ボルディガと統一戦線戦術

(1) ボルディガのコミンテルンへの面従腹背

 1921年1月リヴォルノで開かれたイタリア社会党(PSI)第17回大会において、ボルディガらの棄権派、グラムシらのオルディネ・ヌオーヴォ派および最大限綱領派(マッシマリスタ)左派は党を割り、イタリア共産党PCI)を結成した。その際に執行部の多数を占めたのは、すでに1919年からPSIの中に全国的なフラクションをつくりだしていたボルディガ派であった。
 一方レーニンは、ロシア革命にヨーロッパ各国でのプロレタリア革命が続くという展望を改め、これにもとづいて1921年6月のコミンテルン第3回大会では、「労働者階級の多数者を獲得」するために「共産党は、労働組合におけるその影響力を全面的に行使し、他の労働者政党への圧力を増大させることによって、プロレタリアートの直接的な利益のための共同闘争をかき立てなければならない」(コミンテルン第3回大会「戦術にかんするテーゼ」『コミンテルン資料集第1巻』大月書店433~434頁)とされた。統一戦線戦術への転換である。これは諸政党が意見の相違にかかわらず共同行動をすべきものとして、1922年1月に定式化される。「プロレタリアートに支持される政党が、プロレタリアートの当面の緊急要求のために共同闘争を敢行する熱意をもっているかぎり、これらの諸党間の相違点は度外視して、諸党のすべてが統一戦線を結成することが、現下の情勢から要求されている。」(「統一戦線にかんする共産主義インターナショナル執行委員会・赤色労働組合インターナショナルの宣言」、河野穣『イタリア共産党史』新評論48頁より重引)
 ボルディガはコミンテルン第3回大会を受け、1921年10月の論文において、一方では「共産党は、現時点で、プロレタリアート統一の必要性と支配階級の経済的・政治的攻勢に対抗する必要性からプロレタリア統一戦線の提案を支持する」とコミンテルンの統一戦線戦術の指示を受け入れると表明しつつ、他方では「労働組合の統一と統一戦線」を「プロレタリア政党のブロックや諸政党との妥協と取り違えることは重大な誤解である」と本音をつづったのである(ボルディガ「統一戦線」1921年10月28日イル・コムニスタ)。 
 さらに、統一戦線戦術をコミンテルンがアピールした直後の1922年3月にローマで開催されたイタリア共産党第2回大会で提案されたローマテーゼ、ボルディガとテルラチーニが書いた戦術にかんするテーゼでは、統一戦線を労働組合場面に限定し、他の政党との政党間の同盟を否定する。
 「労働組合統一戦線は労働者階級全体の共同行動の可能性を提供する」(ボルディガ、テルラチーニ「ローマテーゼ、戦術にかんするテーゼ」36、1922年1月30日)。だから、「共産党労働組合の場面でのプロレタリアートの統一戦線の実現を呼び起こすだろう。同時に社会民主主義政党への同盟の提案を避けるだけでなく、かれらは労働者の当面の利益さえも裏切っていると宣言するだろう」。そして、社会民主主義者やサンディカリストアナキストの政党が労働組合の統一戦線を拒否する場合には、かれらの労働者への影響力を破壊するために諸政党の指導者が統一戦線を拒否したことを共産党は利用するのだ、とボルディガらはいうのである(同上、「戦術にかんするテーゼ」40)。
 このようなボルディガらの対応について、コミンテルンは、イタリア共産党中央委員会あてのトロツキー執筆によるコミンテルン執行委員会幹部会名の文書で批判した。「イタリア共産党中央委員会は、第36項において意識的にコミンテルンのテーゼに対抗して労働組合の統一戦線を擁護しながら、共産党の代表者と社会民主党の代表者とが一緒に入るような、闘争と宣伝の指導委員会を形成することには反対している。」しかし、「共産党には他の労働者政党とともにプロレタリアートの利益のための闘争を遂行する義務があるのだから、共同戦線の結成をそれらの諸党に迫らなければならない。こうしてはじめて共産党は、これらの諸党が闘争を恐れて統一戦線に参加するのを拒否した場合に、これらの諸党を暴露する可能性を得るのである。」(トロツキー「ローマテーゼについて」1922年3月)
 統一戦線戦術に否定的であり統一戦線を労働組合のそれに限定したボルディガらの党執行部は、だからといって積極的に労働組合の共同闘争を呼びかけたわけではなかった。1920年9月の工場占拠闘争の敗北後、ファシストによる労働者組織への攻撃が激化するなかで結成された統一戦線とよびうるものには、1921年に各地で組織された反ファシズム武装組織である人民突撃隊(アルディティ・デル・ポポロ)と1922年7月に諸労働組合が連合した労働同盟(アリアンツア・デル・ラヴォロ)がある。しかし、ボルディガは、前者について「社会民主主義的な似非反ファシズムの裏切り」(ボルディガ「プロレタリア防衛」1922年3月4日イル・コムニスタ)の危険を理由に党員の参加を禁止した。また、アナルコサンディカリスト系の鉄道組合のイニシアティブで成立した後者についても共産党は組織的取り組みをおこなわず、8月の全国ゼネストの失敗とファシストの攻撃によってそれが崩壊するのを座視したのである。トロツキー1921年から1922年のイタリア共産党を「ファシズムがどれぐらい危険であるかを理解せず、革命的幻想を抱いて、統一戦線戦術に断固として反対していた。要するに、イタリア共産党はあらゆる左翼小児病にかかっていた。」(トロツキー『次は何か』第7章イタリアの経験の教訓)と評している。 

