筆をふるったメンバーたちが、党の指導権を握った政治主義者たちに嫌気がさして次々と筆を折り、脱落・離脱しただけではなく、他のメンバーたちも「ボケて使い物にならない」(早川の言!)状態に陥った。そのなかで〝使い物になる〟と見込まれた白嶺が登用された、というわけであろう。なるほどそれだけのことはある。

 

  グロテスクな個人攻撃で破産を取り繕い

 

 もちろんその内実は、相も変わらず、わが探究派の中心メンバー(今回は私・椿原)にたいする人格攻撃・誹謗中傷で紙面を埋めつくした、なんとも下劣な作文ではある。それはもはや〝わいせつ物公然掲示〟とでもいうべきであろう。
 わが党の同志たちを誹謗したければすればよい。デマや偽造、針小棒大から各種の捏造は諸君のお手の物、やりたい放題やればよい。それは厚顔無恥な諸君の特権だ。わが探究派の革命的理論闘争から身を隠し論争を回避するために誹謗・中傷を続けることによって、革命家とは名ばかりのみずからの今日的腐敗を曝け出し、「革マル派」そのものが社会的にも呆れられるだけのことである。
 わざわざ今号の「解放」を八面にしてまで、「反革命=北井一味を粉砕せよ! 第五回」を出したのは、「『松崎明黒田寛一』は反革命の書だ」と言っておきながら、その問題に一歩踏み入ることを彼ら「革マル派」中央官僚が恐れていることを隠蔽するためである。「反革命=北井一味粉砕!」というデマ・キャンペーンの破産をのりきるために「椿原」への攻撃でお茶を濁した、というのがその真相であろう。
 とはいえ、白嶺は、大きな失敗をやらかした。ふれてはならない問題にふれてしまったのである。

 

 見事に尻尾をだした狸!

 

 まことに価値があるのは次の文面である。

 

 彼(椿原)は一九九三年8月某日に、同志黒田の7・31テープで「DI問題」が問わ    れているのを知るやすぐその場で、「自分は以前からDIへの批判をやってきたのだ」と自己顕示欲まるだしでいいだした。多くの仲間が「エッ、なんのこと?」と耳を疑った。(「DIと唯一たたかったという 大ウソ」)
                                                                              
 嘘も休み休み言え! 事情・経緯を知っているにもかかわらず、平然とこういうことを吹聴するとは、白嶺のツラの皮も相当厚くなったものである! 「革マル派」中央官僚の一員として生きていくためにはこの程度のことはこなさなければ、という覚悟は立派、というべきか。白嶺が示唆している辺りの経緯は「多くの仲間」が知り、記憶にとどめていることである。それとも、事実を知る人たちはもういない、と白嶺は考えているのだろうか? 作り話に熱中するとすぐボロをだす、というのは、愚か者の常であるとしても、墓穴を掘るような作り話はやめた方が良い。しかしせっかく騒いでくれたのだから、この問題についてやや詳しく事実を明らかにしておくことにしよう。

 

 「挫折の根源」

 

 そもそも「DI問題」とは何か。同志松代が指摘している。「わが革マル派組織建設の挫折の根源は、論理的にも歴史的にも、一九九〇年代初頭のわが労働者組織のつくりかえの闘いのゆがみそのものにある、と私はおもうのである。」(『松崎明黒田寛一――その挫折の深層』一九一~一九二頁)
 「DI路線」と言われるものこそが、ここに言われる「一九九〇年代初頭におけるわが労働者組織のつくりかえの闘いのゆがみ」を象徴するものである。同時にそれは、かつてわれわれの誇りでもあった国鉄(JR)の革マル派労働者組織が党を一挙に離脱するという日本反スターリン主義運動史上の痛恨事を引き起こす起点ともなったのである。したがって、「DI問題」と言われる問題を真に教訓化することを、われわれは決して避けて通ることができない。同志松代の渾身の力作『松崎明黒田寛一――その挫折の深層』は、まさにそのために上梓されたのである。

 

 「組織暴露だ!」という悲鳴

 

 しかし、具体的に事実を明らかにする前に確認しておくことがある。
 わが探究派の「革マル派」にたいする理論=思想闘争について、「革マル派」官僚はしばしば〝組織暴露だ!〟と悲鳴をあげる。しかし、考えても見よ。われわれは革命的前衛党を建設するために苦闘してきた。そして、そのためにはその過程で発生した誤謬や失敗をのりこえていくことが絶対に必要であり、発生した問題に関する具体的な分析的反省が不可欠であることは言うまでもない。だが多くの問題について、多くの組織成員には事実が明らかにされないまま、その時々の指導部の独断的「教訓」が下達されることが、――痛苦ことに――しばしばあったことも事実である。そのような〝由らしむべし、知らしむべからず〟式の組織指導は組織を歪めるだけである。過去の失敗や挫折を真に教訓化するためには一定の事実関係の究明が基礎となることは言うまでもないことである。われわれはそのような観点から、特定の重要な問題を解明するために必要な最小限の事実を確認しているのである。それにたいして「組織暴露だ!」という悲鳴をあげるのは、真実が暴かれ、誤謬が明るみにされることをむしろ恐れるものたちである!

