一九九二年、黒田寛一の思想的逆転回 

〔1〕黒田寛一ソ連邦の崩壊 ――「世紀末の思想問題」を再読して

 本論文が『共産主義者』第一四五号(一九九三年七月)に掲載された時に、私は読んでいた。その私が改めて本論文に対決したのは、同志松代のブログ記事「一九九六年の時点で、ソ連崩壊は忘れ去られてしまうようなものなのか」(二〇二三年二月一九日)を読み、黒田の思想的変質がソ連崩壊時に既に始まっていたのではないか、と思ったからである。
 『現代における平和と革命』の「改版 あとがき」(一九九六年執筆)について同志松代は述べている。「黒田にとって、ソ連の崩壊はすでに、忘れ去られることを心配するような問題になっているのか、忘れ去られてよいか否かも糞も、いままさに、その根拠は何か、ソ連崩壊の根拠は何か、というように、われわれが理論的にゴシゴシとほりさげていくべき問題ではないのか、と私は思ったのである。」
 私はこれまで、『実践と場所』において満開した黒田の〝日本人主義〟とでも言うべき思想的変質をもたらした歴史的出発点は、一九九四年のJR(旧国鉄)労働者組織の、そして黒田にとって最高の同志であり、また盟友であったとさえ言える松崎明の離反に直面した時であろうと思っていた。
 だが、同志松代の記事を読み、黒田はソ連邦の崩壊を正視できなかったのではないのだろうか、という疑問を抱いた。そしてこの疑問の解決のためには、ほぼ三〇年前に読んではいた「世紀末の思想問題」と対決することが絶対に必要であると感じたのである。

 

「世紀末の思想問題」の歴史的組織的位置

 

 『共産主義者』で公表された本論文は、今日では『ブッシュの戦争』(二〇〇七年 あかね図書販売刊)に収録されている。(この小論では、『ブッシュの戦争』のページ数を記す。)
 本論文は「一九九二年五月――未完」とされている。すなわち、ソ連邦の崩壊(一九九一年一二月)からほどない時期であり、おそらくは黒田が「世紀末」の、つまりはソ連崩壊以後の「思想問題」について、初めて本格的に論じたものと言えるだろう。
 それとともに、「一九九二年五月」という時期は革マル派組織建設において極めて大きな意味をももっているのである。この時期は、労働運動への組織的とりくみにおける右翼組合主義的偏向とその結果としてもたらされた労働者組織(諸成員)の変質をいかに克服するか、をめぐって組織をあげて苦闘していた時なのである。

 

 一九九三年初夏――〝生気が感じられない〟

 

 本論文が現実に『共産主義者』一四五号に掲載され公表されたのは、一九九三年初夏であり、当時の私にとってはいわゆる「三・一路線」をめぐる反省論議が開始される直前の暗い時期であるとはいえ、「三・一路線」をうち破る拠点の構築に手がかりを得た時期であった。私は、「米原拓也」署名のこの論文のタイトルを見て、「これはKKではないか」と思って飛びつき、貪るように読んだ。実際に読み始めたとたん、やはり同志黒田以外には書けないものだ、と確信した。このときに私が期待したのは、「三・一路線」を組織的に克服するきっかけとなることが論じられているのではないか、という一点であった。このような問題意識であったから、読んだ結果は、落胆であった。〝こういうことを論じている場合ではないでしょう〟という気持ちをも抱いた。さらに漠たるものではあったが、〝生気が感じられない〟という当時の印象だけが、後々思い出すごとに想起されたのであった。
 だが、そのような印象を検証することもなく、三〇年が経過して、同志松代の追究に促されて改めて再び対決することとなったのである。

 その結果は、予想を遥かに超えるものであった!

