「中国経済の資本主義的改造」を口走った「革マル派」官僚 ―― 破廉恥な転進と自己崩壊を許すな!

    敗北の宣言 「中国=ネオ・スターリン主義」論の破綻

 

 『新世紀』三一二号(二〇二一年五月号)において、「革マル派」官僚どもは、現代中国論について、さらに〈反帝・反スタ〉世界革命戦略をめぐる〈論争なき〝論争〟〉(註1)において、わが探究派に完敗したことを事実上認めたと言える。
 「長江万里」名の論文「経済危機ののりきりと専制支配強化に狂奔する習近平 ――中国共産党五中全会の示したもの――」の次の一文に、そのことは端的に示されている。――「「社会主義市場経済」という、マルクス主義の観点にたつかぎり絶対になりたたない概念を捏造して中国経済の資本主義的改造を正当化したのが、彼らネオ・スターリン主義者どもだ。」(七三頁)
 彼らはこの論文の末尾にいたって、コッソリと「中国経済の資本主義的改造」を認め、しかもその「改造」を推し進めたのが「ネオ・スターリン主義官僚ども」だ、と言ってのけた! このことは、「革マル派」官僚どもがわが探究派の革命的な理論闘争についに音を上げ、陰湿な「転進」(註2)に踏み切ったことを露骨に示すものでなくてなんであろうか! これまでの彼らは、「社会主義市場経済」という概念が矛盾している、成り立たない概念だ、ということをのみ繰り返し、現実の中国の政治経済構造そのものの規定は――姑息にも――避けてきた。だが、ついに中国経済の「資本主義的改造」を口走ったことにより、彼らの「ネオ・スターリン主義」論も、「反スターリン主義」も、その虚妄性は一挙に露呈したのである!
 「長江万里」の文章(以下「長江論文」という。)にいま少し立ち入って、彼らの醜悪な〝転進〟の策動を明らかにしよう。

(註1)〈論争なき〝論争〟〉:同志松代を先頭として、われわれは創造ブックスやプラズマ出版からの諸著作の公刊や、SNSを活用しての「革マル派」指導部批判を、執拗に繰り広げてきた。だが、これに対して「革マル派」指導部は、いっさい反論せず、沈黙と箝口令による乗り切りを計った。それだけではない。昨年末の政治集会では、「常磐哲治」を登壇させ、わが探究派の思想闘争をかつての解放派の行為に見立てて悪罵を投げかける、という行為まであえてした。〈論争なき〝論争〟〉という所以である。

(註2)「転進」:一九四二年の夏から冬にかけて、ヨーロッパ戦線におけるスターリングラードの戦いと同時期に戦われたガダルカナル攻防戦において米軍に惨敗した日本軍、その「大本営」は、敗北=退却を「転進」だといいくるめ、この決定的な敗北を隠蔽しようとしたのであった。だが、それは日本帝国軍隊の敗北と崩壊の急進展を示すものであった。

 

  消えた「ネオ・スターリン主義中国」

 

