第7回 一九九〇年代初頭に二人の常任メンバーがめざしたもの——<連載>松代秀樹「反スターリン主義前衛党組織の労働者的本質の消失」(最終回)

反スターリン主義前衛党組織の労働者的本質の消失

 

 七 一九九〇年代初頭に二人の常任メンバーがめざしたもの

 

  一九九〇年四月とそのあと

 

 一九九〇年四月に、それまで組織的に処分され教育的措置をうけていた私は、東京にもどされた(前原茂雄の言によれば、このことを彼が提案し、黒田寛一が決定した、ということであった)。私は、足利隆志・片桐悠・土井の三人が住んでいるところに居候することとなった。
 そこでの生活をとおして私がつかんだのは、足利と土井の二人が、一九八〇年代中頃の労働学校における経験豊かな労働者同志の講演と労働学校そのもの、および、『労働運動論』(こぶし書房)に収録されている「労働組合運動の左翼的推進の構造」という松代論文、この二つを右翼組合主義的偏向の根源として否定し葬りさることをめざしている、ということであった。私は、えらいことになっている、と感じた。私は、自分がこの二人の打倒対象になっている、と感じた。
 片桐悠は、組織建設および労働運動にかんする感覚が鈍く、二人がやっていることの意味が解っていないようであった。
 私は、WOB(中央労働者組織委員会)常任会議がおこなわれているときに、WOBの連絡センターの座りの任務をやる、ということからはじめ、その常任会議に出席するようになった。
 このときには、まだ、前原茂雄がWOB常任会議の責任者をやっていたのであったが、黒田は、一九九一年の春闘集会での彼の基調報告の理論展開の誤謬を問い、反省ができないとして彼を解任し、足利をWOB常任会議の責任者に、そして土井を足利の実質上の教育係=後見人に任命した。土井と足利は、自分たちの労働運動のすすめ方と、組織建設の仕方とが、すなわち右翼組合主義的偏向の克服の仕方が黒田によって承認されたと感じた、とおもわれた。
 私は、この時点では、或る地方に行っていたのであったが、或る産別の労働運動の場面で大きな事態が発生したことから、東京によびもどされ、前原が交代でその地方へ行った。
 私は、黒田がWOB常任メンバーたち全員に、「土井に相談しろ」「土井に学べ」と指示するのを聞き、土井には組織建設の仕方において学ぶべきものがあるのだと思って、それをつかみ学ぶことを意志するとともに、土井と足利とが労働運動の推進の仕方においてめざしているものを、彼らがわが組織に貫徹するのを阻止しなければならない、と考えた。
 土井がその労働者出身であるところの△△産別、そこの労働組合の本部は、悪質な分子が牛耳っていた。足利は、その△△産別労働者組織の担当常任であり、その経験しかもっていなかった。(前原もまた、その△△産別組織の担当常任をずってやってきていた。)土井と足利とは、おのれの経験にもとづいて、わが仲間たちが下から本部の悪質幹部を弾劾するイデオロギー的=組織的闘いをくりひろげることを労働運動の展開の原型として考え、実質上それを原理としているように、私にはおもわれた。わが仲間が組合執行部の重要な役職を担っているという主体的条件のもとで、そのメンバーが組合役員としてどのような方針を提起し、どのような諸活動をくりひろげるべきなのか、ということについては、端(はな)から頭の外においており、□□産別の闘いの教訓をそれ以外の産別でのわが仲間たちの闘いに適用することを何としても阻止する、ということを、黒田から与えられた自分たちの使命である、と感じているように見うけられた。私はこのことに危機意識をもったのである。
 以上が、一九九二年の春闘集会の土井報告とその内容の労働者組織への貫徹の底にあった大きな流れとして、私が今日的に捉えかえすものである。
 ここから、一九九〇年に私が体験したものをふりかえる。二つの問題を分けて考察する。

 

  労働学校にかんする問題

 

