革マル派中央指導部批判第5弾  Aさんなる人物は芝田進午に依拠していた

第5弾

 【公務労働論の歪曲を二〇一二~一三年に企てたAさんという革マル派中央指導部の常任メンバーは、実は、日本共産党系のスターリニスト学者・芝田進午に依拠していた。「公務労働者は搾取されていない」という彼の言説とその基礎づけは、芝田進午の本の丸写しであった。このことをあばきだし批判した私の論文を、第5弾として、ここに掲載する。――2021年6月21日 松代秀樹】

 


 Aさんなる人物は芝田進午に依拠していた


 一 芝田進午の理論への追従とその政治的利用


 わが同志が芝田進午編著『公務労働』(一九七〇年刊)を買い、問題となる箇所をコピーしてくれた。
 これを読んで、Aさんなる人物は、芝田進午に依拠し追従しているのだ、ということがわかった。芝田は次のように書いていたからである。
 「たとえば税務関係の公務員労働者についていえば、彼らはたしかに支配階級の国家権力にやとわれており、人民から税金を収奪する業務に従事させられています。しかし、彼らの賃金はどうかといえば、経済学的には労働力の価値法則によって、どんなによくても労働力の価値だけを、実際にはそれよりもっと低く支払われています。そのかぎりでは不払い労働させられています。
 しかし彼らの労働が、人民にたいするサービスであるとはちょっといえないと思います。そういう意味では、「搾取」という言葉は少し留保せざるをえません。この点については、もっと理論的に検討する必要があるだろうと思います。」(二八頁)
 Aさんの講演は、芝田のこの部分の引き写しであった。
 Aさんが「公務労働者は」「搾取されているとは言わないほうがよい」と言ったのは、税務労働者については「「搾取」という言葉は少し留保せざるをえません」という芝田の言辞を、「公務労働者は」「剰余労働を取得される、と言わない方がよい」という同志黒田の表現を口真似して――税務労働者だけではなく公務労働者全体に妥当する規定として――改作したものだったのである。この改作は、自分は黒田に依拠しているのであって、芝田に依拠しているのではない、というように見せかけるためだったのである。
 Aさんの言う「不払い労働の取得」というのも、そのイデオロギー的内実からするならば、同志黒田の欠陥に依拠した、というよりもむしろ、芝田がここに言う「不払い労働させられています」という言葉に彼がとびついたものだ、というべきである、と今日的に私はおもう。Aさんがのべた「公務労働者は不払い労働を取得されている」ということの理由づけは、芝田がここで言う「人民から税金を収奪する業務に従事させられています」ということを「ブルジョア的共同事務の遂行」という言葉に言い換えたものなのだからである。
 すなわち、芝田が、「人民から税金を収奪する業務」は「人民にたいするサービス」というような良いものではないのだから、サービス商品を生産して売り剰余価値を得ているとはいえず、不払い労働させられているといえるだけだ、搾取されているのではない、と言ったのにたいして、Aさんは、すべての公務労働は「ブルジョア的共同事務の遂行」なのであり良いものではないのだから、国家や自治体はサービス商品を生産して売り剰余価値を得ているとはいえず、公務労働者は不払い労働をさせられているといえるだけだ、搾取されているのではない、というように、それを改作した、ということなのである。
 Aさんは、芝田進午にオルグられるまでに反スタ魂を喪失してしまったのか、あるいは、松代秀樹=笠置高男をやっつけるためには、芝田進午であろうが誰であろうが利用する、という政治主義的意欲に燃えていたのか。その両方であろう。
 同志黒田は、そのレジメで次のように言っているのである。
 「芝田(『公務労働』)「税務労働者は搾取されていない」――反撥くった。観念論なのだ。原理論的アプローチと段階論的アプローチをわけていない。段階論的アプローチの場合でも、直接的生産過程における搾取と、(これとの類推による)不払い労働の取得・収奪ということの区別がないということ。」
 同志黒田のこの展開を少しでも咀嚼するならば、芝田に依拠して「公務労働者は搾取されていない」などとしゃべることはありえないのである。ところが、Aさんは松代=笠置をやっつけたいあまりに、この黒田の論述を無視して・同志黒田が批判している相手たる芝田の側に依拠したのである。
 Aさんがこの同志黒田の論述をどのように政治的に利用したのかということをもう少し詳しく言うならば、Aさんは、この論述で同志黒田が明らかにしているところの方法論的考察を無視抹殺し、この方法論的考察から切り離して、「不払い労働の取得・収奪」という言葉だけをとりだし、この言葉を、芝田の言う「不払い労働させられています」という言辞に帰着させ、その言葉に芝田の内容を盛りこんで利用したのである。