 

  「エッ、なんのこと?」

 

 せっかくだから白嶺の論述につきあうかたちで事実・経緯を説き起こそう。
 「同志黒田の7.31テープで「DI問題」が問われているのを知るやすぐその場で」と白嶺は言うが、「その場」とはどこか、については明らかにしていない。
 事実はこうである。
 「7・31テープ」とは、その内容がのちに「労働者同志諸君へ」として公表されたものであるが、私は一九九三年八月に、そのテープ講演の会場で、初めてそれを聞いた。講演が終わった途端に、私は携えていた文書をその場を取り仕切っていた常任メンバーに手渡した。「テープを聞かせてもらって、キチンと提出する気になりました。ここで皆さんに自分で配布するつもりでもってきたのですが。」と言って。その常任メンバーは、おそらくは事情を何も知らずに、にこやかに受け取ってくれた。かなり以前から、紙誌上でも現場でも見かけないHDというメンバーである。
 手渡した文書とは、「□□[北海道]地方報告について」と「革命的マルクス主義復権を!」というものであり、それぞれ一〇〇部を私は持参していた。テープ講演の内容について、私は他のほとんどの仲間と同様に、予め聞いてはいなかった。私は講演内容によっては、文書をその場で配布する覚悟で持参していた。講演を聞いて完全に納得したわけではなかったが、同志黒田が問題を深刻に受けとめ組織内思想闘争を全面的に推進する意志を示してくれたことに安堵し、〝叛乱〟的なやり方ではなく、穏便な提出方法をとったのである。
 白嶺のいう「自分は以前からDIへの批判をやってきた」と言ったという「椿原」という人物も、「エッ、なんのこと?」といった「多くの仲間」も、ともに白嶺の戯作の登場人物にすぎない。
 私が常任メンバーに手渡した文書は、その後、常任メンバーだけでなく、労働者組織のいわゆるLCメンバー、諸機関のメンバーにも配布された。この文書について、私・椿原は多くの方々から声をかけてもらったので、このことはハッキリしている。もう覚えている人はいないだろうと、白嶺は思ったのだろうか。いや、そんなことに頓着する余裕もなく、「椿原の自己顕示欲」を示すためのストーリーの捏造に必死になったというのが真相であろう。
 そして九月には、党中央を代表する同志松代と「K3」という通称をもつ常任メンバーと面談する機会を与えられ、お二人から「DI路線」を許したことについての謝罪も受けた。私は、〝これで大丈夫だ、DIの暴走は終わった〟と安堵し、お二人の前で涙を流してしまったことを思い出す。[ なお、その後に開催された政治集会に結集する過程で、私・椿原を見て電柱の陰に身を隠した男がいた。ヘラヘラしたその笑顔の主は、土井の〝子分〟となって奔走していた片桐悠である。この片桐がその後、「椿原は夜郎自大だ」とふれまわっていることを、私は同志たちから聞いている。上に記したような私のふるまいが彼にはよほど異常に見えたのであろう。同志松代にたいする「異常な精神世界」などという誹謗も、椿原にたいする「夜郎自大」というレッテル貼りも同根であることは、すでに指摘しておいたのであるが。主体性も勇気も、いわゆる根性さえもない、というのは実に困ったものである。]

 

 「3.1報告」をめぐる私・椿原の闘争と挫折

 

