〝○○〟はどこへ行った?(その2)――「パンデミック恐慌」

「一九二九年の大恐慌をも上回るような

パンデミック恐慌〉」!

 

 「第59回国際反戦集会の海外へのアピール」(二〇二一年七月一二日付「解放」第2676号掲載)は、「革マル派」○人組指導部の呆れた実態を「世界」に自己暴露するものとなった。
 筆者は言う――「一九二九年の大恐慌をも上回るような〈パンデミック恐慌〉のもとで……」(同アピールのリード部分)。彼らの少々のハッタリや危機煽りには驚かないわれわれも、これにはビックリ!しかも、この文章は、世界に向かって発信されたもの。およそ現実離れした妄想ぶりを、彼らは世界に向かってさらけ出したのである!さすがは「世界に冠たる」「革マル派」○人組!

 「一九二九年恐慌をも上回る……」というような彼らの描写が、いかに現実離れしているかについては、クドクドと説明するまでもなかろう。コロナ危機下の厳しい政治的経済的社会的状況のもとで、階級的に団結してみずからの生命を守りつつ、いっさいの危機を労働者に転嫁して乗り切りをはかるブルジョアジーと対決し、匍匐前進をはかる労働者たちからすれば、およそチンドン屋的なプロパガンダでしかないのである。
 現実離れしたこのメッセージを受けとった海外の諸団体からの返信のメッセージはじつに雄弁である。――「一九二九年恐慌を上回る」という形容はおろか、「恐慌」という現実認識を示す団体は一つもない。「革マル派」の「一九二九年の大恐慌をも上回るような〈パンデミック恐慌〉」という、それこそ〝劇的〟な提起をスルーしているだけでなく、「恐慌」というような用語を用いている団体すら一つもないのである。彼らは呆れているのか、それともよっぽど優しいのか、はたまた昨今の「革マル派」の話は〝話半分〟で聞いておくという習慣がついているのか。いずれにせよ、某かの知性と思想的良心をもつ人びとは、「革マル派」をまったくまともには相手にしていないのだ。
 それはともかく、「革マル派」○人組は、みずから全世界に恥をさらしても恥かしいと感じるだけの感覚はもはやもちあわせてはいないのである。

 だが、またもや消えた! さすがに今回ばかりは、「革マル派」内部でも「??」が発せられたのか。それとも海外のいずれかの団体から、「いくら何でもこれは……」といった〝忠告〟が寄せられたのか?それとも、探究派の革命的批判にさらされる前に隠してしまおうということか。

 

Where have all the flowers gone ?
 一回だけで隠匿かい!

 

 なんと「一九二九年の大恐慌をも上回るような〈パンデミック恐慌〉」という規定は、「解放」では2676号だけで終わり!それ以後、プツッと出てこなくなった。(『新世紀』第314号に再録されているが。)巫女のお告げのごとき大事な文言を彼らは、シレッととりさげ、隠蔽したのである。
 毎度のことではあるが、この種の呆れた文章は、「革マル派」最高指導部でありその支配者である○人組メンバーにしか書けない「大胆」な文章ではある。彼らは、過去に用いていたペンネームを用いることが出来なくなって久しい。もし、「昔の名前」で文章を出せば、わが探究派によってたちどころにその腐敗を暴き出されてしまうからである。しかし、仮に無署名でも、われわれにはお見通しだということも自覚しておいた方がよかろう。
 組織内の討論を通じてではなく、もともと○人組が急場凌ぎでヒネりだしたものだから、打ち出したシンボルをサッと「使用禁止」としてしまうこともまた簡単なのだ。もっとも、あえて「使用禁止」にしなくても、ここまでのヒドいシンボルは、並みの神経を残す下部組織成員たちにも、編集局などのチビ官僚どもにも使いこなすことなど出来るはずもないのだが。

 

パンデミック恐慌〉じたいも、かい!

 

 しかも、「一九二九年恐慌をも上回る」などと形容したのがまずかった、と思っているだけではないことも透けて見える。
 〈パンデミック恐慌〉という規定そのものもまた、「解放」第2676号以後には、「解放」紙上から消えた。(次の第2677号7面の「TOPICKS」欄には、「〈パンデミック恐慌〉下――消費税増税で過去最高の税収」と題する短文が掲載されている。しかし、この欄の短文は、通常はいずれ論文を書くための〝試作品〟にすぎない。さて、どうなることやら。)
 『新世紀』第313号(二〇二一年七月号)には、「〈パンデミック恐慌〉下の現代世界経済」(茨戸薫)をはじめ、「パンデミック恐慌」という言葉が、極々フツーに用いられていたのであった。それは彼らの〝破局願望〟に相応しいシンボルだったわけである。ところが、ここにきて、永らくありがたがって用いられてきたこの言葉じたいが消えた。それは「パンデミック」に「恐慌」をくっつけただけの俗受けしそうなシンボルであって、われわれに――「古典的階級分裂」などとともに――彼らがおよそ没経済学的で、現代資本主義の分析とは無縁であることを暴露される恰好の材料となってしまったことが、さすがの鉄面皮にも刺さったのであろうか。

 

 反スターリン主義とは無縁な政治動物を打倒しよう!

 

 「革マル派」○人組、彼らは、真剣に現実を分析したり、指針を解明したり、理論創造のために勤しんだり、組織内における意見の相違をめぐって真摯な思想闘争をくりひろげる、という実践的立場そのものを喪失して久しい。組織成員たちを前に向かって動かすためのシンボルを打ち出し、ますます空洞化する組織を操縦してゆくことしか、眼中にはないのである。彼らには○人組の安泰こそ、なによりも重要なのである。だから、こっそりと古いシンボルを後景におしやることも〝平気の平三〟。
 わが探究派の革命的思想闘争のみならず、彼らが支配する「革マル派」組織内での思想闘争そのものをも、彼らは怖れ忌避する。みずからが打ち出したものが何かしら「ヤバイッ」となっても反省しようなどという心根は彼らにはもはやない。ヤバいものはすぐ引っ込めて、それに変わる新しい方便をさがすというプラグマティックな習い性を身につけているのである。そしてその新たな方便の組織的下達に抵抗するものがいれば組織から排除する、という政治ゴロ的な方式しか彼らはとりえないのである。とりわけ同志黒田の逝去以後には、それはまさに常態となった。
 このような○人組官僚どもの操縦のもとにある〝前衛党〟とはなにか! 今こそ問うべきではないのか。――When will they ever learn ?

 

 「革マル派」下部組織諸成員は、彼らに従ってきた自己を見つめ、勇気をもって負の連鎖を断ち切り、腐りきった「革マル派」○人組を革命的に打倒し、日本反スターリン主義運動を再創造するために、わが探究派に呼応し、ともにたちあがろうではないか!
 ( 二〇二一年九月二日 椿原清孝)