探究派の批判を沈黙でのりきることができず、悲鳴をあげた「革マル派」現指導部

 「解放」第2729号に「革マル派」現指導部は「反革命=北井一味を粉砕せよ!」という許しがたい文書を掲載した。これは、彼らが、われわれ探究派の批判にたえきれず、これからのがれたいがためにあげた、悲鳴である。
 彼らは、西側帝国主義の手先であるゼレンスキー政権とそのウクライナ軍を、ウクライナ民族がまるごと「祖国防衛」の戦争をたたかっているものとして、とらえて肯定している。この把握は、ゼレンスキー政権がウクライナ支配階級の政権であり、この支配者の政権がウクライナの労働者階級・人民を動員しロシアとの戦闘に駆り立てているのだ、という把握もないものである、とわれわれは批判した。そして、そうなるのは、彼らが今や祖国防衛主義=ブルジョア民族主義に転落しているからだ、とその根拠をあばきだしてきたのである。さらに、彼らは、プーチンスターリンの末裔としてえがき、これに反対することをもって<反スターリン主義>とするまでに、彼らの<反スターリン主義>の内実は変質している、とわれわれは、つきだしてきた。こうした批判によって学生をはじめとする下部組織成員から「革マル派」現指導部にたいする疑問と批判が陰に陽にうずまいているのである。このことは、われわれのブログによせられてきている共感から、よくわかるのである。まさしく、これは、現指導部が、プロレタリア・インターナショナリズムを完全に放棄していることにもとづくのである。彼らは、いまや、ゼレンスキーに武器を供与することに積極的でないとみなした西側帝国主義諸国権力者に、「国家エゴイズムだ」と平然と非難しているのである。これは、彼らがウクライナの労働者階級や西側諸国、なによりも日本の労働者階級にたいする信頼をうしなっていることを最深の根拠とするのであり、この言辞は、西側帝国主義諸国権力者と一体となり、反ロシアの排外主義の立場にたって、ロシア軍を粉砕せよと叫ぶにひとしいのである。これほどまでに、現指導部は腐敗しているのである。このように民族主義へ転落した己をわが探究派から批判され、下部組織成員や学生、労働者から「階級的立場を失っているではないか」と批判や疑問をなげられていること、これを排外主義的にのりきるためにこそ、彼らは、今回のゆるすことのできない文章をだしたのである。
 それだけではない、彼ら「革マル派」現指導部はわが探究派の『松崎明黒田寛一、その挫折の深層』を、「反革命の書」といいなしている。これが、いかに、腐敗した者どもの、白を黒といいなす言辞であるか、ということは、この本を、革命的マルクス主義者たらんとする者が手にとって読めば、たちどころにわかるものなのである。なによりもこの著書に掲載されているすべての論文は、同志松代をはじめとする探究派の同志たちが、まさしく場所的現在において苦闘する労働者階級を階級的に組織するために、松崎明黒田寛一の営為を受け継ぎ、そしてのりこえていく、という立場にたって明らかにしたものなのであり、この実践的で自己否定的な立場にたつがゆえにこそ可能となっている追求なのである。
 われわれがこのような立場にたっていることをまったく理解できず、こうした追求とは無縁な地平において、ただ、おのれの「革マル派」官僚としての保身にもとづき、黒田寛一を無謬の指導者として崇拝するものへと組織成員の主体性を破壊して延命することを企てている者であるがゆえに、彼らが吐いた言辞が、「反革命の書」なのである。前原茂雄と片桐悠は、もしも自分が労働者同志たちを指導してきたという責任の一片でも感じるのであるならば、同志松代の自己批判的な切開をうけとめることが、ただ、なさなければならぬことなのである。「解放」の今回の腐敗した文章は、かの〇人組がシナリオを描き策したものであろう。これは、唯物論的に何かを分析する、ということとは無縁なしろものであり、ただ、われわれ探究派を「権力の走狗」と描くためには、どういうストーリーをつくればよいか、と頭をめぐらした悪意と自己保身に満ち満ちた物語である。この手口は、自己の破産を批判されて、その批判からただのがれ、組織諸成員をシンボル操作によってヒステリーにおとしいれ洗脳しようとする者の、常套の手法である。かつての「帝国主義の手先」や「K=K連合」というのが、それである。ついに、彼らは、スターリンや本多延嘉と同様の排外主義的手法をとったというべきである。彼ら「革マル派」現指導部を打倒するために、下部組織成員はみずからの主体性をかけるべきである。われわれは、最悪の腐敗した対応に手をそめた「革マル派」現指導部を打倒し「革マル派」組織そのものを革命的に解体=止揚するために断固としてイデオロギー的および組織的にたたかう決意を、あらためて明らかにする。
          (2022年7月29日   桑名正雄)