ある先輩と話をした

 われわれがブログにおいて、革マル派現指導部が黒田寛一を神格化し、組織を「組織哲学」なるものによって宗教的にかためようとしている、と暴露したことについて、ある先輩から話を聞いた。
 先輩の周辺の人たちは反発しているという。先輩は革マル派現指導部に否定感を持ちつつも老活動家として活動している。この反発と同じような批判が、あるブログに寄せられていた。
 「組織全体を、ですか? 腐敗した一部指導部と、そのもとに繋ぎとめられている非指導部とを区別と関連において把握するのではなく……」と。しかしこの批判は間違っているように思う。私は太宰郷子の論文(「解放」第2632―2633号)を批判した。その批判の最後に次のように述べた。「太宰よ、「組織哲学」なるものを振り回し、党そのものを物神化しスターリン主義と同質なものに転落しているおのれの党を見つめよ。「日々黒田さんに教えられ導かれて」などと、あろうことか黒田寛一を神格化するようなものを書いているおのれを見つめよ」と。そして次に私は太宰に呼び掛けた。「太宰よ、多くの革命的マルクス主義者よ、おのれのなかに深く深く、しかししっかりとして沈殿している反スターリン主義者=革命的マルクス主義者としての価値判断、これを内在したおのれのあらゆる諸能力を、革命的パトスをコロナ危機にあえぐ現代世界を根底から変革するために、全世界の労働者・人民とともに闘うために、呼び起こそうではないか」と。
 かつて自分がオルグされ指導された先輩同志として、指導部の人間は存在するのかもしれない。また理不尽な不合理なまたは暴力的な内部思想闘争なるものに自分が加担していたと思っているのかもしれない。あるいはそれを横から見ながら、屈してきたのかしれない。指導が間違っていると思いつつも、指導部への批判は党への批判だと言われ、そう受けとめ沈黙してきたのかもしれない。おのれの内におのれ自身の存在感を求め、否定的現実に目を閉じて反スターリン主義者としての自己を確認する。または、労働運動や社会運動に一定の活動の場所をもち、そのことによって自分の存在場所を確保するとともに、指導部とは関係ないと自己に言い聞かせつつ活動家として自己を確認しているのかもしれない。
 それが、われわれの批判に対して反発する要因ではないだろうか。自分を見つめることはつらい。その自分が私のようにボロボロであればあるほど、そうである。だが私は信じる。かつてはこの自己の内にふつふつと反スターリン主義者としての変革のパトスがみなぎっていたことを。そしてそれは、くすぶりかけているとしても、今なお必ずおのれの内に存在する。だからわれわれ探究派は「目覚めよ」と呼びかける。私は、下部の活動家をロープに繋がれた羊のようにはみない。ロープが切れたら「自由」になるのではない。自ら現実に目をやり、思考し、呪縛と闘う以外にない。それが反スターリン主義者としての主体性なのだから。
 「腐敗した一部指導部と、そのもとに繋ぎとめられている非指導部とを……」と批判する人は、もはやその呪縛とは関係のないところに自分の身を置き、小さなプライドで自分を慰めているに過ぎない。変革の実践的立場がない。糸色望さん、あなたほどの人がそれでいいのか?
 われわれは常に呼びかける。反スターリン主義者として目覚めよ、と。そして、ともに闘おう、と!
       (2020年11月4日  西知生)