内部思想闘争の現実を打開するための論議について

 私は、二人の同志のあいだでの思想闘争がうまくいっていない、と思い、これを打開するための文章を書いた。この文章をめぐって先輩同志から指摘をうけて論議した。この論議をとおして私がつかみとったものを、ここにまとめたい、と思う。

 私が最初に書いた文章は次のものであった。


 「二人の同志のあいだでおこなわれた思想闘争は、内部思想闘争としてうまく成立していない、と私は思う。
 私がそれぞれの文章を読んで思ったことは、議論がかみ合っていないということだ。双方が、相手が何を言おうとしているのか、相手が自分の何について言っているのか、そもそも自分は何を言ったのか、ということの分析や把握がうまくできてないと感じた。分析や把握がうまくできていないままのやりとりだからか、双方が、自分の言いたいことを相手にぶつけるような、つまり言い合いのようになっていた。これは思想闘争とは言えないと思う。
 私は、なぜこうなってしまうのか、こうなってしまったのか、という問題をわれわれの内部でどう論議したらよいのか、よくわからなかった。わからないけれども、この問題を全メンバーで論議し克服しなければならないと強く感じていた。これは、私を含め各メンバーが少なからず、革マル派組織にいたときに培ってしまった、頭の回し方や他者への接し方、自己を守ろうとする考え方などが影響しているのではないか、と私は感じていたからである。この問題については、われわれ全員で考え、自己を変革しなければならない、と考える。
 二人の同志の相互批判が言い合いのようなやりとりになったのは、相手の分析・把握がうまくできていないからだ、と私は思うのだが、それは己自身のことを分析・把握できていない、つまり自分が何を考えて何を言ったのかという己の実践をふりかえり分析・把握することができていないからだろう、と私は考えていた。己の実践を分析するために、己の実践を含む現実そのものを否定的に肯定して把握することができていないのではないか、と思う。己の実践を含む現実そのものの確定ができないために、つまり、主体と客体のあいだでくりひろげてきた己のどういう実践によってつくりだした現実なのか、ということをこの己が具体的に再生産することがうまくできていないのではないか、と感じる。
 己自身の実践の具体的な中身、何を言ったのか、何を考えたのか、何をしたのか、それによって現実をどうつくりかえてきたのか、というこの現実をこの己がふりかえって把握できなければ、相手を分析し把握することはできない、と思う。相手の発言や行動などは、この己が実践したことによってつくりだしてきたものなのであるからして、この己の実践をふりかえらなければ相手を掴むことはできない。この意味で言うと、相手を分析し把握するということは、己が己の実践を分析し把握することである、と思う。主体と客体の弁証法やわれわれの実践論を適用して実践するわれわれは、相手の発言や行動を、己の実践と切り離したところで、それだけをとりだして分析し把握することをしないのである。
 「革マル派」中央官僚派組織を革命的に解体し、新たな労働者党を建設するというわれわれの目的を実現するための実践として、このような党組織建設のための内部思想闘争の問題を積極的に組織的に克服していくために私自身も全力で実践していく決意である。」