 

〔2〕凱歌をあげるブルジョアジーの「歴史的思考の欠如」!?――歴史主義への転落

 

 この論文は一論文としては長大であり、様々な論点について論述されている。私はその総体について論じることはできない。私は〈ソ連崩壊と黒田寛一その人〉という観点から大きな問題をとりあげるにすぎないことになる。そのことに重大な意味がある、と考えるからである。

 本論文における黒田の諸論点を貫く基本的なものは、冒頭の次の文章に明確に示されていると言えるだろう。(以下、とくに断りがない場合、引用は上記『ブッシュの戦争』より。)

 「スターリン主義に等値したところの「共産主義」にたいして〈自由主義の勝利〉や〈民主主義ないし市場経済の永久性〉を謳いあげるブルジョア的没理論にもとづくような非ないし超歴史的思想のばっこ。自称「社会主義ソ連圏の予想しえなかったゴルバチョフ式破壊に有頂天になって歴史的思考をなげすて、ただもっぱら現状肯定主義の泥沼にはまりこんでしまっていることについての自己正当化。マルクス共産主義思想についての無知蒙昧の公然たる自己暴露について気づかないほどのお目出度さ。」(二三〇頁)

 ここで、極めて特徴的と思われる箇所に私がアンダーラインを付した。
 黒田がここで批判しているのは、基本的にはブルジョア・イデオローグおよび彼らによって形成された思潮であると言ってよいだろう。ここでは「歴史的感覚・思考の欠如」が問題とされていることが顕著である。後の「Ⅴ」章のタイトルが「〈ポスト資本主義〉感覚の蒸発」とされていることからもそう言える。明らかに黒田は、〈資本主義→社会主義共産主義)〉という〈歴史の必然〉を拠点としてブルジョア・イデオローグと対決しているのである。その反面がブルジョア・イデオローグにたいする「時代錯誤」という否定の仕方である。これはどうしたことか。
 〈資本主義→社会主義〉という社会経済構成の転換は、歴史法則的に実現されうるわけではない。全世界のプロレタリアートの国際的団結にもとづく闘い・〈世界革命〉によってのみ切り拓かれるのである。このことをかつての黒田は明確にし、スターリニストの客観主義的=歴史主義的な「発展」論をのりこえてきたのではなかったか。だが、本論文における黒田は、その闘いについて何ら確信をもって論じてはいない、と私は考える。
 いや、黒田は逆に、「……これが、プロレタリア的階級性の蒸発した世紀末現代世界があらわにしている悲劇的な様相なのだ。」(一四〇頁)などという。これはいったいどうしたことか?「現代世界」からの「プロレタリ的階級性の蒸発」とは?ここでは、現代世界ないし、そこにおけるプロレタリアという存在に関わる存在論的問題と、プロレタリア階級闘争の推進に関わる実践的=主体的問題とが混淆されているのではないのか。前者の観点からいえば、プロレタリアートは現代の普遍的存在であって、「蒸発」したりはしない。後者であれば、ソ連崩壊以後の国際階級闘争の壊滅という厳しい現実において、われわれ反スターリン主義者がプロレタリアートの階級的自覚をいかにうながし、その組織化を推し進めるのか、という問題である。その確固たる立場と展望をぬきにしてブルジョア・イデオローグの「超歴史的思考」を指摘しても、彼らに対するマルクス主義者の知的優越を示すだけのことであって、まさに空しい、というべきではないか。
 また「……むしろ現代世界が――真の理念を喪失して――無秩序と混沌にたたきこまれていることを端的にしめすものにほかならない。」という論述(一三九頁)と対照するならば、上の「プロレタリア的階級性」は、「現代世界」の「真の理念」とも重なってくる。だが、プロレタリアの階級的自覚は「時代」ないし「現代世界」そのものに孕まれているものでも、そこから「蒸発」するものでも決してないのである。「理念」を人間主体の自覚・実践の問題から切りはなして、恰も「時代」そのものに内在するものであるかのように考えるのは、ヘーゲル的・形而上学的錯誤ではないか。〈新世界秩序〉の安定をはかる帝国主義ブルジョアジーにたいする「反時代的」という非難は、その一表現ではある!
 いや、ソ連崩壊以後の現代世界において、プロレタリアートをわれわれがいかに組織し、階級として形成していくのか、ということについては、黒田は全く問題にもしていない。そのような問題を不問に付して、「だが、二十一世紀の歴史的現実こそは、十九世紀のマルクス思想が勝利することを実際にしめすにちがいない。」などと言っても、強がり的な印象を拭い去ることは出来ないではないか。――このような文言が、かの黒田寛一の口から飛び出すとは!
 ここで見られる黒田の歴史主義的な発想が、『実践と場所』におけるおのれの主体性の問題につらぬかれることによって、〝太古の時代からヤポネシアに住み着いた古モンゴロイド〟たる「ヤポネシア族」の末裔として己を意識するという驚くべき歴史存在論主義的基礎づけが、プロレタリア的主体性からの完全な遊離が、もたらされることにもなった、といっても良いだろう。
 晩期の黒田は、実践的唯物論から非唯物論形而上学へと傾斜した、と言わざるをえない。

