寄稿 「世紀末の思想問題」を読んで 

 最近の私は、北井さんのブログで晩年のKKを中心に他方面にわたって批判的検討が行われているのを読んで、KKの著作を読む気持をほとんど失っていました。かつてあれほど尊敬し、一生懸命学んできたKKの衰退を感じることが辛かったのです。
 そういう私ですが、最近発行された『ナショナリズムの超克』の「一九九二年、黒田寛一の思想的逆転回」(椿原清孝)を読み、「違うではないか、黒田よ!」という筆者の叫びに心を動かされ、私自身、なんとか「世紀末の思想問題」と対決する気力を奮い立たせました。以下、私の感じたことを記します。

 

 実践的立場の消失 

 それは、この論文にはソ連邦崩壊以後の「世紀末」の危機的階級情勢を何とか突破していこうという反スタ革命的左翼の実践的立場がほとんど感じられなかった、ということです。言い方を換えると、実践的立場を喪失し、没階級的・評論家的展開になっているのが、この「思想問題」だと感じました。 こうした感じを抱かざるをえなかった論述箇所は、以下の部分です。
 まず「Ⅲ 価値観の相剋」(『ブッシュの戦争』所収の「世紀末の思想問題」二四一頁~)
 「(2)普遍的理念にまで祭り上げられているブルジョア的価値観が、〈自由・人権・民主主義〉に抽象化され形式化されることによって、ブルジョア的=資本主義的悪をばっこさせていること。」との論述についてです。
 この文章の主語は、[本来的には]「ブルジョア的価値観」ではなく、「ブルジョア階級」ではないかと思います。すなわち、ブルジョア階級が〈自由・人権・民主主義〉を錦の御旗に掲げ、ブルジョア的利害を貫徹しているのが現代世界の一面であると思うのです。
 「価値観」の問題を論じる場合、KKの書き方で妥当なのかどうか、私にはわかりませんが、違和感を覚えてなりません。

 

 反スタ革命的左翼は何処へ? 

 また同じ「(2)」の最後の箇所(二四二頁)
 「ブルジョア的価値観の貧困・虐げられた者への押しつけは、さまざまな反ブルジョア的な自然発生的闘争をうみだしつつあると同時に、マルクス思想を不死鳥のようによみがえらせることになるであろう。」についてです。
 「マルクス思想をよみがえらせる」(そもそも「マルクス思想」は死んだのか?)のは、マルクス主義を批判的に継承・発展させてきている反スタ革命的左翼の奮闘にかかっているのであって、この発想が欠落した当該の論述には疑問を覚えます。
 次に「(7)」の最後の箇所(二四六頁~)
 「だが、二十一世紀の歴史的現実こそは、十九世紀のマルクス思想が勝利することを実際にしめすにちがいない。今日におけるさまざまな価値観の相剋を、透徹した理性と生きた感覚にもとづいて、グローバルかつダイナミックに分析することによって、そのことは確認されねばならない。」
 ここでも主語は「歴史的現実」となっています。
 この文章に対する私の感想は先と同じです。しかし「十九世紀のマルクス思想」とは?これではマルクス思想は十九世紀のものでしかなくなり、それを二十一世紀の歴史的現実に適用しつつ継承・発展させている反スタ革命的左翼が蒸発しています。
 しかも「透徹した理性と生きた感覚にもとづいて‥」と。しかしそれは一体誰のいかなる理性と感覚にもとづくのでしょうか?

 

 場所的分析の欠落 

 最後に「Ⅳ〈民主主義〉の擬似宗教化」の論述のうち、「(B)」の二五五頁の最後の4行についてです。
 「① 近代資本主義が形成したブルジョア的諸価値を普遍妥当的なものに祭り上げているのと同様に、産業資本主義段階的特殊性を刻印されている自由主義経済を〈市場経済原理〉として超歴史化し絶対化しているということ(市場万能主義)。いいかえれば、帝国主義段階の段階的特殊性したがって国家独占資本主義の形態的特殊性や、それらの経済政策的特殊性を無視抹殺していること。――このことは、資本主義的秩序およびそのイデオロギーを永遠化する勃興期ブルジョアジーと同じ楽天主義にはまりこんでいることをしめしている。」
 ここで「市場万能主義」についてですが、サッチャーレーガン・中曽根がスタグフレーションという国家独占資本主義の機能不全・破綻状況をのりきるために、そして直接的にはスタグフレーションの乗り切りのための財政支出の拡大による国家財政の赤字の累積を克服するために、「規制緩和」・「行政分野の民営化」等を推進してきました。そしてこの政策をスムーズに貫徹するために彼らが掲げた標語が「小さな政府」「市場経済原理の導入」であり、これに貫かれているイデオロギーを「市場万能主義」と規定すると考えます。
 KKの先の論述は、どうも場所的な分析が欠落し、「市場万能主義」からの天下りになっているように思えます。ただ私の記憶が曖昧なのと、苦手の経済学の分野なので、私のこの感想には自信はありませんが。とは言っても、「市場万能主義」に裏付けられた現代ブルジョアジーの諸攻撃にさらされ苦難の道を歩む――他ならぬ・この私をはじめとする――プロレタリアートの姿が、ブルジョアジーの「楽天主義」をなじるKKの視界からは消えているのではないのか、という思いを私は強くする。

 以上が、簡単ですが、私の感想です。

 

 私の教訓――KKとの格闘を粘り強く! 

 最後に「思想問題」を論じる場合、KKの論述のように文章の主語が「価値観」等の諸概念にならざるをえないのかな、とも思います。
 しかし、正直なところ、KKのこの小論を読んでいても、何か頭がボーッとして内容が頭に入らず、ほとんど実践的意義を感じることが出来ませんでした。
 でも基本は、KKの思想と理論(実践)を批判的に継承し、発展させていく立場をしっかり堅持し、粘り強くKKと格闘していくことが大切なのだと思えたことが、この小論をイヤイヤ読んでの、私の最大の教訓・成果です。
 二〇二三年七月  三波 透

 

[ 小見出しは、筆者の文意に基づいてブログ編集部が付しました。]