(2) 統一戦線戦術をめぐる問題点

① 統一戦線をだれに呼びかけるのか

 上述のように、コミンテルンの統一戦線戦術は1922年1月1日づけの「宣言」において、「プロレタリアートに支持されるすべての政党の統一戦線」を結成することが現情勢によって要求されているのだと定式化した。そしてコミンテルン執行委員会は「すべての党のプロレタリアートに対して」、その所属する党に共同行動を受け入れさせるために全力をあげることを呼びかけたのであった。
 だが、このような定式化に問題はなかったか。相違点をのりこえて共同闘争を追求するという統一戦線の目的は理解できる。しかし、統一戦線を呼びかけるのも呼びかけられるのも諸政党であり、ファシストによる物理的攻撃から労働者を防衛するための大衆団体や賃金引き下げや首切り攻撃を粉砕するための労働組合などが統一戦線の主体とされているわけではないのである。言い換えれば、コミンテルンのいう統一戦線は共産党のイニシアティブのもとでのプロレタリア諸政党間のブロックであり、これでは相違点の克服も共同闘争の拡がりもはじめから限界づけられよう。実際コミンテルンの提案を受けたイタリア共産党のボルディガ執行部の反応、政党のブロックを拒否するというそれは、この問題点をついたものであったといえる。
この時点でのイタリア共産党(ボルディガ)とコミンテルントロツキー)の主張においては、統一戦線を、共産党が他の諸政党に呼びかけるものとして理解する、という点では対立はない。ただし、トロツキーは10年後には、「党は大衆だけに呼びかけるのではなく、大衆によってその指導権が承認されている組織にも呼びかけを行う」(『次は何か』)というように、呼びかけの主な対象を「大衆」に変えている。また、レーニンも、ソヴィエトを樹立したあとでは「メンシェヴィキエス・エルのような党に呼びかけることを、統一戦線が要求するようなことはありえなくなる。」ソヴィエト権力のもとでは諸政党に呼びかけるのではなく労働者大衆に影響力を拡大するのだ、とする。(レーニンロシア共産党(ボ)のコミンテルン派遣代表団の活動報告についての決議案への提案」『レーニン全集第42巻』大月書店571~572頁)
 実際、党が他の労働者党に統一戦線を呼びかけることをとおして、各党の代表者からなる「指導委員会」とか「扇動委員会」という党派横断的な執行機関をつくるというのは非現実的ではないだろうか。私はいま、自分が学生戦線にいた当時のことを思い出す。党派活動家が他党派活動家に一緒に学費値上げ反対の闘争機関をつくろうと提案しても、だれがおまえらなんかと一緒にやるか、そんなことしたらおれたちが潰されるだけだ、と拒絶されるに決まっていた。だから、統一戦線の呼びかけは党派から党派へではなく、労働組合に所属する党員の労働組合員としての活動を通じて、労働者団体から他の労働者団体とその成員へ呼びかけるのが適切だと考える。

