斎藤幸平「疎外論」批判 第4回 『経・哲草稿』におけるマルクスの疎外論

 2 『経・哲草稿』におけるマルクス疎外論

 

 (1)分析の出発点

 

 「われわれは国民経済学上の事実から出発する」とマルクスは述べる。
 マルクスは、疎外された労働を分析する前提として、第一草稿(1)~(3)において労賃、資本の利潤、地代というように、国民経済学によるこれらの諸分析・諸理論の検討を行う。この国民経済学の諸分析・諸理論の検討は、目の前の労働者の現実を確認するものとして位置付けられている。そして上のように述べたのであった。
 そのうえで、次のパラグラフにおいて「労働者は、彼が富をより多く生産すればするほど、彼の生産の力と範囲が増大すればするほど、それだけ貧しくなる。」と労働者の直接的現実性の分析を労働者と生産物の関係から始めるのである。
 国民経済学のように私有財産でもなく、また斎藤の言うような「地代」でもなく、分析=認識の端緒を、マルクスプロレタリアートと措定したことは、『ヘーゲル法哲学批判序説』においてマルクスが、プロレタリアートを、近代資本主義社会を根底から覆す主体として措定したことに、だからマルクス自身がプロレタリアートを主体として、資本主義社会の根底からの変革を意志していることにもとづくのである。
 マルクスはこの変革の実践的立場にたつことによってはじめて、解放の主体としてのプロレタリアートを分析=認識の端緒として措定しえたのである。


 いみじくも黒田寛一が「認識の出発点が生産物からのその生産者の疎外に、また存在論的展開の出発点が、賃労働者の疎外された労働におかれているということは、直接的現実性としての資本主義社会の場そのものの変革をめざした追求がなされている」(『変革の哲学』)と指摘するとおりである。


 斎藤のような政治主義的な文献解釈主義では、この場所的立場にたったマルクスの変革の意志をとうてい理解することはできない。また同時に、実践的立場にたって変革の意志を自覚することにおいて、はじめて、解放の主体としてプロレタリアートを分析の出発点として措定しうる、という論理構造は把握されえない。われわれ自身がわれわれのおいてあるこの場所を変革する、という場所的立場にたって、われわれ自身を疎外されたおのれ=プロレタリアとして自覚し、そこからの解放を、この現実の変革を意志することなくして、このマルクスの、そして黒田の変革の意志と論理をつかみとることはできないのだ、と私は思う。
 「若きマルクスの思想成熟の歴史的過程は、行為的現在におけるプロレタリアの革命的自覚の論理過程において再現されるのだ」(『マルクス主義形成の論理』)との黒田寛一の指摘は、主体的にとらえ返されなければならない。


 われわれ自身が、われわれ自身のおいてある場所において、疎外された現実の変革を意志し、若きマルクスのイデーとそれを生み出した道程を追体験的につかみとることを媒介として、おのれ自身の感性・思惟・意志を目的意識的に創造していく。ここに黒田のいう「再現」がなされるのだ、と私は考える。この実践的立場にたってこそ、マルクスが『経・哲草稿』において、分析=認識の端緒にプロレタリアートを措定したという意味を捉えることができる、と私は考えている。

 

 (2)「生産物からの疎外」から「労働の疎外」へ

 

 マルクスは労働者と生産物の関係の分析において、労働の生産物が、労働者の生命の対象化であり、外化であること、そしてその対象化された労働が、労働者と対立し、労働者はそれに隷属させられるということをあきらかにしている。これをマルクスは近代資本主義社会における「労働の生産物からの疎外」として論じるのである。この「生産物からの疎外」は感性的外界=自然との関係へと分析され、二重の意味で、自然は第一に「労働に属する対象であることを、彼の労働の生活手段であることをやめる」、そして第二に「直接的な意味での生活手段、労働者の肉体的生存のための手段であることをやめる」ということである、というように深められる。これは、労働者が、自ら生産した生産物から「労働の対象から、労働を受けとる」ということ、また「生存手段を〔対象から〕受けとる」ということであり、このことは労働者が、二重の意味で、生産物の奴隷となることを意味する、ということがあきらかにされるのである。


