〈分離ののちの結合〉——その理念と現実 (「民族自決」原理をのりこえるために)ーー『新世紀』322号・早瀬論文批判 (下)その2

 レーニンは〈分離ののちの結合〉論を打ち出すことによって、『共産党宣言』の精神をロシアの特殊的現実へと彼なりの仕方で貫徹させた。ここで「ロシア」と簡単に書いたけれども、ロシア帝国の「支配民族」たる、いわゆる「大ロシア人」は帝国人口全体の半分にも満たず、その他には100を超える数のエスニック集団がいる。これらが統合されないままそれぞれ独立した言語集団・部族集団の形を残しているのは、ツァーリの統治する「帝国」が、皇帝権力の軍事的支配と、それに服従する「公国」等の小支配階級による忠誠関係によって成立していたからである。これは近代以後の国民国家と大きく異なるところであって、「資本主義の最高発展段階としての帝国主義」ではないところの旧来型「帝国」は、支配階級の特殊利害を「帝国臣民」の一般的利害として妥当させる場合に、言語・文化・歴史的経験等々の共通性を不可欠な条件とするわけではない。「諸国民の春」とも呼ばれる1848年の直前にマルクスエンゲルスが、プロレタリアートの闘争は「内容上ではないにせよ、形式からすれば、さしあたり一国的」だと述べた際、二人が念頭に置いていたのは西ヨーロッパにおいて成立しつつある近代ブルジョア国家=ネイション・ステイトなのであり、後進国たる帝政ロシアではなかった。まさしくここに、レーニンが対決を迫られた問題がある。すなわち、ペトログラードとモスクワを中心に実現したプロレタリア革命を、旧帝政が支配したロシア以外の地域へと如何なる仕方で波及させてゆくのかが問われたのだ。では、レーニンの具体的な実践とは如何なるものであったのか。
 1917年、十月革命の渦中において労働者・兵士代表ソヴィエト第二回全ロシア大会は、第一次世界大戦の全交戦国に対して「平和に関する布告」を発表した。「富強な諸民族がその略奪した弱い民族を自分たちのあいだでどのように分けあうかということをめぐるこの戦争をつづけることを、政府は人類にたいする最大の犯罪と考え、例外なくすべての民族にとってひとしく公正な上記の条件〔「無賠償・無併合・民族自決」のこと——浜中〕にもとづいてこの戦争をやめる、そういう講和の協定に即時調印する用意があることを、厳粛に声明する」(『レーニン全集』第二六巻、250頁)。植民地の争奪をめぐる世界戦争を終わらせるために、レーニンはこの布告によって、英・仏・独のプロレタリアートが自国の帝国主義国家権力を打倒するべきことを訴えた。そしてこの呼びかけは当然にも、旧帝政ロシア領土内において「大ロシア人ブルジョアジー」に抑圧されてきた諸「民族」に向けられなければならない。
 その場合、ひとつの問題が浮き彫りとなる。すなわち、もはや帝政のない「大ロシア」からの分離=新たな国民国家の樹立を承認するとは、分離独立する諸民族が革命政府から訣別してブルジョア国家を創設することの容認を意味している。たしかに、社会主義建設へ向けた過渡期国家の諸制度は、ロシアのプロレタリアートが旧帝政ロシアの「支配民族」たるの地位を自ら否定しないままで辺境地域へと持ち込まれるべきではない。そのようなやり方は、一切の支配と抑圧の廃棄を本質とするプロレタリア革命そのものと矛盾するからである。だが、プロレタリア革命からの自由な分離を認めることは、この分離した地域を反革命の側へと譲り渡してしまう危険を孕む。レーニンはこのジレンマを、「ウクライナ人民への宣言とウクライナ・ラーダにたいする最後の通牒的要求」と題した文書(1917年12月)において率直に表明している。