 その第一は、労働学校にかんする問題である。
 土井は、労働学校での経験豊かな同志の講演のテープを起こしたものに、さも問題だという仕草で線を引っ張りながらつぶやいていた。「全部、主体が個人になってるよ。党組織が主体になってないよ。組織的とりくみになってないよ」、と。
 この言から、彼が、労働学校を否定するのに躍起になっているのだ、ということがわかった。この言葉は、無理に問題を発見しようとするものであった。
 経験豊かな同志は、労組役員としての技能にかんすることをしゃべったのである。わが組織が組織として労働運動に組織的にとりくむための指針および諸活動をどのように理論的に解明するのかということを論じたのではないのである。だから、労組役員である自分がどのような行動をとるべきなのかというようにしゃべるのは、あたりまえのことなのである。
 土井は、ついに、この労働学校の講演の批判を、文章として書くことはできなかった。しかし、この講演と労働学校そのものを右翼組合主義の根源とみなす姿勢は、堅持したのである。
 このことと関係して、前原茂雄によるこの労働学校の総括を具体的に検討しておかなければならない。
 前原は次のように書いている。
 「たとえば先輩労働者が「既存の労組幹部のように活動してみたらどうか。しかしひと味ちがった既存の労組幹部として……」と提起したとしよう。ところが、この提起を聞いた仲間のたちの一部が文字どおり「まずもって既成の労組幹部のように活動するのだ」とうけとめてしまい、既成労組幹部が日常的にやっているような活動をただ真似てしまったらどうなるか。あるがままの労組役員と同じような存在になりかねないであろう。」(『革マル派の五十年』第三巻、六一頁)
 これは、明らかに、右翼組合主義的偏向がうみだされた根拠を、ここに言う先輩労働者である経験豊かな労働者同志の責任に転嫁するものである。
 こんなことを書けば、右翼組合主義的偏向についてほりさげて考察したいと思ってこの論文を読んだメンバーは、カギカッコが付されていることからして、先輩労働者は実際にこのように言ったのだ、とうけとってしまうのである。だが、先輩労働者は、一切こんなことは言っていないのである。
 一つ挙げれば、先輩労働者は次のように言ったのである。
 「労組役員になれば、当局者との飲み会の場に出なければならないことがある。酒を飲まなければならない。このようなかたちで飲んだときに、自分は酔ったことが一切ない。酒に強いからではない。トイレに行っては、飲み食いした胃のなかのものを全部吐いたのだ。そうやって、しらふで当局者と対応したのだ」、と。
 明らかに、彼は、既存の労組幹部とはまったく異なる技能的なものを、そこに参加していた仲間たちに具体的に教えたのである。たとえ猿まねであったとしても、このやり方を真似た仲間が腐敗することはないのである。提起されたことは、前原の言う「ひと味ちがった」というような抽象的なことではなく、きわめて具体的であったからである。
 前原が「悪質な組織問題」と呼ぶところの問題が引き起こされたのは、彼の言う「猿まね」を要因とするとするのではない。引き起こされた事態にかんする前原の下向分析がおかしいのである。
 前原の言うようなことが問題なのではなく、一九八〇年代後半に黒田によってWOB常任会議の責任者に任命されその任務を遂行した篠田剛が、経験豊かな労働者同志がおこなってきたところの組合内左翼フラクションづくりの闘いを自己流に解釈して、諸産別の労働者同志たちに、民同フラクに加入戦術をとれ、と指導したことが問題なのである。
 この問題については、前原は「〝ミイラ取りがミイラになる〟というような悲劇」(同前、五二頁)というように特徴づけている。だが、この比喩は、比喩としても一面的なものでしかない。ミイラ取りがミイラになった、ということの意味内容は、そのなかのいいメンバーをわが組織の担い手として獲得するためにわが同志が民同フラクに加入戦術をとったにもかかわらず、この同志が民同的に変質してしまった、ということをさす。これでは、民同フラクのなかのいいメンバーを獲得するという側から一面的に問題にしているにすぎず、われわれは革命的フラクションや組合内左翼フラクションを実体的基礎とし労働組合を主体として労働運動を左翼的に展開する、という基本的構造のどこがどのようにおかしかったのか、ということをえぐりだす、というものとはなっていないのである。うみだされた誤謬の下向分析が何らできていないのである。