② 統一戦線は「改良主義を暴露するためのマヌーバー」なのか

 統一戦線を他の諸政党に呼びかけることをとおして、それらの政党から統一戦線への参加の拒否を引き出し、そのことをもって諸政党の指導部の反プロレタリア性を暴露し、かれらの影響下にあった労働者の多数を獲得するという「組織戦術」は、何もボルディガやトロツキーだけではなく、ボルディガらを執行部から排除したあとのグラムシとトリアッティによる1926年のリヨンテーゼにも、より緻密化したかたちで受け継がれている。「党は、勤労者大衆が集まっているすべての組織に入りこみ、……労働組合とすべての大衆団体のなかでフラクションを組織」し「大衆的基礎をもつ、プロレタリア的革命的と自称する党と集団の仮面をあばく使命」をもつような「統一戦線戦術」を展開するのだ、と(リヨンテーゼ34~44『グラムシ問題別選集4ファシズム共産主義』現代の理論社256~266頁)。
そしてこれらの原型は、統一戦線戦術への転換を主導したコミンテルン第3回大会のレーニンジノヴィエフにもとめられる。レーニンは「統一戦線戦術はわれわれが第二および第二半インターナショナルの指導者たちを打ち倒す助けになる」といい、ジノヴィエフは統一戦線戦術を「極めてデリケートなマヌーバー」と形容したという。(五十嵐仁「コミンテルン初期における統一戦線政策の形成」法政大学社会学部学会『社会労働研究』24巻1-2号)
もちろん、統一戦線を結成する過程において、われわれは、改良主義者を断固として批判するとともにフラクション活動を縦横に展開するというかたちでのイデオロギー的=組織的たたかいに取り組むのであるが、このたたかいはファシストの襲撃を粉砕するといった統一戦線の直接的な目的を達成することとの統一においてなされなければならない。ファシストからの襲撃と権力の弾圧で緊迫した当時のイタリアの情勢のもとでは、、マヌーバー戦術をうんぬんできるような余裕はなかったであろう。それでも、確認しよう。われわれは統一戦線を結成するたたかいに組織戦術を貫徹するのだが、それは改良主義者をわなにはめることではない。

(3) 宙に浮いたソヴィエト:ボルディガ革命論の問題性

①     統一戦線とソヴィエトの切断

 再度統一戦線をめぐるコミンテルンとボルディガの対立について、何が問題なのか考えなければならない。党が主体となって他の党との同盟ないし連合体として統一戦線を結成する場合、あるいは党派的に分断されていた諸労働団体が党からの呼びかけのもとに組織的に提携する場合、そのような統一戦線をいかにして「統一戦線の最高の形態」(トロツキー)たる労働者評議会(ソヴィエト)へ発展させうるのかが問われよう。にもかかわらず、ボルディガは統一戦線とソヴィエトの関係に無頓着にみえる。たとえば、ボルディガらは1921年2月に党中央委員会名で出した武装蜂起の計画にかんする回覧文書のなかで、他党派系の団体とも「教義上の分裂をこえて行動上の統一戦線をはる」(1921年2月回覧文書06「実践的指示」)と書いていながら、それと全く無関係にブルジョア議会の解散と中央ソヴィエトの展望を同じ文書のなかで論じているのである。ボルディガらには統一戦線戦術によってつくりだした統一戦線をソヴィエトに発展させるという問題意識はないのである。そのようになる根拠は、ボルディガにとってソヴィエトは工場評議会などを通じて下から積み上げるかたちで、組織されるものではなく、地区ソヴィエトとして直接形成されるものと考えられていることにある。かれは「プロレタリア権力は工場評議会や工場委員会を経由することなく、町や国の自治体ソヴィエトの内部で直接形成される」(ボルディガ「イタリアにおける労働者評議会の設立に向けて」イル・ソヴィエト1920年1~2月)とする。そのモデルとなっているのは、1917年のロシア2月革命で帝政が崩壊した直後に国会議員らによる選挙で組織された臨時ソヴィエト執行委員会なのである。そこでは、先に中央ソヴィエトがつくられ、後から各地の地区ソヴィエトが組織されたのであった。

