黒田の哲学を我がものに

 「死んで生きる」ということ

 

「日本国家の強権的=軍事的支配体制の構築の流れに対して、そして「社会主義」の崩壊と現代資本主義の危機に直面させられて、いわゆる哲学は無力をさらけだしている。」このような悲惨な現実を前にした同志黒田は、「1920~30年代に築かれた」「明治以降の日本哲学の最高峰をなす西田・田辺哲学が、今ふりかえられるべきではないか」とのべている。その西田・田辺哲学とはいったい如何なるものであったのか。
革マル派」官僚が同志黒田の「どん底」やハンガリア革命において彼の主体性を貫徹した ということへの無理解を公然と明らかにした(椿原清孝「革マル派の終焉」『コロナ危機の超克』所収、152頁参照)。そこに貫かれている同志黒田の「断絶と飛躍」を何ら理解できないのである。「革マル派」官僚たちは、場所の哲学と革命的マルクス主義の立場を放擲することを公然と宣言したのである。彼らが同志黒田の哲学と思想を捨て去ったいま、私は微力ながら、黒田に息づく哲学について考えてみたいと思う。「哲学とプロレタリアートの相互媒介的止揚の論理」をも甦らせつつ。

 「死即生」「生即死」の論理(西田『無の自覚的限定』「私と汝」)

 

 西田は言う。
 「絶対否定の弁証法に於いては、一と他との間に何等の媒介するものがあってはならない。自己が自己の中に絶対の他を含んでいなければならぬ、自己が自己の中に絶対の否定を含んでいなければならぬ。何らか媒介するものがあって、自己が他となり、他が自己となるのではなく、自己は自己の底を通して他となるのである。何となれば自己自身の存在の底に他があり、他の存在の底に自己があるからである。私と汝とは絶対に他なるものである。私と汝とを包摂する何等の一般者もない。併し私は汝を認めることによって私であり、汝は私を認めることによって汝である、私の底に汝があり、汝の底に私がある、私は私の底に汝がある、絶対に他なるがゆえに内的に結合するのである」、と。
 これは「絶対否定の弁証法」といわれているものの核心であると思う。これは西田において自己自身を否定しつくすという思惟によって、あくまで意識内における内容を理論化したものである。
 全的に自己を否定する。その時自らの自我の背後に非対称的な空間がひらかれる。生死を超越する瞬間を「死即生」「生即死」の論理として明らかにしたのだ。仏教的空としての絶対否定というべきか。西田は、この空間に「永遠の今」「弁証法的一般者」「場所」などと規定されたものを想定する。これらの「永遠の今」「弁証法的一般者」「場所」が実体的威力を持ち、不断に世界を破り=世界を創造してゆくとされる。

 さらに西田は倫理的人格形成の可能根拠を求めている。
「自己が自己自身の底に自己の根底として絶対の他を見るということによって自己が他の内に没し去る、即ち私が他に於いて私自身を失う、之と共に汝も亦この他に於いて汝自身を失わなければならない、私はこの他に於いて汝の呼声を、汝はこの他に於いて私の呼声を聞くことができる。」
 私の絶対否定によって見た絶対の他において汝が成立するというのである。
 ここまでは「絶対否定の弁証法」と同じである。我と汝における「絶対他者」もおなじ「絶対否定の弁証法」と同じ思惟過程においてとらえられるのである。
 さらに進んで西田は、汝への人格的な、義務と責任が、良心の声さらには神の声として内的に覚知される、とする。あくまで自己を見る自己の意識の背後において私と汝の「呼び声を聞く」という所に特色がある。
 これは、「死即生」「生即死」が体験として、過去における何らかの否定的な自己を殺し、新たな自己としてよみがえることになるかのように意識されていることを意味する。
 このような絶対否定における「死即生」、すなわち質的断絶・飛躍をとげた新たな個人は「天皇制国家の臣民である」。このような倫理的自覚を獲得した臣民である、己のおいてある場所は同じ「臣民」たちの国家、「天皇制国家」なのである。このような「汝」に私は生きるのである。これはもはや「絶対随順の論理」以外ないであろう。
 日々自己変革を自己に課しているわれわれは、唯物論者はいかにして「死んで生きる」ことが可能なのか? 自己変革すなわち現実における主体の質的な断絶と飛躍を意識内での否定的転換の論理として如何なるものとして考えてゆくのか?
「絶対随順の論理」はいかにのりこえることができるのか? 今日的な問題である、と私は思う。