社会主義のためにたたかううえでの、労働者と勤労被搾取大衆の統一と兄弟的な同盟の利益から出発して、また革命的民主主義派の諸機関、すなわちソヴェトの、とくに第二回全ロシア・ソヴェト大会の、多くの決定がこの原則をみとめていることから出発して、ロシアの社会主義政府すなわち人民委員会議は、ロシアから分離する権利をふくめた自決権を、ツァーリズムと大ロシア人ブルジョアジーに抑圧されてきたすべての民族にあたえることを、もういちど確認する」(同370頁)
「[…中略…]ラーダは、ソヴェト権力にたいするカデット=カレーヂン派の陰謀と反乱を支持している。ラーダは[……]勤労カザック人の圧倒的多数の利益と要求にそむくカレーヂン派の反革命的行動を庇護し、カレーヂンに反対の軍隊には、領土の通過を拒否しながら、カレーヂン側へいく軍隊には通過をゆるしている。/革命を、このように前代未聞の仕方で裏切る道に立つことによって、またロシアの諸民族の民族独立とソヴェト権力との最悪の敵を支持し、勤労被搾取大衆の敵、カデットとカレーヂン派を支持する道に立つことによって、ラーダは、ラーダにたいしてためらうことなく宣戦を布告することを、われわれによぎなくさせるであろう——たとえ、すでにラーダが、最高の国家権力機関、独立のウクライナブルジョア共和国の完全に正式にみとめられた、争う余地のない機関になっているにしても、そうである」(同371頁)

 このようにレーニンは、ウクライナ・中央ラーダが革命ロシアへの敵対をやめて国家的独立を維持するのか、それとも反革命の側にまわることで赤軍によって打倒される運命を甘受するのか、この二者択一を迫っているのだ。とは言え、この「最後的通牒」は決して、レーニンにとって民族自決の理念が単なる空語だったことを意味しない。
 彼はあくまで、「ウクライナブルジョア共和国」が〈ロシアから分離する権利をふくめた自決権〉の行使の結果であることを認めている。ロシア二月革命の直後に結成されていた中央ラーダが、17年11月20日の「第三ウニヴェルサール(声明)」において「ウクライナ人民共和国」建国を決めたこと、これ自体がすでに、十月革命に反対しソヴィエト権力に対抗することの公然たる宣言だった。このことを承知の上でレーニンは、〈ロシアから分離する権利をふくめた自決権〉の原則に基づいて、ラーダが「ウクライナ人民共和国」の最高機関であることを承認したのである。後述するように、レーニンのこの構えはフィンランドの独立に関しても同じである。
 しかし、この人民共和国が反ソヴィエトのカデットと連携し、後にはデニーキン一派の白軍の拠点となるに及んで、レーニンはこの国家を粉砕することに決めた。つまり、〈分離ののちの結合〉論が実践的に破産したことを自覚することなく、したがって明確に区切りをつけないままでレーニンは大胆に姿勢転換し、〈ロシアから分離する権利をふくめた自決権〉を大幅に制限して実質的には否定したのである。
 ちなみに「革マル派」中央官僚・早瀬は能天気にも、「ウクライナの人民(エスニシティ)は、レーニンボルシェヴィキに導かれた一九一七年のロシア・プロレタリア革命の勝利的完遂に励まされ・それを助力として、初めてみずからの「民族独立」をたたかいとったのであった」などと書いているが(『新世紀』322号、102頁)、そんな綺麗事では全くなかったのだ。各民族が革命ロシアからの分離を「自決」してブルジョア共和国を建設するよう促したことは、結果的に、それぞれの民族ブルジョアジー反革命の好機を与えてしまった。これはローザ・ルクセンブルクが厳しく批判していた通りであって(注1)、レーニンは結局のところこの危機を軍事的に解決する以外なかったのである。ラーダに対する赤軍の勝利後に創設された「ウクライナ社会主義ソヴィエト共和国」は事実上ボリシェヴィキ党が“上から”つくりだした政治体であるのに、「革マル派」早瀬がこれを以って「ウクライナ人民は、プロレタリア革命をつうじて、同時に「民族独立」を勝ちとった」などと書くのは、もはや歴史偽造の域に達している。
 ともかく、革命ロシアからの分離独立を「自決権」として認めたことは、ブルジョアジーに対する大幅な譲歩政策を導いたものとして、様々な現実的混乱を引き起こす要因となった。レーニンが〈ロシアから分離する権利をふくめた自決権〉に固執したさしあたっての理由は、彼が常に、「大ロシア人」プロレタリアートの「支配民族」的振る舞いを警戒していたからである。しかし、これまで抑圧されてきた諸民族に対して自己解放を呼びかけるのであれば、ロシア・ソヴィエトに対する各地域ソヴィエトの対等な地位を制度的に保障すればよいだけのことである。諸民族が既に反革命勢力の拠点になっているのであれば、赤軍がこれを撃退した後に、各地域の労働者・農民自身によるソヴィエトの組織化を支援することが必要である。そのような具体的措置の次元を超えて、レーニンがあれほどまでに〈分離ののちの結合〉を一般的原則とすることにこだわった根本的な理由はやはり、「四月テーゼ」の転換後も彼の内に根深く残っていた二段階革命論的な思考、これを抜きにしては考えられない。旧帝政ロシア支配下にあった各民族集団が、ブルジョア民主主義共和国の創設そして資本制生産の発展を経て、その後はじめてソヴィエト権力に結集する——レーニンはこう考えていたのではなかったか。しかしそれこそが、革命ロシアの民族政策に混乱をもたらしている。
 ここでもう一つ、レーニンが実践的に対決した問題として、フィンランドに目を転じてみよう。かつてスウェーデン王国に属していたこの国が、度重なる戦争の末にロシア帝国へと併合されたのは19世紀初頭のことである。西欧諸国がペトログラードに製品を輸出するための中継地だったこともあり、ヘルシンキを中心とする南部は工業地帯として発展した。民族資本家階級が次第に形成されていく中で、フィンランド人たちはヨーロッパ全土での「諸国民の春」に感化され、ロシア語使用を強制するツァーリ権力に対する強烈な反抗心——フィンランド語は印欧語の話者からすると「悪魔の言語」と呼ばれるほど言語構造が異なっている——を抱いてきたのである。1917年、十月革命を達成したボリシェヴィキが旧帝政ロシア領内の諸民族に対して自決権を認めたことを受け、フィンランド議会は同年12月に独立宣言を発した。この時点で革命ロシアの民族問題担当人民委員だったスターリンは、〈ロシアから分離する権利をふくめた自決権〉テーゼの意味を彼なりに理解し、あからさまな二段階革命論で説いてみせる。

