マルクス主義への怖れと憎悪 第8回 「マルクス労働論とファシズムイデオロギーとの同一性」という虚妄

 マルクス労働論とファシズムイデオロギーとの同一性」という虚妄

 

 百木は論文の一項目を「物質代謝全体主義」と題している。「最後に筆者の専門であるアーレント思想の観点からも付言しておこう」――このようにこのテーマにもっとも力をいれているのである。アーレントによる「マルクスの労働論を読み解くにあたって「物質代謝」が鍵概念となる」、となにやら自信ありげに百木は語り始めるのである。
 百木はアーレントを引用しつつ言う。
 「マルクスはかように労働を自然との物質代謝の観点から定義し、生産行為における労働と自然の一体化(合体)の契機を強調することによって人間の自由(自発性)と複数性を損なわせている。」「アーレントの定義によれば「労働(labour)」とは人間の生命維持の必然性を満たすための営みである。それゆえ、労働には人間が自由を発揮する余地はなく、それは必然性に捕らわれた強制的な営みである。」「このことはかつてのナチス・ドイツが「人間と自然の有機一体性」や「自然との共生」を掲げる非常に先進的なエコロジー思想を目指していたことと無関係ではない。」と。
 このように、百木は、マルクス労働論への憎悪を表明しながら、この労働論をファシズム思想に重ね合わせているのである。ここに、アーレントに依拠した百木の、マルクス主義とその労働論への憎悪がむき出しとなっているのであり、これはきわめて反階級的なものなのである。
 ナチスがうちだした「自然との共生」「共同体に奉仕する労働」というイデオロギー、これは「血=人種共同体」「民族共同体」の建設をめざし「土=生存圏」の確保をシンボルとする超国家主義イデオロギーなのである。
 1920年代のドイツにおいて、ブルジョアジーにたいするプロレタリアート階級闘争が激化し支配体制が危機に陥っていたという諸条件のもとで、ヒトラーナチスは小ブルジョアを軍隊的に組織化しこれを動員して、プロレタリアートの諸組織を暴力的に解体し、ファシズム統治形態をうちたてたのであった。この国家権力は、当時のドイツの金融資本を物質的基礎とする資本家階級の利害を体現したものにほかならなかった。ナチスファシズム統治形態をうちたてたその統合イデオロギーが「血と土」の超国家主義イデオロギーなのであり、まさしくそれは、虚偽のイデオロギーなのである。
 「階級闘争の克服」および「共同体に奉仕する労働」を位置づけ、「国家社会主義ドイツ労働者党」=ナチス命名したのは、このような経済的基礎と階級的基盤をもつからである。これは、支配階級たる金融資本家がプロレタリアート社会主義マルクス主義を超克するものとしてそれにふさわしい国家主義的な統合イデオロギーを必要としたからなのである。すなわち、労働者階級を国家のもとに統合するために、アーリア民族の「共同体に奉仕する労働」「土=生存圏」という欺瞞的なスローガンを掲げたわけなのだ。
 ドイツの金融資本家とその意を体したナチスがなぜ「労働を介した人間と自然の一体化」というイデオロギーをうちだしたのか。この分析を百木・アーレントはやらないのである。これを不問に付したうえで、ただ、マルクス主義の労働論とファシズムとは同一性がある、と詭弁を弄しているのである。
 百木は『資本論』の物質代謝論は「人間による自然の合理的支配」を目指したマルクスの思想である、と強調する。『資本論』において論じられている「人間と自然との物質代謝」、これをマルクス自然主義人間主義の貫徹として百木は決してうけとめることはできない。なぜならば、百木やアーレントは、人間と自然にかんして考察する場合には、人間をあらかじめ自然を超越した存在として前提し、この超越した人間が「自然を征服」する、というようにとらえるのだからである。この考え方は、近代ブルジョアジーイデオロギーそのものなのである。まさに、アーレントは、マルクスの労働論をつかもうとしても、そこで論述されているのは、労働が「物質をとらえ解体し、貪り食う」過程だ、というように解釈することしかできないのである。このような眼から、マルクスが『資本論』において「自由の王国」をつまり共同体的社会を創造する、と論じていることを見るかぎり、これに、彼女が恐れおののくのは当然のことである、といわなければならない。
 アーレント研究者を自称する百木は、いま、マルクスの諸文献のエコロジー的解釈が思想的な流行をしめしていることに危機感を募らせている。こうした思想的な流動によって、若い労働者たち・勤労者たち・学生たちが真にマルクス主義に共鳴していくこと、これを彼はもっとも怖れているのである。(おわり)
       (二〇二一年一月五日   桑名 正雄)