 私がテープ講演の会場で党指導部に託した文書の一つ、「北海道地方報告について」について簡単に説明したい。
 「3.1春闘集会」の会場でいわゆる「DI報告」(当時はもてはやされ、後には悪名が高くなったそれ)を聞いてギョッとした。「労働運動に冬の時代はない、いつも真夏だ」「資本・民同と刺し違える覚悟で闘え」「後ろ指をさされることを恐れるより、前指をさされるように闘え」等々の発言を聞いて革マル派の理論とは無縁な急進主義に、「右」に向いたものを「左」に向ける二者択一的発想などに危機感を抱いた。しかし、私はこの問題について即座に理論=思想闘争を開始することが出来なかった。じつは、こんな馬鹿話が革マル派組織内で通用する筈はない、真に受ける人はいないだろう、というように〝楽観〟していたからである。
 ところがそのような幻想が打ち砕かれる日が来た。
 私が所属していた地区組織の、春闘にむけての全国的交流集会の場で提出された北海道地方の仲間の報告は、じつに真面目に書かれた文章であったにもかかわらず、3.1の「DI報告」を受けいれ、それに沿って自分たちの活動をふり返るものとなっていたからである。
 私は交流会の場面でこの報告を批判しただけではなく、三月中旬には「北海道地方報告について」という文書を書いて所属組織に提出し、警鐘を乱打した。しかし、このような「右翼組合主義の克服」の仕方(私はそれを「合理化との対決」主義と規定した)は〝角を矯めて牛を殺す〟ようなやり方であり、その貫徹は組織を「集団ヒステリー」にいたらせるであろう、「われわれは痩せても枯れても革マルである」という私の訴えは、DIを信頼し彼に追随する仲間たちから拒絶され、〝袋だたき〟となって、私は挫折した。〔なお、九二年四月に、私は「筆名変更問題の組織的意味」という文書をも書いた。これは全員が組織的確認にもとづいてペンネームを変更したにもかかわらず、指導的メンバーが相変わらず変更以前のペンネームを平然と使い続けていることを告発・批判したものであり、土井の直接の指導のもとで生み出された当該組織における組織関係の紊乱(びんらん)を暴露したものという意味をもっている。この文書は何も問題にされなかった。〕

 

 「DI路線の見直し」を告知した長井九郎論文

 

 私は、九二年四月に挫折して以降、「必ずひっくり返してやる」という決意と覚悟はもってはいたが、沈黙を破ることは出来なかった。だが、九三年になって、春闘集会での同志松代の発言に疑問を感じたことを契機として、おのれ自身の賃金労働を主体的に考察し理論化する追究にとりかかった。その成果が「賃金労働者の『目的意識』」という論文である。私はこれを一九九三年五月初旬に書き上げ、所属組織に提出した。(私が「DI路線」の克服を意図して書いたこの論文は、一九九三年九月になって「佐久間置太」名で「解放」に掲載された。「佐久間」という筆名は同志黒田が付したものである。「置太」とは、彼に「床の間の置き狸」と言われたことのある私にたいする少々の冷やかしと熱い激励の意味があるのだろうと私は受けとった。)
 そしてついに「解放」第一二八〇号(一九九三年八月九日付)に掲載された長井九郎論文(「革命の構えだけでは組織はできない」)こそは、党指導部において「DI報告」への反省とうみだされた重大な過誤を克服するための思想闘争が開始されたことを告知するものであった。私には筆者が同志松代であることはすぐわかったが、この論文が打ち出された経緯を私が同志松代から聞くことができたのは、なんと四半世紀後の二〇一九年になってからである。
 この論文を読んだ私はただちにそれに呼応し、「革命的マルクス主義復権を!」というタイトルを付した論文を書いた。(続いて出た「播隆」とかという署名の長大論文は、一片の自己省察もないものだったので、私は吐き気を催した。)テープ講演の会場で私が常任メンバーに託したもう一つの文書がこれである。

 

 同志松代が党中央における「DI路線」批判の烽火をあげた!

 

