八代さんへ の手紙

  八代さんへ
 ○○工業地帯のど真ん中で闘い続ける八代さんとお会いし、労働運動上の直面する諸問題などについてお話を聞かせていただいて二ヶ月になりました。その際にいただいた文書(以下「八代文書」とします)について探究派として組織的に論議したことに基づいて、お伝えしたいと思います。
 まずは、プラズマ現代叢書のみならず、同志松代のブログや探究派公式ブログなどをも熱心に検討していただいたことに感謝の念を表明します。

(1)まず、「八代文書」の1ページで書かれている「自問自答」(「われわれはこの連合型の労働運動をのりこえるのであって、のりこえる対象が社共が指導するそれと代わっただけではないのか?」)についてですが、この疑問は八代さんの思考・論述の進行とともに氷解したものと理解します。「われわれがのりこえるべき運動が消滅してしまっているのが現実であり、こうしたことからわれわれは労働者階級としての労働運動を職場から創造するしかないのではないか?」との考えは、まさにわれわれがこのかん考えてきたことそのものです。

 (2)「「のりこえの立場」の規定は動労の反合理化闘争には適用できないとすることにはいささか疑問を感じます。」について。
 この点については、そもそも「動労の反合理化闘争」とされるものじたいが、松崎さん自身が実質的に組織し展開している闘争であったことをとらえておくことが重要だと思います。この点について、松崎さんと黒田さんとは相当違っていました。「民同左派」とされるもの(いわゆる「政研」)は、松崎さんが既存の伝統的左派グループの面々と彼が育てた青年部の活動家たちとを結集してつくりだした組合内左翼フラクションと言えるものであって、黒田さんは既成の民同左派フラクションに松崎さんが「加入戦術」をとっているというようにとらえていましたが、それは間違いだとわれわれは考えます。松崎さんはみずからがつくりだした左翼フラクションを実体的基礎とした組合執行部の指導者として方針を提起する、という立場にあったのだと言えます。彼自身が動労の運動を牽引したのです。当初は動労田端支部、さらには動労東京地本、動労本部というように松崎さんはその指導性を確立していったわけです。おのれ自身が創り出した階級的現実を、さらにどのように変革し労働者階級の階級的団結をいかに強化していくのか、ということが彼にとっての問題であった、と言えるでしょう。この点では両者は食い違ったままであり、この食い違いが様々な対立の根っこにあったと言っても過言ではないと思います。(この点については松代秀樹編著『松崎明黒田寛一 その挫折の深層』で論じられています。)

(3)なお、前提的に、〈O→P1 〉と〈E2→E2U〉との関係ですが、前者は革マル派の戦術の解明そのものに関すること、後者は、運動=組織論として解明された組織活動の諸形態にふまえた戦術の提起の仕方(方針提起の仕方)に関することと言えます。

(4)「八代文書」で中心的に問題としている「大幅一律賃上げ」について。
 このスローガンは党の過渡的要求を示すものと言えます。かつてのように左翼的な労働運動が確固として・広範に存在していた時には、賃金闘争そのもののなかでその担い手たちに革命的自覚を促すために提起していたわけです。八代さんが疑問をもっていたように「日本労働運動の終焉」以後には、現実性をもたないものとなってしまいました。八代さんが論じているとおりだと思います。
 私自身は、労働者として働きはじめた時期が遅く、このような問題について現実的に考えるようになったのは、ほぼ二〇〇〇年頃からですので、八代さんが「分会春闘」を牽引するようになった時期と重なります。実は、私も春闘集会などで「大幅一律賃上げ」が金科玉条のごとく叫ばれることに疑問を感じていました。実際には組合役員としてそのようなスローガンを提起しているメンバーは一人もおらず、それは現実的には内輪の集会での〝怪気炎〟以上のものではありませんでした。労働者同志たちは、それぞれに「連合」の羈絆にしばられつつも、職場の階級的現実にふまえて要求内容を工夫する、というのが実態であり、そこで苦心していたわけです。いわんや、IMF・JCの流れをくむ労働貴族が支配する八代さんの労働組合においてをや、ということでしょう。集会や紙面で呼号される「一律大幅賃上げ」は単なるお題目のようなものであったと言えると思います。しかもそのお題目を唱えることが、革命的左翼としての身の証のような意味をもっていたのであって、今日から言えばむしろ労働者の主体性喪失の一表現であったとさえ言えるのではないでしょうか。八代さんのように疑問を感じるだけの実践性・しなやかさをもっていた人が組織内で肩身の狭い思いをする、というような組織的実態をも示すものであったと思います。

(5)〈E2→E2U〉という問題ですが、「見直して良いように思えてきました」とされていますが、まさにそのことをわれわれも議論してきました。われわれは共産主義者(党員)として自らのおいてある場を変革するための指針を解明するのであって、他の場所で(しかも、実は他の誰かによって)解明された指針(基本的には機関紙上で提起される「組織的」指針)をこの場にふさわしく「具体化」するわけではない、ということです。私自身は、松代さんの提起にもとづく探究派での論議以前においてはまったく疑問をもってはいませんでしたが、言われてみると、ごく当たり前のごく自然な考えであるように思えてきます。考えていると〈コロンブスの卵〉の逸話を思い出します。それほどまでに「具体化」論に縛られていたように思います。松代さんはブログで、階級闘争論的解明とともにそれは「気がつけば当たり前のことだった」とも言っていますが、その「当たり前」に達するためには、革マル派労働者組織建設の破産をのりこえるために松崎さんの実践を主体的に考察すること、そして松代さん自ら体験した介護職場での創意的闘いを教訓化することが不可欠だったと言えます。それらの諸教訓を、探究派メンバーの職場での実践にどう活かすか、をめぐってわれわれは論議を重ね、かつ掘り下げてきたのです。

