マルクス主義への怖れと憎悪

マルクス主義への怖れと憎悪 第1回 日本共産党エコロジー的変質とその諸結果

 

マルクス主義への怖れと憎悪

目次
マルクス主義への怖れと憎悪
一 日本共産党エコロジー的変質とその諸結果
二 マルクス疎外論の否定
    ・「マルクス疎外論的発想」とは?
・実践的立場の歪み
マルクス疎外論ヘーゲル疎外論への還元
・あたらしい哲学の創造
・感性的労働の論理としての唯物弁証法
三 『資本論』の労働論への怖れ
    ・「傲慢な思想」という非難
・「マルクス労働論とファシズムイデオロギーとの同一性」という虚妄


マルクス主義への怖れと憎悪


 一 日本共産党エコロジー的変質とその諸結果


 東京唯物論研究会の機関誌『唯物論』第94号(2020年12月)に「エコ・マルクス主義に対するいくつかの疑問」と題した小論が掲載されている。筆者は百木漠というハンナ・アーレント研究者を自称している人物である。
 ハンナ・アーレントというのは、ナチスの迫害から逃れてアメリカに亡命したユダヤ人思想家であり、1960年のアイヒマン裁判の傍聴レポートをだしたことで有名である。この人物はファシズムに対する批判を自己の体験を基礎におこなうとともに、マルクス主義を、全体主義とみなしたスターリン主義と等置したうえでこれに反発している反共主義者である。マルクスが本質論的に解明した労働を、必然性にとらわれた強制的な営みであり自由を奪うものである、として忌み嫌い、労働を軸とする社会変革の思想は全体主義的性格を帯びるのだ、というように、彼女は反マルクス主義的主張を展開していた。(75年没)
 百木はこのアーレントの思想に共鳴し自己のものとし、この反マルクス主義の立場にたって、マルクスの諸文献をエコロジー的に解釈する斎藤幸平らの部分の伸長に危機感を抱き批判しているのである。
 こうした反共主義者百木が、しかし、唯物論研究会すなわち日本共産党の文化理論戦線の一翼をなす組織のれっきとした会員であり、彼の論文が『唯物論』だけではなく『季報唯物論研究』(大阪唯物論研究会の機関誌)にも掲載されているのである。思想の平和共存というべきか、思想信条の自由というブルジョア的権利にどっぷりと浸りきってきたからなのか、こうした輩を正会員としかつ執筆を依頼さえしているというのだから、日共系編集部の党派性・イデオロギー性の溶解ぶりは驚くべきものである。
 だが、このことはこの編集部の問題につきるのではなく、党の路線の今日的変質を根拠としているのである。12月臨時国会の終盤に「労働者協同組合法」を日共は自民・公明両与党ならびに他の野党とともに共同提案し全会一致で成立させた。これは彼らが労働運動における基盤を喪失していることを現実的基礎としている。労働組合の結成要件をも規定に組み入れたこの法案を成立にこぎつけ、労働者協同組合企業を発足させ、みずからの延命の場とし、党勢をわずかでも拡大したい、と彼らは願望しているのである。そして、この法案の成立を斎藤幸平がマスコミで称賛することの尻押し役を買って出ている。こうして今日、彼らは、マルクス主義エコロジー的解釈替えにうつつを抜かしているのである。
 このことゆえに、「コモン」思想であれ何であれ自分たちのマルクス主義の解釈替えの宣伝になるならば、というように彼らは目論んだのであり、そのあげくの果てに、こうした怪しげな反共主義者にさえも論文執筆をわざわざ依頼した、という始末なのである。それほどまでに日共スターリニストの今日の変質ぶりは度し難いのだ。
 「近年、再びマルクス研究が活況を呈している」、と語ることから始まるこの論文において百木漠は、いま盛んにとりあげられている『人新世の「資本論」』の著者である斎藤幸平らのマルクス研究にたいして、「日本のマルクス研究に新たな展開が告げられ」ている、というように、強い関心を表明している。百木のその論述は、ハンナ・アーレントマルクス主義への反発を己のものとし依拠しながら、斎藤らを「エコ・マルクス主義」とよびこれへの疑問と称してじつのところマルクス主義への反発を流布しようとするものなのである。彼は、「マルクス主義の思想は、必ず独善的なイデオロギー性を持つに至る」と怖れ悪罵をなげつけているのだからである。いま、『人新世の「資本論」』を斎藤が刊行したことをインパクトとして、マルクスの諸文献のエコロジー的解釈があたかも正当なものであるかのような宣伝がはじめられ、注目されている。他方、これにたいして危機感を抱く部分がやっきになって批判を開始している。百木が批判の焦点をすえているのは、マルクス労働論である。
       (二〇二一年一月五日   桑名正雄)