 

[3]〝ゴリ・スタ〟への思い入れ?

 

 ソ連邦の崩壊に直面した黒田が、今みたような思想的逆転回を遂げたことは、彼がソ連邦の崩壊に、どれほど多大なショックを受け、事実上打ちのめされたかを示している、と言える。私自身は、「世紀末の思想問題」と改めて対決することを通じて、このことを痛感させられ、「あの黒田が……」という想いがこみ上げてきた。
 黒田が打ちのめされた所以を推論的に考察する場合、どうしても気になるのが、本論文に垣間見られる、いわゆる「ゴリ・スタ」への思い入れである。

 「Ⅲ 価値観の相克」(二四一頁~)には次のような論述がある。

 「ソ連スターリン主義ブルジョア的=ゴルビー的破壊に抵抗し、毛沢東主義の伝統をひきついで「改革・開放」に突進しているのが、今日の北京官僚イデオローグである。そして毛沢東主義者は、いまなおアジアの一部(とくにフィリピンの新人民軍)やラテン・アメリカの一部(たとえばペルーのセンデロ・ルミノッソやボリビア毛沢東派など)において、いぜんとしてゲリラ闘争を展開し、「農村根拠地革命」方式を採用しながらも、さらに都市部にまで反政府闘争を拡大しつつある。――こうした生き残り毛沢東主義者の「革命闘争」に、亡命したソ連のゴリ・スターリン主義党員および軍人・KGBが、今後いかに関与していくか、ということは旧ソ連邦全体の経済的破滅によって促進され連動してうみだされるところの、資本主義世界全体の今後の経済的混乱と新たな激変にかかっているのである。」(二四五頁)

