現代のユートピア幻想 第3回 『資本論』の展開の手前味噌な解釈

  資本論』の展開の手前味噌な解釈

 

 大内力の以前にも、「労働者協同組合」をマルクスの言葉によって基礎づけるために、マルクス主義を自称する・この運動の推進者たちによって、『資本論』からの引用がなされてきた。
 それは次のような論述である。
 「労働者たち自身の協同組合工場は、旧来の形態の内部では、旧来の形態の最初の突破である。といっても、それはもちろん、つねに、その現実的組織においては、既存制度のあらゆる欠陥を再生産し、また再生産せざるをえないのではあるが。だが資本と労働との対立は、この工場の内部では止揚されている、――たとえ最初には、組合としての労働者たちは彼等自身の資本家だという、すなわち、生産手段を彼等自身の労働の価値増殖に使用するという、形態でにすぎないとはいえ。……資本制的株式企業は協同組合工場と同様に、資本制的生産様式から組合的生産様式への過渡形態と看なされるべきであって、ただ、対立が前者では消極的に止揚され、後者では積極的に止揚されているだけである。」(長谷部文雄訳、青木書店版第三巻、六二六頁、「第五篇 利子と企業者利得への利潤の分裂。利子生み資本 第二十七章 資本制的生産における信用の役割」)
 構造改革派や社会民主主義者やまた市民主義者の連中は、ここで「この工場の内部では止揚」とか「積極的に止揚」とかと書かれていることにとびつき、欣喜雀躍としてこの部分をもちだしたのであった。彼らは、マルクスがつねにかならず矛盾構造で展開していること、すなわちこの展開は「旧来の形態の内部では」という限定のうえでの論述であるということ、したがって「彼等自身の労働の価値増殖に使用する」というように明確に展開されていることを無視抹殺し、自分たちにとって都合のいい一面だけを自立化させる、というかたちで手前味噌に解釈したのである。
 この論述部分は、利子生み資本について論じる篇に属するのであり、資本制生産における信用の役割を明らかにするために、その信用が大きな役割をはたすものとして、私的資本に対立する資本制的株式企業および協同組合工場を前者との対比において特徴づけているのであって、このようなものとして、この論述の『資本論』体系における体系上の位置が確認されなければならない。
 マルクスは、『資本論』で、資本制生産の本質的法則たる価値法則の止揚との関係において、資本制生産様式を廃絶したうえにうちたてられる将来社会の生産様式についてしばしば触れているのであるが、こういう展開は体系上のしっぽと呼ばれる。ここでは、このようなことが論じられているのではなく、資本制的な信用そのものの問題が論じられているのである。すなわち、マルクスがこの引用文のなかで「組合的生産様式」と呼んでいるところの共産主義(その第一段階および第二段階の両者をふくむ)的生産様式そのもの、あるいはそれへの転化について、マルクスはここで論じているのではない、ということである。
 ここで同じ「組合」という用語が使われているからといって、「協同組合工場」と「組合的生産様式」とを連続的につないではならない。マルクスはしばしば「組合的生産様式」とか「協同組合的社会」とかという表現を使っているのであるが、これは、――おそらく労働者たちがイメージをわかせることができるように、――共産主義的生産様式や共産主義社会を、当時現存在していた協同組合との類推において表現したものなのである。
 資本制的株式企業および協同組合工場にかんして、マルクスが、資本制生産様式そのものの内部での資本制的生産様式の――消極的ないし積極的――止揚である、という規定をあたえているのは、『資本論』が〈総資本=総労働〉という資本制生産の普遍的抽象のレベルにおける展開であり、信用論が位置するその第三巻は、そのレベルのうえでのヨリ具体的な諸規定として〈総資本の直接の構成部分としての諸資本〉について論じられているのであって、この〈総資本の直接の構成部分としての諸資本〉の物質的基礎をなす諸資本にかんして、私的資本を普遍的なものとするならば、それにとっては資本制的株式企業および協同組合工場は特殊性をなす、ということを明らかにするためなのである。資本制的株式企業や協同組合工場そのものの具体的な諸規定は、段階論のレベルあるいは現状分析のレベルにおいて明らかにされなければならない。
 協同組合工場の諸規定のご都合主義的解釈は、『資本論』の理論的レベルないし抽象のレベルについて考察することができないという・おのれの論理的無能力に無自覚なままに、今日の国家独占主義のもとでの労働者協同組合企業の理論的基礎づけに、『資本論』での諸規定を直接的に援用したことにもとづくのである。
 いまは、このようなご都合主義的解釈をする者さえいない。しかし、労働者協同組合法の賛美をその根底からうちやぶるためには、そして、うちやぶりうるようにわれわれ自身を武装するためには、いまやってきたような理論的検討が必要なのである。
       (2021年1月2日  笠置高男)