マルクス主義への怖れと憎悪 第2回 マルクス疎外論の否定 「マルクス疎外論的発想」とは?


 二 マルクス疎外論の否定


  「マルクス疎外論的発想」とは?

 百木は斎藤の主張にかんして、マルクス疎外論を否定したい、という自分の問題意識にもとづいて図式的にまとめる。
 斎藤の主張はこうである。
 「近代の賃労働者はあらゆる直接的な大地とのつながりを喪失しており、自然から疎外されている」、「資本主義の疎外を人間と大地との本源的統一の解体として把握することで初めて、マルクス共産主義のプロジェクトをこの統一の意識的な再生として整合的に捉えていたことを認識できるようになる」。
 こうした斎藤の展開を百木は次のようにまとめる。
 ①資本主義以前の時代には「人間と自然の本源的統一」が成立していた。
 ②「資本主義の疎外」とは、「人間と自然の本源的統一」が解体されていることである。
 ③資本主義を超克した社会主義の段階においては「人間と自然の本源的統一」を回復できる。
 このようにまとめたうえで百木は言う。
 この①~③は、斎藤自身が「西欧マルクス主義疎外論広松渉の物象化論」、すなわちマルクスの「疎外論的な発想」に陥っているがゆえに導き出される考え方である。しかし、このような把握は「現実社会や歴史の分析に当てはまるわけではない」。①は歴史的現実と異なっている。③はマルクスが『資本論』で展開しているものではない。『資本論』で展開されている共産主義思想は全体主義的で犯罪的なものである。こうした「物象化論はマルクス解釈としては正しい」が「現実社会の歴史の分析に当てまるわけではない」、それにもかかわらず、「マルクス主義」の思考は「マルクスの記述を現代社会の分析にそのまま当てはめて考え、その理論にもとづいて、社会を変革しようとする」「イデオロギー」である、と。
 百木は斎藤を批判するかたちをとりながら、その斎藤の主張に貫かれている論理はマルクス疎外論なのだ、と問題を設定するのである。そのうえで、この疎外論は誤っているというように否定するという論法である。このように百木はマルクス疎外論の誤った論理が斎藤の論述に貫かれている、というのであるが、実のところ、ではマルクス疎外論とはどのようなものなのか、それ自体を言わないのである。ただ、百木がそのことに触れているのは、「西欧マルクス主義疎外論廣松渉の物象化論が「疎外論以前の本来的人間を前提としている」」と平子友長という学者によって批判されている、とかというように、なにやら回りくどく、かつ意味不鮮明なことを直接的には言うのみである。だからして、百木があいまいではあるけれども断片的に展開していることから、彼が理解しているマルクス主義疎外論なるものを、ここで明確にしておかなければならない。
 百木が「マルクス主義疎外論」として非難するところの疎外論のつかみ方は、廣松が〝これが疎外論だ〟と言って疎外論批判を展開するところの疎外論のつかみ方と同じである。「疎外されざる本来的な在り方(正)、この在り方からの疎外としての非本来的な在り方への頽落(反)、それの止揚としての本来的在り方の回復(合)という図式」(廣松)とされるものが、それである。百木は、このようなものをマルクス主義疎外論とみなしたうえで次のように言うのである。斎藤の主張には、この疎外論と同じ論理が貫かれている。すなわち、それは、現実から乖離した「本来的人間」なるものを観念的に想定したうえでのこうした論理を歴史の論理であるとみなすものである。マルクス主義唯物史観疎外論はこのような非現実的なものなのである、と。
       (二〇二一年一月五日   桑名正雄)

