「理論家」復活?――窮途末路の「革マル派」指導部

  『新世紀』三一八号に掲載された「二二春季賃金闘争の高揚をかちとるために」という論文は、「2.6労働者怒りの総決起集会 革マル派連帯挨拶」とされている。この論文の筆者が「革マル派代表」として演壇に登場したのであろう。ところが、というべきか、当然にもというべきか、この登壇者=筆者の足は地に着いていない。まことに〝亡霊〟というにふさわしいこの筆者は、珍妙な屁理屈をならべたてている。この筆者の登壇の政治的組織的意味を明らかにするという観点から、少しばかり付き合ってみよう。

 

パンデミック恐慌」論のピエロ的粉飾

 

 筆者は、「〈パンデミック恐慌〉の犠牲をすべて労働者・人民に転嫁して、人民を困窮のどん底に突き落とした。」(『新世紀』一四五頁)と称して、「革マル派」現指導部の「パンデミック恐慌」説を踏襲し、擁護しているかに見える。
 ところがドッコイ、「革マル派」現指導部は、とっくの昔に、「パンデミック恐慌」などという規定を投げ捨てているのである。「解放」第二六七六号(二〇二一年七月一二日付け)では「一九二九年恐慌をも上回るような〈パンデミック恐慌〉」とまで吹聴したものの、政治屋としてさえみっともないこの規定を一回限りで隠匿してしまった。しかも、よっぽど失敗感が強かったのか、その後は〈パンデミック恐慌〉という規定じたいをも隠匿し、そのような問題には触れず「コロナ・パンデミック」という「パンデミック」という語を含む〝類似品〟を押し出し続けるとか、「コロナ不況」という規定に〝格下げ〟して論じるとかしてきたのであった。(この顛末は、当ブログ記事「〝〇〇〟はどこへ行った?(その2)――「パンデミック恐慌」」〔二〇二一年九月二日付〕を参照されたい。)このような詐術が通用すると思うほどに「革マル派」指導部は腐敗し、また「革マル派」組織そのものの知的退廃も進んでいるのである。
 ところがなんとこの筆者は、「革マル派」現指導部がせっかくひた隠しにしてきた〈パンデミック恐慌〉をまたぞろ持ち出してしまった、というわけなのである。この〈パンデミック恐慌〉がいかに浮いているかは、同じ「2.6集会」の他の報告を見れば一目瞭然である。「第一基調報告」では、同様のことを主張するにしても「パンデミック下で」と表現し、「恐慌」という語を用いることを明確に避けているのである。「コロナ不況」という規定さえ使わず、「資本家ども」の「口実」(同一二〇頁)だとさえ言ってのけているほどである!

 

〝御用理論家〟の悲哀

 

 ではこの筆者=「革マル派」代表が、〈パンデミック恐慌〉を押し出したのは、なぜなのか?
 彼が「革マル派」現指導部の思惑を忖度し損なったことは明らかであろう。「革マル派」現指導部にとっては、〝ありがた迷惑〟この上ないのである。現指導部のドス黒い腹の内を推量するだけの政治的感覚がこの筆者には欠如しているのである。〔なお、このような文章がそのまま『新世紀』および「解放」に掲載されたことじたいが、編集局もまたもぬけの殻と化していることを物語っている。〕
 本音のところでは、筆者が〈パンデミック恐慌〉論など、端から信じてはいないことは明らかである。

 

〝恐慌こそ独占資本家どものチャンス〟?!

 

 見よ! ――「パンデミックのもとにおいてもそれを利用してボロ儲けしてきたのが、独占資本家どもだ。彼らはいま、「コロナがチャンス」などとほざきながら、「デジタル化」や「脱炭素化」を推進するための大リストラを開始し、労働者の首をどんどん切りはじめた。「ポストコロナ」にむけて、さらに大きな利潤を獲得するために、これまで以上に過酷な犠牲を人民に強制しようとしているのだ。」(一四五~一四六頁)などとこの筆者は書いてのけて平然としているのだ。こんな「恐慌」が絵空事でしかないことは、「理論」以前の話であり、書いている本人も良くわかっていることなのだ。それでもなお「パンデミック恐慌」を吹聴し続けようとは! この筆者もまた「革マル派」現指導部と同等の政治動物に転落しているのである。
 さらにもう一点だけ、驚くべき理論的脱線を指摘しておこう。

 

〈官僚専制体制に組み込まれた資本主義経済〉とは?

 

