現代のユートピア幻想 第2回 社会民主主義者に変質した大内力のはかない希望

 

 社会民主主義者に変質した大内力のはかない希望

 

 二〇〇八年に亡くなった宇野派の経済学者である大内力は、「高齢者協同組合」というようなかたちで「労働者協同組合」の運動をすすめてきていた。
 彼は、この運動を次のように理論的に基礎づけていた。
 「協同労働と労働者協同組合の運動というのは、働く人が力を合わせて自分たちの仕事をつくり、自分たちが主体的に働くことによって、自分たちを人間的により完成したものにしてゆくという理想を持った運動です。現代はまさにそういう運動が歴史的な意義を持っている時代だと感じます。」(大内力『協同組合社会主義論』こぶし書房、二〇〇五年刊、五八~五九頁)
 「そのもう一つ底には、労働力の商品化という問題があります。労働するという人間の能力を商品として市場で売買するという社会関係がいつまでも人間社会の中に存在していていいものか。これは社会主義思想の中では以前から問われてきたことです。一八世紀から一九世紀の初期にかけて資本主義が発達するのと並行して、労働疎外への批判が生まれてきたことはご承知の通りですが、それが社会主義の原点だったのです。」(六九頁)
 「いろいろな年齢層の住民全体が参加して地域社会をつくる、……そういう形でだんだん社会主義社会ができることになるのではないかというのがぼくのはかない希望です。」(九三頁)
 たしかに、高齢者にかんしてであるならば、認知症にならないためにも、生きがいとなる仕事を見いだしみんなで協同して働く、ということは重要なことではある。
 また、たしかに、大内力は宇野派の学者として、「労働力の商品化という問題」の解決や「労働疎外への批判」を語ってはいる。
 だが、労働者協同組合の運動に参加する人びとの年齢層をひろげていって「だんだん社会主義社会ができる」などと展望するのは、大内力が、みずからが社会民主主義者に転落していることを、あるいはロバート・オーエンなどと同様の空想的社会主義者に落ちぶれていることを、表明したものにほかならない。その構想は、彼自身が言うように、「はかない希望」でしかないのである。
 これは、彼が資源枯渇ペシミズムにおちいったときから、経済学者として・分をわきまえて・資本主義の政治経済構造の対象的分析に全精力を注ぎこんでおればいいものを、国家=革命理論にかんして何ら勉強してもいず・何の準備もなく無防備なままに・その自覚もなしに、政治づいて運動に身をのりだすことによって、自分を招き入れた日本型社会民主主義者すなわちベルンシュタインの流れをくむ社会民主主義者に影響され汚染されてしまったことにもとづくのであり、その帰結なのである。
 最小限綱領すなわち改良と、最大限綱領すなわち革命とのあいだに万里の長城を築き、改良の積み重ねを自己目的化したのが、ベルンシュタインの改良主義なのであるが、大内力の構想もまたこれと同じものとなっているのである。「だんだん社会主義ができる」というように彼が社会主義をめざしていることが、社会主義の展望の最後の一片までをも捨て去った西欧型社会民主主義と異なるのである。
 労働者協同組合企業を、その外部との関係ではそれは資本主義的競争にまみれてはいるけれども、その内部においては・それは資本主義から隔絶した空間として・労働者が主体的に働く協同労働が実現されており、実質上、労働力の商品化が克服され労働疎外が止揚されている、とみなして、このような労働者協同組合の量的拡大をめざすのは、空想的社会主義者のユートピアの今日的再現なのである。
 『協同組合社会主義論』という本の表題は、売れ行きをよくしたいということとおもわれる・販売元たるこぶし書房の意向なのだそうであるが、著者の「はかない希望」の内実をよくあらわしている、といえる。
 根本的な問題は次の点にある。
 たとえ労働者協同組合が作った企業であれ、それは資本制的企業の一形態なのであり、そこには価値法則が貫徹されているのである。そこで働いている労働者の労働力は、労働者協同組合企業と労働者とのあいだで商品として売買されたのであり、その企業の生産手段と生きた労働は、労働者協同組合企業という形態をとる資本の定有なのであって、そこで働く労働者の労働は主体的な協同労働なのではなく資本制的に疎外された労働なのである。
 だから、労働力の商品化を廃絶し・したがって疎外された労働を止揚し、労働者たちが主体的に働く協同労働を実現するためには、資本による賃労働の搾取という資本制生産関係そのものを転覆しなければならない。これを実現するためには、労働者階級の階級的な組織化にもとづいてブルジョア国家権力を打倒しプロレタリアート独裁権力を樹立しなければならないのであり、このプロレタリア国家がすべての生産手段をブルジョアジーから収奪しみずからの所有としなければならないのである。生産手段のこのプロレタリア的国有化が社会主義の物質的基礎をなすのである。
 このようなことは、社会主義における商品生産と価値法則の部分的な貫徹を宣言した・かのスターリン論文(「ソ同盟における社会主義の経済的諸問題」)に反対して、価値法則の廃棄と経済原則の実現を主張した宇野弘蔵の弟子である大内力には、感覚的には明らかなことであった。だが、彼は政治づくことによって、このようなおのれを軽やかに捨て去ったのであり、「協同組合社会主義」という現代におけるユートピア幻想をあおる者にまで成り下がったのであった。
 この大内力以下的な主張をしているのが、「労働者協同組合法」の賛美者たちなのである。
       (2021年1月2日  笠置高男)