 上記の私の書いた文章をめぐって組織的に論議した。その論議で先輩同志からいくつか指摘を受けた。それについて次に書いていく。


 「己の実践を分析するために、己の実践を含む現実そのものを否定的に肯定して把握することができていないのではと思う」という文について先輩同志と論議をして、「否定するために肯定的に把握する」という表現が適切であることがはっきりした。私はこのあたりの表現について、昔の論議を紹介してもらったことを聞いてなんとなく覚えていたことを文章にしたため、間違った表現をしていた。先輩同志と論議して、私が言いたかったことは「己の実践を分析するときに、己の実践を含む現実そのものを否定するために肯定的に把握することができていないのではと思う」ということであることがはっきりした。
 しかし、この一文の展開自体がそもそもあまりよくない、ということが論議の中で指摘された。この一文を変えて、次のような文にしたほうがよい、と先輩同志が提起した。「われわれは、己の実践を含む現実そのものを、これを否定する=変革するという実践的立場にたって把握するのだ、ということを掴みとっていないのではないかと思う」、と。先輩同志は、私が当初書いた文章にあるように、「肯定的に」と表現すると「あるがままに」というニュアンスが出てくる、と指摘した。これは、加藤正の、分析主体の立場をあいまいにした「あるがままに」のようになってしまう、とのことであった。今日的には「肯定的に把握する」という表現は使わない、と先輩同志は指摘した。こういう表現をしていたのは1960年代までのようだ。それは、情勢分析と方針の関係の把握を深めてきたことによって、「肯定的に把握する」という表現を使わなくなったのではないか、という先輩同志の指摘であった。このように情勢分析と方針についても話になったのだが、先輩同志は私に、わかりやすく次のことも話した。「方針」は、現実を否定するために出すもの(現実を否定するためのわれわれの実践の指針)であり、「分析」は、否定するための方針を出すために現実そのものを分析するということである、ということだ。私はこの話を聞いて、恥ずかしながらいまさら「方針」「分析」についてはっきりさせることができた。このことをふまえてさらに先輩同志が次のことも話した。「否定するために肯定的に把握する」という表現の「否定するため」は変革するため、ということであり、「変革するために肯定的に把握する」ということは、つまり実践的立場にたって、ということである、と先輩同志は明らかにした。
 先輩同志によるこれらの指摘を聞いて私は、私が当初言いたかった「現実そのものを否定するために肯定的に把握する」という表現では、たしかに「あるがままに」というニュアンスが出てしまい、変革するというわれわれの意志がぼやけてしまうと思った。また、私が言いたかったことを先輩同志が提起したように「われわれは、己の実践を含む現実そのものを、これを否定する=変革するという実践的立場にたって把握するのだ」と表現したほうが、よりわれわれが己自身も含む現実を変革するのだ、という意志も明確になり、そもそもなぜわれわれがこの現実を分析するのか、という目的も明確になると感じた。
 先輩同志は次の私の一文についても指摘した。「主体と客体のあいだでくりひろげてきた己のどういう実践によってつくりだした現実なのか、ということをこの己が具体的に再生産することがうまくできていないのではないか、と感じる」という文章だ。この私の文章について先輩同志は、「主体と客体のあいだでくりひろげてきた、というように書いているがこれだと自分の目の前で主体と客体がやっている実践を眺めているような印象を受ける。対象的=存在論的な把握になっている」と指摘した。この先輩同志の指摘にたいして私は「この文章を書いているときに私もそう感じながら書いた。しかしなぜこう書いたかというと、この言い方のほうが自分のイメージしていることを言い表せていると思ったから。組合運動場面でも、同僚の組合役員などは、私に報告をしゃべってくれる時に、過去の己の言ったことといましゃべりながら己が思ったことをごちゃまぜにして話をする。私はそれを聞きながら過去に言ったことはどれで、いま彼が思ったことはどれなのかを区別しながら聞いている。ということから、表現はよくないが、テープレコーダーやビデオのように過去に自分が何を言ったのか、何を実践したのか、という過去の実践そのものを把握すること、つまり再生産できないことが問題なのではないか、と感じている。内部思想闘争がうまく成立していないこともこういうことがあるのではないか、と感じている。だから対象的な表現になるがそう書いた」、と話した。
 先輩同志は、私の意図を把握して、そのうえで次のことを指摘した。われわれの実践は、相手を変革するための実践であり、その実践でどうなったのか、それとの関係で己の実践を把握・分析するのだ、ということだ、と。先輩同志の指摘を受けて、私が当初考えていたような、主体が己の過去の実践・現実そのものを、(悪いイメージだが)ビデオのようにふりかえって把握することができないことが問題なのではないか、という問題ではなく、相手や現実を変革するために己がやった実践を、己の目の前にいる相手が己の実践によってどうなったのか、これとの関係で己をふりかえり分析・把握することが問題なのだ、ということが明確になった。だからこの論議をするまでは、内部思想闘争がうまく成立していない現実を目の当たりにした私は、上記のような私の当初の問題意識から、これらの解決方法として、双方の間に入って紙と鉛筆を使って、○○さん、あなたはこう言いました、□□さん、あなたはこう言いました、と対象化しながら自分の言ったこと・実践を把握してもらうようなやり方をしたほうがいいのではないか、とも考えていた。まさに、このような解決方法も、この問題を対象的な把握の問題として感じていた私の考えがにじみ出ている、と思う。


 私が当初考えていた問題やその解決法では、内部思想闘争がうまく成立していないという問題を止揚することはできなかっただろうし、私自身がこの二人の仲間それぞれの立場に我が身をうつしいれて、己のみぞおちから相手に矢印を出して考える、というようにせず、論議の対象的=存在論的な把握が問題であるとする、自分自身が実践的立場にたっていない・問題の受けとめをしたままであった、と思う。
 今回の論議では以上のような、私自身の内部思想闘争の問題へのアプローチの問題やそれにはらまれている私の問題点をつかみとることができた。私は、これを教訓とし糧としたい、と思う。
  (2024年1月2日 真弓海斗)