フィンランドが独立を得た状況を綿密に検討するならば、人民委員会議が自ら望むところに反して実際に自由を与えたのはフィンランドブルジョアジーに対してであって、人民、フィンランドプロレタリアート代表に与えたのではなかったことがわかるだろう。フィンランドの労働者と社会民主主義者は、ロシアの社会主義者から直接ではなく、フィンランドブルジョアジーを介して自由を得なければならない立場にあることに気付いたのだ」(「フィンランドの独立について」1917年12月23日、『スターリン全集』第四巻)。

 しかしフィンランド議会においてはもともと、民族主義者が台頭する17年秋前までは社会民主党が多数派を掌握していたのであり、それほどまでにプロレタリアートは少なからぬ組織的力量を有していた。フィンランドの独立は、ロシア革命の直接的影響を受けるこの地で激化しつつあった階級闘争と不可分の問題だったが、これに対して革命ロシアの人民委員会議が“ブルジョアジーに自由を与えた”ことは、当然ながらフィンランド社会主義者たちを孤立させる結果となったのである。すなわち翌1918年1月にブルジョアジーの議会は警察権力を大幅に強化することを決議し、旧帝政ロシア軍の将校だったマンネルヘイムを司令官に任命した。反革命軍の組織化である。
 これに対して社会民主党は1月28日に「フィンランド社会主義労働者共和国」の建国を宣言し、白軍との内戦状態に入った。社会民主党が主導するこの共和国は、ソヴィエト国家を想わせるその名前に反して、ブルジョア議会制の形式をとっている。その憲法草案を書いたのは、社民党内のボリシェヴィキ派であり後にコミンテルン執行委員となるオットー・クーシネン——後に日本共産党の32テーゼ起草に関わる人物——であるが、彼もまたスターリン式の二段階革命論に基づいて、フィンランドにおける白軍との闘争を“民主的”なブルジョアジーとの共同戦線において遂行することを構想したのだった。
 だが現実はその通りにはいかない。フィンランド社会主義労働者共和国は民族ブルジョアジーの支持を得られないまま、ドイツ軍の援助を得たマンネルヘイムの白軍によって1818年5月に打倒されてしまう。この内戦によって赤軍ではおよそ5000人の戦死者が出たほか、約7300人が白軍によって処刑され、また捕虜収容所内で蔓延した感染症のせいで約1万1千人が命を落としている。まずはブルジョア民主主義共和国の成立を優先する二段階革命論は、ここフィンランドでもウクライナの場合と同じく、プロレタリアートの血によって贖われてしまった。
 たしかに〈分離ののちの結合〉論に対して今日このように評価を下すにあたっては、レーニンらが期待し前提としていたドイツ革命、これが遅れ、そして失敗したという痛苦な現実を考慮しなければ、公平さを欠くとは言える。しかし、世界革命の決定的な遅れにもかかわらずレーニンは「民族自決」原則をあくまでも護持し、それに一定の軌道修正を加えるだけで、実践的にはその場ごとの政治判断によって危機を乗りきってきた。まさしく問題はここ、つまり二段階革命論がこと民族問題に関しては全く反省されないまま、その都度の破産がプラグマティックに糊塗されているという、このことにある。