 マルクスはさらに労働そのものにおける疎外へと分析を下向的に深める。
 労働者の資本の下での労働が、労働者にとっては、外的な労働となる。それは労働者が生存するための強制労働であり、労働者の活動は彼の目的意識的な活動ではないのである。「それは他人に所属しており、労働者自身の喪失である」、とマルクスは述べる。その結果、労働者は、「食うこと、飲むこと、産むこと、さらにせいぜい住むことや着ること」という動物的な諸機能においてのみ、自発的に行動していると感じるにすぎない。「動物的なものが人間的なものとなり、人間的なものが動物的なものとなる」、と。まさに人間的なものの喪失として、マルクスは、これを「労働の疎外」・「自己疎外」と規定するのである。


 この論述において、マルクスは「労働者自身に反逆し、彼から独立し彼に所属しない活動としての、労働者の肉体的および精神的エネルギー、つまり彼の人格的生命――活動以外の生命とは何であろうか――」と自問している。この自問に、私は『ヘーゲル法哲学批判序説』において、プロレタリアートに「ただ人間的な権原だけを拠点にする」ことを見出し、「人間を人間の最高のあり方であると宣言するところの、この理論の立場からする解放である。」と述べたマルクスの怒りともとれる、変革の意志を感じるのである。

 

 (3)「類的存在からの疎外」と「人間の人間からの疎外」

 

 「人間は一つの類的存在である。」「類的存在からの疎外」についての論述はこの一文ではじまる。マルクスは類的存在としての人間と自然との関係を論じる。それは全自然史過程における人間の労働にかんする論として、だから人間の本質論として、哲学的思弁によって展開されている。


 「人間は実践的にも、理論的にも、彼自身の類をも他の事物の類をもかれの対象にするのであるが、そればかりではなくさらに、――そしてそのこととは同じ事柄に対する別の表現にすぎないが――さらにまた、人間は自己自身にたいして、目の前にある生きている類に対するようにふるまうからであり、彼が自己にたいして、一つの普遍的な、それゆえ自由な存在にたいするようにふるまう」とマルクスは言う。つまり、人間は感性的外界すなわち他の人間を含めて自然を対象とし、そしてその内にあって存在している。と同時に、過程的にみるならば、類的生活において、類を自然を再生産することによって、人間として進化してきた。また、それは論理的には自己自身のうちに類を自然を内在化し自己を形成するということに他ならない。その活動は彼にとって、自己自身と類そして自然との統一された自由で合目的な生命活動すなわち生産活動であって、人間は「自由なる自然の主体なのである。」(黒田寛一『プロレタリア的人間の論理』)ということであろう。


 ここでマルクスがいう「自由な存在」とはヘーゲルの『精神現象学』の「自己意識」を念頭においたものであろう。ヘーゲルが『精神現象学』において観念的な主体として「自己意識」を措定したことにたいして、マルクスは人間を人間の生産活動の主体においたのである。ここにマルクスヘーゲル哲学の唯物論的転倒を意志していることがはっきりと読み取れる。
 本質論的な、人間と自然との関係において、「自然は人間の非有機的身体である。」とマルクスは述べる。「自然は、人間が死なないためには、それと普段の〔交流〕過程のなかにとどまらねばならないところの、人間の身体であるということなのである。人間の肉体および精神的活動が連関しているということは、自然が自然自身と連関していること以外何事も意味しない。というのは、人間は自然の一部だからである。」ここにマルクスの「人間=自然・自然=人間」という概念が成立する。だが、このことは、単に主体をヘーゲルの観念的な「自己意識」=「絶対精神」を人間に置き換えたということだけを意味しない。全自然史過程のなかに人間を人間労働を位置付けたということなのである。


 「『経・哲草稿』においては、資本主義的場とその変革の論理がプロレタリアの労働を基軸として追求されている。そして人間労働の資本主義的自己疎外を根底から変革するために、まさにそのために種属生活をいとなんでいる共同体的人間の感性的活動(共同労働)、または人間労働の本質形態が、本質論的に論じられているのである。すなわち物質の自己運動の観点から、人間社会の根底をかたちづくっている労働の構造を唯物論的にあきらかにしているのである。だから、「主体としての実体」あるいは「実体としての主体」がヘーゲルにおいては絶対精神であるとしても、マルクスにおいては物質である。」(黒田寛一『変革の哲学』)ということなのである。


