世界で増え続ける飢餓人口、なのに…
全世界的に飢餓が問題になっています。国連食糧農業機関の発表では、二〇二〇年に飢餓で苦しんだ人は七億二〇四〇万人~八億一一〇〇万人。新型コロナ感染症の影響で食糧供給に支障が出たため、前年(六億五〇三〇万人)より激増したという。八〇億人にせまる世界人口の約一割が飢餓状態にあることになる。これは凄まじい悲劇である!
このような中で、SDGsなどの影響もあり、「食品ロス」がマスコミ等で取り沙汰されることも増えている。コンビニやスーパーでの売れ残り商品の「消費期限」「賞味期限」などを理由とした大量の廃棄。レストランや家庭での食べ残し等という食事そのものからくるロスなど。
しかし、この「ロス」は今見たような消費過程での問題にとどまらない。よく取りあげられるのは、白菜やキャベツなどの大豊作に伴う廃棄などであるが、極端な豊作というような特別な事情とは関係なく、農産物が畑そのもので廃棄されることが実は極めて多いのだ。
放置・廃棄される農作物
農業生産主体が、農業法人であれ、零細農であれ、大規模農園であれ、市場に出回る前に廃棄される農産物は極めて多い。大都市のなかでも農業地域が拡がる場所に生活する私は、その光景をいやというほど見せられている。
つい先頃までは、日照不足のせいで野菜の出来が悪く、値段も高かったのだが、梅雨があけると、夏野菜の本番到来。ここで状況は一変。
画像をご覧頂きたい。近くの農園のキューリである。
収穫されずに、黄色になったり、また土の上に落ちていたり、というものが沢山ある。形が悪くて(つまり、まっすぐではなく、曲がっていたり、片端が大きく姿が綺麗でない、とか)市場には出せない、からというわけでは必ずしもない。出荷する時期が調整できないとか、不揃いなものの選別が面倒だとか、いろいろあろうと推測できる。すこし前には、同じ畑のインゲン豆が同じ憂き目にあっていた。トマトもまた収穫されないものが大量に落下し、腐っている。だからといって、畑に入って頂戴すれば――廃棄の手間が省けるでしょうに!――、窃盗という名の刑法犯、これでは割に合わない。
そうは言っても捨てることはないじゃないの。有益に用いる方法はいくらでもあろうに。農家はほとんどが、有人か無人かはあるが、直販所をもっている。そこで形の悪いものは悪いものなりに低価格で出すとか、「子ども食堂」だけではなく「大人食堂」までもが出来ている昨今、〝取りに来てくれればあげるよ〟という手だって…。
どっこい、それは夢のまた夢。問題は常に、「費用(手間)対効果」であり、利益そのものなのだから。大豊作の時のキャベツの廃棄などがわかりやすい。農家で大量に用意しても、スーパーや商店は少量しか購入しない。店頭に安い価格で出しても、利益は薄い。ヘタをすると利益幅の大きい他の野菜の販売減につながる、…。生産者も仮に大量に出荷して値崩れをおこせば、手間のわりに利益にならない。
末期資本主義の醜怪な一面がここにも露呈している。
全世界で膨大な人口が、多くの人びとが飢餓に苦しんでいるのに、なんということかと、わが「青い」老人は憤る。もちろん、資本制商品経済は飢餓問題の社会的な解決すら決して許さない。大規模生産者も小規模生産者も、自営業者であれ、資本家的企業であれ、協同組合であれ、資本主義市場経済の網の目にくみこまれ、その最後の言葉は、〈儲け(利潤)〉となる。その道理に反するものはすべて抹殺。「食品ロス」などなんのその。それでも「食品ロス」の問題性を叫ぶ場合の多くは、また「食糧支援」を謳う場合の多くも、深刻な経済的・社会的問題を、諸個人のモラルの問題にすりかえるもの。
なにしろ、油断も隙もないのが、現代社会。膨大な〈情報津波〉に押し流されることなく、何事も批判精神を発揮して洞察することが必要だ、ということを改めて考えさせられる。
そして、そのための最大の武器は言わずと知れた『資本論』!だから私は『資本論』を学び続ける!
(なお、白井聡の『武器としての資本論』は、まがい物なのでご注意を!)
(二〇二一年七月二〇日 青木六治)