 篠田剛が労働者同志たちを指導した内容は、わがメンバーが民同フラクに加入し、その民同フラクを牽引しているところの実力者である民同の組合役員をおしたてて、日本共産党系の組合役員や組合員と対決するかたちで組合運動を推進せよ、ということであったのである。
 これが篠田剛流であったゆえんは、実力者である民同の組合役員をおしたてて、ということにある。経験豊かな労働者同志がおこなった諸活動の教訓のつかみとり方がおかしいのである。その労働者同志は、組合内の右派に対決するかたちで左翼フラクションを積極的にみずからが組織したのである。たしかに、その左翼フラクションには、ずっと先輩の左派の人格的代表者である組合役員がいた。わが労働者同志は、その先輩の組合役員に敬意を表し一目おく態度をとりつつ、実質上、その左翼フラクションがうちだすべき組合の方針を積極的に提起して意志一致し、その方針を組合機関で決定するように努力し、決定された方針にのっとって組合運動を組織し展開したのである。この闘いをとおして、彼は、その左翼フラクションのメンバーたちをみずからのもとに獲得したのである。
 ところが、民同系が日共系と対抗しているというような産別では、それぞれの組合の一定のランクの単位組織(単組・支部・分会)において、実力者である民同系役員に比して、わがメンバーの能力が、理論的にも組織活動上でも組合運動の政治技術上でも格段に劣ることからして、篠田剛は、この認識のもとに、わがメンバーが民同フラクに加入して、その民同系役員をおしたて、実質上、その役員を尻押ししその役員の陰に身を隠すかたちで活動するように指導したのである。このばあいには、同時に、篠田剛には、わがメンバーが民同フラク内や組合運動上で前に出るように追求すれば、当局や民同系にたたかれてあぶない、という判断があった、と思われるのである。
 もしも、当該のメンバーがこのように活動しうる程度の力量しかもっていないのだとするならば、このメンバーが民同フラクに加入戦術をとる、というように組織的に判断してはならないのである。そのメンバーは、組合内で自分が影響力をおよぼしうる範囲内で活動する、というようにすべきなのである。そうでなければ、そのメンバーは、民同フラクに加入することによって、そこの実力者にあわせるというようになり、変質してしまうのである。
 わがメンバーが既存の組合内左翼フラクションに加入戦術をとる、というように組織として組織的に判断するばあいには、そのようにとりくむにあたっても、その活動をとおしても、そのメンバーの能力をあらゆる部面で徹底的にたかめなければならない。
 そのメンバーの闘いの構造について、概括的には、わがメンバーはその左翼フラクションにおいてイニシアティブを発揮し、これをつうじてその構成員たちを変革しわれわれのもとに獲得し、これを基礎にしてヘゲモニーを貫徹するのだ、というように言うことができる。けれども、この闘いは、このように言うほど生やさしいものではない。
 わがメンバーは、その左翼フラクションにおいて、そこの実力者である既存の組合役員を形式上はたてながら、実質上、その構成員たちが組合役員あるいは組合員としてうちだし組合機関で採択すべき組合の運動=組織方針を提起し論議を牽引しなければならない。だから、わがメンバーは、それまでの闘いを総括し、経営体当局の攻撃や当局と組合との力関係やまた組合内の諸潮流の動きなどを分析し、組合のとるべき運動=組織方針を明らかにすること、これを文章として展開するだけの理論的・組織的・組合運動の技能上の能力を体得しなければならないのであり、実力者の役員をたてながら、このような文書をだし読みあげ論議を組織するだけの自分の地歩をきずかなければならないのである。
 このような文書をだし読みあげ論議することによって、そしてそこで意志統一した指針にのっとって闘いを展開することをつうじて、そのフラクションに結集しているメンバーたちを変革することができるのであり、さらにわが同志は、そのメンバーと個別的に論議して革命的フラクションの担い手へと高めていかなければならないのである。
 篠田剛と常任メンバーたちが、このようなかたちで組織的にとりくみえなかったこと、そしてこの組織的とりくみとその総括をめぐって組織的に論議し、わが労働者組織を強化し確立することができなかったことが問題なのである。