② ソヴィエトの位置づけ

 ボルディガは、ジノヴィエフやニッコリーニにならって、「労働者、農民および兵士の評議会であるソヴィエトはブルジョア国家権力打倒後の権力行使においてプロレタリアートの代表がとる形態」とし、それは本質的に革命闘争の機関ではないという。だから、ブルジョア国家権力がつづいているあいだ、勝利したプロレタリアートの国家機関であるソヴィエトがプロレタリアートの革命闘争の機関となりうるのは、それが「党が遂行する革命闘争にとって適切な領域」を形成する「特定の段階」に限られるのである。(ボルディガ前掲論文) その特定の段階とは「ブルジョア国家権力が深刻な危機に陥り、プロレタリアートの間に権力を掌握する傾向が広まっている」段階である。(「PSIの共産主義棄権派のCCが提案した労働者評議会の設立にかんする論文」 1920年4月11日イル・ソヴィエト)
 ボルディガは「ブルジョア権力が存在する限り、革命闘争の機関は階級政党である。」そして、ソヴィエトは「革命の形式であって、原因ではない。」(ボルディガ前掲論文)という。ソヴィエトはかならずしもプロレタリア革命闘争の実体的基礎をなすわけではなく、主客の諸条件次第で革命闘争の機関たる党が利用しうる場合もあるということになる。
 ボルディガもプロレタリアートが党を手段として革命を成し遂げるといっているのであるからして、革命闘争の機関は党であるということが、革命の主体が党であるということを意味しているわけではない。問題はあくまでかれによるソヴィエトの位置づけである。ボルディガがイメージするソヴィエトは、条件しだいで革命闘争の機関になったりする<たまたまソヴィエト>であり、あまりに軽いのだ。
 われわれにとって、ソヴィエトは革命の主体であるプロレタリアートが自己を階級として組織した形態であり、到達点であって、それはまさに革命闘争の機関として、前衛党の指導をもとにみずからをプロレタリアート独裁権力にたかめるのである。プロレタリアートの階級的自己組織化の終着点であるソヴィエトは、工場評議会や産別評議会、地区ソヴィエトや都市ソヴィエトの組織化に裏付けられるのであり、ブルジョア権力崩壊の際にたまたまブルジョア議会の議員であった労働者たちによって執行委員会が選ばれるようなものではないし、あるいはレーニンが1905年のペテルブルグソヴィエトについて論じたような、ボリシェヴィキメンシェヴィキエス・エルの3党派の連合による「戦闘組織」でもありえない。
 ボルディガにとっては、ソヴィエトの組織化は革命闘争にとって不可欠の条件ではなく、プロレタリアが権力を奪取することこそが問題なのである。もちろんプロレタリアート独裁権力樹立後には、その執行機関としてソヴィエトは設立されることになるのだが。かれは1970年のインタヴューで1920年の工場占拠闘争の際、「ゼネスト宣言後にプロレタリアートの政治的独裁を達成できる総反乱を扇動するために労働者部隊は州庁舎や警察本部を攻撃すべきであった。」と語った。かれにとって革命は、ゼネスト→党による武装蜂起であり、ソヴィエトは偶然的要素にすぎないのである。

②     ソヴィエト結成の時期はいつか

 イタリアで階級闘争がもっとも高揚した「赤い二年間」のさなかの1920年1月、イタリア社会党全国評議会において、最大限綱領派のボンバッチは「イタリアにおけるソヴィエト設立の計画」(ボンバッチプロジェクト)を発表した。これをきっかけにPSIのなかで活発な論争がまきおこったのである。ボンバッチ、ジェンナーリらの最大限綱領派は革命闘争の機関としてソヴィエトの即時設立を主張し、オルディネ・ヌオーボ派のグラムシ、トリアッティらは工場評議会をソヴィエトの萌芽としておしだした。これら2派に対して、ソヴィエトの即時設立を否定し、ブルジョア国家権力打倒前の工場評議会がソヴィエトたりえないことを論じたのが棄権派のボルディガ、およびコミンテルンからイタリアに派遣されていたニッコリーニである。
 (註)これらの諸論文はイタリアの研究者スティーブン・フォルティの論文「すべての権力をソヴィエトに!赤い二年間のイタリア社会主義におけるソヴィエト設立にかんする議論:諸文書の批判的読解」のなかに収録されている。https://storicamente.org/sites/default/images/articles/media/804/forti.pdf
ボンバッチについて補足する。イタリア共産党結成とともに中央委員となったが、のちに除名されムッソリーニに接近。最後はムッソリーニらとともに銃殺された。
 論争の中心点は、プロレタリア革命が先か、ソヴィエト設立が先かであった。したがって、問題は、ソヴィエトを革命闘争の機関として位置付けるか否かということでもあった。革命闘争の機関は階級政党であり、ソヴィエトは本質的に革命闘争の機関ではなく、条件によっては革命闘争にかかわりうるとするボルディガは、ソヴィエトの即時設立を否定し、その設立はブルジョア国家権力が崩壊する瞬間とする。例外的に革命前にソヴィエトが組織される場合について、「労働者評議会はプロレタリアの反乱の瞬間に生じるが、ブルジョアジーの権力が深刻な危機と歴史認識を経験し、権力を掌握する傾向がプロレタリアに広まっている歴史的瞬間にも生じる可能性がある」(「PSIの共産主義棄権派のCCが提案した労働者評議会の設立にかんする論文」1920年4月11日イル・ソヴィエト)。いいかえると、ソヴィエトは武装蜂起によるブルジョア国家権力打倒の瞬間に組織されるが、革命情勢においても生じうるということである。(「生じる」という語は、プロレタリアートによるソヴィエトの主体的な目的意識的組織化にふさわしくないが、Google翻訳のせいかもしれない。)だから、ボルディガらにとっては、「革命の問題は評議会の正式な設立にあるのではなく、政治権力が評議会の手に渡されることにある」(同上)。
 コミンテルン1920年にソヴィエト設立の前提条件として3項目をあげている。第一に「労働者男女、兵士、勤労者一般の最も広い範囲における革命的高揚」、第二に「権力が既存の政府の手から滑り落ち始めるような経済的および政治的危機の激化」、第三に「党によって組織されたプロレタリアートにおいて、断固とした組織的かつ計画的な革命闘争に取り組むという決意が成熟していること」である(「労働者評議会の設立条件にかんする第3インターナショナルの論文」1920年国際社会主義)。ボルディガとニッコリーニもこの見解に依拠しているようである。武装蜂起の前後の幅はあるが、ソヴィエトの組織化は革命情勢であることを条件になされる。「革命がなければソヴィエトは不可能である。プロレタリア革命のないソヴィエトは必然的にソヴィエトのパロディになる。」(同上)