 話をなるべくわかりやすくするために、彼らの用語に着目してみよう。〔わかりやすく、という割には、私はここで細かいことを詮索することになってしまう。だがこのことは、彼ら「革マル派」官僚どもがあまりにも姑息に転進を図っているために、それを確証的に暴露するうえでは致し方ないことなので、ご容赦いただきたい。〕
 「解放」の二〇二一年の新年号(第二六五〇号)では、「ネオ・スターリン主義中国」という規定が繰り返されていた。長江論文以前の諸論文においては、「革マル派」官僚どもは、「ネオ・スターリン主義」という語を、「中国」の規定として用いていた。その場合、「中国」の国家権力の規定なのか、政治経済構造の規定なのかは、曖昧にしてである。いいかえれば、中国の政治経済構造そのものが資本主義化しているのかどうか、ということについては意図的に曖昧にした表現だったのである。
 ところが、長江論文では、「ネオ・スターリン主義中国」という言葉は一度も出てこない。「ネオ・スターリン主義」ないし「ネオ・スターリニスト」という語だけが使われている。この語は、この論文では九回も登場するにもかかわらず。この論文では、基本的には中国の党=国家官僚の規定として「ネオ・スターリン主義(ネオ・スターリニスト)」という語が用いられているのである。この語はいわば官僚どもの呼称のようなものとして限定的に使用されている。たしかに「ネオ・スターリン主義官僚専制国家の打倒をめざして」とか、「この党と国家のネオ・スターリン主義的本質を自覚し、その打倒を」とかの表現もある。しかし、その内容はあくまで「ネオ・スターリン主義官僚」が「専制支配」している国家というような意味なのであって、国家そのものや政治経済構造がどうなのか、ということについては曖昧にしたままなのである。そして、これがミソなのだが、論文の末尾近くで、ソッと「中国経済の資本主義的改造」という語を挿入している! ここに彼らがコッソリと過去の規定をなし崩し的に修正しようとしていることが露呈しているのである。何と姑息な、何と涙ぐましい努力・苦心惨憺であることか。わが探究派さえいなくなれば、いや探究派が黙ってさえいれば、彼らのこの〝苦労〟も功を奏したであろうに!
 現在の中国の政治経済構造が、今日では資本主義的に変質してしまっているということは、マルクス主義の立場から創造的に理論化することは容易なことではなくても、事実としては誰が見てもわかるようなことである。だが、彼ら「革マル派」官僚どもには、そんな簡単なことでもおいそれとはそれを認められない事情があったのだ。
 それは自己保身そのものである! 同志黒田亡き後の彼ら「革マル派」官僚どもの心労は、ことごとく自分たち自身の誤謬と腐敗の隠蔽のためのものであった、と言っても過言ではない!
 この問題について、少し歴史的にふりかえってみよう。

 

  探究派の闘いへの対応不能

 

 彼ら官僚どもは、二〇〇六年の同志黒田の逝去の後に、当時は革マル派を理論的に牽引していた「葉室真鄕」が打ち出し、組織的に蔓延していた「スターリン主義負の遺産」論を否定し、「中国=ネオ・スターリン主義」を打ち出したのであった。その画期をなすのが、「解放」二〇一三年新年号の「水木章子」名の論文であったと言える。これにたいして今日ではわが探究派の先頭にたつ同志松代秀樹は、実質上革マル派組織から追放され生活だけを点検されるという状況のもとで、「スターリン主義負の遺産」論の、そしてそれにかえて打ち出された「ネオ・スターリン主義」論の誤謬を突き出し、現代中国の資本主義的変質とそれをもたらした中国共産党官僚どもがスターリン主義者から国家資本主義の指向者への転向をとげた(彼らは共産党員・国家官僚としての地位を維持したままで、官僚的資本家・資本家的官僚へと転身した)ことを的確に暴露したのであった。そして現存中国を「スターリン主義国家」とみなさなければ「反スターリン主義」を維持できないと考えていた革マル派指導部の誤謬と腐敗を弾劾するとともに、「スターリン主義をその根底からのりこえる」べきことを、訴え続けたのであった。そして、この革命的思想闘争を無視抹殺した革マル派官僚どもに抗して、同志松代は日本反スターリン主義運動を再創造する闘いを決意し、組織的に既に明確に提起していたにもかかわらず封殺された革マル派指導部にたいする批判を、新たな著作というかたちで社会的に打ち出したのであった。それが二〇一四年九月刊行の『商品経済の廃絶』(西田書店)であり、それに続く諸著作の連続的刊行である。