 「今日の中国経済は、〈ネオ・スターリン主義官僚専制体制に組み込まれた資本主義経済〉ともいうべきものであって、それは「価値法則がそれとしては貫徹しない」という意味において、〈擬似資本主義〉と規定すべきものなのである。」
 このように、筆者は、中国経済について「擬似資本主義」という規定を基礎づける、という〝仕事〟を請け負ったのである。この規定は、二〇二二年の「解放」新年号で「手稲昌彦」が打ち出したものであり、筆者はそれを継承しているのであるが、その〝ユニーク〟さは驚くべきものである。いうまでもなく、〈ネオ・スターリン主義官僚専制体制〉とは、政治的上部構造に関する規定であり、〈資本主義経済〉とは、経済的下部構造に関わる規定である。筆者は、「革マル派」現指導部の意向にもとづいて、中国経済が「資本主義」ではなく、「擬似」的なそれであると強弁しているのであるが、それは史的唯物論的な把握そのものを根底から覆すものでなくてなんであるか!
 いうまでもなく、現代資本主義は、一般に、ブルジョワ国家の金融財政政策に媒介されて運動する国家独占資本主義という形態をなしている。これにたいして、中・露の場合には、経済構造そのものは、かつてのスターリン主義的政治経済構造から転化した独自の資本主義をなしている。かつてはスターリン主義者であったものたちが自らブルジョワ的に変質し、その専制的政治支配体制のもとで資本主義経済を統制する、という形態をなしているのである。ところが、「革マル派」現指導部にとって、中国経済が独特な形態の資本主義経済であることを明確に認めることはできない。それを認めると「ネオ・スターリン主義」説そのものの破綻を自認することとなってしまうからである。そこで編み出されたのが〝資本主義であって資本主義でないもの〟、つまり「擬似資本主義」論であったわけであるが、その基礎付けとして筆者が打ち出したのが、〝資本主義が支配体制に組み込まれる〟という珍説なのである。思わず、織田信長の「楽市楽座」を想起させられる、というものだ。中国資本主義は「箱庭」ではないのだ。これが「経済的下部構造」と「政治的上部構造」との関係の史的唯物論的規定を反故にするものであることにも頓着しないほど、この筆者は没主体的であり、筆が軽いのである。つんのめって天地がひっくりかえるような屁理屈をこね回しても気がつかない。――ここにこそ、足が地に着いていない、身が軽く口が達者な「御用理論家」としての素顔がむき出しになっていると言わなければならない。この「革マル派代表」の正体は明白である!
 この筆者は、二〇一八年には――当時は最高指導部の一員であった――、今日では探究派に結集しているある同志を貶めることを意図して、その同志のオルグ活動を誹謗したのであったが、その時には「存在が意識を決定する」というテーゼを当てはめて、わが同志のオルグ対象を貶める、というタダモノ論的な主張を開陳したのであった。そしてわが同志から即座にその倒錯を暴きだされただけではなく、〝身内〟の腐敗を暴露されて自己保身にかられた「四人組」からも指弾され、中央労働者組織委員会の常任の任を解かれ、「教育的措置」として隔離された男である!それはまた〝トカゲの尻尾切り〟というべき処分であった。
 そして、この男は、遡る二〇一三年には、発足したばかりの「四人組」指導部の意を受けて、「個人加盟組合は、一匹オオカミの寄せ集め……」だと主張し、このときもまた、今日探究派に結集する同志に怒りをこめて弾劾され、「批判されて、唯物論的に考えることが出来るようになりました。」などと〝自己批判〟したという経歴をも持つ。このときのこの男のふるまいは、――今日から捉え返すならば――発足したばかりの「四人組」指導部の意向を受けて、「個別オルグ主義に転落した」とみなした松代秀樹の影響を組織から一掃するという意図に基づくものであったことは、明らかである。
 このように、近年は、時々の指導部の意向に沿う見解をデッチ上げることを常としてきたのが、この男であり、その〝任務〟を達成するために頭を巡らせていると、あるときには、タダモノ主義に転落し、あるときには唯物論そのものを否定するようなことをもやってのける、というなブザマな姿を繰り返しさらけ出してきたのである。

 

この男は、誰あろう、片桐悠!

 

 かつては若き「理論家」として知られ、「革マル派」の多くの組織成員たちにとっても、顔なじみの「片桐悠」こそがこの男の正体である!
 この片桐を演壇に立たせ、その「健在」ぶりを集会参加者に見せたかった、という「革マル派」現指導部の魂胆は、まことに哀れむべきである。――政治動物と化した現指導部のもとで、かつて健筆をふるった理論家たちのすべてが筆を折っている。『新世紀』にも「解放」にも、創造的な理論的論文を出すことが出来なくなって久しい彼らは、その事実をわが探究派に暴きだされるにつけ、追い込まれてきたのであった。「組織」の先行きにたいする下部組織諸成員たちの不安も募るばかり。さりとて、「指導部」の席にあくまでしがみつく彼らは、その都度その都度に誤魔化しの手を打つほかない。今回は、彼らがあれほどまでに誹謗し、馬鹿にしてきた男を引っ張り出してでも、「片桐悠 健在」をよほどアピールしたかったのであろう。だが、そんなことで下部組織諸成員の目を眩ませることも出来ず、何の解決にもならないことは明白である。

 こういうことを「窮途末路」というのである!

 もしも、「革マル派」に「理論家」がいるのであれば、わが探究派と論争してみよ! 下部組織諸成員たちをウソとデッチ上げで欺き続けるのを止めよ!
 この指導部に付き従い、保身のために〝売文〟する片桐もまた愚かである!
 仲間たちに支えられて積み重ねてきた過去の学習の成果を、「革マル派」指導部のためにする屁理屈の武器とするような見苦しいマネをやめよ! 革命的マルクス主義者として再出発するためにこそ、みずからに断をくだせ!

 「革マル派」現指導部の面々は、潔く、みずからが変質させた党を解体し、労働者として最初からやり直せ!
 すべての下部「革マル派」成員は、目を醒まし、再出発の決意を打ち固めよ!             われわれは、共に闘う!
            (二〇二二年四月一一日 椿原清孝)