 

  「人間は死に於いて生きる」(田辺元『歴史的現実』)

 

田辺哲学において、理念上の、したがってあるべき国家は普遍的・人類的価値を有する、とされる。
 しかし、現実の日本国家は民族的直接性にとどまり、「皇国主義日本精神」というイデオロギーで、外に向かっては、東亜の民族に押し付け「帝国主義的侵略」を行っている。さらに内に向かっては、言論統制、反対者を検束・投獄し、個を圧殺している。
 つまり、「民族の基体的契機」と「個人の自発性の契機」のそれぞれが相互に否定し、「絶対媒介の弁証法」によって普遍・類となる「国家」であるべきものから、現実の日本国家を批判的に見ていた。
 しかし、それは「安定した歴史の時代」のことだという。「今日我々の置かれて居る非常時においては」そうではない、という。
 田辺は、個人と種族、国家と人類の関係と天皇との関係を明らかにする。
 「日本の国家は単に種族的な統一ではない。そこには個人が自発性を以て閉鎖的・種族的な統一を開放的・人類的な立場へ高める原理を御体現あそばされる天皇があらせられ、臣民は天皇を翼賛し奉る事によってそれを実際に実現している」という。天皇は民族的直接性を超える可能的存在という位置づけがなされている。
 このような「天皇制日本国家」を前提にして田辺は、学徒出陣を前にした学生に「国家は命をささげるに値するか」と問い「国家即自己」たるべきであると説いた。「国家の中に死ぬべくはいる時、豈図らんやこちらの協力が必要とされ、そこに自由の生命が復ってくる」「個人は種族を媒介にしてその中に死ぬ事によって却って生きる」と。国家の理念(普遍・類)をつなぐのが「個人」であると説教したのである。
 田辺は、続けて学生たちに「死んで生きる」べきことを説いたのであった。
 いかにして「国家即自己」を為しえるのか。「我々が死に対して自由になる即ち永遠に触れる事によって生死を超越するのはどういう事か」と問い、「具体的にいえば歴史に於いて個人が国家を通して人類的な立場に永遠なるものを建設すべく身を捧げることが生死を超えることである。」と結論を導き出すのである。
 他面では「我性とは、欲望であり悪である」という。こうして「無我、無私、滅私」という個の絶対否定が宣揚される。普遍性を自覚した個は、悠久の歴史の中で生きる。それは種の中で永遠に生きることになるというのである。何たる倒錯。何たる狂気と翼賛。

 学徒出陣で戦地に向かい、B級戦犯となった青年将校の中には、天皇のためにではなく、人類・普遍のために死を選ぶとしたものがいるのだ。他方において、小林多喜二特高による拷問で虐殺された。それを契機に多くの共産党員が転向したが、非転向を貫いた共産党員もいた。彼らは、殺されたり、獄につながれたりした。
 また、逆に自らの転向と戦争協力については不問にし、なかったかのように「戦後民主化闘争」へ参加するスターリン主義に無自覚な自称共産主義者も数多くいた。左翼戦線のこのようなイデオロギー状況の中に於いて、梅本克己、梯明秀らが唯物論における主体性の問題を追求した。

 「人間は自己の体験しえぬ未来の人間の幸福のためにいかにして自己の生命をささげうるか」(梅本克己『唯物史観と道徳』)
 「賃労働者は、資本主義的には非有であり無である。人間性の喪失においてのみ、資本主義社会に現実的である。しかし単なる無でなくして、資本主義的定有と自己矛盾的に即した無である。資本主義を顚倒するかぎり、そのまま自己の内容となしうる無である。本質を絶対に有ならしむる無として、絶対無であり、絶対無はそのまま絶対有なのである」(梯秀明『戦後精神の探究』)

