〝〇〇〟はどこへ行った?(その4)――「イスラミック・インタ―-ナショナリズム」

虎(同志黒田)の威を借る狐(〇人組指導部)

  「国際反戦集会 海外へのアピール」(「解放」2021年7月12日付 第2676号掲載)で「革マル派」〇人組指導部は久方ぶりに「イスラミック・インター -ナショナリズムにもとづいて闘おう」という呼びかけを発した。

 彼らは「海外へのアピール」で全世界に向けて声高に叫んだのである。

 われわれは、「一超」軍国主義帝国アメリカによるイラクへの戦争が切迫しつつあった2002年7月いらい一貫して「全世界のイスラム人民よ、パレスチナ国家独立をめざして、イスラミック・インター -ナショナリズムにもとづく闘争を組織せよ!」(黒田寛一マルクス ルネッサンス』所収「反戦闘争の現在的環」)という呼びかけを発してきた。

 〇人組指導部が、このスローガンが自らの優越性を示すものと思い込んで吹聴したことは、それじたいがまことに驚くべきことではあった。
 ところがというべきか、当然にもというべきか、この「海外へのアピール」を受けとり、呆れたと思われるインドの「ファリダバッド労働者新聞――共産主義革命」という組織から、あからさまな批判がもどってきたのであった。
 
インドからの批判

 「解放」(第2685号 九月一三日付)に掲載されたインドからの批判文は、以下である。

 友人の皆さん。第五十九回国際反戦集会にむけたアピールの第一ページには次のように書かれている。「……現代世界は世界史的な大激動のただなかにある。……世界の権力者どもは、……生産を停止した。」この文章にわれわれは全面的に賛成だ。
 そして、このような根本的な社会的変革を孕んだ状況だからこそ、社会的死/社会的虐殺に直面している絶望的階層のなかで、世界のヒエラルヒー的既成諸組織の指導者たちは、帰属意識を煽りたてる政治手法をとっている。こんな具合に――「世界の仏教徒は団結せよ!」「世界のキリスト教徒は団結せよ!」「世界の黒人は団結せよ!」「世界の白人は団結せよ!」「世界の女性は団結せよ!」「アジア人は団結せよ!」「アメリカ人は団結せよ!」「ヨーロッパ人は団結せよ!」……きりがない。
 そのようなことを考慮すれば、友人の皆さん、われわれは、アピールの第三ページに書いてあることは、少し考え直した方がよいのではかと思う。――「われわれは、〝一超〟軍国主義帝国アメリカによるイラクへの戦争が切迫しつつあった二〇〇二年七月いらい一貫して『全世界のイスラム人民よ、パレスチナ国家独立をめざして、イスラミック・インター -ナショナリズムにもとづく闘争を組織せよ』(黒田寛一マルクス ルネッサンス』所収「反戦闘争の現在的環」)という呼びかけを発してきた。この呼びかけをすべてのイスラム人民に発しつつ……」
 われわれは、友人の皆さんに、われわれの最近の文章を紹介します。ここに、皆さんが、現在および将来における何らかの益を見いだすことを願っています。〔以下、引用は略〕

 上に示したインドからの批判は、「共産主義革命」の立場にたつ者としては、当然の批判であり、まったく正しい。共産主義者は、プロレタリア・インターナショナリズムに立脚し、全世界のプロレタリアートの団結こそが、現代世界を変革しうる真の力であることを確信している。「解放」紙上では「以下、引用は略」とされている「われわれの最近の文章」には、「革マル派」にとってもっと都合の悪いことが書かれているのであろう。
 だが、彼ら〇人組指導部は何も答えられなかった!彼らは、プロレタリアートの階級的組織化に失敗しただけでなく、このことを何ら主体的に反省することなく、逆にプロレタリアートに失望したことを、〝ムスリムの闘い〟に秋波を送る彼らのスローガンは、自己暴露するものであるからだ。――かれらが、たえず被抑圧民族迎合主義や反米民族主義に転落しても、恬として恥じないことの根拠がここに垣間見えているのである。

 明確な批判を突きつけられたにもかかわらず、「革マル派」〇人組指導部はその後も沈黙を続けている。


 あっけなく隠蔽された

  「イスラミック・インター -ナショナリズム

 

  Where have all the flowers gone ?

