マルクス『共産党宣言』の、「民族独立」を希求する立場にたっての解釈=歪曲

 早瀬光朔「プーチンの大ロシア主義」(『新世紀』第322号)に次の展開がある。
 「レーニンと初期ボルシェビキは、独立した民族国家を単純に否定するズンドウの「世界革命」なるものをめざしていたわけではまったくない。彼らは、「内容上ではないが形式上は民族的に」というマルクス・エンゲルスの革命理論(『共産党宣言』)にのっとって、ロシアを起点とするヨーロッパ=アジア・プロレタリア革命の連続的遂行を展望していたのである。」(103頁)
 おお! なんと!
 これは、『共産党宣言』に言う「形式上は民族的に」ということを、「独立した民族国家」の樹立というように解釈するものであり、マルクスエンゲルスの革命理論を木っ端微塵に粉砕するものである。こう解釈変えする者は、ナショナリズムの立場にたっているのである。その内容は、「民族独立」をプロレタリアートの普遍的課題として希求するという、独自のナショナリズムを提唱するものである。
 かつて一九六〇年代に、日本共産党の学者は、『共産党宣言』の解説書で、マルクスの論述のかの有名な一節を次のように説明した。
 「マルクスは「労働者は祖国をもっていない」と書いています。それは、労働者は祖国を奪われているからです。したがって、労働者は祖国を取り返さなければなりません」、と。
 「革マル派」中央官僚派による『宣言』の論述の解釈変えは、これと同類のものなのである。
 早瀬がふれている部分については、マルクスは、次のように書いていたのであった。
 「ブルジョアジーにたいするプロレタリアートの闘争は、内容としてはそうではないとしても、形式としてはさしあたり一国的〔national——国民的、あるいは、民族的とも訳される〕である。各国のプロレタリアートは、当然まず第一に、自国のブルジョアジーをかたづけなければならない。」(マルクスエンゲルス著、服部文男訳『共産党宣言 共産主義の原理』新日本出版社、68頁)
 早瀬は、マルクスのこの展開から「各国のプロレタリアートは、当然まず第一に、自国のブルジョアジーをかたづけなければならない」という部分を切り捨て、「形式上は民族的に」ということを「独立した民族国家」の樹立というように歪曲したのである。彼がその部分を切り捨てたのは、その部分をも引用するならば、ウクライナプロレタリアートは、当然まず第一に、ウクライナブルジョアジーを、したがってそのブルジョアジーの権力であるゼレンスキー政権を打倒しなければならない、ということになるからである。
 マルクスが言っているのは次のことなのである。
 個々の国では、すでに独立した民族国家がブルジョアジーの支配する国家として形成されている。したがって、その国のプロレタリアートは、そのブルジョア民族国家を、すなわちその国のブルジョアジーを打倒しなければならない。——マルクスが言っているのは、こういうことなのである。
 こんなことは、みんな、若いころに学習会で先輩から教わったことである。それを、いま、中央官僚の早瀬は、官僚総体の意志を代表して、投げ捨て踏みにじったのである。
 しかも早瀬は、その「独立した民族国家」の形成を、「ズンドウの「世界革命」」と対立させるかたちで主張しているのである。では、「ズンドウの「世界革命」なるものをめざしていた」のはいったい誰なのか。はたして、そんな人物がいたのか。ここでは、「レーニンと初期ボルシェビキは」そうではなかった、とされていることからするならば、その人物とは、初期ではないところのスターリンだ、ということになる。
 スターリンにたいして「独立した民族国家を単純に否定するズンドウの「世界革命」なるものをめざしていた」と批判するとは、いったいどういうことなのか。われわれは、同志黒田寛一が「スターリンは世界革命を、各国革命の算術的総和に歪曲した。これは、プロレタリア世界革命の立場を放棄するものである」、というようにあばきだしたことに学び、それを主体化し、プロレタリア世界革命の立場にたつ、と意志してきたのではなかったか。一国革命方式と民族主義的な二段階戦略に転落したスターリンにたいして、「ズンドウの「世界革命」なるものをめざしていた」、と批判するというのは、そう批判した中央官僚は、プロレタリア世界革命の立場を放棄した、というどころではなく、すでにみずからの外においていたその立場を、投げ捨て・足蹴にし・踏みにじり・それに唾を吐きかけたのである。いや、いまは亡き、マルクスと同志黒田寛一その人を、殴り倒し・足蹴にし・踏みにじり・彼らに唾を吐きかけたのである。
       (2022年12月10日   松代秀樹)