 そして、二〇一九年初春には、新たに「革マル派」と訣別した同志たちと合流し、ともに探究派を結成して新たな闘いに踏み出したのであった。


 この闘いに対して、一切の論争を回避し、〝鎖国〟政策と箝口令による自己保身を続けているのが、今日の「革マル派」指導部にほかならない。
 中国問題についても、したがってまた反スターリン主義の戦略についても、わが探究派の批判に対応不能に陥り、一切の論争を回避してきたのが彼らであるが、そこは政治ゴロ化した連中のこと、姑息な目眩ましのようなことだけはやってのけた。そのことを示すものが、同志松代の理論化についての捏造に基づく非難――『革マル派五〇年の軌跡』第三巻(二〇一五年九月刊行)の「第三部概説」の「「共産党は資本の人格化にすぎない」などというのは、純然たる経済主義的錯誤であるだけではない…」(三〇八頁)というそれ――である。同志松代は、その多数の著作のどこでも「共産党」が「資本の人格化」だなどとは述べていないし、述べるわけがない。述べているのは、たとえば「スターリン主義官僚を構成していたこれらの諸企業の経営官僚は生産諸手段の人格化としての資本家的経営者となり…」(創造ブックス(註3)二〇一五年四月刊行の『マルクス共産主義論の発展』所収の「中国の政治経済構造を分析するために」(二〇〇六年草稿・二〇〇九年改稿)一七頁)ということなのであり、政治組織としての「中国共産党」が「資本の人格化」である、などというのは、この「概説」を執筆したところの政治ゴロ化した官僚・某による捏造なのである。これは明らかに意図的であり、このような捏造をもってしか「反論」出来ないことを自己暴露したものなのである。「恥の上塗り」とは、こういうことを言うのであるが。驚くべき鉄面皮!

(註3)「創造ブックス」の書籍は、神保町の「書泉グランデ」と新宿二丁目の「模索舎」で販売中。また取次店を通じて全国の書店で書籍を販売しているプラズマ出版でも、「創造ブックス」刊行物の取り扱いは可能。

 しかも、である。ほどなく、彼らの理論的ゴマカシの破綻が決定的に露呈した!

 

  「水木章子」の乱

 

 なんと、上記第三巻に続いて刊行された『革マル派五〇年の軌跡』第四巻(二〇一六年一一月)に収められた「水木章子」署名の論文「「市場社会主義国」中国の反人民性」には、その筆者が同志松代の著作を読み、それに学んで執筆したことが歴然と示されていたのである。これは決定的である。なぜなら、「水木章子」こそは、葉室真鄕の「スターリン主義負の遺産」論を否定するために、当時の革マル派官僚どもが頼った、いわばエース的な理論家だったからである! 彼女は「中国=ネオ・スターリン主義」の論陣を張った中心的人物だったのである。以下に、上記の「水木章子」論文の核心的な部分を示す。

 「国営企業の管理=経営部と労働者との関係は一変した。両者の関係は、現実に雇用―被雇用の関係に転ずる。国営企業経営幹部は資本家的経営者あるいは官僚資本家に転化し、労働者はみずからの労働力を商品として売らなければならない賃労働者となる。賃労働者にたたき落とされた国有企業労働者たちは、単位の一員として手にしていた住宅や諸々の保障や福利をすべて失い窮乏生活につきおとされただけではない。たとえ名目上であれ、「社会主義国」の「主人公」である〝工人〟として有していた「政治的・社会的地位」や〝誇り〟さえも奪われたのであった。」(上記第四巻一二五頁。創造ブックス二〇二〇年九月刊行『コロナ危機、これとどう闘うか』より重引。)

 この論文では、「ネオ・スターリン主義」という規定が形式上は維持されてはいるが、明らかに「革マル派」指導部とは異なる見解が吐露されていた。いや「この水木論文のあらゆる論述は、今日の「革マル派」指導部の弥縫と自己保身とのりきりを、告発し弾劾するものである。」(上掲『コロナ危機、これとどう闘うか』二八頁)同志松代は、「同志水木」に起ち上がることをも促したのであった。他方、「革マル派」中央官僚は、第四巻第二部の「概説」において、「水木論文」をただただもちあげるほかなかったのである。(同書四〇頁)
 この時点で既に「革マル派」の「中国ネオ・スターリン主義」論の破綻は覆いがたかったのである!彼らが今試みているのは、もとより〝敗戦処理〟以外のなにものでもない。そして、そのように理論的破産を隠蔽し、取り繕うことによって、彼らの理論はますますもってトンチンカンなものとならざるをえないのである。

 

  自己崩壊への突進をゆるすな!