 同志黒田が党指導部の「無気力」と組織の混乱に驚き、組織の点検を開始したことが「DI路線」見直しの条件となった。直接の問題は、全国常任会議で新たに作成され確認されたコード表が、労働戦線担当常任のセンターにキチンと伝達されていないことが浮かびあがったことであった。憤激した同志黒田の決断と指示にもとづいて、四人の主要な常任メンバー(いわゆるDI=土井と足利、片桐、松代)は鬼塚が指揮する特殊機関に〝出向〟し、そこで「報告・連絡・相談」を学び直すこととなった。
 だが、この時期には労働者組織の危機が進行していたため、学び自己を訓練した松代と片桐の二人が労働戦線担当機関に呼び戻されたのであった。労働戦線担当に復帰した同志松代は、労働戦線担当常任メンバーたちの前で、かの「DI報告」の歪みが労働者組織の危機の根底にあるにもかかわらず、闘争しえてこなかったことを自己批判的に提起した。このことが同志黒田に報告された。驚いた同志黒田は、組織の点検にのりだし、「DI路線」そのものの問題性を自覚し、その誤謬を根本的に克服する闘いを開始したのである。「長井九郎」論文は、このような組織的背景をもって、同志松代によって執筆され公表されたのであった。
 だが、この時期の組織内思想闘争は大きな限界と欠陥をもっていた。その所以は、詳しくは『松崎明黒田寛一』の一六四頁以下の「何をえぐりだすべきか」を参照されたい。ここで簡単に述べるならば、私の「北海道地方報告について」における批判は、「DI路線」(一九九二年三月一日の春闘討論集会の「基調報告」に示されるもの)といわれるものに直対応し、それを理論的に批判するものにとどまっている。また労働運動論などについて私が不勉強であったことに起因する限界も露呈している。
 今日からすれば、右翼組合主義的偏向を克服することを意図した組織内思想闘争が難航したことを条件として、党指導部は同志黒田の指示もしくは承認をうけて、偏向が著しく組織的影響が大きいと見られる労働者組織成員たちに組合役員の辞任を、さらには職場を辞めることをも要求し、貫徹したのである。これは右翼組合主義的偏向の克服のための組織内思想闘争の困難を、いわば外科的に打開することを図るものであった。このような打開策は労働者組織に重大な混乱をもたらすとともに、党の労働運動上の影響力を著しく減退させることとなった。いわゆる「三・一報告」は、党中央がとった上記のような対応策を正当化し、貫徹するためのものであったといえる。だが当時そのような諸現実を知り得なかった私は、「三・一報告」を聞いて仰天し、直対応的に批判したにすぎなかったのである。
 もっとも、さらに決定的な問題は、同志黒田の「「資本との対決」なるもの」(こぶし書房刊『労働運動の前進のために』)という論述そのものが上記のような党指導部による右翼組合主義の克服のための諸措置とは無関係なものとなっていることなのである。このことについても、上掲の「なにをえぐりだすべきか」を参照されたい。

 

 革マル派の変質と再生への萌芽

 

 このように九〇年代初頭における右翼組合主義の克服をめざした闘いは、新たな組織的過誤と混乱をもたらし、甚大な組織的損失をももたらしたのであった。そしてその闘いの真の教訓化は、いまようやくにして重要な前進をかちとった。それが『松崎明黒田寛一』の重要な論点をなしているのである。
 だが、二〇二〇年九月の黑田寛一著作集の発刊を機に、同志黒田を神格化し、革マル派組織を「黑田教団」のようなものに変質させたのが、今日の党指導部である。彼らによって変質させられた組織を、われわれは「もはや革マル派ではない革マル派」という意味において「革マル派」と表現することとした。(プラズマ出版刊行の『コロナ危機の超克』の「革マル派の終焉」を参照されたい。)「革マル派」指導部は、彼らが神格化してやまない同志黒田の誤謬にも及ぶ教訓化を決して容認できないのである。彼らが「反革命の書」だと言い張る所以である。
 「革マル派」中央官僚たちは、おのれが変質させた今日の党組織をあくまで維持し、おのれ自身の安泰をはかるためにこそ、わが探究派にたいする破廉恥な攻撃をしかけたのであった。今回(第五回)は「椿原」への誹謗に集中したのであるが、「革マル派」官僚の白嶺が椿原の「自己顕示欲」の発露だとする「発言」についての記述はすべてが完全な捏造であることはすでに明らかであろう。彼らのわが探究派の同志たちにたいする非難・誹謗は、一事が万事、この調子である。

 革マル派組織建設の挫折の根源をなす、一九九〇年代初頭の右翼組合主義の克服をめぐる組織的闘いの歪みを今日的に教訓化した『松崎明黒田寛一』(松代秀樹著)の意義は極めて重大であることをわれわれは声を大にして訴える。同時に、かの歪みを克服する闘いをふりかえることを通じて、われわれは、革マル派建設の挫折を教訓化し、のりこえる力が胚胎したことをも同時に確認しうる。
 一九九〇年代初頭に同志黒田は、土井を登用し、常任メンバーたちにも「土井に学べ」「土井に聞け」と指示していたのであったが、「DI路線」の反省の時期において、一定のメンバーたちからは、同志黒田にたいして「土井に学べと言ったではないか」という疑問と反発が噴出したのであった。それは同志黒田にたいする疑問の提起としてはそれなりの正当性をもつとしても、同志黒田にぶら下がり、己の主体性を確立しそこなったものの恨み節にほかならなかった。(足利はそのような呪詛を残して逃亡した。)われわれは、そのような傾向をも克服しつつ闘ってきたのである。

 「革マル派」の変質はここに極まった。わが探究派にたいする悪辣な誹謗と敵対は、わが探究派とともに闘う仲間たち、そしてなお「革マル派」の軛のもとにありながらも探究派の闘いに呼応して決起する時機・その形態を探っている仲間たちの怒りの火に油を注いでいる。
 すべての仲間たちよ! 革共同第四次分裂の地平にふまえて、ともに前進しよう!
  二〇二二年一〇月七日  椿原清孝