斎藤幸平「疎外論」批判 第6回 「自然からの疎外」という斎藤のまやかし

(2)「自然からの疎外」という斎藤のまやかし

 

 斎藤は、「疎外」の原因を「自然からの疎外」であると述べている。マルクスが疎外された労働を論じる前段で、国民経済学の諸説を引用して、「地代」に関して論述していることに、彼は注目する。内容的には、土地と農奴とが分離されることによって、プロレタリアートが生み出されたことをもって、人間の「自然からの疎外」である、と論じるわけである。しかしこれでは、なぜ土地と農奴が分離したのか、都市に農奴が賃労働者として流入していったのか、また、都市の資本家が封建的土地所有者たちの土地を借り入れできたのかということがあきらかにされない。これは斎藤の政治主義的な解釈にしかすぎない。
 プロレタリアの疎外された労働を出発点としてこれからの歴史的反省をとおして、国家の暴力をもってする・直接的生産者としての農奴からの土地の収奪を、人間労働が資本制的に疎外される根源的事態として、すなわち資本の根源的蓄積過程として、つかみとる、という方法とは、斎藤は無縁なのである。
 斎藤の認識方法は過程的かつ平板であると言わなければならない。ここに、斎藤がいかに無自覚であるとはいえ、スターリン主義的な認識論、客観主義的な過程的認識論をその方法にしていることが、はっきりと示されている。スターリン主義蒙古斑がくっきりと浮き上がっている。


 それだけではない。斎藤は、マルクスの次の展開をもって、自己の、人間の「自然からの疎外」論を基礎づける。

 マルクスは言う。
 「疎外された労働は人間から、(1)自然を疎外し、(2)自己自身を、人間に特有の活動的諸機能を、人間の生命活動を、疎外することによって、それは人間から類を疎外する。」と。
 マルクスは「疎外された労働は、人間から自然を疎外する」と述べているのである。

 

 だが、斎藤は「自然からの疎外」としている。「疎外された労働」という主語をはぶき、それに至る論理展開を切り捨てることによって、変革主体としてのプロレタリアートを切り捨てているのだ。そうして、マルクスは「人間と自然との本源的統一」という観点から「物質代謝」論を唱えた、とする斎藤自身の主張に添うようにマルクスを作り変えたのである。
 まさに、巧妙な詐欺的手段によるマルクスの捏造である。斎藤は、プロレタリア、プロレタリアートという言葉を極端にさける。と同時に「疎外された労働」というマルクスの概念そのものも消し去ろうとするのである。これをマルクスのイデーの破壊と言わずになんと言うことができるだろうか。
 斎藤には、マルクスを歪曲することをもって、数百万のボリシェヴィキを粛清し、数千万の労働者・人民を殺戮したスターリン主義の遺伝子が脈々と受け継がれている。


 いま、はっきりと言おう。斎藤幸平はスターリン主義者である。
 「自然からの疎外」というものへのマルクスの規定の言い換えを基礎づけるために、斎藤は、マルクス農奴と土地との関係をあらわすために使っているところの「和気あいあい」という言葉に注目する。マルクスは「外観的には」という注釈を入れているにもかかわらず、斎藤はこの注釈を切り捨てる。また、マルクス農奴を土地の付属物だと指摘していることについても、斎藤は意図的に読みかえをおこなっている。それは次の斎藤の論述によくあらわれている。
 「もちろん、農奴は強制されて余剰労働と余剰生産物を提供していた。だがそれでも、客観的な生産条件との統一を通じて、生産過程における自律性に依拠した「和気あいあいとした側面」を保持していたのであり、ここにマルクスは封建性生産様式における労働の肯定的な要素を見いだしている。」と。
 農奴は強制されて「余剰労働と余剰生産物」を提供していたのであろうか。いや、マルクスは、農奴が土地の付属物として土地と分離されていないと述べている。であるならば、農奴の生産物は、すべて土地の所有者すなわち封建領主のものであって農奴のものではない。「余剰労働・余剰生産物」など生まれることなどはない。生産物は現象的には、年貢として収奪されるように見えるのではあるが、封建領主は自分の土地でその付属物としての農奴が生産した生産物を回収しているにすぎない。農奴に残されるのは言うまでもなく、その生命と生産に必要な体を維持するだけのものであり、農奴の再生産に必要なものだけである。
 また労働も同じである。かつ労働には軍事的要員としてのものも含まれている。
 「余剰労働・余剰生産物」などと捉えるのは誤りである。マルクスは資本家による土地の占有と日雇い農夫との関係を論じることとの関係において、封建領主と農奴との関係を論じたにすぎず、また土地と農奴との関係も、近代的自我が確立されていない・土地の付属物としての人間が体現する「和気あいあい」であるにすぎない。けっして「自律した」などと捉えることはできないのである。


 斎藤は封建的生産様式と原始共産主義における生産様式の土地と人間の関係を二重写しにして論じている。マルクスが哲学的・思弁的にとらえた本質的労働論の自然と人間の関係(それは原始共産主義社会のそれに妥当するのだけれども)とを二重写しにして論じている。これもまた、階級闘争を抜きさったエコロジーマルクスを仕立て上げるための、斎藤の作為に他ならない。
       (2021年1月26日   潮音 学)