 

 長江論文において、「革マル派」官僚は、こっそり、かつ、シレッと中国の政治経済構造の「資本主義」化を認め、「中国ネオ・スターリン主義」論の破綻を取り繕おうとしている。
 もちろん、「資本主義的」に「改造」された政治経済構造を、まさに政治経済学的に・的確に分析することなど、今日の彼らに出来ようはずもない。しかも、さらにその先に問題がある。
 この〝転進〟によって、彼らは「ネオ・スターリン主義」という規定を、中国共産党=国家官僚どもの、いわば実体論的な規定へと絞り込むほかなくなってしまったのである。
 だが、「中国経済の資本主義的改造」を進めたのは誰か。言うまでもなく、彼らが「ネオ・スターリニスト」と呼ぶ中国共産党=国家官僚どもである。だとすれば、「資本主義的改造」を行う「スターリン主義者」とは? たとえ「ネオ」と限定したとしても、「スターリニスト」の本質が変わることを意味しない。スターリンの「一国社会主義」論を受けつぐことなく、「資本主義化」を進める「スターリン主義者」とは? 習近平らの中国共産党官僚どもが、現存する中国の資本主義的政治経済構造を「中国の特色ある社会主義」として全面的に肯定している以上、資本主義的政治経済構造を何らかの形で非「資本主義的」に変革することなど、彼らが夢にも思ってはいないことは明白である。〝ヨリ豊かな資本主義国〟への「成長」を希っているにすぎないのが、今日の北京官僚どもではないのか。この北京官僚どものどこが「スターリン主義者」なのか? また「資本主義的」に「改造」された政治経済構造において、彼らは諸個人としては社会経済的にどのような存在なのか? また中国社会の階級的構成はどうなっているのか? このように問われても何一つ自己矛盾を感じないほどまでに、彼らは脱イデオロギー化し、主体性を失っているのであろうか。
 いやいや、彼らの言う「ネオ・スターリン主義」そのものが、「専制支配」ないし、それを続ける官僚ども、という意味しかもちえなくなっている、というのがその実相であろう。彼らは「官僚専制」を非難するブルジョア的民主主義者のレベルにまで転落しているのだ。「香港の自治」、すなわちブルジョア民主主義的政治形態を求める、という形でそれはすでに自己暴露されてもきたではないか。

 この転落は、変質というよりも、思想的自壊への突進というべきであろう。思想的自壊は、組織的自壊へと直結する。彼ら官僚どもが、自己崩壊を食いとめることにのみ専心したとしても、それは不可能である。

 だが、われわれは彼らの自己崩壊を許すわけにはいかない!

 

  宗教的自己疎外をとげ、いっさいの思想的良心を失った官僚どもを打倒しよう!

 

 上記に見た「中国スターリン主義」論をめぐる醜悪なゴマカシと〝転進〟は、今日の「革マル派」官僚どものすべてを示していると言っても過言ではない。彼らは、同志黒田の思想をも放擲し裏切って、同志黒田を神格化することをもって、〈黒田教団〉化した「革マル派」とその「指導部」(神職と読め!)としての己を護ること以外には何も考えてはいないのである!

 すべての革命的マルクス主義者は、このような「革マル派」指導部を打倒しよう!
 探究派とともに、日本反スターリン主義運動を再創造しようではないか!
 真の革命家として、勇気をもって、自己の再生に踏み出そうではないか!

       (二〇二一年四月一五日 椿原清孝)