 同志黒田は田辺の論文「歴史的現実」に触れ、「この哲学(西田・田辺哲学)が自己のうちに滲みとおり宿っている」ことを自覚した。だがそれは、「梅本・梯的思弁によって濾過されたかぎりの西田・田辺が‶私のもの〟である、としか言えないのである。」(著者/田辺元『歴史現実』 編者黒田寛一「解説」より)と重要なことを述べている。

 同志黒田の哲学・思想を己のものとせんとする限り、「梅本・梯的思弁によって濾過されたかぎりの西田・田辺が‶私のもの〟」という哲学について、立ち止まって考え反省することは必要であると私は思う。上記の梅本克己の引用文をかみしめ、彼が提起した「観念論最後の牙城」すなわち「無の哲学固有の領域」とは何であるのかを哲学するのも必要であろう。
 「死復活の体験」における「倫理的領域での自由なる自覚存在成立の場面」を「洞察された歴史的必然のなかに、いかにして絶対的に自己自身たりえるか」を梅本克己は問うた。
 さらに、戦前は哲学的物質の主体性を追求していた梯明秀は、戦後に「頽落的自己」から「本来的自己」への超越を己自身の主体性の問題として追求し、自己を絶対に否定する絶対の他者として「革命的潮流を」内に直観すべく「哲学」した。
 これら唯物論における主体性の追求を同志黒田も受け継ぎ唯物論的自覚の問題として深めてきた。「個」の倫理的自覚、個人=人間という抽象性での自覚ではなく、また「絶対有」の「無」の契機としての人間ということでもない、労働する人間、社会的実践主体の物質的自覚の問題として追求してきた。さらには「歴史的に形成されてきた現実の人間が、いかにその階級性を通して歴史そのものに貫かれているかを自覚する、すなわち自己が自己においてある場所(=特定の階級社会)で、「歴史の主体」として自覚する」(黒田寛一ヘーゲルマルクス』)ことを追求してきた。まさに、黒田自身の、己自身の主体性の問題として。
 これが『ヘーゲルマルクス』であり『プロレタリア的人間の論理』である。また、同志北井信弘は、いま、同志黒田の場所の哲学と革命的マルクス主義を受け継ぎ発展させようとしている。(『変革の意志 黒田寛一梯明秀西田幾多郎の思索に思う』)
私も先人に倣い、唯物論における主体性の問題を追求してゆきたい。

 われわれ賃労働者は自らの「非人間化された人間性を土台に、資本制的自己疎外の現実的=歴史的=論理的な根拠を反省する」。われわれはそのような反省を通して、われわれの「自己解放が同時にまた全人類の解放となるという世界史的使命」を自覚するのだ。こうして、資本制国家権力を打倒して「自由の王国」を地上に実現するのだ、という意志をも獲得する。それは同時に「種属生活」を奪還し「共同体」を実現するという目的でもある。われわれは、われわれの意識内部から、革命闘争を闘うのだ、という決意が湧き立たってくることを意識する。このような革命的自覚にあるわれわれは、利己的自己をも不断に止揚してゆくのである。なぜなら、己の解放が、全人類の人間的解放になること、「全と個」の対立を止揚した社会=共同体を目指すということを「使命」とし自覚しているからである。こうして革命的に自覚したプロレタリアは、「報いられることを期待することなき献身」をもって革命闘争の先頭に立つのである。共産主義者の主体性、実存的支柱とは、かかるものであると私は思う。
 同志黒田の明らかにした共産主義者の主体性は、西田・田辺の絶対無の自覚、すなわち観念的自覚の底に開かれた「悠久の歴史」「普遍・類」なるもの、「弁証法的一般者」など「形而上学的実体」といわれているものの自覚ではない。プロレタリアの物質的自覚=革命的自覚において獲得した「歴史的使命」なのである。この両者は、まったく異なる。
 また、田辺の主張する「国家即自己」に貫かれている「種と個」の「絶対媒介の弁証法」と、歴史的使命を自覚した革命的共産主義者に貫かれている階級的全体性、階級的全体性として意義を持つ組織的全体性と革命的共産主義者の個別的主体性との統一とも何の関係もない。

 

  主体性無きものたちの末路

 