 例えば、コミンテルン第二回大会のためにレーニンが書いた「民族問題と植民地問題についてのテーゼ原案」(1920年6月)では、「民族自決」すなわちブルジョア国家の樹立一般を“進歩的”なものとみなす態度が修正された一方、プロレタリア革命にとって有益であるその限りでブルジョア民主主義の特定の部分を支持することが、改めて確認されている。「[……]共産主義インタナショナルは、すべてのおくれた国内の、名称だけの共産党ではない、将来のプロレタリア党の諸分子を結集し、教育して、彼らの特別の任務、彼らの民族内部のブルジョア民主主義的運動とたたかう任務を自覚させる条件があるばあいにだけ、植民地と遅れた国のブルジョア民主主義的民族運動を支持しなければならない」(『レーニン全集』第三一巻、140―141頁)。
 これはレーニンなりの、失敗の教訓化ではある。しかしやはりここでも、「おくれた国」はブルジョア民主主義革命の段階を必然的に経由するものだという考え方が基本的に変わっていない。十月革命において実践的に克服されたはずの二段階革命論が、民族問題に関してはレーニンの頭脳を根強くとらえていることの根拠を理論的に掘り下げていく必要はある。だがその前にここで確認しておくべきなのは、レーニンが民族問題における二段階革命論の破産を自ら明確化しなかったことが後々もたらした、深刻な禍根である。すなわち、「民族自決」原則が各民族ブルジョアジー反革命の機会を与える結果を招いたこと、このことに対するスターリンなりの教訓化が、大ロシア主義的な統治だったのだ。このことの問題を、次に検討していく。

(注1)ローザ・ルクセンブルクの『ロシア革命論』(1918年)にある次の記述は、ウクライナ民族主義の存在理由自体を否定した極論として誤ってはいるものの、〈分離ののちの結合〉論に対する批判の限りでは鋭いものを含んでいる、と私は思う。「しかしボリシェヴィキは、この反革命のキャンペーンを覆い隠すようなイデオロギー〔「民族自決権」のこと——浜中〕を提供し、ブルジョアジーの立場を強化し、プロレタリアの立場を弱体化させてしまった。それを示す最良の証拠が、ロシア革命の運命において致命的な役割を果たすことになったウクライナである。ウクライナ民族主義は、ロシアにおいては例えばチェコポーランドフィンランド民族主義とは全く異なり、数十人の小ブルジョア知識人たちの単なる思いつき、うぬぼれにすぎず、その土地の経済的・政治的・精神的諸関係に何ら根ざしておらず、如何なる歴史的伝統もない。というのもウクライナは一度たりとて国民(Nation)も国家(Staat)も形成したことがなかったし、シェフチェンコの反動的でロマン主義な詩を除いては如何なる民族文化(nationale Kultur)も有していなかったからである。まるで、ある晴れた朝に水辺の人々が、フリッツ・ロイターの合図でもって低地ドイツの新しい国民と国家とをいきなり設立すべく欲したかのような具合である。そして、幾人かの大学教授と学生たちによるこの馬鹿げた茶番劇は、レーニンとその同志たちによる「云々かんぬんをも含めた自決権」〔ロシアからの国家的離脱をも含めた民族自決権——浜中〕などという空理空論の扇動をつうじて、一つの政治的動因となるまでに人為的に膨張させられてしまったのだ。レーニンたちは、はじめは茶番劇だったものが終いには最も血生ぐさい深刻な話となるに至るまで、それに対して重要な意味を与えてしまった。すなわち、依然として何の根もない不真面目な民族運動は今や、反革命の看板と旗になったのである。この種の無精卵から、ブレストでは、ドイツ軍の銃剣が這い出てきたのだ」

     (2023年2月11日 浜中大樹)