 まず、一九九二年の中国共産党指導部を「毛沢東主義者」というのは、いかにも無理がある。毛沢東の死後に復権し既に実権を確立した鄧小平、かつては毛沢東によって「走資派」と烙印された彼が率いる中国共産党指導部はお世辞にも「毛沢東主義者」とは言えない。「改革・開放」を打ち出し、脱毛沢東化を図ってきたのが、鄧小平指導部である。「「改革・開放」に突進」とされているのであるが、鄧小平の、一九九二年初めのいわゆる「南巡講話」以降の中国共産党指導部は、スターリン主義的計画経済の行き詰まりの打開・弥縫の枠を超えて資本主義化政策に舵を切ったのであって、それが「市場社会主義」なのである。
 ましてや、「亡命したソ連のゴリ・スターリン主義党員および軍人・KGB」についての論述はいかにも過大である。本論文を執筆した当時に、かつての「ゴリ・スタ党員および軍人・KGB」の今後の挙動を予測することが難しかったことは間違いない。だが、明らかに黒田の推察には、「毛沢東主義者」や「ゴリ・スタ党員および軍人・KGB」への過大な期待がにじむ。
 後のことにはなるが、このことを示す一事をあげよう。
 かの二〇〇一年のいわゆる「九・一一」事件の直後の革マル派機関誌「解放」の記事では、この「ジハード自爆」は、旧ソ連KGBムスリムを教育・指南して実行させたものであって、「本質的実体はFSB(旧KGB)である」とされたのであった。当時、私は驚いた!同志松代によると、このような〝分析〟は同志黒田の指示によるものであったらしい。(もっともその直後には、黒田はムスリムの「画歴史的闘い」を賛美したのであり、やがては「イスラミック・インター-ナショナリズム」を称揚するまでに至る。この転換は、既にプロレタリアートの階級的組織化の展望を見失い、実践的立場を喪失した黒田が既存の他の政治的勢力に依拠してしか展望を語ることが出来なくなったことを示したものと言える。)
 「毛沢東主義者」や「ゴリ・スタ党員および軍人・KGB」の挙動への過大な推察は、黒田が彼らになお思い入れを抱いていることの表現として捉えるほかはない。アメリカ帝国主義をはじめとする現代帝国主義に対抗する彼らの「左翼」性への思い入れがそこには滲んでいると言える。
 これは驚くべきことである!だが、ソ連邦の崩壊以後にますます問われたスターリン主義を根底的に超克してゆくための国家=革命論的・経済学的掘りさげに彼が注力することはなかったことを合わせ考えると、ソ連邦の崩壊という事態の直撃を受けて、彼自身が反スターリン主義運動そのものの展望喪失に陥ったことは否みがたいのである。――この意味で、ソ連邦の崩壊以後の彼を「晩期・黒田」と規定しうると考える。
 [ なお、「亡命したソ連のゴリ・スターリン主義党員および軍人・KGB」という表現自体も異常である。「ゴリ・スターリン主義党員および軍人」はともかく、それと並べて「KGB」というのはいかにもおかしい。前者は、党および軍の「ゴリ・スタ」的諸成員を示すのに対して、後者は国家機関そのものを表す。並列できないものを並列しているのである。
また、直接的に黒田じしんが用いた表現とは言えないのであるが、二〇〇一年の九・一一事件に関して「解放」では、「本質的実体はFSB(旧KGB)」というような規定がなされていたのである。これもまた極めておかしい。〝かつてKGBに属していたものたち(諸実体)〟ということであれば、一応意味は通じる。しかし、〝国家機関としてのFSB(旧KGB)〟となれば話は別である。既に国家機関としての「KGB」は存在しない。「FSB」となればとんでもないことになる。なぜならそれはロシアの国家機関であり、ロシア国家の頭目たるプーチンが指揮していることになる。となると、九・一一事件の黒幕はプーチンであり、彼がロシアの国家機関を指揮してアメリカ帝国主義に攻撃をしかけたことになる。〝ゴリ・スタの暗躍〟どころの話ではないのである。
このような問題にさえつながる叙述の非論理性に気づかなかったとすれば、この時点で黒田は論理的思考そのものにおいても相当に衰退していたことが示されているのである。]

 

[4]同志黒田を神格化したものの腐敗と惨状

 

 上に論じてきたような同志黒田の晩期における思想的逆転回を捉えるならば、彼を神格化したものたちの腐敗についてもまたより明確に捉えることが出来る。三点だけ指摘しておこう。

 

 歴史主義的思考

 

 『黒田寛一著作集』が刊行されたとき、われわれは驚いたものである。著作集刊行委員会は、同志黒田に「世紀の巨人」などというスターリンなみの称号を与えただけでは気が済まず、「歴史のはるか先を行く偉大な先駆者」だと規定したからである。われわれは、これは同志黒田の場所の哲学を否定するものであり、「思想的には〝サラバ、黒田〟と言っているようなものではないか!」(『コロナ危機の超克』「革マル派の終焉」一五七頁)と弾劾しておいた。これは正しい。だが、彼らが晩期・黒田の歴史主義的思考を学んでしまったことも事実であろう。
 師における誤謬の兆しが、彼を神格化した追随者においてはそれこそグロテスクなまでに発展しているのである。

 

 反スターリン主義の放擲

 