③     職場評議会とソヴィエト

 われわれは、ボルディガにあっては切断されたままになっている統一戦線とソヴィエトをつなげるかたちで理論的に解明しなければならない。では、われわれは、「革命情勢ないし前革命情勢における前衛党の組織的闘いをつうじてのソヴィエトの創造とこのソヴィエトを主体としての革命闘争の主体的推進構造」(葉室真郷「革命実践論としての革命理論」『スターリン主義の超克2』こぶし書房55頁)をどのように解明すべきか。「わが前衛党は統一戦線戦術の適用によって革命的統一戦線を創出することを基礎として、革命情勢が成熟するという条件のもとでは、創出されている統一戦線を基礎にしつつ現存ブルジョア国家を打倒するための革命組織=ソヴィエトを広範かつ強固につくりだすためにたたかう」(同上)のである。
 トロツキーは1931年に「工場委員会は、労働者階級の統一戦線を実現している。……工場委員会のある都市全体の中央機関は、十分に都市ソヴィエトとしての役割を果たすことができる。」(トロツキー「生産の労働者統制について」1931年8月)と、統一戦線(工場委員会)とソヴィエトの有機的結合を論じた。さらにトロツキーは、ソヴィエトが革命闘争の機関になりうるという。「ブルジョア国家の瓦解がプロレタリア革命よりずっと前に生じるなら、そしてファシズムが、プロレタリアートの蜂起以前に崩壊ないし瓦解するとしたら、その場合には、権力闘争の機関としてのソヴィエトが結成される条件が形成されることになるだろう。」(同上) 権力の空白状態が生まれた場合は、プロレタリアートはただちにソヴィエトを組織し、ソヴィエトがブルジョア国家権力の残党およびファシストの予備軍による反革命を粉砕しなければならないのである。
 (註)同じパラグラフのなかで、トロツキーは、ブルジョア国家権力の崩壊という条件をあらかじめ考慮に入れることは不可能だから、「工場委員会を通じる道の方が、ソヴィエトを通じた道よりも、はるかに実現の可能性がある」(同上)と論じている。この展開はおもしろい。「ソヴィエトを通じた道」という場合のソヴィエトは、工場委員会は創造されずに、居住区である地区の労働者たちがその代議員を選出して創造される地区ソヴィエトをさす、と考えることができる。

 革命情勢における最初の統一戦線は職場評議会である。そして、統一戦線たる職場評議会を基底として、われわれはソヴィエトを創造する。その場合、ソヴィエトの創造と切り離されそれの基底にはならなかった1917年ロシア革命時の工場委員会、ソヴィエトの萌芽と位置付けられながらも国家権力を奪取する闘争から相対的に自立化されるかたちで闘われたグラムシらの工場評議会、それらに相当する職場評議会をソヴィエトの基底をなすものとしてわれわれは創造するのである。われわれは、それによる工場(職場)の生産諸手段の経営者からの奪取と生産の労働者による管理を、プロレタリア国家権力の樹立との統一において実現するのである。
 われわれは、ソヴィエトの基底たる職場評議会を、「すでにつくりだし強化してきている、党細胞と革命的フラクションおよび左翼フラクションを実体的基礎として」(北井信弘「二一世紀現代においてプロレタリア革命を実現するために」『コロナ危機、これとどう闘うか』創造ブックス263頁)創造するのである。そして、われわれがイニシアティブをとるかたちで、地区の産業別ソヴィエトの代議員および地区ソヴィエトの代議員を選出する。
 これら諸点のより具体的な解明は、すでに「グラムシとボルディガの対立をどのように止揚すべきなのか」(「北井信弘のブログ」2023年7月11日)でなされている。
 ここから先は稿を改めなければならない。
  (2023年8月5日 山尾行平)