第4回 反幹部闘争を原型とする思考——<連載>松代秀樹「反スターリン主義前衛党組織の労働者的本質の消失」

反スターリン主義前衛党組織の労働者的本質の消失

 

 四 反幹部闘争を原型とする思考

 

 このことをさらにほりさげるためには、一九八〇年代初頭の問題をふりかえらなければならない。
 労働運動の帝国主義的再編が完成し、激烈な攻撃がかけられているという条件のもとで、わがメンバーが組合の重要な役職を担っているばあいに、わが組織の担い手を創造するために、〈ヤジ・キタ〉で闘いを展開できないか、というように黒田は考えたのであった。〈ヤジ・キタ〉とは、次のような闘い方のことである。組合の重要な役職を担っているメンバーがヤジさん。彼は組合ダラ幹として闘争を裏切る。下部の組合員であるわがメンバーたちはキタさん。彼らは組合員として、組合員たちを組織して「裏切るな」というつきあげの闘いを展開し、これをつうじて、組織した組合員たちをたかめていく。こういう闘いの構造がそれである。組合の重要な役職を担っているメンバーは、「そんなことをすると組合は壊れてしまう」と言って、そういうことはできないとしたのであった。
 このように考えたときに黒田が原型としていたのは、彼が一九六〇年代初頭に理論化した次のような闘いの構造であった、といわなければならない。
 「運動のただなかで噴出する既成指導部への反撥や批判、その官僚主義日和見主義・改良主義などにたいする下部の圧力、あるいは公認指導部への絶望からうまれた虚無感や焦燥感などは、極左的行動への流動化や、組織ニヒリズムアナルコ・サンディカリズムへの逸脱などへねじまげられてはならない。労働戦線におけるそのような激動や動揺を物質的基礎としながら、社民ダラ幹やスターリニスト官僚の裏切り的言動を赤裸々に暴露しつつ反幹部闘争を組織し、しかもそれを戦略問題やイデオロギー上の問題とむすびつけることによって彼らの本質を大衆的にあばきだすこと、一方ではこのような闘いをテコとし、他方では積極的に「当面の諸要求」を提起して労働者意識をたえず高めつつ、「反社民・反スターリニズム」を決断した革命的労働者の中核組織を創造し、しかも彼ら一人一人にマルクス主義武装した革命的共産主義者としての自己成長をうながしてゆくために奮闘すること――これこそが革命的前衛の任務である。」(黒田寛一『組織論序説』こぶし書房、一九六一年刊、二九三頁)
 ここに明らかにされている闘いが「反幹部闘争」と呼ばれるものである。
 わがメンバーが労働組合の執行部の重要な役職を担っているという主体的条件のもとでは、ここに言う、闘いを裏切るところの社民ダラ幹やスターリニスト系の組合幹部は、当該の組合の内部にはいないのである。
 わがメンバーが一定の単位をなす組合の重要な役職を担っているばあいには、当面の闘争課題をめぐって組合の力を精一杯発揮したうえで経営体当局と妥結し、闘争を収拾する、ということが問題となるのである。
 このばあいには、彼は組合の幹部として、組合員たちの最先端にみずからをおき、経営体当局やその他の部分からの諸攻撃の矢面に立つことが必要となるのである。
 このような諸関係のもとで、組織成員である彼と彼の属する労働者組織は、彼のおいてある場を的確に分析し、当面する闘争課題にかんする組合の運動=組織方針と彼が組合役員としてくりひろげる諸活動を、そして、経営体当局とどのようにして妥結するのかということを、まさに主体的に、労働運動論および組織現実論を適用して解明するのでなければならない。
 前原茂雄は「特別な方針」として「「合理化反対(=一定の条件のもとでは合理化を受け入れることになる)」という構造をもった方針」ということを定式化したのであった。
 この定式は内容上誤謬であるだけではなく、わがメンバーが組合役員としてうちだす方針にかんして、その構造を明らかにする表記の最後に「ことになる」という言葉を附加するのは、このメンバーが組合役員としてうちだす方針をわが組織が主体的に解明することを放棄するものなのであり、どのように妥結するのかということにかんしては、組合役員である彼の政治技術にゆだねるということになってしまうのである。
 もともとは、黒田自身が「ことになる」という言葉を附加すべきである、としたのであって、このことは、わがメンバーが組合の重要な役職を担っているという主体的条件のもとで、このメンバーが組合役員としてうちだす方針にかんしては、黒田は、自分は解明しない、としたということを意味するのであり、そういう方針にかんしては、組合役員であるわがメンバーの政治技術によって解決すべきものだ、としたということにほかならない。
 ▽▽産別の或る分会の役員であった革命的フラクションメンバーのおかした誤謬を、わが組織の組合運動への組織的とりくみのゆがみとして、黒田も、わが組織の政治組織局も、わがWOBも切開しえなかったのは、上記の欠陥にもとづく、と私は考えるのである。私自身がわが組織がこのような欠陥をもっているということに無自覚であった、と私は反省する。
 このような主体的諸条件と対極的に、組合のない職場においてわがメンバーが一労働者としてたたかうというばあいにも、上と同じようなことが問題となる。闘いを裏切る社民ダラ幹もスターリニスト系の幹部もいないからであり、わがメンバーがたたかわないかぎり、闘いそのものがないからである。このばあいには、わがメンバーは、その場の的確な分析にもとづいて、痛めつけられ狙い撃ちにされている職場の労働者を助けるために、一労働者として最先頭に立ってたたかわなければならない。このばあいにも、わがメンバーは、管理者たちの攻撃の矢面に立たなければならないのである。このような職場闘争をくりひろげるためには、まず、管理者の目をぬすんで、痛められている労働者と個別に話して彼の胸の内を聞き、彼を激励して、ともにたたかおうと意志一致することが必要となる。出発点におけるこの個別の論議の成否がことを決するのである。このようなことにかんする私の指導をとらえて、黒田は私を「個別オルグ主義」、「シコシコ型の裏側主義の極限的形態」、「人間的資質の欠損の露呈」と判断したのであった。常任メンバーたちは、私へのこの批判に追従したのである。「反幹部闘争」の方式を原型として思惟しているかぎり、私が解明しようとしていることがらを理解することもつかみとることもできないのである。
 私は、職場の闘いをどうすすめるのかという問題として論議してほしい、と要請したのであったが、つうじなかった。私はこの組織的な論議をこじあけることができなかったのである。
 私は、このようなおのれ自身をのりこえるためにたたかってきたのであり、いま、これを書いてきたのである。
 このようなものとして、この文章を検討してもらいたい。
        (2021年11月7日     松代秀樹)