 

マルクス主義への怖れと憎悪 第3回 実践的立場の歪み

 

  実践的立場の歪み

 

 百木の錯誤はまず次のところにある。
 彼は、マルクスが資本制社会を否定すべきものとしてとらえ、その根底に労働の本質形態をつかみとり、「人間と自然の物質代謝」というようにこの労働の過程を明らかにしたこと自体に恐れを抱いているのである。「労働を介した人間と自然の一体化」を訴える思想がマルクス主義に内在している、このような労働観をもつ思想は「人間の複数性や活動の偶然性を取り逃がし許容せず全体主義的な性格を帯びていく」、と彼は考えるのである。彼がこのような言辞を吐くのは、おのれが生きている資本主義社会に何ら否定感もないがゆえであり、これを変革せんとするマルクスに怖れを抱いているからなのである。
 「人間と自然の物質代謝」、このようにマルクスによって労働過程の本質論的規定が明らかにされていること、この意味が百木には皆目わからないのである。資本制的現実と無関係にどこからか、アプリオリマルクスが持ち出した原理、観念的理念というように、彼はこの規定をみなしているのである。だが、そうではない。この根本がこの人物には理解できない。勃興した資本制生産自体が超長時間にわたる苛酷な労働を労働者に強いており、働けば働くほどに婦人や児童にまで過酷な労働が強制され、寿命さえもが短くなるほどにこうした労働が強いられていたマルクスの時代。いや、それは今なおかたちをかえながら続いている。いや精神的疎外はむしろふかまってさえいるではないか。人間はみじめな存在となり、クレチン病になる、とマルクスは言っている。そして現在では、われわれの生きているこの資本主義社会の労働者は、自殺に追いこまれるまでの精神的神経的および肉体的苦痛にさらされているのである。新型コロナウイルス感染の拡大と政府の対処策および資本家の対応によって解雇される労働者は増加し続けているではないか。このゆえに自殺者がよりいっそう急激に増えているのである。路上で昼夜を明かさねばならない労働者が激増してさえいるではないか。こういう資本主義社会の賃労働者の労働を、疎外された労働としてとらえ、これを否定し変革しようという立場に立つことなど、思いもよらないのが百木なのである。
 マルクスは、一九世紀中葉の資本主義社会においてこの資本制的自己疎外を現実的基礎とし、これを下向的に分析することをつうじてその根底に疎外されざる労働をすなわち労働の本質的=根源的な形態をつかみとり、これを、人間と自然との物質代謝というように本質論的に規定したのである。そしてマルクスはこの労働のあるべき姿を、現実を変革するためのおのれのイデーとしたのである。まさにこのゆえに、二一世紀現代に生きるわれわれは、このマルクスのイデーをわがものとし、おのれ自身に生きて働くものとしてつらぬくのでなければならない。
       (二〇二一年一月五日   桑名正雄)

 

マルクス主義への怖れと憎悪 第4回 マルクス疎外論ヘーゲル疎外論への還元

 

  マルクス疎外論ヘーゲル疎外論への還元

 

