斎藤幸平『人新世の「資本論」』を読んで 第1回 斎藤の問題意識

斎藤幸平『人新世の「資本論」』を読んで


 「気候危機をとめ、生活を豊かにし余暇を増やし、格差もなくなる、そんな社会が可能だとしたら」 これは、坂本龍一が『人新世の「資本論」』に送った言葉である。斎藤はそのようなものとして、この著作を上梓している。
 今、気候危機を目の前にして、またコロナ危機の渦中にあって、斎藤は「資本主義が最善だ、他に道はないのだと思っている人たちに別の選択肢を提示するのが、私たち理論家の仕事です。」(『未来への分岐点』27頁)という。これが「思想家」斎藤幸平の実践的立場である。この「選択肢を提示する」という姿勢は『人新世の「資本論」』にも貫かれている。
 斎藤のこの姿勢については、後で少し考えていきたいと思うが、まず、斎藤の問題意識、解決方法、マルクスの捉え方について検討したいと思う。とりわけ、私はこの著書を読んで、斎藤の労働者のとらえ方=疎外された・物化した賃労働者の把握の仕方について、大きな疑問を持たざるを得なかった。そのことを中心として私の考えを述べたいと思う。


  1 斎藤の問題意識

 「世界が「持続可能で公平な社会」へ移行しなければ、最終的には地球が住めないような環境になってしまう」。これが現在の地球環境破壊、なかんずく地球温暖化に伴う気候危機を目の前にしての斎藤の危機意識である。もはや、永遠に価値増殖を追求する資本主義経済体制では、グリーンニューディールをもってしても、この問題を解決できない、と彼は主張する。  
 斎藤は地球環境破壊を「人間を資本蓄積のための道具として扱う資本主義は、自然もまた単なる略奪の対象とみなす」という資本主義経済体制そのものの本質的な問題である、と捉えている。また彼は、「時間がない」と危機意識を持つ。私は彼斎藤のこの捉え方は正しいと思う。また、この地球環境破壊・自然の破壊から資本主義経済のもつ問題をとらえようとする「エコロジカル」な斎藤に、共感を持つ人たち、とりわけ若い人たちも沢山いるだろうと思う。
 彼は、資本主義経済体制では地球環境破壊・気候危機はのりこえられないということ、さらに自然と人間との関係がどうあるべきかということの理論的な基礎付けに、後期のマルクスの研究を持ってくるのである。そして斎藤は、「古いマルクス主義」と彼がとらえるものを初期のマルクスとし、このマルクスとは区別するかたちで・農業問題や自然科学を研究したとする後期のマルクスを設定することによって、マルクスを切断し、エコロジスト・マルクスを描き出すのである。
 人間の永遠の労働対象であるところの自然。この自然すなわち地球は有限であり、無限に価値増殖を求める資本主義経済体制では、もはや地球環境破壊なかんずく地球温暖化の問題は解決しえない。無限の価値増殖のために人間を道具にし、自然を価値増殖の手段とする資本主義経済体制では、だから自然と人間とを分断している資本主義経済体制では、この問題は解決しえない、とするのが斎藤である。われわれも「帝国生活様式」をあらため「脱成長」を掲げて「持続可能な公平な社会」を創り出そう、と斎藤は提示する。(私はこの斎藤のいう「帝国生活様式」をあらためるという考え方の裏には、マルクス・ガブリエルのいわばカントの倫理主義的なものの影響があるように思う。 「脱成長」とは斎藤によれば、「行き過ぎた資本主義にブレーキをかけ、人間と自然を最優先にする経済をつくりだそうとするプロジェクト」ということである。)
 彼斎藤は、その「脱成長」の「持続可能公平な社会」の実現のために、アントニオ・ネグリマイケル・ハートらが提唱する<コモン>に注目する。(コモンとは、マイケル・ハートによれば「民主的に共有されて民主的に管理されている社会的な富」ということである。)
 さらにマルクスのザスーリッチへの手紙から、ロシアに残っていた農耕共同体にマルクスが注目していたことをその理論的基礎付けに用いて、土地・水などの労働対象を、さらに地球をコモンとして捉える、というように発展させていくのである。
「コモンの領域をどんどん拡張していくことで、資本主義の超克をめざす。」と斎藤は考えているのである。
       (2020年12月4日   潮音 学)