革命的マルクス主義の立場を放擲した者たちの末路

 「日本反スターリン主義運動は、一九五六年十月に勃発したハンガリー革命を契機として、ソ連が反マルクス主義の虚偽の「社会主義」国家でしかないことを完膚無きまでに暴きだし、以来スターリン主義の超克と真の共産主義運動の創造のためにたたかってきたのであった。」

 これは、「革マル派」の機関紙「解放」の第2708号(2022.3.7付)の一面の声明文の最後の方に記された一文である。けっして、どこかの雑誌に載った・研究者の一文なのではない。

 この文は、「日本反スターリン主義運動」が主語となり、実体化されている。このことに、彼ら現「革マル派」官僚がみずからの頭をめぐらせる、その頭のめぐらし方のくるいが顕わになっている、といえる。
 「日本反スターリン主義運動」を主語にしているのは、この文の筆者が、日本反スターリン運動を創造した黒田寛一そのひととその生みの苦しみに思いをはせることを、自分自身の頭と心と体から締めだしていることにもとづくのである。
 このことと関係して問題なのは、この筆者が、ハンガリー革命を単なる「契機」、つまり、きっかけに貶めていることである。ハンガリー動乱ハンガリー革命としてうけとめた黒田寛一共産主義者としての主体性を、この筆者は何ら省みていないのであり、この一文は、勃発したこの事件に共産主義者としての主体性を貫徹した黒田の内的苦闘を追体験的にわがものとする、という主体的な思想的格闘を、この筆者が何らおこなっていないことを自己暴露したものなのである。
 同志黒田が、自己超克をかけて執筆した『スターリン主義批判の基礎』の校了の翌日(1956年10月23日)に、ハンガリーの労働者・人民の闘いを、ソ連軍は軍事的に弾圧した。黒田は、その論文の最後に、「追記」として、次の一文を突っ込んだ。

 「ハンガリアの労働者階級がたちあがったことは、20世紀の共産主義運動における画期的な事件として、歴史にきざまれるであろう。」

 『スターリン主義批判の基礎』は、ブダペストにおけるハンガリー労働者・人民とソ連軍との攻防戦のさなかに印刷され、この本が発行されたのは、その年の11月10日であった。「プロレタリアの祖国」と世界中の労働者・人民に思われていたソ連は、ハンガリー労働者・人民が非スターリン化を要求しソビエトを結成して起ちあがった闘いに血の弾圧をおこなった。そのただなかにおいて、黒田は、マルクス主義者として自分の持てるすべてをかけて、瞬時に、ハンガリー労働者・人民の立場に立ったのである。黒田は、ここに、共産主義者としての主体性を貫いたのである。
 黒田は、共産主義者としての主体性を貫いたその主体的な立場を、革命的マルクス主義の立場として具体化し、この立場にたって反スターリン主義運動を創造したのである。「ハンガリー革命を契機として」などと解釈するのは、黒田のこの主体的営為をおのれのものとすることをかなぐり捨てた者のみがなしうることである。
 われわれは、この黒田の共産主義者としての主体性をつかみとり、それをわがものとし、おのれ自身にたえず貫いていかなければならない。

 いま見てきたような、主体抜きの客観主義丸出しの文を書けるのは、現「革マル派」の最高指導部の者たちが、みずからのよって立つ思想の何たるかを日々問うことをしなくなって久しいからであり、自分で考える力も意欲もパトスもとっくの昔に捨て去ったからである。しかも、この声明を、現「革マル派」の機関紙たる「解放」に堂々と載せたということは、この文を批判できるメンバーは、指導部のなかに、もはや誰ひとりとしていない、ということである。
       (2022年3月6日   谷風 青)