私は対象を認識する、とは――対象的認識の主体的考察

 私はつぎのような文章を書いた。


 「私は対象を認識するのである。このことは、認識主体たる私が認識対象たる客体とのあいだで交互作用をなすからである。」


 この展開は誤りである、と私は同志から批判された。

 私はこれがどのように誤っているのかを考えたい。
 「私は対象を認識するのである」。この一文は、主体たる私が対象を認識する、このことを主体的に展開したものである。そして、私は、この一文につづけて、「このことは……からである」というように、その根拠を論じている。すなわち、「私が……客体とのあいだで交互作用をなすからである」というように、である。この展開は、その形式においては、私が対象をどのように認識するのかということを主体的に展開しているもののようになっている。すなわち、それは「私が……をなす」という展開となっているのだからである。
 けれども、この展開の内実は、認識は、主体たる私が対象とのあいだでくりひろげる交互作用という形態をなしているのだ、というものなのである。このように私が認識を規定することは、認識を主客の交互作用の一形態として対象的=存在論的に規定するものなのである。
 以上の検討にもとづいて、私はつぎのように考える。


 私は、認識をば、これをその根底から規定している主体と客体との二実体の対立を措定しこの二実体の本質的関係としてとらえたのだけれども、この展開が認識を対象的=存在論的に規定しているものである、ということに無自覚であった、ということを私は自覚した。私は、おのれが対象をどのように認識するのかということを主体的に展開することのなかに、認識の対象的=存在論的把握を、この両者はアプローチが異なるのだ、ということに無自覚なままに組み入れてしまったのである。私は、認識の対象的=存在論的把握を、ただ流動化させることによって、あたかも主体的に展開しているかのように思いこんだのである。
 認識の対象的=存在論的把握は、われわれの対象的認識の唯物論的根拠を存在論的に明らかにするものなのである。われわれはこの把握を基礎としながら、この私のみぞおちから対象に赤い矢印をつきだす、というように主体的にアプローチすることによってはじめて、私はおのれの感性的対象をどのように認識するのかということを主体的にあきらかにすることができるのである。
 私は、私自身の誤謬を省察することをとおして、このことを自覚した。
      (2021年8月4日    桑名正雄)