斎藤幸平 出演の「100分de名著 資本論」(NHK/ETV)について―― マルクス主義の小ブルジョワ的改竄を許すな!(その1)

 一月四日にNHKが上記の番組(第1回)を放映した。この番組は、今や売れっ子スターともいうべき斎藤幸平の「マルクス研究」の質を、いわばテレビ的明瞭さで露骨に示すものであった。斎藤について簡単に再確認すれば、彼が執筆した『人新世の「資本論」』(二〇二〇年九月)・『大洪水の前に』(二〇一九年四月)がこの種の本としては〝爆発的〟に売れているのだそうだ。現在は大阪市立大学経済学研究科准教授であるが、マルクス研究者として『大洪水の前に』で「権威ある『ドイッチャー記念賞』史上最年少で受賞」したとして大いに売り出されている若者(一九八七年生まれ)である。「大洪水」とは、聖書の「ノアの方舟」を想起させ、地球温暖化がもたらす破局的な環境破壊を象徴するものと言える。つまり彼は「マルクス研究者」として、マルクスが環境破壊問題の解決の原理を指し示したと主張して、いわば〝マルクス復権〟を唱えているかのようである。この意味では、昨今の〝マルクス(『資本論』)・ブーム〟の先頭にたつ人物となったと言える。思想的には、ソ連邦崩壊の後に全世界的規模で跋扈することとなった〝エコ・マルクス主義〟なるものの、いわば旗頭として推し出されたのが、彼・斎藤なのである。その理論・思想は、マルクスマルクス主義とはおよそかけ離れた、マルクス主義の全面的改竄を意味するものである。これは世界史的な思想的潮流を背景としている。
 一九九一年にソ連邦が崩壊し、それまでソ連邦を「社会主義」であり〝マルクス主義の総本山〟であると信じていた者たちは、この事態に打ちのめされ、思想的心棒を失った。だが彼らは、スターリン主義者ないし、プロ・スターリン主義者としての己から脱却することなく、転進を図ったのであった。その一部は、折から高揚した環境保護運動(温暖化反対・放射能汚染反対を軸とする)に乗っかって生きることを選んだ。「マルクス研究」を食い扶持とする者たちは、そのような観点からマルクス主義の文献的解釈をやり直し、「エコ・マルクス主義」を標榜するにいたったのであった。
 
 さて、この番組(二五分×4=一〇〇分の予定)の一回目で、根本的な問題がいきなり露わとなった。「始元(端緒)が終局を決定する」とも言われる。今回はその一点にかぎって論じることにする。

  小ブルジョワ的改竄の紋章
  「『商品』に振り回される私たち」とは?

 一月四日に放映された第一回のタイトルがこれである。この「私たち」とは?明らかにそれは、階級的存在形態とは無関係な、つまり「市民」としての人間、しかも「商品」に「振り回される」消費者ないし生活者としての市民なのである。このことは、公共放送の番組という制約性に由来するものでは決してない。斎藤自身の立場を示すものであり、彼が描く「マルクス」の立場でさえあるのだ。既にこの時点において、彼・斎藤が、マルクスの実践的立場=〈プロレタリアートの解放〉とは無縁な地平でマルクスを描き出し、活用しようとしていることが明らかなのである。
 少し具体的に見てみよう。彼が資本制社会では「商品」化されていると嘆く「富」(彼は「コモン」ともいう)について言う。 
 「例えば、きれいな空気や水が潤沢にあること。これも社会の「富」です。緑豊かな森、誰もが思い思いに憩える公園、地域の図書館や公民館などがたくさんあることも、社会にとって「富」でしょう。知識や文化・芸術も、コミュニケーション能力や職人技もそうです。貨幣では必ずしも計測できないけれども、一人ひとりが豊に生きるために必要なものがリッチな状態、それが「社会」の富なのです。」(テキスト二〇頁)
 ここでは、「商品」となる「社会の富」が列挙されている。人間の生活手段となる対象的諸条件とともに、人間主体にかかわる「コミュニケーション能力」や「職人技」も挙げられている。しかし、「労働力商品」にまで突き落とされている労働者そのものは、決して出てこないのである!「商品」に生き血を吸い取られる労働者が、である。「マルクス研究者」を自称しながらも、「労働力商品」という根本概念が彼の頭のなかにはない!
 いうまでもなく、マルクスプロレタリアートの解放に生涯を捧げた。そして、「労働者階級の解放はやがてまた同時に人間の人間的解放となる」という永続革命の論理を明らかにしたのが、マルクスであり、その科学的基礎付けをなすのが彼の主著である『資本論』なのである。「マルクス主義プロレタリアートの解放の理論である」と言われる所以である。このようなことはいわば常識であったはずである。
 だが、斎藤の『資本論』からは、労働力商品にまで物化された賃労働者は、したがって資本制社会の変革の主体たるべき賃労働者は、蒸発している!資本制的「商品」に煩わされることのない「リッチ」な生活を求める小ブルジョワの経済学、これが斎藤の『資本論』解釈の本質なのである。
 もちろん、斎藤も資本制社会の変革を希求する。しかし、その立場は、労働者協同組合法の成立を手放しで賛美するようなシロモノであり、エンゲルスの言葉をもじって言えば、「空想から科学への社会主義の発展」ではなく、「科学から空想への社会主義の退行」とでもいうほかない。(これらの問題については別途論じなければならない。)ソ連崩壊の折には幼児であった斎藤は、過去の階級闘争や国際労働運動の歴史などについては体験的には何も知らず、さらにスターリン主義やその克服をめぐる諸論争にも何のシガラミもない。マルクス主義に関する無知というべき、この主体的条件にも由来するマルクス解釈の斬新さとアッケラカンとした〝明瞭さ〟が労働者階級の闘いの壊滅という国際的状況のもとで、マルクス主義の衰退を嘆く一部のインテリや、時代に切り込む武器を求める若者たちにとって魅力的なものとなっているのであろう。これは悲劇である。――またこれは、労働者階級の闘いの復活を何よりも恐れる支配階級にとっても、利用価値がすこぶる高いものとなっているのである。

 斎藤の『資本論』解説に付き合うことは、怒りなしでは出来ない!

 今回はとりあえず言っておこう。

  プロレタリアートを馬鹿にするな!
  マルクスの冒涜はやめよ!
 
 跋扈するエセ・マルクス主義を粉砕することもまた、わが反スターリン主義運動の責務なのである。
 「エコ転マルクス主義」をのりこえ、マルクス主義の創造的発展をかちとろう!

        (2021年1月11日  椿原清孝)