 

  「労働運動論」の松代論文をめぐって

 

 その第二は、「労働運動論」の松代論文をめぐってである。
 足利隆志は私に言ってきた。
 「あの松代論文の、決定された方針にのっとって組合運動を展開する、というのは、既成指導部が組織する運動を一〇〇%のりこえたばあいの展開だよね。実際には悪辣な方針が決定されるから、わが仲間は、その方針はおかしい、おかしい、と言いながら運動を展開するんじゃない。その方針にもとづく行動をサボタージュすることだってある。決定された方針にのっとってしまったら、変なことになってしまう」、と。
 土井も、横から同じようなことを言った。
 表現は「一〇〇%のりこえたばあい」というように柔らかいものであり、口ぶりもおだやかであったが、足利と土井は、「決定された方針にのっとって」と書いたから右翼組合主義が発生したのだ、と言いたいようであった。私には、彼らが私に挑戦状をたたきつけてきたように感じられた。彼らは、彼らの物質的基礎をなす△△産別の諸条件とそこにおけるわれわれの組織的力量を思い描いて考えていることは明らかであった。
 私は「一〇〇%でなくてもそれなりにのりこえていればいいんじゃないかな。言われているような、そういうばあいについては、その諸条件を措定して、こういうばあいには、わが仲間たちはこうしなければならない、というようにそのあとに書けばいいんじゃない」、と答えた。
 話はこれで終わった。
 その後、足利は松代論文批判を書こうとしているようであったが、ついに書けないままに終わった。
 問題になった箇所は、次の展開の部分である。
 「とにかく、わが同盟員は組合員として、みずからの提起した闘争=組織方針(E2u)を組合諸機関の決定をつうじて組合そのものの方針とするためにイデオロギー闘争を展開すると同時に、決定された組合の方針にのっとって職場闘争・組合運動を展開するのである。
 当該組合の執行部が民同系あるいは日共系の役員によって牛耳られている場合には、わが同盟員は組合員として次のようにたたかわなければならない。
 わが同盟員は組合員として、民同系あるいは日共系の執行部が提起する方針に反対し、この方針の問題性を、したがって裏切ることがあらかじめ明らかであることを、暴きだしていかなければならない。このような闘いが反幹部闘争にほかならない。そして、このような反幹部のイデオロギー闘争の展開をつうじて、この圧力をうけて決定された方針にのっとりつつ、わが同盟員は組合員として、種々の職場闘争や組合運動をその先頭にたって推進するのである。
 と同時に、このような運動の左翼的展開を媒介とし、その実現結果において、わが同盟員は組合員として、闘いの敗北を勝利といいくるめる執行部の欺瞞的総括を弾劾しつつ、同時に執行部の提起した方針や総括にまた闘争過程での具体的な闘い方に反発した組合員たちをば、個別的に、「反執行部」したがって「反民同」あるいは「反代々木」の方針(E2u)を基準とした左翼フラクションに組織化していかなければならない。このように、組合員であるにもかかわらず同盟員してなすべきの組織活動を、つまりフラクション活動を、わが同盟員は展開するのである。……」(『労働運動論』二一~二二頁)
 ここで私が「決定された組合の方針にのっとって職場闘争・組合運動を展開する」とか「このような反幹部のイデオロギー闘争の展開をつうじて、この圧力をうけて決定された方針にのっとりつつ、わが同盟員は組合員として、種々の職場闘争や組合運動をその先頭にたって推進する」とかと書いたのは、動力車労組の運転保安闘争の教訓を一般化する、ということを意志してのことであった。
 動力車労組は一九六二年の青森大会で、「事故防止委員会」から脱退し、運転保安闘争を実力でたたかう、という方針を決定した。これは、民同的政策転換路線の枠内にありながらもそれを左翼的にのりこえていく方向性をもったものであり、「闘う政転路線」と呼ばれた。組合員たちは、こうした方針にのっとって12・14ストライキの体制を構築するためにたたかったのであった。
 このような闘争をつくりだしたわが同志たちのイデオロギー的=組織的闘いを労働運動論として理論化する、ということが私の意図だったのである。当該の労働組合の内部においてわが同志たちがわれわれの組織的基盤を創造しつつある段階の組織的闘いの教訓をつかみとることが、他の諸産別の労働者同志たちがその場において適用すべきものとして、きわめて重要である、と私は考えたからであった。
 このことは他面では同時に、或る労働組合においてわが同志たちがおちいった左翼主義的な偏向を克服する理論的武器を創造することをめざしてのことであった。
 わが同志たちは、その労働組合においてそれなりに強いわれわれの組織的力をもっていることを基礎にして、組合の機関で決定された方針に対抗するかたちで、組合の機関での決定以前にわが同志たちが組合員としてうちだした方針にのっとって、わが同志たちが牽引している組合内左翼フラクションのメンバーたちを中心とする組合員たちの部隊でもって行動したのであった。これを契機として組合の上部機関は、この行動をとったメンバーたちに大弾圧をかけてきたのであり、この弾圧のまえに、わが同志たちは、われわれの組織的拠点をなす基盤は守ったとはいえ、大きく根を張っていた大衆的基盤を失ったのであった。
 この行動にかんしては、フラクションとしての労働運動という偏向をなすとして反省し総括し、われわれはその克服のための内部思想闘争を展開してきたのであった。このような偏向を克服するために、「決定された組合の方針にのっとって」とか「この圧力をうけて決定された方針にのっとりつつ」とかというように、私は強調したのである。
 △△産別のように、彼我の力関係からして、わが同志たちが組合員として下から圧力をかけたとしても、悪質な幹部が牛耳る上部機関は、経営体当局の利害を体現した悪辣な方針を決定する、というばあいにかんしては、そのような諸条件を具体的に明らかにして、別に論じるべきなのである。しかもそのばあいには、わが同志たちは組合員として、組合の機関で決定された方針、とりわけ行動方針には従いつつ、その方針や具体的な闘い方をめぐっていろいろと柔軟に悪質幹部を弾劾するイデオロギー闘争を展開しなければならない、ということを明らかにすべきなのである。
 土井と足利隆志とは、組合において悪質な幹部が強大な力をもっているばあいを原型とし原理として考えていて、わが同志たちが組合役員あるいは組合員として組合の方針の決定に影響力をおよぼしうる組織的な力をもっているばあいの方針および諸活動の解明にかんしては、まったく問題意識にも浮かばなかったのだ、といわなければならない。
 このようなことがらを、一九九二年の春闘集会の土井報告とその労働者組織への貫徹の底流にあったものとしてえぐりだすことが肝要である、と私は考えるのである。
                  (本稿はおわり)
       (2021年11月26日     松代秀樹)