『自然破壊と人間』(野原拓著プラズマ出版) 近日発売!!

3月12日から書店販売をはじめます。

 筆者からのアピール「はじめに」を掲載します。

 

 はじめに


 バイデン政権は脱炭素の政策に舵を切った。アメリカもまた、西ヨーロッパ諸国、中国につづいたのである。ここに、石炭・原油天然ガスなどの化石燃料を自国の経済成長のための主軸とすることを主張して、温室効果ガス削減の動きに対抗する国はなくなった。日本の菅政権も、大慌てで、再生可能エネルギーの技術開発を前面に押し出しはじめた。


 だが、このことは、各国の権力者たちや資本家たちが、自分たちが地球環境を破壊してきたことを反省して政策を転換した、ということを何ら意味しない。自分たちがあまりにも環境的自然を破壊し大水害や森林火災やまた絶滅種の増大などをもたらしてきたことのゆえに、彼らは、ブルジョアジーとしての利害からしても温室効果ガスの削減に踏み出さざるをえなくなったのであり、各国の権力者たちがおしなべてその政策を採ったうえでは、太陽光発電や水素などのエネルギー源の技術開発および生産が、そしてこれにもとづく産業構造の大再編が、膨大な利潤を生む部門となったからなのである。これらの諸部門への資本の投下が、米欧日などの国家独占資本主義国や中露の国家資本主義国に溜まりに溜まっている過剰資本を処理する形態という意義を獲得したからなのである。
 だからこそ、全世界の諸独占体は、新型コロナウイルス感染拡大の影響をうけて危機に瀕した諸企業を救済するために株式市場・債券市場やあるいは諸企業に直接的に注入された国家資金、これを活用して脱炭素の新部門の興す、とともに、既存の生産設備を直接的に廃棄し、そこで働いていた労働者たちを大量に解雇する動きを開始したのである。


 サハラ砂漠太陽光パネルをおき、それによって得た電力でもって水素を生産して液体にし、この液体水素を、水素を動力とするタンカーでヨーロッパやアジアに運ぶ、というような諸事業に、各国の金融資本は群がりはじめているのである。
 このような諸行動があくまでも資本を増殖するためのものである、ということは、最大の自然破壊をなす森林の破壊を各国の権力者や資本家たちがやめていないことに端的にしめされている。
 アマゾンの熱帯雨林は、その全体の一五%をすでに失った。肉牛の飼育牧場をつくるために、そして輸出用の大豆を生産するために、木々は伐採された。このような資本制的開発の行動を裏で操っているのが、アメリカのアグリビジネス企業なのであり金融資本なのである。
 ボルネオ島を中心とする東南アジアの森林は、かつての植民地時代から連綿とつづき拡大されてきたプランテーション経営や鉱業開発のために破壊されてきた。いまでは、こうした経営は、その諸生産物を買いあさる中国の国家資本の勢力圏のもとに編みこまれているのである。
 森林は、その樹木が光合成をおこなうものとして、二酸化炭素を吸って酸素を出す自然のたまものである。そればかりではない。光合成によって成長した木々は、それ自体、太陽エネルギーの凝結体をなす。石炭・原油天然ガスなどの化石燃料は、過去の太陽エネルギーの蓄積物である。森林破壊というかたちで太陽エネルギーの現在的な蓄積を阻害したうえで、化石燃料の消費という形態をとって・蓄積された過去の太陽エネルギーを地上に解き放つのは、そのことそのものにおいて地球の温暖化をもたらすのである。森林内での巨大な水力発電所の建設は、その森林の破壊をなす。だが、水力発電は、再生可能エネルギーの部類に入れられているのである。
 原子力発電は、原子核のなかに閉じこめられていたエネルギーを地球上に放出するものである。生産された電気エネルギーは最終的には熱エネルギーとなる。このゆえに、原子力の消費は、地球を暖めているものなのである。
 このようなことの一切が無視されているのは、現在直下のエネルギー転換が資本の自己増殖のためにおこなわれていることにもとづくのである。


 いまもてはやされている斎藤幸平は、地球温暖化の根拠を資本主義そのものにもとめている。このかぎりにおいて、その主張は斬新であり、正しいといえる。だが、彼の言う・資本主義の克服は、水や電力、住居、医療、教育といったものを公共的に管理せよ、ということでしかない。いくら地方公共団体が経営したとしても、その経営体は資本なのであり、公的資本という規定をうけとるのである。日本では電力は民間資本によって経営されているのであるが、公的経営をなすところの、水道局の労働者も、住宅公団の労働者も、市民病院の医療労働者も、さらに公立学校に雇われている教育労働者も、いま過酷な労働を強いられ・こき使われ、搾取されているではないか。
 どんな経営体に雇われているのであれ、すべての労働者がみずからを賃労働者=プロレタリアとして自覚し、資本によって賃労働が搾取されるというこの階級関係そのものをその根底から転覆するために階級的に団結しなければならない。
 このような労働者たちの階級的団結ということを無視抹殺し、資本主義的な秩序はそのままにしたうえで公共的なものをひろげていけばいい、としているのが、斎藤幸平なのである。これは、彼が「マルクスの再解釈」の名のもとにマルクスエコロジー的に歪曲したことにもとづくのである。
 マルクスは、プロレタリアの労働を疎外された労働としてあばきだし、この労働の疎外の廃絶をめざしたのであった。斎藤幸平は、これをねじまげたのである。労働の疎外というのはまだ表面的な把握であって、これをほりさげて、人間による自然の疎外という根本問題をマルクスはつかみとったのだ、というように、である。これは、労働力の商品化を、だから生産諸手段の資本制的私的所有を、その根底からくつがえす、というマルクスの・プロレタリアートの自己解放の理論を否定するための理論的詐術なのである。


 われわれは、このような、マルクスエコロジー的解釈替えをあばきだしていかなければならない。
 われわれは、マルクスと・それをうけついだ黒田寛一の実践的唯物論を、そして『資本論』の真髄を貫徹して、二一世紀現代世界の諸問題を思索し解明するのでなければならない。


 矛盾に満ち満ちたこの現代世界を変革するために、この本に主体的に対決されんことを望む。
           (二〇二一年二月一九日 野原 択)