 

 明らかに、この沈黙は、彼らが「イスラミック・インター -ナショナリズム」をもはや重荷と感じて放棄し、なかったものとしたい、という現在の心境を物語るものなのである。いうまでもないことながら、「徒花」〔同志黒田の言葉!〕に恋い焦がれた愚かさへの反省も、悔いもそこにはない。没主体性とはまことに凄まじい。あるものは、都合の悪いことはなかったことにしたい、というヤクザ的犯罪者の心理だけである!


 彼らは、「海外アピール」でわざわざ同志黒田の文章からの引用であるかのようにしてまで力説した「イスラミック・インター -ナショナリズム」を、インドの共産主義者から批判されてしまった。その批判を隠蔽するわけにもいかず「解放」に掲載してはみたものの、反論することもできない、という状況に追い込まれた彼らは、沈黙するほかなかったのである。
 驚くべき政治主義、共産主義者としてのモラルを欠如した鉄面皮な政治感覚を自己暴露するものではある。
しかも、である!

 

「アピール」の引用文は、同志黒田のものではなかった!

 

 さきの「全世界のイスラム人民よ、パレスチナ国家独立をめざして、イスラミック・インター -ナショナリズムにもとづく闘争を組織せよ!」という文言は、「アピール」では、あたかも同志黒田の文章からであるかのように見せかけているのであるが、実際には違うのである!同志黒田の「終焉の端初」という論文に「付・一」として付された「反戦闘争の現在的環」という小論には、「岩倉勝興」(*)という独自の署名があるのであるが、「アピール」の筆者はそのことを隠蔽している。しかも、文体・内容からしても、この小論は同志黒田の筆になるものとは思えない。「革マル派」〇人組指導部は、インドの共産主義者から批判されたにもかかわらず、反論も出来ない。こうなった以上は、もはや同志黒田の言葉として、いわば「遺言」として押し出すこともできない。……ならば、何事もなかったかのように、かの文言自体をコッソリと隠す、という姑息な挙にでた、というが真相なのである!

〔(*)このペンネームは、『黒田寛一のレーベンと為事』の編集者の一人が用いているものである。同書の奥付には、「岩倉勝興 一九五二年生まれ マルクス主義学生同盟・北海道大学支部を経て編集者」とある。〕

 

タリバンの勝利をつきつけられて……

 

 しかも、彼らは時を同じくして、アフガニスタンでのタリバン政権の成立という新たな事態に直撃された。もしも彼らが「イスラミック・インター -ナショナリズムにもとづいて闘おう!」と呼びかける立場にたつのであれば、タリバンの勝利に快哉を叫び、「全世界のイスラム人民は、団結して軍国主義帝国アメリカとの闘いをさらに推進せよ!」くらいは訴えないとおかしいのである。
 ところがそうではなかった。彼らはアフガニスタンにおける新たな事態をも、もっぱら「米―中・露」の対立から解説することに勤しみ、「軍国主義帝国アメリカの没落」を騒ぎ立てたにすぎないのである!米軍をアフガンから追い出した「イスラム人民」の闘いについての価値判断を意図的に曖昧にし回避するほかなかったのである。彼らはそのテーゼ(「イスラミック・インター -ナショナリズムにもとづいて闘おう」)を適用するのではなく、隠蔽したのである。(この問題にとどまらず、彼らはいまやあらゆる思想問題を、〝米・中の一触触発の危機〟を煽ることで誤魔化すことを常態としているのであるが。)
 そして、このことは、彼らが探究派による「パレスチナ国家独立」や「イスラミック・インター -ナショナリズム」についての批判への全面的敗北を自認したことを意味する。