 今日の「革マル派」指導部が反スターリン主義を完全に放棄していることは彼らの出版物の隅々に露呈しているのであるが、ここで最近の「解放」記事について指摘しておこう。
 二〇二三年三月六日付けの「解放」第二七五八号で彼らは言う。――「スターリンの末裔にして、ソ連の国有財産の簒奪者たるプーチン」と。
 とっくの昔に転向し、今日ではロシアの転化型帝国主義頭目となったプーチンを「スターリンの末裔」に見立てなければ「反スタ」の体裁がとれないほどにまで彼らが変質していることは別にして、彼らは「ソ連の国有財産」への郷愁をもかくそうともしない!(松代秀樹のブログ、二〇二三年三月二日の記事を参照されたい。)
 彼らの変質を感性的にも端的に示す卑近なエピソードをここで一つ紹介しておこう。
 二〇一七年ころであったか、労働者組織のある学習会で「ソ連の崩壊は痛かった。[資本主義の悪の]歯止めになっていたからなぁ」と発言したメンバーがいる。それを聞いて、今日では探究派に結集しているわれわれは大いに驚いたものである。だが今日、ソ連邦の崩壊を同志黒田がどのように受けとめたかを分析・究明するならば、これもまた晩期・黒田の〝落とし子〟にほかならないのである。(事実、この発言者は、同志黒田の著作の読み合わせの際には、「べらんめえ調」といわれる政治集会などでの同志黒田のテープ講演のモノマネ=ナリキリのようなことをしていたメンバーである!)

 

 「時代」だのみの客観主義

 

 二〇一八年の「解放」新年号に掲載され、後に『新世紀』(二九三号)に再録された論文には、「ドン底の底が破れるとき、光まばゆい世界が開けるのであり」などという宗教映画もどきの文言があらわれた。「どん底」の「底」には「光まばゆい世界」がある、とは開いた口がふさがらない。その後も「世界が反スターリン主義運動を求めている」などの、とても実践主体とは思えないような願望を吐露する文章も続いた。「理念」が「現代世界」に内包されているかのような黒田の文言を盲信するならば安んじてこういう倒錯に陥るのであろう、と今日的には考える。

 (その他にも、後の「革マル派」中央官僚派において満開した誤謬と腐敗の〝種〟をなしたと見られる様々な歪みの兆候が、この「世紀末の思想問題」には見られるのであるが、ここでは論及できない。)

 

[5] 〈逆転回〉の根拠

 

 それにしても、この「世紀末の思想問題」には、われわれがかつて尊敬し畏敬の念をいだいていた同志黒田の驚くべき変質ぶりが露呈している。反スターリン主義運動を創造した黒田の〈思想的逆転回〉と言わずしてなんと言おうか。そして、この変質の根拠は何であろうか。

 直接的には、ソ連邦の崩壊という歴史的現実に直面して、彼はうちのめされたと言わざるをえない。このことを掘りさげるためには、このことを彼の〈反スターリン主義〉の限界が露呈したものとして位置づけ、理論的に明らかにすることが必要である。だが、それと同時に、彼のこの受けとめそのものをも規定している革マル派労働者組織建設の破綻と、彼自身の展望喪失、さらに言えばプロレタリアートへの不信への転落という問題に、われわれは突き当たる。プロレタリアートへの不信は、「プロレタリア的階級性の蒸発した世紀末現代世界」というような先の規定にもそれは滲み出ていたと言える。

