斎藤幸平「疎外論」批判 第2回 解釈

 二 解釈


 斎藤は『大洪水の前に』の冒頭「はじめに」で、次のように述べる。
 「第一章で論じるように、マルクスのエコ社会主義というモチーフはすでに『パリ・ノート』(『経・哲草稿』1844)のうちに見いだすことができる。マルクスはすでに一八四四年の段階で、人間と自然の関係の歪みと矯正を疎外論にとっての中心的なテーマとして扱っていたからだ。具体的には人間と自然との本源的統一の解体のうちに、近代的な疎外された生の成立を見定め、それに対して、「人間主義自然主義」という理念を対置することで、人間と自然の統一性の再構築をポストキャピタリズムの実践的課題として掲げたのである。ところが『ドイツ・イデオロギー』(1845-1846)において、マルクスは哲学的「理念」を疎外された現実に対置するという方法の不十分さを認識するようになる。その結果として、哲学に別れを告げることで、マルクスは「物質代謝」という生理学概念を用いて分析するようになり、さらには、その「攪乱」・「亀裂」を資本主義の矛盾として扱うようになっていく。」と。
 また第一章で言う。
 「後のマルクスが環境破壊を資本主義的生産様式の内在的矛盾として把握することができたとするなら、それは人間と自然の関係に生じる分裂についての若き日の批判的洞察に依拠しているのだ。つまり、「人間主義自然主義」という一八四四年の理念のうちには、マルクスが生涯にわたって放棄することのなかった根本的問題構成が潜んでいる。」と。つまり、斎藤は『経・哲草稿』でマルクスがつかみとった疎外論から人間と自然との関係についての把握のみを、「人間主義自然主義」という理念のみをマルクスが生涯つらぬいたものとして、取り上げるのである。こうすることによって同時に、この理念の内実を歪曲するのである。


 『経・哲草稿』においてマルクスは、近代資本主義社会の労働者の現実を下向的に分析して、①生産物からの疎外②労働の疎外③類的存在からの疎外④人間の人間からの疎外という四つの疎外をあばきだし、かつ、哲学的・思弁的に人間労働の本質形態を明らかにしたのである。このことは、他面からすれば、近代資本主義社会におけるプロレタリアの労働を、この労働の本質形態から、それの疎外形態としてとらえ返したのだ、といいうる。 

 斎藤は、マルクスのこの学問的苦闘のなかから、本質論的労働論の、自然と労働の関係を論じた部分だけを拾い上げ、他の思索は「哲学からの決別」と称して切り捨ててしまうのである。

 また、『人新世の「資本論」』という著書において斎藤は、『共産党宣言』(1848)の展開は生産力至上主義であるとし、農業問題や自然科学の研究に打ち込んだマルクスが「物質代謝」という生理学上の概念を獲得することによってそれを改め、『資本論』においては「物質代謝」という人間と自然との関係の「攪乱」・「亀裂」を資本主義の矛盾として扱うようになったと述べている。


 自己の頭のなかのマルクスをして『ドイツ・イデオロギー』においてそれまでの哲学的追求から決別させ、『共産党宣言』に対象化されたマルクスの思想を生産力至上主義として切り捨ててしまう、これが斎藤のマルクス解釈の方法である。

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 では、斎藤はマルクス疎外論」をどのように解釈するのであろうか。斎藤は『大洪水の前に』においてマルクス疎外論を次のようにまとめた。
 「要するにマルクス疎外論が問題視しているのは、労働が自己実現や自己確証のための自由な活動ではなく、窮乏化、労苦、人間性剥奪、アトム化を引き起こす活動に貶められている近代の不自由な現実のありかたである。こうした状況に抗して、マルクスは「私的所有のシステム」の廃棄による労働疎外の克服を掲げ、人々が他者とアソシエーションを通じて、自由に外界へと関わり、労働生産物を通じて自己確証を得ることのできる社会の実現を要求したのだった。」と。
 また次のようにも述べている。
 「近代の労働者はあらゆる直接的な大地とのつながりを喪失しており、自然から疎外されている。その結果が、自然、活動、類的存在、他者からの疎外、つまりは、生産における「和気あいあいとした側面」の完全なる喪失に他ならない。社会的生産の特定の具体的な欲求の充足のために行われるのではなく、資本の価値増殖のために行われる。その際、個々の労働者は単なる価値増殖の手段でしかない。生産の新しい合理性に対応する形で、資本家も生産過程を労働者にまかせっきりにせずに、むしろ積極的に指揮・監督を通じて介入するようになる。こうして労働者の生活保障や生産過程における自律性はどんどん切り崩されていく。労働が疎外されていくのだ。」と。


 斎藤は、このパラグラフを「資本主義の疎外を人間と大地との本源的統一の解体として把握することではじめて、マルクス共産主義のプロジェクトをこの意識的な再生として整合的に捉えていたことを認識できるようになる。」と締めくくるように、「自然からの疎外」が根本的な問題=もろもろの疎外の原因であり、このことの把握がマルクス疎外論の真髄である、と捉えるのである。そうして、先の四つの疎外の要約に示されるとおり、「労働が自己実現や自己確証のための自由な活動ではなく、窮乏化、労苦、人間性の剥奪、アトム化を引き起こす活動に貶められている」ということを明らかにしたものとして、マルクス疎外論を解釈するのである。斎藤が労働者協同組合の法案成立に際して、「労使関係を前提とせず労働者自身が出資し、自分たちでルールを定め、何をどう作るかを主体的に決める。株主の意向に振り回されず労働者の意志を反映していけば、働きがいや生活の豊かさにつながる」とコメントしていたのが想起される。資本家に「指揮・監督」されなければ労働者の自律性が保障され、その労働は疎外されないというわけである。このようなものとして、斎藤はマルクス疎外論を語るのである。
       (2021年1月26日  潮音 学)