 二 公務労働にかんするマルクスの二つのアプローチ


 Aさんや彼が依拠している芝田進午の主張をその根底からひっくりかえすためには、公務労働にかんするマルクスの論述をわれわれはどのように捉えるべきなのか、という問題を解決しなければならない。あたかもAさんや芝田の見解を基礎づけうるかのようなことをマルクスは書いているからである。
 芝田の講演の解説者である遠藤晃がそのようなものを紹介しているのである。
 「税務労働者は搾取されていない」と言った芝田の講演にたいして、それを聞いた日本共産党系の公務労働者たちは「俺たちは搾取されていないというのか」「搾取されているぞ」と、非難轟轟の声をあげた(「公務労働者は搾取されていない」と言ったAさんにたいしては、山野井論文の筆者が批判の声をあげたのであったが、その講演を聞いていた革マル派の公務労働者たちみんなも、この共産党系の公務労働者たちと同じ思いであったことであろう)。この非難と反発を抑えるために、遠藤晃はマルクスの言葉を引用したわけなのである。
 遠藤晃は言う。
 「彼〔マルクス〕の見解は公務員労働者が「他のすべての労働者と同様に自由な賃金労働者である」ことを認めた上で、「しかしこの給与制度は本質的に賃労働とは区別される」「国家は彼を賃労働者として雇うのではなく、下僕として雇う」などといっています。
 その理由としてマルクスは、「賃金の源泉が資本ではなく、国の才入」であること、その労働が「使用価値をもってはいるが、しかし交換価値をもたない労働であり、したがって、必要労働と剰余労働の区別がそもそも存在しない」(以上「経済学批判要綱」第二編)ことをあげています。」(前掲書、七二頁)
 遠藤晃は芝田進午を助けるためにマルクスのこの論述を紹介したのであったのであるが、芝田その人にとっては、このことは有難迷惑であったことであろう。芝田は、マルクスのこのような論述の断片を利用しつつも、この部分を引用することを避け、マルクスにこのような論述があることをひた隠しにしてきたのであろうからである。芝田に依拠したAさんもまた、その講演でマルクスのこの言葉を引用することができなかったのである。そのなかの「資本ではなく、国の才入〔ママ〕」というあたりだけを、Aさんは政治的に利用したのである。
 芝田にとってもAさんにとってもマルクスのこの論述が都合が悪いのは、公務労働者の労働が、ここに言うような労働であるかぎり、それは「必要労働と剰余労働の区別がそもそも存在しない」というばかりではなく、支払い労働と不払い労働の区別がそもそも存在しないのだからである。マルクスのこの論述をもってしては、公務労働者は「不払い労働させられている」ということを基礎づけることができないからなのである。マルクスのこの論述でもって公務労働者の労働を基礎づけるならば、聞いている公務労働者たちから強烈に反発されることが予測されるからである。
 もしも芝田やAさんが理論的に誠実であったとするならば陥ったであろう上のような判断停止から解放されるためには、遠藤が紹介した『経済学批判要綱』における論述と、『直接的生産過程の諸結果』や『剰余価値学説史』で明らかにされている次のような規定とでは、マルクスのアプローチの仕方が異なる、ということに気づかなければならない。古典派経済学者が論じているサービス労働にかんする規定をどのような角度からひっくりかえすのか、ということが異なるのである。
 後者では、マルクスは、「租税、つまり政府のサーヴィスなどの価格」(『諸結果』国民文庫版、一一六頁)、「サーヴィスはまた押しつけられるものでもありうる。役人のサーヴィスなど」、「欲しくもないサーヴィス(国家、租税)」(『学説史』国民文庫版第三分冊、一九一~一九二頁)などというように明らかにしているのである。
 前者すなわち遠藤が紹介した論述では、マルクスは、公務労働者と彼らを雇う国家という二実体を措定して論じているのである。これにたいして後者では、マルクスは、公務労働者(役人)と彼らを雇う国家とこの国家からサービスを押しつけられその価格を租税というかたちで支払う住民という三実体を措定して論じているのである。
 このことのもつ経済学的意味は、マルクスがくわしく論じているところの教育労働にかんする諸規定をふりかえるとよくわかる。(ここでは、生産的労働および不生産的労働という規定にかんする問題についてはふれない。)
 教師が、家庭教師として、子どもの父母によって雇われるばあいを考えよう。