 「人間は意識している生命活動をもっている――まさにこのことによってのみ、人間は一つの類的存在なのである。あるいは、人間がまさに類的存在であるからこそ、彼は意識している存在なのである。」とマルクスは言う。
人間は、全自然史過程において類として存在した。それを物質的基礎とした共同の生産活動において、「意識している生命活動」という特性を獲得したのである。また、自己を含む他の類を自己のなかに内在化し、合目的的な「意識している生命活動」すなわち生産活動において、その活動の技術性を共同体の類としての技術性として高度化し、類と外的自然を再生産してきたのである。だから、人間の精神的・物質的な生産活動は類的な生産活動として実現される。まさに、「類的存在」は人間の本質的な規定に他ならない。
 さらに、「意識している生命活動」の構造が「人間は、たんに意識のなかでのように知的に自分を二重化するばかりではなく、制作活動的、現実的にも自分を二重化するからであり、またしたがって人間は、彼によって創造された世界のなかで自己自身を直観する」というように、人間実践の唯物論的解明がなされるのである。後で論じたいと思うが、このマルクスの人間労働=実践論の唯物論にもとづく思弁が、「フォイエルバッハに関するテーゼ」につながっていくのである。


 次にマルクスは、「疎外された労働」によって、人間労働の本質がどのように歪められるのかを論じる。
 ①「疎外された労働」は、人間の本質である、類的存在としての共同生活から、個人生活と類的生活を分離する。抽象化されたなかにおいて、つまり人間の観念的な世界において、個人生活が目的化され類的生活はその手段となる。このことは、「真実のところをいえば」人間の生産活動は類的存在としてのものにもかかわらず、資本主義的生産様式を物質的基礎とする「疎外された労働」によって、生産活動は、動物的に貶められた個人生活の手段となってしまうのである。
 ②このことは、「意識的な生命活動」をする人間にとって、そうであるがゆえに類的存在としてあり、類的存在であるがゆえに「意識的生命活動」を獲得してきた人間にとって、人間の本質を一手段とすることに他ならない。目的意識的な自由な活動は、動物的な生命を維持するというものの手段として逆転させられてしまうのである。ところで、この目的意識的な活動の疎外は、精神的活動と物質的活動の分離を意味する。意識的・合目的的な労働は、たんにそれから切り離された、動物的なあるいは奴隷的な労働へと貶められるのである。
 ③またさらに、人間は自然の一部として、自然を「非有機的身体」とし、自然との普段の交換によって、類的存在としての人間を創りだしてきたにもかかわらず、この自然と人間との分離を、疎外をもひきおこすのである。これは、永遠の生産対象としての自然の疎外ということだけでなく、自然との関係において、人間がその本質を疎外されることに他ならない。
 ――マルクスは、このように、疎外された労働を類的存在からの疎外として明らかにしている。近代資本主義社会の労働者の直接的現実性を生産物と労働者の関係から下向的に分析し、資本主義社会の労働そのものにおける疎外を把握し、さらに下向的に哲学的思弁によって本質論的労働論を解明して、この本質論から上向的に近代資本主義社会における疎外された労働をとらえ返すことによって、近代資本主義社会における疎外された労働の本質を把握するのである。まさに、これは、マルクスの下向・上向の認識論の方法が確立されていく過程である、と私は思うのである。
 マルクスは四つ目の疎外としてこれまで展開してきた三つの「疎外」から、「人間からの人間の疎外」を導き出す。それは労働者と生産物を所有する人間との対立・支配として現出するのである。近代資本主義社会においては、プロレタリアとブルジョアとの関係として、プロレタリアートブルジョアジーとの階級対立として現出するのである。

 斎藤は「アトム化」などという言葉で、プロレタリアートブルジョアジーの階級対立を隠蔽するが、マルクスは階級対立の根拠として「人間の人間からの疎外」を論じているのである。
       (2021年1月26日  潮音 学)