 実は「われわれは、〝一超〟軍国主義帝国アメリカによるイラクへの戦争が切迫しつつあった二〇〇二年七月いらい一貫して『全世界のイスラム人民よ、パレスチナ国家独立をめざして、イスラミック・インター -ナショナリズムにもとづく闘争を組織せよ』(黒田寛一マルクス ルネッサンス』所収「反戦闘争の現在的環」)という呼びかけを発してきた。」ということじたいが真っ赤な嘘である。彼らはこのところ、かのテーゼを前面に掲げてはこなかった。事実、昨二〇二〇年の「アピール」でも、二〇一九年の「アピール」でも、彼らは「イスラミック・インター -ナショナリズム」はおくびにも出さず、「プロレタリア国際主義」を押し出す、というよそ行きのパフォーマンスを演じてきたのであった。それは、かの「イスラム国(IS)」の伸張とテロリズムの満開に直面したときに、さすがの彼らも、このテーゼの破綻を意識せざるをえず、「テロ弾劾」を打ち出すことで破綻を隠蔽するほかなかったからなのである。
 だが、探究派のブログなどでの数々の批判に曝され続けることに耐えられなくなった彼らは、〝あれは同志黒田の教えなのだ〟と開き直り再び前面に掲げたわけなのである。しかも、よりによって全世界の左翼的諸団体に向けた国際反戦集会実行委としての「海外アピール」で、〇人組指導部のメンバー自身が、である。
 世界の共産主義者をなめきったこの行為――それは「革マル派」組織の政治的支配者たる彼らの感覚に根ざす――は、インドからの公然たる批判にさらされた!――これは当たり前のことである。「共産主義革命」をめざして世界各国で苦闘する諸党派は、彼らが思うほど無知蒙昧でも、愚かでもないのである!

 インドからの批判を沈黙でのりきり、アフガニスタン問題に関してもかのテーゼを隠した、ということだけではない。彼らはこの機に、かのテーゼそのものをしまい込むハラなのである。
 彼らは、対外的にも、組織内的にも、論争することができない袋小路に追い込まれている。対外的論争にとどまればまだしも、組織内部でこの問題をめぐる議論・論争を始めるや否や、組織は大混乱に陥り、〇人組指導部内でもその責任をめぐって暗闘が生じかねない状況に立ち至るであろう。いや、同志黒田を神格化し、その無謬神話にしがみつく彼らにとって、同志黒田の言説に見立てたテーゼを対象として考察することじたいが、その組織の瓦解をもたらすことをこそ怖れているのである。

 われわれは問う。――〇人組は、かの「イスラミック・インター -ナショナリズムにもとづいて闘おう」というイスラム人民にたいする呼びかけの誤謬を認め、潔く自己批判するのか。それとも、同志黒田の〝遺言〟に見せかけて、そのテーゼを守りぬくのか。はたまたそのいずれをも避けて、ひたすら沈黙による保身を続けるのか。

 

われわれは、重ねて問う。


 When will they ever  learn ?

 

 〇人組の面々よ!
 インドの共産主義者の批判に、そしてわれわれのこの批判に、答えられるものなら、堂々と答えてみよ。沈黙を続ける以外に術がないのであれば、潔く「革マル派」の看板を下ろし、どこへでも去れ!

 今日まで、「革マル派」のもとで苦闘してきた労働者・学生諸君!
 〇人組指導部の支配のもとで、「革マル派」はここまで腐敗している。さまざまな限界・欠陥にまとわりつかれてはいても、生き生きと闘ったかつての革マル派は、もはや死んだ。革マル派建設の挫折をのりこえ、反スターリン主義運動を再創造することこそ、われわれの使命ではないか。
 この現実を凝視し、一刻も早く、おのれの革命家人生そのものをやり直すべく決断すべきではないか。
 諸君に求められているのは、〈いま、ここで〉惰性を断ち切る勇気ではないのか。
 ともに闘おう!       

     (二〇二一年一〇月二二日 椿原清孝)