斎藤幸平「疎外論」批判 第1回 いま・なぜ

斎藤幸平「疎外論」批判
  ――斎藤幸平によるマルクス疎外論」の破壊を

               許すな――

 

 一 いま・なぜ

 

 長年にわたる良心的な環境保護活動家、科学者たちの取り組みと警鐘によって、気候危機の大きな要因とされているCO₂の排出量の制限が、ようやく脱炭素産業革命というかたちで実現されるかのように宣伝されている。第一次産業革命(18世紀半ば)から250年にもわたり主要エネルギーを担ってきた化石エネルギーの大転換である。


 昨年、ヨーロッパ各国支配権力者たち、ロスチャイルドを中核とする金融資本グループ・諸独占資本家たちは脱炭素化に大きく舵をきった。またすぐさま習近平中国もそれに追随したのである。「母なる地球は有限」と称し、コロナ感染の克服と同様に脱炭素化は「全人類の課題」としてそれは推し進められようとしている。
 だが、彼らが考えていることは、「全人類の危機」を防ぐことなどではない。コロナ危機をのりきるために、各国支配権力者たちが金融市場につぎ込んだ膨大な資金を、この膨れ上がった金融市場の資金を、脱炭素・グリーンニューディールとして投下し、ポストコロナに彼らの利害を貫徹しようとしていることでしかない。


 現代帝国主義の経済形態としての国家独占資本主義は、2008年のリーマンショックというかたちでの世界金融危機においてその限界を現実的に露呈した。独占資本家どもとその政府は、この金融危機を、膨大な赤字国債を財源とする財政・金融政策の展開によってとりつくろいつつ、国家資本主義国中国を、生産の・そして投資先の・さらに市場としてのパートナーとしながら、パーソナルコンピューター、インターネット、ICTなどの高度化による直接的生産過程ならびに流通過程の合理化をもって、労働者・人民に多大な犠牲を強いてのりきってきたのであった。だが、コロナ危機へ対応のゆえにさらに膨れ上がった金融バブルは、もはや国家独占資本主義という政治経済構造の破綻を覆い隠すことができない臨界点に達してきている。だから彼ら各国支配者、独占資本家どもは、金融市場での資産価格のつり上げという「仮想空間での投資」から現実的に価値創造が行われる直接的生産過程への投資へとどうしても切り替えなければならなかったのである。


 これが、脱炭素産業革命の物質的基礎に他ならない。だから言うまでもなく、この脱炭素産業革命は、その質、規模、影響力において巨大なものとならざるを得ない。それは全世界の労働者・人民にさらに大きな犠牲を強いることは明らかなのである。
良心的な環境保護活動家、科学者、エコロジスト思想家をからめとり、彼らを先兵としながらそれはなされようとしている。


 今、新たなマルクス主義思想家としてもてはやされている斎藤幸平もその一人である。彼は、『大洪水の前に』『人新世の「資本論」』という著書を出版し、NHK「100分de名著」という番組で『資本論』の解説を務めた。斎藤はその著書でもプロレタリア、プロレタリアートという言葉を忌み嫌う。またNHKの解説においても「階級闘争」という言葉をマルクスから抜き去り、マルクスは、「人間主義=自然主義」という観点から人間と自然との「物質代謝」を唱えたのだと解説している。


 私は先の小論において、『新人世の「資本論」』を中心に斎藤幸平を批判した。しかし、その小論で述べていたように、「疎外論」にかかわる批判は充分になしえたとは思っていない。
 若きマルクスが『経済学・哲学草稿』で獲得したところの、彼のイデーといいうるものは、明らかに『資本論』の未完の完成に至るマルクスの「学問」的生涯を貫いている。だから斎藤は『大洪水の前に』という著書の冒頭で、マルクスの「疎外論」を改竄・捏造しなければならなかったのである。


 この小論では、斎藤幸平がいかにマルクス疎外論を改竄・捏造しているのかを、すなわち、プロレタリアートの自己解放の論理である同時に人間の人間としての解放の論理であるマルクスの「哲学ならざる哲学」を歪曲しているのかを明らかにしたい。
       (2021年1月26日   潮音 学)