 「革マル派」官僚たちは、楡闘争の指導の誤りの批判をけとばし居直り続けてきた。指導部の誤りを批判をする同志たちを個別撃破的につぶそうとしてきた。同志たちの組織的主体性を破壊できないと見るや、批判する同志たちを組織から放逐したのである。彼らは、単なる居直りを超えて官僚としての延命のために、批判する同志たちを追放する、という挙に打って出たのである。その蛮行は、組織内思想闘争の放棄、分派結成の否定であり、組織破壊そのものであった。他面において彼らは、居残る組織成員の組織的主体性を破壊してきたのである。「革マル派」の官僚主義組織への変質は極点に達した。
 それだけではない。官僚主義組織の担い手たちは、哲学的客観主義に転落し、結果解釈を満開させてきた。彼らのイデオロギー的腐敗は深刻で根が深い。
 今日、官僚たちは、場所の哲学と革命的マルクス主義の立場を放擲することを公然と宣言した。同時に「革マル派」官僚たちは、亡き黒田を神格化し、数年前は「羅針盤」と称していた彼の諸著作を教典化しようとしている。そうすることによって、彼らは、これまでの官僚主義組織の担い手たちを、新たな「黒田教」の担い手へと改造しつつある。
 それは、すでに昨年から公然化していた。官僚たちは、2019年の一年をかけて組織成員たちに対象なき戦いのポーズを強要し、そうすることによって実践的唯物論を捨てさせてきた。その集約とでもいえる「自利即利他、利他即自利」をシンボルとした「組織哲学」を宣揚して、その年を締めくくった。
 官僚たちは、同志黒田から言われた「自利即利他、利他即自利」という仏教用語を、単純に自利=利他と理解し、これを組織のあるべき姿として理念化し抽象化して、個を捨て全に生きることが「革マル派」組織成員たるべきなのだ、としたのである。組織成員たちを、組織への埋没によってのみ自己を支える自己喪失者へとつくり変えてきたのである。「組織は生きかつ死ぬことができる場所だ」(中央労働者組織委員会メンバー)という言辞はそのことを見事に言い表している。
 自利と利他の間にある「即」ということは、すぐれて自覚の問題である。このことを忘れてはならない。われわれは単なる仏教用語としてのみ理解してはならない。物質的自覚の問題なのである。「革マル派」官僚たちにおいては、田辺がなぜ我性を殺し「悠久の歴史に生きる」ことが、すなわち自己が「死」することが日本民族という種的・特殊性に生きることになると言ったのか、そのことが理解できないのであろう。「革マル派」官僚たちは、田辺の「絶対媒介の弁証法」の唯物論的転倒を考えたことはないのであろう。彼らは、「「即」の構造」を唯物論的に解明してきた梅本克己の哲学や、同志黒田の物質的自覚の論理について学んでこなかったのであろう。

 

 そして今、「革マル派」官僚たちは、まさに組織成員たちの、自己喪失した者たちの、内面の「空隙」を、神格化した黒田とその教典からの「言葉」で埋めようとしているのである。彼らは、黒田を「プロレタリアートの階級的=普遍的利害」の体現者として崇める神へと疎外した。そして組織成員たちを、神=黒田と「黒田の組織」のために「死にかつ生きることのできる」担い手へと改造し始めたのである。神=黒田の前で「個を捨て全に生きよ」、「組織即自己」たれと。田辺のごとく、「絶対随順の精神」を刷り込んでいるのである。
 「革マル派」の組織成員たちが、プロタリア的自覚によって獲得していた「歴史的使命」は、こうして「プロレタリア解放のために全生涯を捧げた黒田寛一」「反スターリン主義を興した黒田」という神=黒田へとその支柱は疎外される。「組織的全体性」は「黒田の組織」への拝跪の別名となる。「革マル派」組織成員たちの実存的支柱は宗教集団と同質のものへとつくり変えられつつある。

 

 「革マル派」諸成員たちよ、目覚めよ! プロレタリア的主体性を呼び起こせ!

 

 さもなければ 「革マル派」は、宗教的自己疎外を完成する。

        (2020年11月18日 藤川一久)