(6)この問題は、革命的実践を通じての労働者的主体性の確立という問題にもつながります。
 一九八〇年代初めに、国鉄の検修外注化阻止闘争の指針について、〈E2US〉(イー・ツー・ユー・スペシャル)という理論化がなされたことをご存じでしょうか。方針内容としては「検修外注化反対=労働強化は受け入れる」というものです。八代さんが、それまでは会社が自社で「内製」していた特定の部品を外部企業に発注するという攻撃に直面して考えた方針と同じでしょう。
 special という所以は、黒田さんによれば「〈E2〉ひいては〈革マル派の立場〉からは出てこない特別な方針」、という意味なのですが、これもおかしなことです。いったいどこから出てくるのでしょうか。あたかも〈時代〉から湧き出すかのようなアクロバット的な粉飾としか言いようがありません。

(7)「特定部品の外注化」反対闘争についてですが、八代さんが分会長として提起した「特定部品の外注化反対=当該部門の労働者の多能工化うけいれ」という方針は素晴らしいと思います。現実的には、おっしゃるように、「既成の運動ののりこえ」や「機関紙上に記載されているE2の内容をE2Uへ具体化することに悩む」というそれまでの地平を実践的には完全に乗りこえたもの、と言えるでしょう。戦術問題に関する「私の頭の働き方」「感覚」の根底的転換をかちとった、というのは、まさにその通り、ですね。
 国鉄の「分割・民営化」との闘い方に関する記憶がよみがえってきた、とのことですが、八代さんが考えた方針は国鉄の検修外注化阻止闘争や基地統廃合反対闘争(北海道)に際して松崎さんが考えた、現実的という意味で革命的な、指針と同じ意義をもつものと、私は思います。八代さんを裏切り者であるかのように非難した当該産別の他のRF(革命的フラクションの)メンバーたちは、これもまたお題目と化した「合理化絶対反対」にとらわれていたわけですね。彼らがその後、資本の諸攻撃に対応不能となり、多くが脱落していったことも宜なるかな、でしょう。

(8)上の転換を、八代さんは「私の頭は本部弾劾型から現場労働者の利害優先型に切り替わりました」としていますね。松代さんの「階級闘争論的立場」と合い覆うものです。この点について八代さんは「私の姿勢転換前のいわゆる本部弾劾型運動の誤りの根拠を、「のりこえの立場」、「のりこえの論理」に求めることはできず、むしろ私の理解の偏りに負うところが多いと思います。」としていますが、これはかなり無理のある反省だと思います。むしろ、ベトナム戦争反対闘争をめぐる論争を通じて理論化された「のりこえの論理」や、『組織論序説』の段階で打ち出されていた「反幹部闘争をつうじての革命的労働者組織づくり」という伝統的な考え方にしばられた発想だったのではないでしょうか。これは動労の9.20闘争をめぐる松崎さんと黒田さんとの対立の根拠にもかかわる大きな問題だと言えるわけです。革マル派労働者組織の労働運動へのとりくみにおける、いわば〈鬼門〉となった普遍的な問題だと思います。今まさに、われわれが――ともに!――のりこえつつあるのです!

(9)「反幹部闘争主義」の問題は、二〇一〇年代中盤以降の革マル派内部でのわれわれ(その後、探究派を結成したメンバーたち)の楡闘争をめぐる理論闘争の反省論議を通じて考察されてきました。『コロナ危機との闘い』の九九頁以下の「B 「ダラ幹」をでっちあげての反幹部闘争の展開」をご覧下さい。二〇〇〇年頃、ある組合の闘いを指導した常任メンバーの誤謬が多大な組織的損失をもたらした件です。当時、その立て直しのために現地に行ったのが、松代さんでした。上掲書での論述の内容はそのときの教訓を今日的に論じたものです。当時、この問題は組織的には掘り下げ、普遍化されなかったのであって、禍根を残したと言えます。「反幹部闘争をつうじての労働者組織づくり」は、黒田さんの労働者組織づくりのいわば〝プロトタイプ〟であったことからしても、組織的論議が難しかったことは事実でしょう。
〔 なお、楡闘争での(今日から言えば)革マル派中央官僚の発想は、〈反幹部闘争主義〉と〈裁判所依存主義〉とを接合したようなものでした。私は当時、私が学んできた過去の誤謬の諸規定では説明できないグロテスクな偏向だと思ったのですが、その謎は自力では解けず、松代さんと合流した後の論議でようやく気づかされました。〕

 私は、企業別労働組合での活動経験が浅く、八代さんの理論展開を十分理解できていないこともあろうかと思いますが、八代さんの諸論点について、組織的論議にもとづいて書いてきました。足りないところ、疑問を感じることについては、また手紙でお知らせ下さい。

    二〇二三年八月二六日 潮来一郎