 百木は、廣松渉と同様に、マルクスの疎外という概念を、ヘーゲルの疎外という概念と同じものとみなし、本来的な人間を想定していると断罪して否定するのである。百木の論述は、廣松のそれよりももっと粗雑であるとしても、そうである。
 廣松は、ある思想家が、彼に先行する思想家の概念を批判的に摂取して創造した概念を、彼によって批判的に改作された概念と同一のものとみなし、それに還元するかたちで解釈する。当の思想家の概念の独自的な意味内容をつかみとることができないのである。すなわち、廣松は、マルクスヘーゲルの疎外という概念を唯物論的に転倒して創造した独自の疎外という概念を、ヘーゲル的疎外に還元してしか理解することができないのである。
 このようなものとして、廣松の理解する疎外とその止揚の論理は、疎外されざる本質(正)、この本質からの疎外(反)、そしてこの疎外の克服と奪還(合)というものとなる。そして、彼は、マルクス疎外論はこんなものだ、と言って否定するのである。
 これと同様の誤謬をおかしておいたうえで、このような説明もおこなうことなく、ただただ粗雑に、あらかじめ本来の人間を想定するのはおかしい、とだけ言うのが、わが百木なのである。ここでは、百木の誤謬を浮き彫りにするために、廣松渉について少しばかりふれたにすぎない。
 百木にはマルクスの唯物弁証法を受容する拠点それ自体が何らないのである。
 百木は、このようにマルクス疎外論を歪曲したうえで、斎藤の主張はマルクスのこの「疎外論的な発想」でなされており、マルクスと異なるのは、その基体を「従来の労働者の観点」から「人間と自然の本源的統一」へと捉えなおしていることであり、この本源的統一の解体を論じることだ、と言う。そこに貫かれている発想や論理は「古典的テーマ」としてのマルクス疎外論なのだ、と彼は言うのである。そのうえで、この「疎外論的な発想」では「歴史の現実を分析」することなどできず非現実的であり、むしろ危険な思想をもたらす、というわけなのである。
百木の手口、論法は、斎藤の主張をまとめつつそこに貫かれているのはマルクスの論理だとしてこれを否定する、というものであり、彼の眼目はマルクスの論理を否定することにあるのであって、斎藤の主張を利用したマルクス否定論なのである。
 それは根本的にあやまっている。なぜか。
マルクスは「疎外された労働」にかんして『経済学=哲学草稿』において、どのように論じているのであるか。
 「国民経済学は私有財産という事実から出発する。だが、国民経済学はわれわれに、この事実を解明してくれない。」「私有財産が現実のなかでたどっていく物質的過程を一般的で抽象的な諸公式でとらえる。」「国民経済学は、これらの法則を概念的に把握しない。」
 このようにマルクスはのべる。マルクスは国民経済学(スミス、リカードらの古典派経済学)が言うところの資本制経済のあらゆる現象を「一切の疎外」と否定的にとらえ、ここから出発するのである。そして疎外態としての賃労働者(この疎外態とは私=われわれなのだ)がこの資本制的現実を否定=変革することを主体的に論じたものなのである。けっして、この現実社会からあらかじめ遊離したところで原理をアプリオリに措定し、この原理から現実を解釈するものではない。すでにとりあげたように百木が描き出しているような論理ではないのである。「商品人間」へと陥っている労働者と彼の労働をこそマルクスは思弁したのである。「労働が自分自身と労働者とを商品として生産する」、その構造を疎外された労働論として明らかにしたのである。言うまでもないが確認すれば、①生産物からの疎外②労働それ自体の疎外=自己疎外③種属生活の疎外(種属生活が生活の一手段と化すこと)④人間の人間からの疎外というように、である。そしてこの資本制的な疎外された労働からさらに分析的に下向し、本質論的に抽象して、人間労働の本質形態をつかみとり、疎外された労働をこの人間の種属生活の自己疎外としても捉えかえしたのである。まさしく、このことに貫かれているのは、ヘーゲルの観念弁証法を精神的労働の論理としてとらえかえし、これを転倒することによって明らかにした唯物弁証法なのである。この唯物弁証法は、人間労働の本質論的論理として明らかにされているのであり、人間主体と客体との相互に媒介関係にあるこの場所を変革するための人間主体の変革的実践の論理にほかならない。
                     (二〇二一年一月五日   桑名正雄)