 この問題を考察するために、われわれは一九九二年という時点に戻ることが必要である。

 本論文が執筆された一九九二年五月は、三月一日に「春闘討論集会」が開催され、そこで中央労働者組織委員会の常任メンバーであった「土井」が報告を行ってまだほどない時期である。翌一九九三年夏になって「賃プロ魂注入主義」とか「「資本との対決」主義」とかというかたちで問題となる報告である。
 一九九三年夏になって同志黒田はその問題性を論じたのであったが、そもそも土井の報告は、――もちろん、土井に特有な諸傾向が露呈したものでもあるが――土井が同志黒田に相談し、直接的な討論にもとづいて作成されたものであった。だから「これは議長のメッセージだ!」という土井によるその報告の自賛が、組織的に通用したのであった。それだけではない。黒田は、前原茂雄に替えて、常任メンバーである若い足利を事実上の書記長の地位に据え、土井をその後見役としたうえ、足利をはじめとする常任メンバーたちに「土井に学べ」「土井に相談せよ」と指示していたのである。常任メンバーたちは、この黒田の指示に従った。
 そして土井の誤謬が問題となった際、黒田は「すべての責任は私にある」としたのであるが、その内実は明らかにはされなかった。当然にも、土井に付き従ったとされた足利をはじめとする常任メンバーたちからは「土井に学べ、と言ったではないか」という反発と憤慨が巻き起こった。少し後になって、黒田は、「あの時は、土井を採用するしかなかったのだ」と弁明にならぬ弁明をおこなったという。それを聞いた常任メンバーたちの驚きはいかほどであったか。
 明らかに、黒田は右翼組合主義的偏向に転落し、さまざまな組織問題をも発生させていた労働者組織をいかに立て直すか、ということについてどうしてよいか分からず、土井を登用してやらせるしかない、という心境に陥っていたことを自ら表明したのだからである。
 しかも、この問題に引き続いて引き起こされたのが、JR(旧国鉄)委員会の問題である。そもそも土井は、右翼組合主義の元凶はJR・松崎明である、という認識にもとづいていたのであり、土井を登用したことがJR組織の離反の伏線をなしたのである。
 それはともかく、黒田がどうしてよいかわからなくなった、ということは深刻である。黒田は「世紀末の思想問題」で、「プロレタリア的階級性の蒸発した世紀末現代世界」を嘆いたのであるが、問われたのは革マル派労働者組織の破綻を、みずからの組織指導の帰結として主体的に反省することであったはずなのである。ところが、黒田はそうは向かわなかったのであって、むしろ逆にプロレタリアートに対する失望に陥ったのだといわなければならない。プロレタリアートを革命の主体として組織する実践的立場を喪失したのである。その紋章が、さきの「プロレタリア的階級性の蒸発した世紀末現代世界」という文言である。
 そしてこのことが「ゴリ・スタ党員および軍人・KGB」や「毛沢東主義者」への期待を抱く根拠をなしたのである。あれほどまでにソ連邦の歪みと腐敗を暴きだしてきたにもかかわらず、このときの黒田はソ連邦の崩壊にある種の〝喪失〟感を抱かざるをえなかったのであろう。

 「世紀末の思想問題」をはじめ、晩期の黒田の諸論文には、かつて黒田が究明した諸成果とともに、ソ連邦の崩壊に直面した彼が新たにとらわれた諸思考・感覚とその発展した諸形態が併存し錯綜するものとなっている。みずからのプロレタリア的主体性を磨き上げることを放擲し、「黒田寛一」その人を信奉し、神格化するにまで至った「革マル主義者」は、この錯綜のうちに漂うほかあるまい。

 黒田は言う。――「だが、二十一世紀の歴史的現実こそは、十九世紀のマルクス思想が勝利することを実際にしめすにちがいない。今日におけるさまざまな価値観の相克を、透徹した理性と生きた感覚にもとづいて、グローバルかつダイナミックに分析することによって、そのことは確認されなければならない。」

 

 違うではないか、黒田よ!


 「勝利」すべきなのは、「十九世紀のマルクス思想」ではなく、二十一世紀現代においてマルクスの思想をわが身をもって受けつぎ、この歴史的現実に貫徹せんとするわれわれ反スターリン主義者であり、全世界のプロレタリアートではないのか!そしてこのことを確証しうるのは、「さまざまな価値観の相克」を「グローバルかつダイナミックに分析すること」によってではなく、現実世界のなかに依拠すべき諸契機を探し求めることによってでもなく、われわれ自身の革命的=変革的実践そのものによってではないのか!
 若き黒田寛一が熱烈に訴えた〈場所的=実践的立場〉とは、このようなものではなかったのか!

 私は、一九九三年に「世紀末の思想問題」を読んだ時には気づくことの出来なかった諸問題について、遅ればせながら気がついた。だが、私も我々も〝無駄飯〟を食ってきたわけではない。この地平は私=我々、すなわち探究派が「革マル派」中央官僚との思想闘争に傾注してきたことの成果であると言える。一挙にかつ全面的に、とは言えないまでも、「革マル派」の腐敗を暴きだし、その解体を通じて、プロレタリア革命の党を創造するために、一歩また一歩と進んできた、この地平を踏みしめ・噛みしめ、前進するのでなければならない。
 理論創造においても、組織建設においても、われわれはこの道をゆく。

  (二〇二三年五月五日 椿原清孝)