 この教師は、この子どもを教えるという労働をおこなうのであり、父母はこの労働を、すなわちこの労働の有用的効果=サービスを買うのであって、その代金を父母は自分の収入のなかからこの教師に賃金として支払うのである。父母はこの教師から彼の労働力を買うのではないのである。この教師は、この父母から暖かくされるのであれこき使われるのであれ、子どもを教えてその代金を賃金として受け取る労働者ではあるが、自己の労働力を商品として売る賃労働者なのではない。彼の労働は剰余価値を生みだすことはなく、この労働にかんしては、必要労働と剰余労働との区別は存在しないのであり、支払い労働と不払い労働との区別は存在しないのである。したがって、この教師は、この父母から搾取されてはいないのである。
 教師たちが教育資本家に雇われるやいなや事態は一変する。教育資本家は、みずからの資本でもって、一方では教育諸手段を、他方では教師たちの労働力を商品として買うのであり、この教育諸手段の使用価値とともにこの労働力商品の使用価値を消費することをとおして、教育サービス商品を生産し、これを父母に売り、その子どもがそのサービスを消費するのである。このサービス商品の生産と消費は同時である。このばあいには、この労働力商品の価値の貨幣的表現がこの教師の賃金をなすのであり、彼は賃労働者である。彼の労働は剰余価値を生産するのであり、彼の労働は、彼の労働力の価値に該当する必要労働部分と剰余労働部分とに分かれるのであり、同じことであるが支払い労働部分と不払い労働部分とに分かれるのである。彼は、剰余労働=不払い労働を搾取されるのである。
 このように考察するならば、いまや明らかであろう。
 マルクスが『経済学批判要綱』でのように論じるばあいには、公務労働者と彼を雇う国家との関係を、教師と彼を雇う父母と同様の関係として措定して考察しているのである。これは、サービス労働にかんする古典派経済学者の見解を、彼らの問題意識を汲むかたちで検討するアプローチの仕方なのである。
 これにたいして、マルクスが『諸結果』や『剰余価値学説史』でのように論じるばあいには、公務労働者(役人)と彼を雇う国家と国家からサービスを押しつけられる住民との三者の関係を、教育労働者と彼を雇う教育資本家とこの資本家から教育サービス商品を買う父母という三者の関係と同様のものとして措定して考察しているのである。これは、マルクスが、自分の明らかにした剰余価値の生産にかんする理論に立脚して、サービス労働にかんする古典派経済学者の見解をその根底からひっくりかえす、というようにアプローチして解明したものなのである。
 まさにこのゆえに、われわれは、段階論のレベル・すなわち・諸資本=諸労働のレベルにおいて、公務労働・教育労働・医療労働などなどのサービス労働の諸規定を明らかにするばあいには、マルクスの後者のようなアプローチの仕方と彼がそのようにアプローチして解明したところの理論を適用すべきなのである。
 蛇足ながら、上のことは、『経済学批判要綱』においてマルクスが国家と公務労働者の関係を主人と下僕との関係と類推して論じていることからしても、明らかであろう。
 富豪が大勢の召使を雇っているとしよう。召使たちは主人たるこの富豪とその家族に家事サービスを提供するのであり、主人たる富豪は、自分の収入から支出して、召使たちに食事や小遣いなどを与えるのである。これとの類推において公務労働を論じるかぎり、国家から行政サービス商品を無理やり買わされる住民が登場してくることはないのである。このようにアプローチするかぎりでは、住民は、せいぜい、この富豪によって養われているその家族にあたるものとしてあつかわれるにすぎないのである。
 マルクスは、サービス労働にかんして、教師が父母に雇われるばあいの諸規定と、教師が教育資本家に雇われるばあいの諸規定とを、上に見たように構造的に経済学的に明らかにしているのである。このことを念頭において、マルクスが公務労働にかんして論じている種々の論述を考察するならば、われわれはそれを構造的に把握することができるのである。
 ところが、芝田進午も彼に依拠したAさんも、マルクスの経済学的解明を破壊し、破壊された断片からつまみ食い的に自分に都合の良いものだけを拾いだしてきたのである。芝田のそんな苦労をつゆ知らず、彼を助けるつもりで、彼の腐心の跡をあばきだすようなことやったのが、遠藤晃なのである。
 芝田がいろいろと区分けする国家の諸機能について、それらすべては「ブルジョア的共同事務の遂行」なんだ、とやっただけで、彼の公務労働論を丸呑みしたのが、Aさんなのである。
 政治的衝動に駆られると、ろくなことはない。反スターリン主義諸理論とその方法をかなぐり捨て、日本共産党系御用学者にひれ伏したとしても、そのことを恥じないばかりか、自分がそうなっていることを感じとることもできなくなるからである。
 公務労働論の破壊にくみした面々は、いま、どうなっているのであろうか。
         (2021年6月8日   松代秀樹)

 〔本連載は、この第5弾をもって終了です。――2021年6月21日 編集部〕